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« 政治学者舛添要一氏の名言 | トップページ | 『東洋経済』11月17日号インタビュー全文 »

2012年11月17日 (土)

だからそれがジョブ型

Tanimoto世間では「めいろま」さんで通っている谷本真由美さんが「ロンドン電波事情」に「在宅勤務が可能な理由」というエッセイを書かれていますが、

http://wirelesswire.jp/london_wave/201211140824.html

これは外国の働き方を知っている人にとってはあまりにも当たり前のことですが、何がどう違うかを極めて明確にかつ分かりやすく説明しています。

日本の方から「なんで海外では在宅勤務が可能なんだ?!?!」と質問を受けることがあります。制度が違う、文化が違うと色々理由があるわけですが、個人的には最大の理由は個人の業務範囲が明確で、業績評価が成果物ベースであること だと思うんですよ。

つまり

ー誰さんは何をやる
ーいつまでにやる
ーどれだけやる
ー何を持ってできたとする
ー確認は誰さんがどのようにやる
ー約束した以上の成果がでたらいくらのボーナスを払う

「誰さんが、何を、いつまでに、どのぐらいやる」が、仕事をやる前に決まっている、わけです。これらを文書やらシステムに落として、人事やマネージャーや大きなボスが確認します。透明化するわけです。

つまり、それがジョブ型の働き方ということですね。

若干注釈的に言えば、業績評価云々はエリートないしそれに準じる層の話で、ノンエリートの場合「誰さんが、何を、いつまでに、どのぐらいやる」ができていればそれでよし、査定はないのがデフォルトという点くらいでしょうか。

それに対して、メンバーシップ型の日本では、

日本の組織も見てきましたけど、日本だと丸投げしちゃったり、そもそも評価がなかったり、紙に落としたりしないことが珍しくなく、「誰さんが、何を、いつまでに、どのぐらいやる」を整理しないで勢いだけで走ってしまうということが少なくない様です。あっても曖昧だったりします。

むしろ、労働者個々人に「誰さんが、何を、いつまでに、どのぐらいやる」が決まっていない点が、重要なのでしょう。

それは、めいろまさんがいうように在宅勤務を困難にしているだけではなく、そもそも個人単位での労働時間のコントロールを困難とし、恒常的な時間外労働や年次有給休暇の取りにくさの原因ともなっているわけです。

(参考)

『日本の雇用と労働法』より、

以上のような労働時間の無限定さの背景にあるのは、職務限定のないメンバーシップ契約という日本型雇用システムの本質です。Ⅰで「実際に労働者が従事するのは個別の職務です」と述べましたが、欧米の職場のように個々人に排他的な形で職務が割り振られているわけではなく、個々の部署の業務全体が人によって責任の濃淡をつけながらも職場集団全体に帰属しているというのがむしろ普通です。「自分の仕事」と「他人の仕事」が明確に区別されていないのです。そのため、同僚の作業がまだ終わっていないのに、自分の作業が終わったからさっさと仕事を終えて帰る、という行動様式をとることが難しく、結果的に職場集団の全員が仕事を終えるまでみんなで残業することが多くなります。正社員の辞書に「それは私の仕事ではない」という言葉はないのです。年休の取得が難しいのも、同じメカニズムが働いているでしょう。

(追記)

Ldc9cyo82qa75ll59lsx_reasonably_sma酒井英禎さんのツイート上のコメント:

http://twitter.com/elm200/status/269852616593375232

これこそ私が日本企業で働きたくない最大の理由…でも根本的な解決は不可能っぽい。日本人はこれ以外の仕事の組み立て方を知らないので。

http://twitter.com/elm200/status/269853157872521216

日本人の働き方が「ジョブ型」に移行しないかぎり、慢性的な残業体質もなくならないし、ブラック企業も消滅しないと思う。しかしこれは極めて極めて難しい課題だと思う…。

http://twitter.com/elm200/status/269857931770593281

一方でジョブ型の働き方は、大変味気ないという部分もある。日本で末端の労働者が実によく働くのは、やるべき仕事が厳密に定義されず、裁量に任されている部分があるからだ。現実的には、ジョブ型と日本型の良い部分を組み合わせて、労働者個人の自由時間も確保する工夫を積み重ねるしかないのだろう。

