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2012年9月 5日 (水)

欧州型社民主義者としての与謝野馨氏

本日、

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120905-OYT1T01125.htm(与謝野馨氏が政界引退へ)

与謝野馨前経済財政相(74)(衆院比例東京、無所属)が次期衆院選に立候補せず、政界を引退することが5日わかった。

後援者にあてた手紙で、がんによるのどの手術で「声を失った」ため引退を決意したとしている。

という記事を見て、改めて与謝野馨という政治家のありようが日本の政治的配置状況の世界的に見た異常さを照らし出していたのだなと、思い半ばに過ぎるものがありました。

本ブログの過去のエントリから:

9784166607174_2http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-caec.html(与謝野馨『民主党が日本経済を破壊する』文春新書)

政局でしか物事を見ることの出来ない方々は、この(おそらく文藝春秋編集部がつけたであろうタイトルだけでものごとを考えて)あれこれ論ずるのでしょうが、およそ経済社会政策の中身でもってものごとを考えようと思う人ならば、せめてこの扇情的なタイトルの本の中で、与謝野新経済財政担当大臣が本当のところ何を語ろうとしていたのか、ちゃんと見極めてから語り始めてもいいのではないでしょうか。

下のエントリで、山口二郎さんが紹介している「私との会談の中で首相は、神野直彦、宮本太郎両氏が進めている福祉国家再建の路線は共有していると強調していた。」という事実と照らし合わせて浮かび上がってくる、ある明確な経済社会政策の方向性が、そこには書かれています。政局に盲いた人々の目には映らない方向性が。

・・・もう一人挙げれば、政治学者で北海道大学教授の宮本太郎さん。これは後から聞いた話になるのだが、やはり委員で入ってもらった連合会長の高木剛さんなどは「なぜ与謝野さんは宮本さんを知っていたのか」と不思議がっていたらしい。連合が雇用や社会保障の問題に取り組む上で、大変頼りにしてきた学者さんだという。

・・・「目からウロコが落ちる」という言葉があるが、戦後日本の働く世代の安心感や社会保障は、民間企業が提供してきた終身雇用制度がその根幹を担ってきたのだ、という事実を、私は『福祉政治』を熟読して始めて認識した。

・・・そうであれば、高齢者円形に傾斜してきた社会保障制度を、働く世代の支援、雇用のあり方と結びつけて、もう一度組み立て直してみる必要がある。こうした宮本氏の議論は私が思案していた「安心社会」とぴたりと一致するように感じられた。それで、是非委員に起用しようと思い立ったのである。

まさにこういう政策の方向性において「ぴたりと一致する」からこそ、政局主義者の目には異様に映るような閣僚人事が行われたのだ、と、素直に考えることがそもそも出来ない人々が、まさに定義上「政局主義者」なんでしょうけど。

さらにその先を読んでいくと、安心社会実現会議の報告書について

報告書をよく読めば気がついていただけると思うのだが、これは明確な路線転換の書だったのである。

と述べています。

大変皮肉なことですが、同じ自民党政権の中で、ネオリベラルな構造改革路線から福祉国家をめざす路線への転換があり、それが政権交代で再び「事業仕分け」に熱狂するある意味でネオリベラル感覚全開の時代に逆戻りし、そして今ようやく再び、かつて与謝野さんが目指そうとした福祉国家再建の政策に再転換しようとしている、と、評することも出来るのかも知れません。もちろん、政治評論的には「お前が言うかお前が」のネタがてんこ盛りなのでしょうが、とりあえずそれらを全部抜きにして政策論のみでざっくり言うならば、そういうことになるのでしょう。

上に続けて、与謝野さんはこう語っています。

自民党は正式名称は言うまでもなく「自由民主党」という立派な名前だが、税制と社会保障制度に限っては、戦後長く、実はきわめて欧州型社民主義に近い路線を歩んできたと私は認識している。福祉社会を創ろうと最初に提唱したのはかつての民社党だが、国民政党を名乗り、融通無碍が特質の一つである自民党がそういうものを吸収しながら政権を維持してきた。

