アクセス解析では4か月ごとの数値しか出ないので、手作業で2012年のhamachanブログアクセス数ランキングを出しました。
1位:日本の伝統的子育てが息づいていた時代の若干の実例 23,940
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-2418.html
1950年代、三丁目の夕日がまだ明るかった頃の、日本社会の実相を、当時の政府資料から改めて確認してみるのも、一興ではありますまいか、ということで、
おそらく今では役所の中でも誰も知らないであろうこの報告書を、ちょっと紹介してみましょう。今ではみんながうるわしく描き出す「三丁目の夕日」のちょっと前の時期の、日本社会の凄絶な実態をちょっとの間だけでも思い出すために。
2位:学費は高いわ援助はないわ・・・日本の高等教育@OECD 21,056
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/oecd-af93.html
これを見ると、世界の国は4つの象限に分けられます。
右上のアメリカなどが入っている第1象限は、学費は高いけれども奨学金が充実している国。
右下の北欧諸国が入っている第4象限は、学費は低い上に奨学金が充実している国。
左下のふつうのヨーロッパ諸国が入っている第3象限は、学費が低いので奨学金が充実していない国。
そしてただ一国左上の第2象限に燦然と輝く我が日本国は、学費が高い上に奨学金が充実していないという素晴らしい教育環境を世界に誇っています。
3位:解雇するスキル・・・なんかなくてもスパスパ解雇してますけど 19,713
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-a1c3.html
現実の世の中のことが本当はよく分かっていないくせに分かっているような顔をしていろいろ語るたぐいの人々が後を絶ちませんが、現実の世の中のことを理解するには、現実に紛争として起こってきている物事を観察するのが一番です。
・・・
まだまだ続きますが、まあこんな感じです。こういう事案にご立派な「解雇のスキル」があるとも思われませんが、でもスキルがあろうがなかろうがクビはクビ。
ちなみに、この報告書ではこうして1行ずつしか紹介できなかった各個別事例を、来月刊行される予定の『日本の雇用終了』では、一件一件労使双方の言い分も含めてその発端から結末までを詳しく紹介しています。乞うご期待。
4位:誰の賃金が下がったのか?または国際競争ガーの誤解 18,569
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-0c56.html
経済産業研究所が公表した「サービス産業における賃金低下の要因~誰の賃金が下がったのか~」というディスカッションペーパーは、最後に述べるように一点だけ注文がありますが、今日の賃金低迷現象の原因がどこにあるかについて、世間で蔓延する「国際競争ガー」という誤解を見事に解消し、問題の本質(の一歩手前)まで接近しています。
・・・国際競争に一番晒されている製造業ではなく、一番ドメスティックなサービス産業、とりわけ小売業や飲食店で一番賃金が下落しているということは、この間日本で起こったことを大変雄弁に物語っていますね。
・・・ただ、付加価値生産性とは何であるかということをちゃんと分かっている人にはいうまでもないことですが、世の多くの人々は、こういう字面を見ると、パブロフの犬の如く条件反射的に、
なにい?労働生産性が低いい?なんということだ、もっとビシバシ低賃金で死ぬ寸前まで働かせて、生産性を無理にでも引き上げろ!!!
いや、付加価値生産性の定義上、そういう風にすればする程、生産性は下がるわけですよ。
そして、国際競争と関係の一番薄い分野でもっとも付加価値生産性が下落したのは、まさにそういう条件反射的「根本的に間違った生産性向上イデオロギー」が世を風靡したからじゃないのですかね。
5位:マジで「希望は、戦争」という時代 16,527
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6d1a.html
実際、今から70年前、中学校以上を出たエリートないし準エリートのホワイトカラー「社員」との差別待遇に怒りを燃やしていた彼の大先輩たるブルーカラー「工員」たちを、天皇の赤子として平等な同じ「従業員」という身分に投げ込んでくれたのは、東大法学部で天皇機関説を説いていた美濃部教授でもなければ、経済学部でマルクスを講じていた大内教授でもなく、国民を戦争に動員するために無理やりに平等化していった軍部だったのだから。もちろん、それを完成させたのは戦後の占領軍とそのもとで猛威を振るった労働組合であったわけだが、戦時体制がなければそれらもなかったわけで。
6位:低価格・低賃金なのに過剰サービス 13,358
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-5668.html
むしろ、かつて低劣な労働条件に対する怒りとして燃え上がった労働運動が、他の先進諸国とはひと味違って、正社員型後払い方式ディーセントワーク(終身雇用で精算)という形で決着し、落ち着いたことが、「社長島耕作を夢見る係員島耕作」が特定の時点ではブラックに見えるけれども長期的にはディーセント(でありうる)な働き方を自発的に受容するという精神構造を生み出したと見るべきで、その意味では極めて近代的な所産だと思います。
そしてそれがさらに、そういう「近代的」日本型システムを批判する形で登場した「現代的」ベンチャー礼賛論が、ミクロの現場ではむしろそのガンバリズムを増幅昂進させる方向で機能するという一件パラドクシカルな現象が相俟って、こういう事態を引き起こしていると考えるべきでしょう。
7位:40歳定年制の法律的意味 10,957
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-e1d7.html
