小熊英二編著『平成史』
小熊英二編著『平成史』(河出ブックス)を、執筆者の一人である仁平典宏さんよりお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309624501/
この本は、
私たちはどんな時代を生きているのか。政治、地方‐中央関係、社会保障、教育、情報化、国際環境とナショナリズム……気鋭の論者が集い、白熱の議論を経て描く、新たなる現代史のすがた。
ということで、こういう方々がこういうテーマを執筆しています。
序文(小熊英二)
総説——「先延ばし」と「漏れ落ちた人びと」(小熊英二)
政治——再生産される混迷と影響力を増す有権者(菅原琢)
地方と中央——「均衡ある発展」という建前の崩壊(中澤秀雄)
社会保障——ネオリベラル化と普遍主義化のはざまで(仁平典宏)
教育——子ども・若者と「社会」とのつながりの変容(貴戸理恵)
情報化——日本社会は情報化の夢を見るか(濱野智史)
国際環境とナショナリズム——「フォーマット化」と擬似冷戦体制(小熊英二)
平成史略年表
このうち、私の関心分野と深い関わりがあるのは、仁平さんの社会保障の章と、貴戸理恵さんの教育の章です。
仁平さんは、昭和に成立した日本型生活保障システムが平成期に入って変容を遂げていく姿を、3期に分けて描き出していますが、とりわけそのネオリベラリズムのゼロ年代としての平成Ⅱ期について、
・・・以上の動きは、一見、他の先進国のネオリベラリズムと同じように見える。だが、他のヨーロッパ諸国では、包摂的な社会保障制度を削減するためのものだったのに対し、日本では、それが未形成のうちにネオリベラリズムを迎えたという重要な違いがあった。
・・・だから日本版ネオリベラリズムは、実は広範な支持も得やすい。反対者が、規制緩和や民営化によって作られたものが、これまでの「標準」と比べていかに質が低いかを説いても、失業者や待機児童や介護難民のために、まずは規制を緩めて量を確保するべきだという声の前に空転する。特にこれまで「標準」の外部に排除されていた人にとっては、規制緩和に伴う自由度の増大や選択肢の拡大は福音である。実際に供給量が増える中で、反対者は不当な「既得権益」を護持する立場とみなされるだろう。この文脈ではネオリベラリズムを正当化する上で、「市場競争が質の高いものを生み出す」云々という教義を持ち出す必要すらない。・・・平成Ⅱ期に日本版ネオリベラリズムを普及させる上で、「思想」や「神学」は不要だった。卓越したネオリベラリズムの理論家もいなかったが、自己責任論と「困っている人の声」の双方を、文脈に応じて駆使できる言説磁場があった。・・・
と、その「神学なきネオリベラリズム」を浮き彫りにしています。
次の貴戸さんの章も、「学校と企業を貫くメンバーシップ主義」という視角から、昭和の「学校と企業が成功しすぎた社会」が揺らいでいく過程として平成史を描いていきます。
貴戸さんの絶妙な比喩を引用すれば、
「学校と企業が成功しすぎた社会」とは、例えば「意図せざる絶妙なもたれ合いの結果、なぜか二者で三人分の荷物を持ち得ていた状態」であったと言える。そんな二者が、時代の波に足を取られてバランスを崩し、全部の荷物を落としてしまったらどうか。「それは二人の仕事だ」と認識してきた周囲は、「ちゃんとやれ」と文句をいうばかりで助ける術を知らない。しかし一度バランスを崩した以上、三人分の荷物など二度と持てない。いや、もたれ合いに慣れた身体では、ひとりが一人分の荷物すら、持てないかも知れない。--そうした中、ますます多くの若者が「仕事をして自活し、パートナーを得て子供を産み育てる」という人生の可能性から疎外されるようになっている。
この貴戸さんの論文は、私の雇用システムについてのメンバーシップ型という議論を、教育システムまで包摂したより大きな枠組みとして再構築したものになっていて、マクロ近現代史を論じていく上では極めて重要な提起だと思います。
ちなみに、編著者の小熊さんの総論は、『社会を変えるには』に比べると共感できる記述が多いのですが、正直なお淡々と年表を繰っているような感じもあり、総論に過ぎるという印象を持ちました。
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