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2012年11月21日 (水)

公共選択論の大罪または政治はなぜ嫌われるのか

4000258699岩波書店の伊藤耕太郎さんから、編集者として刊行に当たられたコリン・ヘイ著・吉田徹訳『政治はなぜ嫌われるのか ―― 民主主義の取り戻し方 ――』をお送りいただきました。いつも有り難うございます。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/9/0258690.html

先進デモクラシー各国で進む投票率の低下や政治家への不信感の高まり.それはなぜか.新自由主義による「政治」への攻撃やグローバル化に伴う国内政治の無力化,社会科学における合理的選択論の隆盛から政治学者の責任まで,さまざまなファクターを斬新な視点で検討し,「政治」の再生はいかにして可能かを探る.従来の「政治」観を刷新する,イギリスの新世代政治学者による注目の書.

日本も、いやある意味では日本こそが、いま現在進行中の政治芝居それ自体が、本書をとてもとてもアクチュアルなものにしています。

という抽象的な言い方ではよく分かりませんよね。

そう、一ついい例を出しましょう。今日の政治不信、それもディマンドサイドよりもむしろサプライサイドの政治家自身や政治評論家が全力で煽り立てている政治不信の「疑似学術的」源泉の一つに、今から30年くらい前に流行ってその後あまり表舞台では姿を見なくなった「公共選択論」という「学問」があることを、次の一節は、あまりにも生々しく示してくれています。

そう、ケインズではないですが、今日の政治家や政治評論家たちは、みんな誰一人読んだこともない公共選択論という疑似科学の精神的奴隷なのです。

・・・1980年代以降、先進自由民主主義国やその他の国の政治エリートは、学会で生産された公共選択論の疑似学術的な理論を受容し、内面化してきた。そして、それが政治エリートの自己不信に貢献することになったのである。公共選択論は、一般的に政治家や政治エリート、公務員が道具主義的な前提から行動すると想定する。もし政治家や公僕が合理的で計算し尽くされた自己利益的な行動をとるならば、彼らが公的・集団的な財を提供することなどない、と指摘したのである。こうした立場は、1970年代に広まった危機を上手に説明する理論として受容された。これは、限られた税収を基盤に政府支出の恒常的拡大を求める有権者を満足させようと、その期待値をつり上げ続ける「過重負担」によって時代の危機は引き起こされたという説明を生んだ。そこから求められるのは、簡単に言えば「政治」をより少なくすること(政治とは政治家の道具主義的な自己利益と彼らが仕えるセクターのことだから)、「公的部門」を少なくすること(公的部門は「公僕」の既得権益に守られた官僚機構の非効率性そのものだから)であるとしたのである。

以上のような考え方を政治エリート自らが自家薬籠中のものとしたというのは、不可思議に聞こえるかも知れない。たしかに、現代の公共政策における公共選択論の影響は、自己否定の響きがどこかにある。しかし、その影響力は衰えるばかりか、例えば中央銀行の独立性が擁護されていることに見られるように、政策形成とその実施を独立した公的機関に委任し、公共政策を「脱政治化」するという広範なトレンドとなって現れている。そして、「政治」はより少ない方がよいと政治家すらも考える時代にあって、政治不信と政治離れが蔓延するのは当然のこと、ということになるのである。(p73-74)

なんだか、今日の日本の姿をそのまま腑分けしたような犀利な分析です。敢えて余計なことを付け加えれば、日本の場合新自由主義的な公共選択論の影響だけでなく、もともと国家権力といえばことごとく否定したがる「りべさよ」感覚が左翼方面で強かったことが、さらに輪をかけたといえるかも知れません。

そして、今日の日本に特有の奇怪な現象といえば、まさにここに摘出されたような公共選択論的センスを全開にして政治的資源配分や公共部門を目の仇にして叩きながら、なぜかその論理的帰結とは正反対に、上述の中央銀行の独立性に対して「だけ」は、それ「のみ」については、叩く側にまわるという、いささか失調気味のような特殊日本的「りふれは」現象といえましょう。マクロ金融政策以外のあらゆる全てについては政治不信、政治離れを煽れるだけ煽っておいて、なぜかマクロ金融政策「だけ」は政治家に全幅の信頼を置くという不思議な人々のことです。

ちなみに、本書を訳した吉田徹さんが、「しのどす」で本書の紹介旁々のエッセイを書かれているのでリンクしておきます。

http://synodos.livedoor.biz/archives/1996076.html(脱政治化の時代の政治 吉田徹)

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コメント

11月25日の権丈先生の記事に公共選択があったので…

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/20120208_iryoseisakukaigi1.pdf

のみならず、捕獲理論は、表2-1 の第Ⅱ期に記しているブキャナンとタロックを開祖とする公共選択論(public choice)という政治の経済学の領域にも影響を与えていく。公共選択論は、ひたすら「政治の失敗」を説く学問なのであるが、この公共選択論の中にニスカネンの官僚行動に関する「予算極大化モデル」などが出てくる。これは、官僚を従来の「公益」のために奉仕する行政の専門家というイメージから、自らの権限を極大化させるために予算極大化行動をとり、公益を損なう主体というイメージに切り替えることに成功していく。こうした思想の切り替えは、時間と共に大きな流れになる。ちなみに、ニスカネンは大学院はシカゴ大学である。