会議立ち上げの旗を振り、社会保障、雇用から日本の社会のあり方についてまで踏み込んで議論を進めた担当大臣として私の責任は重いと自覚している。党派を超えて具体化を進めよという有識者の皆さんのご提言である。今後どのような立場に置かれようとも、政治の場でこの報告書に超党派で息吹を吹き込んでいかなければならないと心に誓っている。

この高邁な志と、政局主義者たちの卑小な論評の対比が、現在の日本の政治状況を、何よりも見事に物語っていると言えるのでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-dce0.html(与謝野節全開)

ということで、与謝野節全開インタビューの中からもさらに「全開」の部分を、いくつか引用。

・・・自民党政権で社会保障改革や財政再建にリーダーシップを発揮されてきた先生が、なぜ民主党政権で大臣をお引き受けになったのですか。

・・・第三は、平成2‐年6月に安心社会実現会議(座長=成田豊氏)がまとめた報告書です。これは極めて重要な報告書で、戦後の長い間続いた自民党政治の社会保障に関する政策は、アメリカ型ではなくてヨーロッパ型だと再認識をしました。

つまり、竹中平蔵氏たちが主張していた新自由主義経済を全面的に否定したわけです。自己責任を非常に強調するのが新自由主義ですが、世の中には自分の責任でなく苦しい立場になっている方がいます。自民党の政策を社民主義的な思想にはっきりと切り換える契機となった報告書といえます。

>第四は、自民党が政権を失い、民主党政権になった平成22年12月、民主党の税と社会保障の抜本改革調査会(会長=藤井裕久氏)がまとめた報告書です。安心社会実現会議の報告書と同一の内容であり、自民党と民主党の考え方が理論面では平仄が揃ったことになります。

300739bなお、宮本太郎さん編のこの本に与謝野馨氏とともに載っていることも、秘かな喜びの一つです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/99-ff15.html(宮本太郎編『弱者99%社会 日本復興のための生活保障』幻冬舎新書)

これは、わたくしも参加した昨年末のBSフジの番組「提言“安心社会·日本への道”」を一冊の本にしたものです。宮本太郎さんが、毎回二人の有識者との鼎談で、社会保障のあるべき姿を論じ合っています、

・・・ちなみに、我が家ではBSは見られないので、その他の回の放送は見ていなかったのですが、改めて読んでみると、やはり、藤井裕久、与謝野馨両政治家との鼎談が迫力がありますね。無責任なデマゴーグ型政治家と責任感ある真の政治家との違いがよく分かります。

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コメント

その欧州型社民主義者が、激烈なインフレファイター(デフレ肯定論者)かつ財政再建論者というのが、これまたなんとも日本的というか・・・

昔hamachan先生が言われていたように

>ヨーロッパで普通に「レフト」というと、こんなに失業があるのに欧州中銀はなぜ利率を引き上げるんだと文句をつける側です。

のはずなんですが。与謝野氏はご高齢なので、戦後のインフレあたりでトラウマになるようなご経験があったのでしょうかね。私の父親も、祖母が積み立てていた当時の学資保険がインフレでパーになった経験があって、アンチインフレに関してだけは本当に理屈が通じないので・・・

欧州型福祉社会

与謝野氏は「戦後の長い間続いた自民党政治の社会保障に関する政策は、アメリカ型ではなくてヨーロッパ型であった」と発言し、さらに「欧州型社民主義に近い路線」としている。

しかし、与謝野氏の発言は、自由主義的に対する社会民主主義的との対比において、「自民党政治の社会保障政策が社会民主主義的」としたのではないかと想像する。

平成24年厚生労働白書は、福祉レジームを自由主義、社会民主主義、保守主義の3つに類型化している。一般に福祉政策は“自由主義型”対“社会民主主義型”という2項対立で図式化されがちであるが、ヨーロッパ型は“社会民主主義型”と“保守主義型”の2つに分岐する。

