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2012年11月 4日 (日)

高齢者雇用の問題とは、日本の「普通のエリート」という仕組みが根底にある

依然として一知半解の議論を展開している向きもありますが、高齢者雇用の問題とは、日本型雇用システムが維持している「普通のエリート」という他国に例を見ない仕組みが根底にあるということを、改めて『HRmics』で海老原さん、荻野さん相手に語った記録をアップして、確認しておきたいと思います。

今月10日発売予定の『中央公論』12月号での海老原さんとの対談記事の予習用としても有用です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics12.html「ふつうの人」が「エリート」を夢見てしまうシステムの矛盾

そもそも、欧米では定年制が企業経営の問題となることは少ない。なぜ日本だけ、ことさらに定年が問題となるのか。雇用の仕組みの違いに迫る。
 
―欧米と比較した日本の高齢者就業の特徴を教えてください。
「高齢者多就業社会」という意味では日本はかなりの先進国で、高齢者が労働市場から引退する年齢が欧米と比べて高いのが日本の特徴です。ところが、その就業の場が長年勤務したのとは別の企業だったり、同じ企業だとしても身分や処遇が大幅に切り下げられたりするのが普通です。つまり、社会というマクロではうまく行っているものの、企業というミクロの話になると、大企業を中心として60歳を境に高齢者を追いやったり、あるいは別コースの雇用を用意したりせざるを得ないマネジメントが行われている。これは改めるべき点といえるでしょう。
―それは中高年が働きに比べて給料をもらい過ぎているため、定年という形で、一度、関係をリセットしなければ企業がやっていけない、いわゆる年功賃金の弊害といわれるものですね。でも、労働統計を見ると、形態はばらばらですが、海外でも賃金の年功カーブは歴然と存在しています。
ヨーロッパでも、労働組合との協約があって若い時は年齢に応じて賃金は上がっていきますが、その期間は入社10年目くらいまででしょう。その後の年功カーブは、一律昇給ではなく、すごく上がる一部の人が、全体の平均を挙げているだけで、多くの人は昇給がほとんどなくなっていく。日本の場合、現在はそれでも落ち着いてきましたが、40代半ばくらいまでの上昇が、「あるべきこと」として規範化されています。
―なぜそうなったのでしょうか。
 さまざまな要因が作用していると思いますが、私の考えでは、欧米企業では労働者と企業との労働契約が職務に基づいたジョブ契約であるのに対して、日本企業のそれはメンバーシップ契約、ということが大きく影響しています。メンバーシップ契約では、ある職務がなくなっても、別部門で人が足りなければ、その人を異動させて雇用を維持します。こうした人事異動は、人材育成のためにも意図的に活用されます。職務に応じて賃金が支払われるわけではないので、結果として、賃金の決め方が曖昧になりがちです。しかし、何らかの基準は必要ですから、年齢や勤続年数が基準になりやすいのです。処遇における年功要素が大きいのが日本型正社員の特徴で、その結果、年功カーブが急になってしまうのです。
―年功が急になる要素が日本型正社員には組み込まれているということですね。他に彼我の違いはありますか。
エリートの問題についても大きな違いがあります。アメリカではエグゼンプト(exempt)、フランスではカードル(cadres)、ドイツではライテンデ・アンゲシュテルテ(leitende Angestellte)といいますが、残業代も出ない代わりに、難易度の高い仕事を任され、その分もらえる賃金も高い、ごく少数のエリート層が欧米企業には存在します。彼らは入社後に選別されてそうなるのではなく、多くは入社した時からその身分なのです。
一方、「ふつうの人」は賃金が若い頃は上がりますが、10年程度で打ち止めとなり、そこからは仕事の中身に応じた賃金になります。出世の階段はもちろんありますが、日本より先が見えています。その代わりに、残業もほどほどで、休日は家族と一緒に過ごしたり、趣味に打ち込んだりといったワークライフバランスを重視した働き方が実現しています。
日本は違います。男性大卒=将来の幹部候補として採用し育成します。10数年は給料の差もわずかしかつきませんし、管理職になるまで、すべての人に残業代が支払われます。誰もが部長や役員まで出世できるわけでもないのに、多く人が将来への希望を抱いて、「課長 島耕作」の主人公のように八面六臂に働き、働かされています。欧米ではごく少数の「エリート」と大多数の「ふつうの人」がいるのに対して、日本は「ふつうのエリート」しかいません。この実体は、ふつうの人に欧米のエリート並みの働きを要請されている、という感じでしょうか。
 
