「大学」だけは「職業」と無関係な件について
大学が多すぎるだの、いや先進諸国に比べれば少ないだの、議論が賑やかですが、問題は日本国の学校教育法という立派な法律においては、なぜか高等教育機関のうち、「大学」という名前の施設だけは、「職業」という文字がないということだという指摘は、どこからもないようですね。
学校教育法(昭和二十二年三月三十一日法律第二十六号)
第八十三条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。
第九十九条 大学院は、学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、又は高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与することを目的とする。
2 大学院のうち、学術の理論及び応用を教授研究し、高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培うことを目的とするものは、専門職大学院とする。
第百八条 大学は、第八十三条第一項に規定する目的に代えて、深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成することを主な目的とすることができる。
2 前項に規定する目的をその目的とする大学は、第八十七条第一項の規定にかかわらず、その修業年限を二年又は三年とする。
3 前項の大学は、短期大学と称する。
第百十五条 高等専門学校は、深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成することを目的とする。
第百二十四条 第一条に掲げるもの以外の教育施設で、職業若しくは実際生活に必要な能力を育成し、又は教養の向上を図ることを目的として次の各号に該当する組織的な教育を行うもの(当該教育を行うにつき他の法律に特別の規定があるもの及び我が国に居住する外国人を専ら対象とするものを除く。)は、専修学校とする。
この他に、学校教育法上の学校ではない「大学校」が各種ありますが、いずれもそれぞれの職業に必要な能力を育成するためのものであることは言うまでもありません。
日本国の高等教育機関のうち、短期大学、大学院、高等専門学校、専修学校、さらに各種大学校はすべて何らかの形で「職業」と関係あるのですが、「大学」だけはいまだに「学術の中心」などと寝ぼけたことを言っていて、「職業」とは関係ないみたいな顔をしている、ということに、少なくとも学校教育法上はなっているわけですな。
正確に言うと、広義の大学のうち、「職業」に必要な能力を育成することを主たる目的とするものは、修業年限は4年にしてはならず、2年か3年の「短期大学」にならなければならないのですね、法律上は。
どうしても4年制にしたければ、それは「職業」に必要な能力を育成することを主たる目的とするものであってはならず、「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」ものでなくてはならないわけです、法律上は。
もちろん、それは現実の姿とあまりにも乖離しているわけですけど、その乖離をホッタラケにしたままで、あれこれ論ずることのむなしさも感じて欲しい気もしないではありません。
「大学」と称する施設がこれもそれもあれもどれも、み~~んな「学術の中心」と言うのなら、それはたしかに多すぎますけど、「職業」に必要な能力を育成することを主たる目的とする4年制の高等教育機関というのなら、別に多すぎるわけでもなく、もっとあってもいいわけですよ。
残念ながら、現行学校教育法上は、そういう存在は許されないことになっているわけですけど。
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「大学が職業を疎外してきた5大要因」を私のブログに上げました。
第一、「教育」概念の問題
第二は、マッカーサー草案にあった
Article XXⅡAcademic freedom and choice of occupation are guaranteed.
の学問の自由と職業の選択を分離し、「日本国憲法」を規定したこと
第三は、「教育基本法」の目的は、GHQの職業との関連を規定すべきと言う提言を無視したこと
第四は、マックスウェーバーの『職業としての学問』を素直に大学人は理解して居ないこと
そして、学問は民主的だという信仰が、戦後の経済成長下での日本的雇用慣行の一つである「新卒一括採用」という状況下でカムフラージュされたことに気付かなかったこと
としています。
ご確認下さい。
投稿: 田中萬年 | 2012年11月18日 (日) 08時52分
萬年さん、ありがとうございます。
来週火曜日のモビケーションセミナーでも、モビケーションの「ケーション」(エデュケーション)とは、職業教育訓練のことなのだということをきちんとコメントするつもりです。
投稿: hamachan | 2012年11月18日 (日) 10時42分
意思は、未来時制の文章により表される。意思は意味により理解される。
恣意は、単語により表される。恣意は察しにより勝手に解釈される。
無時制の言語 (日本語) 情報交換の欠陥を補うものとして、以心伝心は重宝がられている。だが、信頼性がなく、危険な手段である。
意見は、文章により表される。意味もあれば、矛盾もある。だから、議論の対象になる。
意向は、単語により表される。意味もなければ、矛盾もない。だから、議論の対象にはならない。
議論ができなければ、論文もできない。
論文のできない大学は格付けの順位が高くならない。
このような大学では、哲学博士 (Ph. D.) の育成も難しい。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
投稿: noga | 2012年11月24日 (土) 20時29分
ここで触れられていた高等専門学校ですが、長岡技科大の石田氏がその内実について可也批判的なことを指摘してますね。
http://www.nagaoka-ct.ac.jp/ec/labo/ther/gif/Education.pdf
http://www.nagaoka-ct.ac.jp/ec/labo/ther/gif/Response.pdf
http://www.nagaoka-ct.ac.jp/ec/labo/ther/gif/Comment.pdf
http://www.nagaoka-ct.ac.jp/ec/labo/ther/gif/NomuraPaper.pdf
これらの文章を読むまでは寧ろバラ色の様なイメージで高専を見ていたので、ショックです。
投稿: 杉山真大 | 2012年12月 3日 (月) 15時56分