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2012年11月26日 (月)

日本特有の“普通のエリート”を見直す時期

『労基旬報』11月25日号に掲載した「日本特有の“普通のエリート”を見直す時期」をアップしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo121125.html

改正高齢者雇用安定法で65歳までの例外なき継続雇用が義務づけられる一方、政府の会議が40歳定年制を提唱するなど、中高年雇用をめぐる議論はなお混迷の中にあります。しかし多くの議論は、なぜ日本の議論が混迷するのか、その根源に遡って論ずることがありません。

そもそも、欧米で雇用問題といえば若年者雇用問題であって、中高年が問題の焦点になること自体が異例です。その直接の理由はもちろん、日本的な年功賃金制による中高年の人件費コストにあるわけですが、そのさらに根源にあるのは、雇用契約を特定の仕事とそれに対する報酬の交換と考えるジョブ型の発想ではなく、会社の一員となって会社のために尽くす代わりに家族も含めてその生活を保障するというメンバーシップ型の発想が戦後一般化したことがあります。そのため、子どもの教育費や住宅費がかさむ中高年期に賃金のピークが来るように年功的な賃金制度が構築されました。

もともと労働組合の要求によって作られた年功制を企業にとっても長期的に合理的な制度として運用するために、年功制が適用される日本の「正社員」には欧米の普通の労働者とは異なる高い水準の「義務」が課せられ、労働者側も生活保障の代価として進んでこれに応じてきました。職務の限定なく会社の必要に応じてどんな仕事でもやる、時間や空間の限定なくいつでもどこでも仕事をする、残業や配転を断るような者は解雇されても仕方がない、といった日本型「正社員」の規範は、欧米ではごく一部のエリート層労働者にのみ適用されるものです。アメリカのエグゼンプト、イギリスのマネジリアル、フランスのカードルなど、こうしたエリート層は、入口からその身分であり、若い頃からそれにふさわしい極めて高い処遇を受けています。それに対して圧倒的多数の普通の労働者は、そのような義務は負わず、ほどほどの処遇とほどほどのワーク・ライフ・バランスを享受しています。

ところが、日本の「正社員」は、将来の保障という(少なくとも今までは空手形ではなかったとはいえ)手形証文と引き替えに、欧米の普通の労働者並みの処遇で欧米のエリート並みのハードワークをこなしてきました。もちろん、生涯ベースでは釣り合いがとれているからそういう社会的取引が成り立ったわけですが、急速に進む高齢化の中で、世代同士のバランスが崩れてきつつあることが、今日の議論の混迷の背後にあります。近年話題の「ブラック企業」は、低処遇でハードワークの上に将来の展望も保障もない「偽装普通のエリート」という姿を示しています。

特殊日本的な「普通のエリート」の存在がかつての高度成長を支えたことは確かですが、そろそろ見直すべき時期が来ているのかも知れません。

(追記)

これを百万倍(十億倍?)くらい過激かつ下品にすると、めいろまさんのキャリアポルノって話になるわけですが、

http://wirelesswire.jp/london_wave/201211260725.html(キャリアポルノは人生の無駄だ)

言い過ぎて逆にヨーロッパについてもいささか現実離れしているところがあるのが頭の痛いところですが、文章の大部分のネタ狙いを除いて本筋だけ言えば、

ノンエリートがエリートと思いこまされて搾り取られるんじゃねえよ

という至極まっとうな話ではあります。

(再追記)

New_2 でもってこれを学術的手つきで扱うと、『日本労働研究雑誌』12月号の特集「「大学」の機能分化と大卒労働市場との接続」

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/new/

になるわけですな。

・・・よく知られている「エリート段階」「マス段階」「ユニバーサル段階」の3 つの段階のうち,現在の日本の大学はほぼ「ユニバーサル段階」に達しており,大学教育がかつてない大きな質的変容に直面していることは周知のとおりである。

第一に,大学教育と産業界との関連で現在もっとも注目を集めている「グローバル人材」養成と,構造的に進行している大学のユニバーサル化の議論は異なる方向性をもつ。すなわち,羽田提言の言う「大学としての共通性と分化」との関連が明確ではないため,たいていの労働研究者は「グローバル人材」か,「ユニバーサル大学」や「マージナル大学」かのどちらかの方向しか見ていない。労働研究者の間でも大学についての共通認識がなりたちにくいという今日的状況がある。

その隙間を狙って、マージナル大学の学生相手にグローバル人材たれと説くという奇妙な事態が現出するわけです。

しかも、

またこれまで労働研究において大学教育の内容に関心が持たれなかったいまひとつの要因は,新規学卒者を採用後に訓練をして一人前の組織人に育て上げていくという企業内訓練と「白地性」の重視があるだろう。すなわち,大学で何を学んだかというよりも,潜在的な可能性によって組織のメンバーを選びだし,企業内でキャリアをつませるという人材育成のあり方である。

なので、グローバル人材たりうる「潜在力」が求められてしまうわけです。グローバルなんちゃら学部にいたからといって身につくわけではない「能力」が。

で、ポルノに走る・・・、と。

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