まあ、言いたいことは分からないではないですが、定年という言葉の意味を素人レベルでのみ考えているため、厳密な議論には耐えられない文章に仕上がっているようです。
従って、このフロンティア部会の方々がどういう曖昧な理解で使っていたとしても、いったん文字になった以上、「40歳定年」とは、40歳に達したことを、それのみを理由にして一方的に雇用契約を終了することを、「50歳定年」とは、50歳に達したことを、それのみを理由にして一方的に雇用契約を終了することを指します。それ以外の意味にとってくれというのは無理です。
従って、その次に「もちろん、それは、何歳でもその適性に応じて雇用が確保され、健康状態に応じて、70 歳を超えても活躍の場が与えられるというのが前提である」という文章が続くとすると、それは書いた本人の主観はともかくとして、客観的には精神の統合性を疑わせるに足る意味不明な文章とならざるを得ません。
こういうことになるのは、このフロンティアな方々にとっては、定年というのは絶対的な雇用保障年齢であって、いかなる理由があっても定年までは解雇できないなどという日本国の法体系に反する想定をしているからなのでしょう。
8位:古市くんの「ずれ」 10,787
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-43c1.html
いやまあ、古市くんの言うてることも、まったく間違っているというわけでもないのだけれど、あの言い方と、何よりNHKのあの脳天気な映像化で、ほとんど空中ふわふわの「のまど万歳」論になってしまっておるわいな。
その横に並ぶ面々もなんでああいう高ぴー目線になるのか、世の中あんたらみたいなエリートばかりじゃねえぞ、という反感が画面に吹き上がってくるのがわからんのかねえ。
9位:ワタミ叩きのネタでは済まない問題 10,575
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a6be.html
日本の職場、とりわけ36協定の本則である過半数組合の存在しない職場における「過半数を代表する者」なるものの実態は、多かれ少なかれこれに似たようなものであるということは、ある程度労働問題に通じた人にとっては常識に類するものであるわけですが、それがこうやって問題だという記事になるには、人一人くらい死なないといけないという実態もあまり変わらないようです。
なんにせよ、これはワタミ叩きのネタにしておくにはもったいない、労働法制のあり方を考え直す重要な論点であるはずなので、そういう風に扱って欲しいな、という希望だけ申し添えておきます。
10位:週末を犠牲にしてでも取り組みたい仕事 9,384
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-5790.html
問題は、そういうベンチャー企業家が、自分たちにのみ適用可能であるはずの倫理規範を、本来適用してはいけない自分が指揮命令して働かせているところの労働者にそのまま要求してしまったり、場合によってはその指揮命令を受けて労務に服している労働者ご本人が、あたかも自分をベンチャー企業家か何かであるかのように思いなして、当該労働者には向かない倫理規範を自分だけではなく他の労働者たちにも押しつけたりしようとし出すときに発生します。
(追記)
ということがまったく分かっていない「人事コンサル」氏がいるから困るんだけどな。
・・・
まったく逆であってね。
次点:各論なき総論哲学者の末路 8,750
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-5697.html
問題をポピュリズムに流されるか、エリート主義に行くかという二者択一でしか考えられないところが、(総論政治学者や総論政治評論家や総論政治部記者と同断の)総論しか頭の中にない哲学者という種族の宿痾なのだろう。
いうまでもなく、圧倒的に多くのことについては横町のご隠居程度の見識しかない大衆食堂の皆さんにも、程度の差はあれ、これはという専門分野はある。
ほかのことについては軽薄なマスコミの掻き立てることにコロリと逝っちゃう一般大衆でも、この問題については新聞のいうことは間違ってるぞ、とひとしきり人に説教できるような分野がある。
きょろきょろするなよ、大学のセンセたち、そういう専門を持ってる大衆って、あんたらのことでもあるんだよ。そしてまた、世間で実務やってる人々のことでもあるし、趣味の世界の場合もある。要はみんな、なにがしか(というより相当程度に)大衆なんだが、なにがしか(どんなに少なくとも)専門家であり、その面においてはポピュリズムに逝かれる(周りの)大衆たちを哀れみのまなざしで見る局面てものもあるのだ。
誰にもこだわりの「各論」てのがある。「総論」に巻き取られると不愉快になる「各論」が。
大事なのは、そういう「おおむね大衆ときどき専門家」な人々の「民意」をどこでもってつかまえるべきなのか、ってこと。
ポピュリズムがだめなのは、その人々の「おおむね大衆」の低次元の「総論」だけをすくい取って「これが民意」だ、ってやるところ。
決して馬鹿なだけじゃない大衆の馬鹿なところだけをすくい取るのがポピュリズムだ。
レベルの低い「民意」をすくい取られた大衆が、しかし自分の専門分野について「とはいえ、こいつはおかしいんじゃないか」と感じるその違和感をきちんと言語化するのが、言葉を商売道具にして生計を立てている連中の最低限の義務だろうに。
それすらも放棄するというのは、つまるところ、そういう専門分野、つまり「各論」を持たない哀れな哲学者という種族の末路と言うべきか。
ポピュリズムの反対はエリート主義ではない。大衆の中の「各論」を語れる専門家的部分をうまく組織して、俗情溢れる低劣な「総論」を抑えるようにすることこそが、今日の高度大衆社会に唯一可能な道筋のはずだ。
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