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2012年10月21日 (日)

職業教育は選択肢を狭めるか

森直人さんが「もどきの部屋」で、「教育と職業・政治 再論」というタイトルの研究会について「とりとめなく」語っていますが、その中で、

http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20121020/p1

・・・だから教育学者としての広田はずっと同じことを主張していて、それは「子どもに可能な限り選択肢を提示しろ」ということだと思う。その選択肢が貧しくなったときが危険なときなんだ。・・・

教育は子どもの選択肢を可能な限り狭めないものとして――もし望めるなら選択肢を増やしてやるものとして――構想されなければならない。すごい正統派教育学者の発想である。そして、そんな彼の眼に職業教育は子どもの可能性を一点に――ある特定の職業に、そしてある特定の職業「のみ」に――「限定」するものに映るから、「職業教育主義」には批判的なスタンスを崩さない。「特定の職業」のことしか考えなくなるし、「職業のために」という以外の可能性を教育に見出す視点も失ってしまうから。

もし批判されるべきだとしたら、そういう「職業教育」理解が「貧しい」ということだろうか。一面的、というか。職業陶冶論とか難しい言葉はあるけれど、「普通教育では適応できなかったのに職業訓練では皆勤で通した子」というのはいて、そういう子は職業教育・職業訓練でこそ可能性を拓くし、もしかしたらそういうところでしか救えない。そして、ある特定の職業に一心に打ち込むことによってそこから始めて世界を見る目が拓かれていく、というのは「教養人」たるにありうる回路の一つである。

ただし、広田的問題意識のうち私がとても重要で譲ってはならない一線だと思うのは、職業教育を重視するというあまり、学歴資格の制度的に固定化された格差を容認する方向性は持ち込むべきではないというところ。このあたりは濱口さんのおっしゃるところとは少し異なるのかもしれないけれど(よくわかってないけれど)、四年制の「大学(学士)」に対してそれより格下の教育機関・教育資格として制度化されるのはいろいろ不都合なことが起こり過ぎるのではないか(ここはだから佐々木輝雄がどうして企業内訓練に高校と同じクレジットを与えるという制度に拘泥したかを思い出すべきなんだろうと思う。彼は企業内訓練の経験「しか」ない者も「大学」に行ける制度なんだ、ということでこのクレジット制に拘っていたはずであって、そこは広田的問題意識と通じているんだと思う)。

なんだかかなり前にここで論じたデジャブを感じたりしますが、最後のパラグラフについて言えば、まさに現在の大学というものを職業教育機関として位置づけようとしない考え方こそが、職業教育を「四年制の「大学(学士)」に対してそれより格下の教育機関・教育資格として制度化」し、それを固定化しようとしているわけです。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post.html(「職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる」はずがない)

なんだか、金子良事さんにケチばかり付けているようで、気が重いのですが、「職業教育についての論点整理(1)」というエントリが正直よく分からないので、感じたことを述べておきます。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-112.html

あまりにも危うい職業教育待望論、それから、それに便乗するという向きが多いので

ま、たしかに私も「便乗するという向き」の一人ですし、

職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論の多くに対してはかなり疑問に思っています。

「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」を展開しているのも確かですので、批判されるのはやぶさかではないのですが、

それにしても、職業教育訓練重視派が主張していることになっている、

命題1 職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる

なんてのは、一体、どこのどなたがそんな馬鹿げたことを申し上げておるんでごぜえましょうか、という感じではあります。

もちろん、金子さんの言うとおり、

職業教育ならびに職業訓練はある特定のスキルを習得することを前提としています。つまり、ある職業教育を受けるということはその時点でもう既に選択を行っているのです。すなわち、選択が前倒しされるだけなのです。この世の中に無数にある職業の大半に接するなどということは実務的に絶対不可能です。ということは、職業教育はその内容を必ずどこかで限定せざるを得ない。

職業教育訓練とは、それを受ける前には「どんな職業でも(仮想的には)なれたはず」の幼児的全能感から、特定の職業しかできない方向への醒めた大人の自己限定以外の何者でもありません。

職業教育訓練は、

この意見が人々を惹きつけるのは「選択の自由」という言葉に酔っているからです。

などという「ボクちゃんは何でも出来るはずだったのに」という幼児的全能感に充ち満ちた「選択の自由」マンセー派の感覚とは全く対極にあります。

職業教育訓練とは、今更確認するまでもなく、

選択を強制されるのはそれはそれなりに暴力的、すなわち、権力的だということは確認しておきましょう。

幼児的全能感を特定の職業分野に限定するという暴力的行為です。

だからこそ、そういう暴力的限定が必要なのだというが、私の考えるところでは、職業教育訓練重視論の哲学的基軸であると、私は何の疑いもなく考えていたのですが、どうしてそれが、まったく180度反対の思想に描かれてしまうのか、そのあたりが大変興味があります。

