パブリックなものが提唱されているのに、政府もダメ、労働組合もダメ・・・
先日御恵投いただいた市野川容孝・宇城輝人編『社会的なもののために』(ナカニシヤ出版)から、今日の日本の精神状況をよく示しているな、と思われた対話の一節を:
宇城 日本の社会保障の制度設計は基本的にドイツ型だったわけでしょう。それを壊してきた過程がこの20年くらいだったわけじゃないですか。これはつまり、ドイツ型からアメリカ型に移行しようとしているとまとめていいのだろうか。
宇野 これはだから、エスピン・アンデルセンなんかの議論と同じで、日本はどの類型に入るのかという大論争をやって、結局例外型になってしまう。いつも日本は微妙に違うということになってしまうんだよね。
宇城 それは結局、日本における中間集団の位置づけの問題ということになるのだろうか。
小田川 『文明としてのイエ社会』とか読むと、日本の場合、中心的な役割を果たしてきた中間集団というのは、企業だったわけですよね。
宇野 日本は全体的な社会保障の不在を個別企業が代替するという非常に特殊な形態をとった。コーポラティズムほど業界団体がしっかりできているわけじゃなくて、基本的には個別企業でやるという。
市野川 そこは重要な違いだと思います。労働組合もドイツは産業別であって、日本のような企業別ではない。日本に「社会」主義はなく、あるのは「会社」主義だという主張にも、かなりの説得力がある。
宇城 そのあたりが、アメリカ型になろうとしているといわれるけれども、ねじ曲がった形でもともとアメリカ型だったのではないかとも思える。
宇野 アメリカ的な競争性というのは担保されていなくて、にもかかわらず、ドイツ型と言っていいのかわからないけど、ある種の保守的な構造、中間集団を積み上げていく構造があったのに対する破壊衝動としてアメリカ・イメージが使われているという感じはある。これはこれでアメリカともちょっと違うよね。
宇城 しかもアメリカ型に行くのであれば、プライベートなものとかパティキュラーなもの、中間的なものが大事ですという話になっていくはずなのに、どうしてもその破壊衝動としてのパブリックなもので行きましょうという話に収斂していくわけです。
小田川 そこがよくわからないとこなんです。パブリックなものが提唱されているのに、中央政府への憎悪と中間集団への憎悪が両方ある。政府もダメ、労働組合もダメといいながら、具体的にどこが担うのかわからないパブリックなものに訴えかける言説というのがあって、しかも結構支持されている。
宇城 その場合、掲げられる「旗」は何なんだろうか。そして掲げる主体は誰なんだろうか。
小田川 わかんないんですけど、国民一人一人の汚れなき自発的な心情が醸し出す「美しい国」とか、あるいは全員野球という無限包摂的な「新しい公共」とか・・・・・・いや、やっぱりよくわからない。
よくわからないわりに、政治の世界でもマスコミの世界でも、そういう得体の知れない政府と中間集団を憎悪する奇怪なパブリック志向がやたらに氾濫しているというのが、いかにも現代日本の姿をよく描き出しているように思われます。
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政府への憎悪は兎も角、中間集団に関してはその性格にも拠るところが大きいんじゃないでしょうか?例えば労働組合には左翼がかって組合員の利益第一で・・・・・ってなるのが、町会とか区会の様な地域ボスとか殊地方での業界ボスがその中間集団を牛耳っていたりすると、何故か好意的に見られてしまうんですよね。
何と言うのか、パブリックなものを求める言説を眺めて見ても、労働組合とか市民団体には悪口雑言を浴びせながら、一昔前の「社畜」や「会社中心主義」を懐かしむ論調が目立つってのも、そんな気がします。
投稿: 杉山真大 | 2013年1月30日 (水) 23時28分
パブリックなものというのは、恐らく様々な中間団体の連携と交渉で成立するものなのでしょうが、そのような連携や交渉それ自体が機能不全を起こしている、そのことに対するいらだちのようなものなのではないでしょうか?
左派であれば。政党と組合、政党と支持者、有権者との関係が揺らいでいるということではないでしょうか?
そもそも官僚が強いから、こうなったというのは後ろ向きな意見で、今こそ、政党と市民、労働組合が連携し、公共性を形成するべき時期なのですが。。
そういうのは流行らないまま、ショボイ利権政治が再び幅を利かせるのでしょうか?
苦労して報われない公共よりも、歴史と伝統と情緒を重んじる自民党的絆のほうが、そりゃ楽ですがね。
投稿: 高橋良平 | 2013年1月31日 (木) 00時04分