その辺の事情を与謝野氏がどこまで理解されていたのか疑問である。

実際、厚生労働白書は、日本の福祉システムについて次のように述べている。

>日本の現状の福祉システムは、自由主義レジームと保守主義レジーム双方の主要要素を均等に組み合わせている・・・

自民党政治の社会保障政策は、“保守主義型”に近いものであったとしても、“社会民主主義型”であったとはいえない。そして、これからの福祉システムを考えていく上で、“社会民主主義型”と“保守主義型”という2つの分岐を峻別しなければならない。

欧州の福祉システムは、概ね北欧諸国では“社会民主主義型”、南欧および中欧では“保守主義型”といえる。それぞれの国で、穏健左派政党および穏健右派政党が政権交代することがあっても、ベースにある福祉システムが変わらない。フランスの福祉システムは“保守主義型”がベースにあり、フランスの大統領が民主連合のサルコジから社会党のオランドに代わったからといって、“自由主義風味”から“社会民主主義風味”に代わるくらいだろう。

北欧型を代表するスウェーデンおよび大陸型を代表するフランスは共に福祉大国である。2009年におけるスウェーデン、フランス、日本の国民負担率(国民所得比)を財務省のデータより比較する。

国民負担率(租税負担率; 社会保障負担率、国民所得比)
スウェーデン・・・・62.5%(50.2%; 12.4% )
フランス・・・・・・・・60.1%(34.9%; 25.2% )
日本・・・・・・・・・・・・38.3%(22.0%; 16.2%)

国民負担率(租税負担率; 社会保障負担率、GDP比)
スウェーデン・・・・44.1%(35.4%;8.7%)
フランス・・・・・・・・44.2%(25.7%;18.5%)
日本・・・・・・・・・・・・27.7%(15.9%;11.7%)

スウェーデンとフランスの国民負担率は共に大きく両国とも福祉大国である。“社会民主主義型”のスウェーデンと“保守主義型”のフランスの福祉政策の違いはどこにあるのか? 以下にその違いを列挙する。

 “社会民主主義型”では国家が主役とし普遍主義的な福祉サービスを提供するのに対して、“保守主義型”では選別主義的な色合いを持つ。

 “社会民主主義型”では「結果の平等」を重視するのに対して、“保守主義型”では「機会の平等」(法の前の平等)を重視する。

 “社会民主主義型”では、国家が中心的な役割を担い、国家の介入によって社会的な公正を実現しようとする。これに対して、“保守主義型”では個人と国家の間にあって福祉を担う家族や中間団体の役割を重視する。国家は補完性の原理に基づいて彼らが担えない部分を補完する。

日本の場合、個人と国家の間にあって企業が福祉を担う。また、医師健康組合、商工健康組合等、中間団体が福祉を担っているという点で、日本の福祉は“保守主義型”の特徴を持つ。

平等と格差に関してリベラル・コミュニタリアン論争が有名である。「正義と公正」を掲げるロールズと「共通善」を掲げるサンデルの議論である。2人は共に米国の政治学者であり、功利主義的な自由主義が主流である米国において、平等と格差という問題について論じあっている。リベラル(注1)のローズは欧州の“社会民主主義型”に親和的であり、コミュニタリアンのサンデルは欧州の“保守主義型”に親和的である。

厚生労働白書は、ロールズの『正義』について次のように言及している。

>格差是正原理は、・・・格差の存在が最も恵まれない人の状況の改善に最大限資する場合にだけ正当化される。

>基本的な自由や権利の平等な保障だけではなく、所得や富の公平な分配を要求すべきであるということも重視している。

>格差の存在を認めつつも、社会の中で恵まれた状況にある人々の利益の増加は、恵まれない人々の犠牲の下に得られるものであってはならず、格差の少ない社会こそが、「自由で平等とみなされる市民の間で社会的協働を行う公正なシステム」であるとした。