吉田徹氏はシノドスの記事“脱政治化の時代の政治”
http://synodos.livedoor.biz/archives/1996076.html

において、政治と政策形成に関与する専門家集団との関係について述べ、「脱政治化」が進行するプロセス、およびその結果生じる「脱政治化」の問題について論じている。以下、筆者の理解する範囲で、吉田徹氏の論点を整理する。

―――――――――――
高度に専門化された領域では、その専門性の故に政治家や官僚機構も政策決定を専門家集団に依存せざるを得なくなり、その結果専門家集団が第一義的な政策決定主体となる。かくして「脱政治化」が進む。専門家集団が政策決定主体となる時、応答・説明責任は担保されるのか、また専門家集団による政策決定はアドホックでルーズであることから、制度的な保証はなされるのかを問うている。

「脱政治化」が進む中で、政治的な議論の対象が非政治領域へと格下げされ、政治そのものの領域が縮小していく。かくして、民主政治の争点の対象となるべき領域が専門家集団の決定に委ねられるようになると論じている。

「脱政治化」の事例として、中銀の独立性を挙げている。政治からの金融政策(とりわけインフレ水準)に対する介入を回避するために、中銀の独立性が保証されるようになったが、このような「脱政治化」の議論には誤りがあったとしている。金融政策(とりわけインフレ水準)の決定と金融オペレーションは分離されるべきであり、金融政策の決定までを中銀の独立性に委ねるという議論には誤りがあるとしている。

また、環境政策も「脱政治化」される過程にあり、“「環境に優しい行動」が推奨される一方で、政府や公的機関が権威的な環境規制から撤退すれば、環境の維持は企業と消費者の行動に一任されることになる”と論じている。原発の再稼動をめぐっては、政府と原子力規制委員会の間で綱引きが続いている。政府は、再稼動の判断を規制委員会と事業者に求め、原子力規制委員会は自身の役割は安全性に係わるもののみであり、稼動そのものについては政府と事業者が判断すべきとの立場は崩していない。ここでは、どこまでの判断を「脱政治化」するかについて、政治(政府を含む)と専門家集団の境界について取り上げている。

“様々な政策領域が、「脱政治化」され、その結果として、主権者に一義的な応答・説明責任によらない、専門知の介在が許容されることになっていく”と論じている。

そして、一旦「脱政治化」された政策領域は再び「政治化」するのに多大なコストがかかるとしている。「脱政治化」は、公的領域にある責任と権限を専門家集団に委譲することでなされるため、簡単に行うことができるが、「脱政治化」された政策領域を、再度「政治化」するには、そこに蓄積されていく専門知を覆すだけの論理と政治的権力がなければ、達成することが難しくなると論じている。
―――――――――――

今、日銀の金融政策の是非が論じられている。日銀およびそれを取り巻く経済学者などの専門家集団に金融政策の決定が任され、金融政策の「脱政治化」が進んでいる。しかも、“日銀の独立性”が、政治からの介入に対する制度的な防御壁となっている。

我が国の20年以上にわたるデフレ経済、賃金の低下、雇用の劣化、・・・等々、これら全てが日銀の金融政策によるものではないにしても、日銀がその責任の一端を担うならば、国民に対してその応答・説明責任は担保されるのか、日銀の金融政策に対して制度的な保証はなされるのかが問われる。

“日銀の独立性”は、金融オペレーションに限定されるものであって、金融政策(とりわけインフレ水準)の決定までを“日銀の独立性”に委譲するものではない。日銀の役割は、金融オペレーション(政策金利の決定、国債の売買)を駆使して政治が決めたインフレ水準を達成することにある。政府は日銀に対して、“日銀の独立性”を侵害して、国債を日銀に引き受けさせることはできない。ここに“日銀の独立性”の根拠があり、かつ“日銀の独立性”は金融オペレーションに限定される。

「脱政治化」された金融政策を政治が奪回し、民主政治のコントロール下に置かなければならない。

最後に、OECD対日審査報告書が、インフレ目標の設定および中央銀行の役割について述べている一節を引用しておく。

OECD対日審査報告書2011年版 概観
http://www.oecd.emb-japan.go.jp/Overview%20Japan%202011_JAP.pdf

>金融政策の枠組みについても改善の余地がある。2009年12月、金融政策委員会は、ゼロ%の下限を除くことにより、0 から2%程度とする物価安定の「理解」を改定した。この措置は依然として物価安定の理解を非常に低いままに留めている。なぜなら、この範囲のインフレが展望できる情勢になった時には、原則的に物価安定の理解が満たされることになるからである。より高いインフレの目標は、デフレに対して更なるバッファーを提供するであろう。加えて、仮に1つの値を中心とした範囲により表される場合、日本銀行の政策意図はより明らかになり、その結果より信認のおけるものとなるであろう。1つの典型的な目標は2%、プラス、マイナス1パーセントポイントといったものである。物価安定の理解を設定する際のメカニズムを改定するといったこともなされうる。いくつかのOECD加盟国では、インフレの範囲は中央銀行により独立的に設定されるというよりは、政府もしくは政府と中央銀行による協議によって設定されている。そうした取組みは、インフレ目標に対する政府の支援を促し、中央銀行がより独立してその目標を達成することを認めることになるかもしれない。枠組みの変化は、信頼性をさらに高めるとともに物価安定の実現に向けた力強い取組みを確かなものとすることを助け、それ故、今後長期間にわたる財政健全化の過程で経済を下支えすることになるであろう。

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