そう、メンバーシップ型の働き方は、日本の労働者がそれを希求し、獲得してきたものでもあるのです。この入り組んだ関係をきちんと見極めずに簡単に両断できると思うとかえって足を取られて転んでしまうわけです。

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コメント

単純な労働経済学のミクロモデルでは、労働と余暇がトレードオフになっている。
これは、ジョブ型にはふさわしいが、まさに、日本人がつくりあげてきた労働社会で妥当するのか、このブログ記事を読んでいまさらながら痛感した。

そういえば、今から13年前、1999年に連合総研の機関誌『DIO』に書いたものですが、

http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no126/tokusyu2.htm

次にサービス残業と過労死である。これは、実は異なる2つの視点から議論されているように見える。一つは搾取論的視点であるが、日本社会モデルに関する基本認識が古典的な資本主義理解に立脚しているとすれば、見当はずれの議論にならざるを得ないであろう。もう一つはいわば自己搾取論的視点とでも名付けられようが、雇用の安定性と職務の柔軟性の上で、日本の労働者が自発的に過剰労働に追い込まれているというものである。サービス残業や過労死は特殊な例であるが、日本の特に男性正社員層の労働時間がヨーロッパ諸国のそれに比べてかなり長いことは明らかであり、このことの背景に職務ではなく「任務」を果たすことや業務の繁閑に労働時間で対応するといった柔軟な労働組織の特徴があることも否定できない。アングロサクソンモデルでは搾取論的に長時間労働となるのに対し、日本モデルでは自己搾取論的に長時間労働になってしまうと言えるかも知れない。

これをどう考えるかというのは、ある意味で哲学的な問いである。労働者が自発的に長時間労働するということは、それが「疎外された労働」ではなく、自己実現的労働になっているからだという面は否定できない。自己実現とは自己搾取なのである。家庭に帰りたがらず職場を家庭のように執着する「会社人間」は現在もっぱら嘲笑の対象になっているが、労働者が職場を家庭のように感じることのできない資本主義社会を人間の本質である労働からの疎外だとして糾弾したのは若きマルクスの「経済学哲学草稿」であった。

他方、この「自発的」というのが個人としての労働者としての自発ではなく、労働者集団としての自発であって、個人にとっては強制に過ぎないという観点から批判を加えることもできる。これもまた個人と集団の関係という社会哲学の根本問題に関わるが、個人の自発なくして上から集団の自発が降ってくるわけはないのであって、個人の自発が集団の自発を支え、それが今度は個人を自発に向けて強制するという相互的な円環をなしていると理解すべきであろう。集団的自己実現の中での個人的自己実現という枠組みの中では、自己搾取は集団的自己搾取という形態をとることになる。芸術家の自己搾取が非難されないように、スポーツ選手の集団的自己搾取は賞賛の対象となるが、会社人間はそうではない。しかし、それにはそれなりの理由がある。

労働者が職場を家庭のように感じられることは、労働者自身にとっては幸福なことかもしれないが、労働者の家族にとっては必ずしも幸福とは限らないということである。日本社会モデルのアキレス腱は女性差別とともに職業生活と家庭生活の調和の取り方の部分にあるのであろう。それが21世紀の社会モデルとなるためには、この点について抜本的な修正が必要となる可能性が高いように思われる。

そういや、小沢一郎の新党が「完全雇用の実現を目指して」ってのを基本政策案の叩き台としているそうですね。
http://www.seikatsu1.jp/images/user_files/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%94%BF%E7%AD%96%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E6%A1%88.pdf
一部では「僕らは新自由主義との理論闘争に勝った」って大はしゃぎしている向きがあるそうですけど、自分には寧ろ1960~70年代の昔に戻すだけで本質的なとこは何も解決されていないとしか思えないのですが・・・・・

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