まあ、正直言って、初等教育段階でそういう暴力的自己限定を押しつけることには私自身忸怩たるものはありますが、少なくとも後期中等教育段階になってまで、同世代者の圧倒的多数を、普通科教育という名の下に、(あるいは、いささか挑発的に云えば、高等教育段階においてすら、たとえば経済学部教育という名の下に)何にでもなれるはずだという幼児的全能感を膨らませておいて、いざそこを出たら、「お前は何にも出来ない無能者だ」という世間の現実に直面させるという残酷さについては、いささか再検討の余地があるだろうとは思っています。

もしかしたら、「職業教育及び職業訓練の必要を主張する議論」という言葉で想定している中身が、金子さんとわたくしとでは全然違うのかも知れませんね。

(追記)

そういえば、マックス・ウェーバーが、「職業」としての学問を論じた中でも、似たようなことを云ってませんでしたっけ。

(再追記)

黒川滋さんが、本エントリに対して、「職業教育に関するいろいろな思い出」というエントリで、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2010/02/213-3150.html

その意見の違いを見て、いろいろ葛藤した14~5歳のときのことの人生選択を思い出してしまった。

と、ご自分の若い頃の思い出を綴っておられます。

黒川さんは、

自分の中では、能力なんて大したものではないのではないかとずっと怯え続けていたこともあって、早く社会に役立つ能力を身につけたいと思っていたし、自宅の近所に県の肝いりで作った職業科総合高校もあったため、職業科に進学したかったのだが、やめなさい、普通科行きなさい、大学行きなさい、と言われ続けて断念し、結局、自棄気味に選んだ普通科高校に進学した。

のだそうです。そのとき、

その時の周囲のおとなたちの言い分は金子良事さんの論旨とほとんど同じ。労働者天国をめざすマルクス経済学の影響を受けた若者時代を送った親ほど、強く言われた。将来を固定するものではない、と普通科進学を強く言われた。

そうだったろうな、と、その情景が浮かびます。

(※欄)

正味のところ、濱口先生はどれくらい本気で「一般教育はいつまでも自由な選択を可能にする」説が唱えられているとお考えですか。

「誰の本気」のことを問うているのかによって、答えは全く異なってくると思います。

教育学者や教育関係者で職業教育を排撃し一般教育を主唱する人々は、たぶんこの上なく本気でそれが当該子どもの自由な選択を可能にすると思っているのだろうと思います。ただ、教育学者や教育関係者の現実感覚については、いろいろと感じるところがあることはご承知の通りです。

産業界や企業関係者が職業教育よりも一般教育を求めているとすれば、それは訓練可能性、可塑性ということに重点を置いているからでしょう。一言で言えば、その教育を受けた子どもを雇い入れる企業にとって「いつまでも自由な選択を可能にする」から望ましいという判断であって、これはこれで根拠のある現実感覚に裏打ちされたものであることはもちろんです。ただし、そこには、企業の自由な選択によって選択されなかった「何でも出来る可能性はあるけれど現実には何にもできない」子どもを誰が面倒見るかという観点はありません。もちろん、ミクロの企業にそんな観点を要求すべきでもありませんが、マクロ的には必要になる観点でもあります。

子どもに一般教育を勧める親や親戚の人々の「本音」は、おそらく金子さんが指摘するような面がかなりあるだろうと思われます。これまた、ミクロの最適化戦略という観点からすると批判すべきことではありませんが、そうやって社会的に必要とされるよりも多くの子どもがホワイトカラーになることを予定するコースに進み、いざ社会に出る段になって、そんなにたくさん要らないんだよなあ、という事態になったときに、どうするかという問題は残ります。
それをどうするかはもはやマクロ社会政策の問題であって、勧めた親や親戚の人の「本気」をどうこういってみても始まらないでしょう。わたしがミクロレベルの「本気」がどうであるかを追求することにあんまり関心がないのはそのためです。ミクロレベルの職業差別意識自体がいいとか悪いとか云ってみても仕方がないのであって、その親や親戚の差別意識のためにかえって人生行路を困難にしてしまったあまりできのよくない普通科高校生や選抜性の高くない文科系大学の学生をどうするかということの方が、政策的思考にはなじみます。

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