これに対して、サンデルは、「『正義』はそれだけが独立して存在するものではなく、それぞれの多様な価値観を根底にすることでしか論じ得ない」と説く。また、「諸個人がコミュニティ(共同体)に属することによって、初めてアイデンティティを持ち、それぞれのコミュニティが追求する『共通善』を実践する」と論じる。そして、「多様な『共通善』の中から普遍的な『正義』を取り出し、これを行うことはできない」とロールズを批判する。

サンデルは、コミュニタリアンだといわれる。コミュニタリアンとは、“共同体主義“(コミュニタリアニズム)を信奉する人達のことであるが、菊池理夫氏は、現代コミュニタリアニズムについて次のように語っている。
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/genndaikikucchi1.pdf

>原子論的なリベラリズム(筆者注;ロールズに代表されるような)を批判し、共同存在としての人間による政治社会の構成を考える、という立場です。・・・現代コミュニタリアニズムというのは、共通善を追及する自治的・民主的コミュニティというものを重視する政治的な立場を主張しているわけです。

>コミュニティの価値ですが、例えば参加性、参加、連帯、相互扶助、友愛、こういったものがコミュニティの価値です。

>「共通善の政治学」はアリストテレス哲学から由来するわけです。・・・基本的に共通の言語をもち、善悪、正・不正を区別し、そのような知識を人々が共有しているという考え方です。

リベラル・コミュニタリアン論争において、ロールズの『正義』とサンデルの『共通善』はどこが違うのか?何故、国家(広い意味での共同体)ではなく共同体なのか?、共同体の単位は?、共同体がなぜ福祉の中心的な担い手になるのか?、・・・といった疑問が呈される。

以下、筆者の理解による。

サンデルは『共通善』を2重の意味で使っている。理念としての『共通善』と実践としての『共通善』である。サンデルは理念としての『共通善』が、多種多様な共同体で共有され、これがそれぞれの共同体で実施されるとき、多種多様な『共通善』になると。

一方、ロールズのいう『正義』は、理念としての『共通善』を、実践としての『共通善』を普遍的な『正義』として制度化するということではないのか。普遍的な『正義』は法としての正義である。アマルティア・センは制度ありきの伝統的正義論を『先験的制度尊重主義』と批判する。サンデルは実践としての多様な『共通善』の中から普遍的な『正義』を取り出し、これを行うことはできないとロールズを批判する。

筆者は、以前hamachanブログの“『DIO』270号”において、「欧州のキリスト教民主主義は、キリスト教を理念として共有する社会である」とコメントした。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/dio-7810.html

キリスト教に基づく博愛の精神が、理念としての『共通善』の一例だろう。しかし、キリスト教民主主義は、実践の『共通善』としてキリスト教を要請するものではない。その意味で政治は宗教に対して中立であり、世俗主義という立場を取る。

筆者は、「バラバラの個人が理念を共有することで社会として構成され、そこに自己相似型の社会構造が形成される」ということを述べた。このような社会では、社会のあらゆる切り口、家族、職場、NGO、地域、国家などの共同体で理念としての『共通善』が共有される。ここで、理念としての『共通善』は共同体で実践されるとき多様な『共通善』となる。

それぞれの共同体は多種多様な価値観や利害を持つ。実際に共同体を構成する個々人の相互作用は、『共通善』というような崇高な理念だけではない。それぞれの共同体の間には権益を確保しようというエゴイズムな相互作用も働く。社会の成員の間に相互作用としての引力と斥力が働いて、自己相似な構造が形成される。ここに、共同体が多様性を持ちつつも、理念としての『共通善』を共有する社会が構成される。

国民は、理念としての『共通善』を共有しつつも、それぞれのコミュニティにおいて、実践としての多様な『共通善』を追求する自由を持つべきである。これが基本である。

しかし、コミュニティが実践する『共通善』に任せたままでは、社会的な連帯がどこまで実践されるのかの保障されない。レオン・ブルジョワは、「人間は社会の中で生き、社会なしでは生きられないのだから、いつも社会に対する債務者なのである。ここにかれの義務の根拠があり、かれの自由の責任がある。」と述べ、『共通善』を実践すべき自然的連帯から社会的連帯(義務としての連帯)への移行を唱えた。