職務と処遇の関係が曖昧な日本

―日本の正社員は一枚岩、欧米は二枚岩、欧米ではエリートとふつうの人の賃金が合わさってカーブが出来ているのに対して、日本はふつうの人単体だと。表面的な形は似ているけれど、カーブが形成される構造が違うということですね。
 そうです。ところが戦前の日本企業は違いました。エリートがきちんと存在していたのですが、戦中・戦後のどさくさや激しい労働運動の結果、正社員はすべてエリートだ、というような価値観が主流になりました。客観的には相当な無理があったにも関わらず、です。当の正社員たちも、過大な期待を負わされて俺たちは迷惑だ、という声をあげることもなく、じゃあ頑張ってみるか、と、大切な家族と引き離されての単身赴任や連日の長時間労働をこなして、それに見合った賃金を得ていったのです。それが悪いことだったか、といえば、企業にも労働者にもそれなりのメリットをもたらしたのは事実でしょう。
 でも、そんなやり方が通用しなくなってきているのが現在です。年齢構成が不変ならば、この仕組みもうまく回りますが、それが大きな変化を遂げています。若手が多くて中高年が少ないピラミッド型から、若手が少なくて中高年が多い逆ピラミッド型へ、日本の人口構造が大きく転換したからです。その結果、年功カーブの存在が企業の人件費を圧迫しました。年齢が上がると、人間、いい意味でも悪い意味でもすれてきますから、若い時ほど、「これだけの賃金を与えているのだから働け!」という経営側のムチも通用しなくなりました。
そうなる前に、誰に、どんな仕事を担ってもらい、どんな基準で処遇するか、という根本的な問題に手をつけなければならなかったわけです。が、バブルに踊った挙句、改革は手つかずのまま、「失われた20年」に突入してしまいました。この間、膨れ上がる中高年の人件費を抑えるためにひねり出された苦肉の策が成果主義でしたが、うまく仕組み化できなかったのはご承知のとおりです。
―欧米では、もともと働きに応じた賃金になっているから、ことさらに定年、定年と言い募ることもなく、個人が年金の支給開始年齢を見ながら、自由に引退時期を決められるというわけですね。
その通りです。定年がない国も増えつつありますが、そもそも欧米における定年とは年金支給開始年齢と同じで、労働市場からの引退を意味します。日本の定年を英語に訳そうと思ってもなかなか難しいのです。仕方なく、Mandatory Retirement(強制引退)と訳すと、「?」という反応で、なおも、「その後、65歳までのContinued Employment(継続雇用)がある」と続けると、目を白黒されます。
 
まずはできるところから手をつける

―欧米は日本より横移動(転職)が容易だから、企業も要らない人材を解雇しやすい、その結果、「働かない中高年問題」に悩まない、という事情はありませんか。
 それはないですね。アメリカは違いますが、ヨーロッパではむしろ転職は日本と同じく、活発ではありません。むしろ、そういう意味では、日本の高齢者のほうが横移動が活発でしょう。それまで在籍していた企業に、同じ身分でい続けることができず、雇用が別形態になったり、関連会社や子会社も含めた他社で雇ってもらったりするわけですから。ヨーロッパではむしろ、「賃金が高すぎる」という日本の中高年者と同じ問題に直面しているのは若年者です。彼らの失業率は二桁台と非常に高く、どの国も対策に頭を抱えています。その解決策として、最低賃金法の対象から若年者を外すべきだ、という議論が真剣に行われています。
―この問題を解決するのは一筋縄ではいきませんね。
 その通りです。高齢者雇用の問題とは、日本の「ふつうのエリート」という仕組みが根底にはあります。ただ、高齢者雇用が進むことで、「ふつうのエリート」という仕組みにひびが入り、新しい労働社会の形が見えてくる可能性はあるとおもいます。そうした意味で、高齢者雇用問題は、新しい社会の入口への“奇貨”とすべきだと、私は考えています。

(追記)

大体この通りなのですが、若干付け加えると、

欧米ではごく少数の「エリート」と大多数の「ふつうの人」がいるのに対して、日本は「ふつうのエリート」しかいません。

正確にいえば、日本は大多数の「ふつうのエリート」と、少数(のはずだった)「ふつう以下」の非正規からなる社会だったわけですが、その「ふつうのエリート」が縮小して、「ふつう以下」に落ちるぞ、と脅かされて、今までの「ふつうのエリート」以上のますます猛烈な働き方を余儀なくされているというのが現状。

そこに、欧米の「ごく少数のエリート」を引き合いに出して、悲鳴を上げている「ふつうのエリート」にもっと働けもっと働けとハッパをかける役割を果たしているのが、ワカモノの味方を称する人事コンサルタントであったりするので、なかなか世の中は面倒くさいわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-ddff.html(エグゼンプトとノンエグゼンプトをごっちゃにする人材コンサル氏)

http://jyoshige.livedoor.biz/archives/5594729.html(ホワイトカラーの地力をつけたければ、ブラック企業云々は気にするな(メルマガ))

そもそも、世界的に見ればホワイトカラーは自己責任で自立的に働く職種だ。
大雑把にいえば、これだけの職務に対して年俸はいくらで、後は自由に働いて、というスタイルだ。労基法とはもともと工場で働くブルーカラー向けの法律であり、それをホワイトカラーにまで適用してきた日本が異常なのだ。
だから、どんな大企業でも半ば公然と労基法破りが行われてきたし、これから先、グローバル化が進む中で、さらに日本企業のブラック度は増すだろう。

まさか、同じオフィスワーカーでも、エグゼンプト(米)、マネジリアル(英)、カードル(仏)と呼ばれるエリート層と、そうじゃないノンエリート層をひとまとめにして、「世界的に見ればホワイトカラーは自己責任で自立的に働く職種」だなんていう超粗雑なことを言う人材コンサルがいるとは思わなかった・・・、って、いやこの人なら言うかもと思ってましたけどね。

いうまでもなく、ブルーカラーでも、ノンエグゼンプトのホワイトカラーでも、基本はジョブ型なので、その限り(過剰な義務も過剰な保障もないので)別にブラックではない。

逆に、エグゼンプトはその名の通り高い処遇と引き替えの適用除外だから、その限りでやはりブラックじゃない。

他国ならノンエグゼンプトになるような人々を疑似エグゼンプト化していることが、(さまざまなメリットとともにその裏側で)さまざまな問題-まさにブラック企業など-を産み出しているということも、今まで述べてきたとおり。

そういう冷静な分析を抜きにして、「だから、どんな大企業でも半ば公然と労基法破りが行われてきたし、これから先、グローバル化が進む中で、さらに日本企業のブラック度は増すだろう」とか言えてしまうこの人は、やはり人材コンサルとしてどうなんだろうか・・・と思わざるを得ないわけです。

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