資本主義を超える・・・日本型雇用
も一つ、
http://twitter.com/yoniumuhibi/status/285228896071323649
資本・賃労働の壁を超える、経済社会で生産する主体として、資本主義社会の人の生き方の限界を超える形として、日本型雇用は悪くないモデルだ。従業員(労働者)が、この会社は自分の会社であり、利益は自分が生み出したものだと考える。だから、住宅費だの教育費だのの手当てという形式に意味がある。
これまた、1970年代末から1990年代初頭まで、日本賛美論が咲き誇った頃に何遍も目にした懐かしき論理です。
そして、先に金子良事さんへのリプライで述べたように、日本型雇用とは、確かに「資本主義社会の人の生き方の限界を超える形として」産み出されたものなんですね。これを単なる封建遺制などと口走る安っぽい人間は、労働問題を語る資格はない。
ただし、その「資本主義を超えた」システムが、経営側にとっても維持することが都合の良いものになるためには、労働者の雇用契約が空白の石版としてその義務が無限定となることが必要であったわけですが。そして、その無限定の義務が労働者にとって喜ばしいものであると感じられている間は、それを「資本主義を超えた」として褒め讃える声に疑問も呈されなかったわけですが。
いずれにせよ、こういうたぐいの「近代を超えた」議論というのが流行していた1980年代が懐かしく思い起こされるヨニウム氏のツイートではあります。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-7764.html(大野正和さんの慧眼)
さて、「近代の超克」云々は、わたしはきわめて正鵠を得ていると思っています。それは、日本型雇用システムが封建遺制などではなく、近代資本主義に対する様々な社会主義の試みの一環であり、その意味で、言葉の正確な意味において「近代の超克」の試みとして生み出されたものであるという社会的事実の、哲学的反映という意味においてそうだという趣旨です。
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