厚生労働白書は、レオン・ブルジョワの考え方について次のように述べている。

>そして、生に向けてあらゆる要素が協調し、相互に依存し、結合しているという「自然的事実としての連帯」が生命にとって必要不可欠な法則である(そうしなければ死滅する)ことを繰り返し確認する。その上で、社会に生きる人間に固有の目的である正義を実現するためには、自然の連帯法則に任せたままではならないと主張した。

廣田明氏は、“社会的連帯と自由”においてレオン・ブルジョワの提唱した「義務としての連帯」について触れると共に、国家の役割と限界について次のように触れている。
http://seikeisi.ssoj.info/sm08_hrota.pdf

>かれは、その起源を相互的なサービス交換のなかにみいだすところの、「準社会契約」(遡及的に同意される契約)の当事者なのである。実定法と国家は、アソシエ間の利益と負担の公平な配分を監督することによって、これらの契約関係を法的に具体化するにすぎないのである。こうして、「法的介入」という形で国家介入への道が開かれると同時に、国家介入の限界も明確にされるのである。

フランス共和国憲法の、3色旗の理念でもある「自由」、「平等」、「友愛」(fratarnite、「連帯」とも翻訳される)について、フランスでは次のように教えている。以下、大津尚志、“フランスの中学における憲法教育”による。
http://wwwlib.cgu.ac.jp/cguwww/06/26/026-07.pdf

>フランス市民には、「法を遵守する」「納税する」「社会保障費を支払う」などの義務があると同時に、「自由」「法の下の平等」「保護される」などの権利がある。

ここで、興味深いのは義務が権利に先立って記載されている点である。社会的「連帯」については次のように教えている。

>「連帯」では日常生活における連帯、フランスにおける連帯(国による社会保障など)、国際社会における連帯について学習する。1946年憲法前文「国家は個人、家族にその発展にとって必要な条件を保障する。国家はすべての人々、とりわけ子供、母、老齢の労働者に健康の維持、物質的保証、有職と余暇を保障する。年齢、身体、精神的状態、経済的状況を理由として労働できないすべての人々は生存にとって必要な手段を公共団体から得る権利を有する。」が社会保障を教える文脈で登場する。

ここで、フランス共和国憲法は生存権について広範囲で具体的に記述している。フランス共和国憲法が言及する社会保障は「選別主義的」であり、「普遍主義的」ではない。また「平等」については次のように教えている。

>1958年憲法第1条「フランスは不可分、非宗教的、民主的、社会的な共和国である。出身、人種、宗教に差別することなくすべての市民に法の前の平等を保障する。」・・・ここでいう「すべての市民に法の前の平等」は、「形式的平等」と基本的に理解され、民族的マイノリティを特別に優遇することは意味しない。

ここで、フランス共和国憲法が言及する平等は「形式的平等」(法の前の平等)であり、「結果の平等」ではない。

フランスの社会保障制度は、労使が拠出した保険料に公費負担(一般税+目的税)を加えて財源とし、給付を行う賦課方式の社会保険制度が基本である。この点で、租税比率が高く社会保険料比率が低い北欧型の社会保障とは異なる。また、給付において、北欧型は普遍的であるのに対して、フランスの年金は所得維持的である。

厚生労働白書は、フランスに代表される保守主義レジームについて次のように述べている。

>保守主義レジーム諸国では、国家主義の考え方や、カトリック教会が社会サービスを主導的に担ってきた長い伝統の影響から「参加支援指標」は高いが、男女の性別役割分業などの伝統的な家族主義やギルドに代表される封建的な職域を重視している。その影響から、社会保障制度は職域ごとの社会保険制度を中心に発展しており、職業的地位による格差が維持されているという意味で「平等化指標」は低い。

