「企業戦士」と「社畜」の異同
「就活生に甘える社会人」というブログに、常見陽平さんの発言を取り上げて、
http://lingmu12261226.blog10.fc2.com/blog-entry-358.html(「社畜」と「企業戦士」という概念をきちんと区別するべきではないか)
常見さんは自らを「真性社畜だった」と言っているけれど、これは正しくは「企業戦士」と言うのが適切なのではないかと思った。
・・・そして、「社畜」と「企業戦士」という概念はきちんと区別しておくべきではないかと考える。
・・・それにしても、確か常見さんは先日BSのプライムニュースという番組で「ブラック企業撲滅!」と言っていた気がするのだけど、それだったら「会社員」を擁護することはともかく「社畜をバカにするな」と言ってしまうのはさすがにおかしいのでは・・・。やっぱり、この人は訳が分からない。
と述べられていました。常見さんが訳が分かるか分からないかは常見さん自身が言うべきことですが、この「社畜」と「企業戦士」は、確かに違うのですが、しかし根っこのところでつながっている面もあるので、そう簡単にはいかないのです。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-a6c6.html(従業員目線+経営者目線=社畜)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-b130.html(社畜とフツーの労働者の間)
世界中どこでも、単なる歯車は24時間戦ったりしません。それは経営者やエリート労働者の仕事です。歯車は歯車らしく、歯車としての責任を、それだけを果たす。
世界中どこでも、経営者やエリート労働者は猛烈なワーカホリックです。ワークライフバランスなんてのは、歯車の歯車のための概念です。
そういう非歯車性を歯車たる労働者に要求するという点に、日本語の「社畜」という言葉の複雑怪奇なニュアンスが込められているのでしょう。
本来エリート仕様の「企業戦士」を下っ端のノンエリートに要求すると日本独特の「社畜」になるわけで、確かに区別しなければならないのだけれども、行動様式だけでは区別しにくいのですね。
そして、エリートかどうかは、その一時点でどれくらい偉いかではなく、定年までの長期雇用の中で将来上位の地位に昇進する可能性が高いということが仮想的エリート性を確証するという形で共同主観的に認識されていたがゆえに、伝統的な日本的経営では「社畜」を「企業戦士」と呼ぶことが必ずしも不自然ではなかったのです。
「24時間戦えますか?」とリゲインを呑みながら「企業戦士」を演ずる客観的にはただの若い「社畜」っぽい時任三郎が「企業戦士」ぶっていられた所以でもあります。
その可能性が縮小してきたにもかかわらず、あるいはむしろ可能性が乏しいことをあらかじめ想定しているにもかかわらず、「お前は輝ける企業戦士だ」といって「社畜」的行動様式を要求すると、それが「ブラック企業」になるわけですね。
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