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りべさよ人権論の根っこ

ユニオンぼちぼち リバティ分会(大阪人権博物館学芸課・教育普及課分会)のブログに、興味深い記述がありました。

http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/blog-entry-308.html権利と聞いて何をイメージしますか?

・・・次に、今まで受けてきた人権教育、人権啓発の内容について質問します。
 被差別部落、在日コリアン、アイヌ民族、障害者、パワーハラスメント・セクシュアルハラスメント、ジェンダー、人種差別など、その特徴は個別の差別問題があげられることです。

権利に対して抱いているイメージが抽象的か具体的かについては、そのおよそ7割が抽象的だったと答えてくれます。身近かどうかについても、6~7割程度が「身近ではない」に手を挙げます。
 受けてきた人権教育・人権啓発を数多く書いてくれる人も中にはいるのですが、「働く権利」と書く人はほとんどいません。子どもでは皆無です。

この質問を考えたときに想像していた通りの結果にはなっているのですが、これが現状です。日本社会で権利がどのように受けとめられているかがよく分かりますし、状況はかなり深刻ではないかと感じています。
 人権のイメージが抽象的で自分に身近なものとは感じていないのですから、これではなかなか自分が人権をもっていると実感することはできません。まさに人権は、特別な場で特別な時間に学ぶものになってしまっています。
 最後に、「人権は誰のものですか?」と聞くと、多くの人は「全ての人のもの」と答えます。なのに、人権について繰り返し聞いたこれらの質問を考えるとき、自分に関わる質問だと感じながら考える人は多くないようです。「みんなのもの」なのに、そこに自分はいないのでしょうか。

まさにここに、世界でごく普通に認識されている人権とはかなり異なる日本における「人権」のありようが透けて見えます。

なぜこのような現状になっているのか。その問題を考えるとき、従来おこなわれてきた人権教育や啓発の問題を考えざるを得ません。
 質問に対する答えにも書いたように、人権教育や啓発でおこなわれている大半は、個別の差別問題に対する学習になっています。リバティに来館する団体が学芸員の解説で希望するテーマも、やはり多くは部落問題や在日コリアン、障害者の問題などになっています。
 もちろんこれらの問題も、被差別者の立場以外の人にこそ、自分自身が問われている問題だと考えて欲しいと思っています。しかし、リバティに来る子どもたちを見ていると、人権学習は固くて、重くて、面白くない、自分とは関係ないものだと感じていることがよく分かります。
 人権のイメージを聞かれて、「差別」と書くのも、人権学習は差別を受けて困っている人の話だと思っていることが影響しているのかもしれません。
 このような意識を変えていくためにこそ、労働に関する問題と働く権利の話を伝えていくことが必要だと思っています。

この異常に偏った「人権」認識が、例えば赤木智弘氏の「左派」認識と表裏一体であることはいうまでもありませんし、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。

で、その時に、自分はどうなるのか?

これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

そして、人権擁護法案に対するこういう反応の背後にあるのも、やはり同じ歪んだ人権認識であるように思われます、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirotakaken.html(ミニ・シンポジウム「教育制度・教育政策をめぐって(2)――教育と雇用・福祉」 )

数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか
 

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