筆者は、男女の性別による役割分担、伝統的な家族主義、様々な職域団体の存在は望ましいとも考える。

男女の性別による差異を無視して、極端なフェミニズムを主張するとき、それは男女の同質化につながる。武田龍夫著“福祉国家の闘い”(中公新書)においてスウェーデンモデルについて「男女完全平等と女性の社会進出、は何をもたらしたか、・・・じつは最も大切なものとは家族と、その中にある心のあり方、愛情や情緒や優しさ、思いやり、等々である」と述べている。個人の満足度を効用という尺度で論じる厚生経済学的な範疇で、男女の平等を論じるとき、最も大切なものが失われる恐れがある。実際、武田龍夫氏はスウェーデンにおける家族的価値観の喪失を描いている。

カール・ポランニーが市場経済が社会から突出していることを批判して、非市場社会の中に経済が埋め込まれていると主張したように、非市場社会における男女の役割の差異を尊重しなければならない。男女の経済的な平等は主張されるべきであるが、経済的な尺度だけが偏重されて社会制度をなすとき、男女の差異は捨象されがちである。

厚生労働白書は「伝統的な家族主義やギルドに代表される封建的な職域を重視している」と述べているが、伝統的な家族主義を積極的に評価してもよいではないか。非市場社会的な家族主義の価値観こそ大切にするべきである。女性が働くようになり、経済的な自律を果たすことは好ましいことであるが、その結果として離婚が増え、あるいは非婚が増え、家族の絆が薄くなっていることも事実である。非市場社会的な家族の価値観こそ明示的に認識され、それが社会制度の中に織り込まれなければならない。効率を重視する市場経済の中では、伝統的な家族主義は捨象されがちである。

「ギルドに代表される封建的な職域の重視」と述べているが、“封建的な”という部分はどうかと思うが、社会保障における職域の重視は積極的に評価してもよいではないか。すべての学生が一般大学を目指し、同じような(普遍的な)教育を受け、“就職”ではなく“就社”するという実態こそ憂慮すべきである。各人が資質に応じて職を選び、技を磨き、誇りを持つ、・・・このような価値観こそ社会は共有し、職業学校はそのような機会を提供しなければならない。「普遍性」の中に精神の自由はなく、「社会の多様性」の中に自由な精神がある。そして、自由な精神が創造性の源泉となり、文化を育む。普遍性と効率を重視するグローバルな市場経済の中では、「ローカリティ」は失われ、「社会の多様性」は捨象されがちである。

社会保障制度という観点から、国家と個人の間にあって社会保障を担う中間団体として、ギルドに代表される職域組合があってもよいではないか。このような職域組合は、サンデルが云うところの『共通善』を追求する共同体である。

“社会民主主義型”では、国家が中心的な役割を担って、ロールズが云うところの『正義』を普遍的な社会保障制度として実践しようとする。ロールズは社会的基本財(権利、自由、機会、所得、富)を公正に分配する正義を論じた。しかし、ロールズの云う社会的基本財が多岐にわたる個人の福祉に関わるあらゆる諸要素(健康、社会生活への参加、幸福、等)を考慮しているわけではないし、又これらの諸要素が複雑に関連しあう個人の多様性を考慮しているわけでもない。

OECDのデータより、スウェーデン、フランス、日本の再分配前と再分配後の所得格差を調べる。ジニ係数は所得分配の格差を調べる指標で、0~1の範囲にあり、その値が大きい程格差が大きい。

ジニ係数(再分配前、再分配後;2000年代後半)
スウェーデン・・・・0.426、0.259
フランス・・・・・・・・0.483、0.293
日本・・・・・・・・・・・・0.462、0.329

相対貧困率は、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った値)が、全国の分布の中央値の半分に満たない国民の割合を示す。

相対貧困率(再分配前、再分配後;2000年代後半)
スウェーデン・・・・26.5%、8.4%
フランス・・・・・・・・32.6%、7.2%
日本・・・・・・・・・・・・28.7%、15.7%

上記のデータによると、再分配前(課税前、社会保障給付前)の所得格差はジニ係数においても、貧困者の割合においてもフランスの格差が最も大きい。それに対して、スウェーデンの格差は最も小さい。

しかし、再分配(社会保障給付)によってフランスにおける格差は、ほとんどスウェーデンと肩を並べるくらいにまで縮小する。日本の再分配前の格差はフランスより少ないが、再分配後の格差が大きい。日本では社会保障給付による格差是正の割合が小さいという点で米国の“自由主義型”の福祉レジームに近い。

再分配前の格差は大きいが社会保障で格差が是正されるのがフランス、再分配前においても、再分配後も格差が小さいスウェーデンという違いがある。再分配後の所得分布が、フランスでは下層部のポピュレーションが膨らんでいる洋ナシ型であるのに対して、スウェーデンでは正規分布型に近いといわれる。ここに、“社会民主主義型”のスウェーデンと“保守主義型”のフランスにおける、格差と平等に対する違いがある。

フランスの社会保障に対する考え方は、社会の自生的な秩序を認めながら、その結果としての格差を容認しつつも、国が義務としての連帯を通して広範囲な生活権を保障するというものである。ここで、国家と個人の間にあって中間団体が社会保障の重要な役割を担う。これに対して、スウェーデンの社会保障では、国家が中心的な役割を担い、普遍的な再分配を行う。

筆者は、スウェーデンとフランスの社会保障制度の比較において、格差と平等の問題について次のように考える。

 社会の自生的な秩序の中に社会活性化の源泉がある。富が富を生むという収穫逓増(ポジティブ・フィードバック)の原理こそ、社会的なイノベーションの源泉である。産業革命、IT革命、流通革命は収穫逓増の事例である。一方。富を平等に分配する社会では、分配された富が増大したとしても限界効用逓減の法則が支配する。増大した富から得られる効用(富の限界効用)は減少する。

 社会の自生的な秩序だけに任せるとき、当然ながら貧者が発生する。フランス憲法は、広範囲な生活権を国が保障すると謳っている。実際、最低賃金の水準、家族手当の充実、教育費の公的負担等、我が国と比べるとずっと広範囲な生活権が保障されている。社会保障の費用は、国民の義務的な連帯が負う。

 国家主義的な社会保障政策は、社会の自律的な発展を妨げる恐れがある。国と個人という2極的な社会保障の構造において、個人が家族に属する、あるいは共同体に属して助け合うという意識が希薄になる。個人が共同体に属するという経済的な理由がなくなるからである。個人が家族や共同体から経済的に独立するということは、やがて生活空間で共生するという意識も希薄になることにも繋がる。社会の絆が失われ、個人の原子化が進む。

 厚生経済学は、古典派経済学の延長線上にあって、個人の満足度を効用という尺度で測る。そして、個人の効用の総和を社会全体で最大化することを目的として、所得の再分配を考える。しかし、カール・ポランニーが主張するように、非市場社会の中に市場社会を超越した伝統的な社会の価値観がある。格差と平等の問題についても、厚生経済学的なアプローチだけでは不十分である。

 ロールズが主張するような“正義と公正”よりも、アマルティア・センが主張するように「むしろ注目されるべきは世界中に実在するさまざまな不正義」である。

中島隆信氏はアマルティア・セン著の“正義のアイデア”の書評において次のように述べている。

>むしろ注目されるべきは世界中に実在するさまざまな不正義だとセンは言う。飢餓、疫病、差別など優先順位の高い課題に対し、解決のためのアイデアを出すことが正義の実践という主張である。

>センの提示する正義の構成要素のひとつが「ケイパビリティ」の考え方だ。たとえば、栄養失調状態で育った子どもは、社会生活に要する基礎的体力に欠け、病気への抵抗力も弱い。そのため成人したのち生活援助や就労支援を享受する能力、すなわちケイパビリティが不足している。さらにこうした人たちの多くは少ない選択肢のなかでそれなりに満足を感じてしまうため、効用だけで正義を評価するには限界がある。

(注1)“米国のリベラル”と“欧州のリベラル”が含意するところは違う。


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