ストライキ権は労働者にあるのだよ、もちろん
ふと気がつくと、山形浩生氏に妙な因縁をつけられていたようなのですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-a148.html(労働組合は政治の婢ではない)
私はこの矢部氏の本は見ていないので、彼がどういう文脈でそういっているのかは分かりませんが、もし原発作業員がその劣悪な労働条件の改善を求めてストライキをする権利があるという趣旨でいっているならば、それはまったく当然のことでしょう。国民の命のためにお前らは奴隷として犠牲になれという権利は誰にもありません。
しかしながら、上の引用とそのあとの山形氏の記述からすると、矢部氏は原発作業員の労働条件を心配してそう述べているというよりも、反原発イデオロギーのための手段としてそういっているようにも思われ、そうだとするとそれは労働者を自分のイデオロギーのための手段として恥じない発想ということになります。
なんにせよ、矢部氏にせよ、山形氏にせよ、「労働組合が職場における労働力商品の取引の売り手側の当事者であるということ」がすっぽりと欠落していることだけは間違いないわけで、これまたなんとも哀しき状況というところでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120706/1341555164(『放射能を食えというならそんな社会はいらない』:おまえがいらない。)
あともう一つ、hamaブログがここでの記述に言及。
私はこの矢部氏の本は見ていないので、彼がどういう文脈でそういっているのかは分かりませんが
ほほう、見てない、わからない、と。するとあとは憶測ですな。そしてその憶測をもとに
「労働組合が職場における労働力商品の取引の売り手側の当事者であるということ」がすっぽりと欠落していることだけは間違いない
とのこと。見てないのに間違いないかどうかわかるんですか。さらになんでここで労働組合が出てくるんです? ストといえば労働組合しかできないと思い込んでいる時点で、ここでの話の文脈からすればピント外れ。労働者は労働組合の手駒ではないんですよ。
ものごとの本質をわざと外して斜め横からいちびる山形流の技巧がよく出ていて感心します。
いうまでもなく、リンク先の私の文章をわざわざ読みに行く人の目には、重要なのは
もし原発作業員がその劣悪な労働条件の改善を求めてストライキをする権利があるという趣旨でいっているならば、それはまったく当然
ということであって、矢部氏はそんなことよりも反原発イデオロギーが大事らしいんだな、と言ってることはわかるわけですが、わざわざそういうめんどくさいことをしない人には、このhamachanて奴、なんだかおかしなことを喚いているらしいという印象だけを残すことができるわけです。見事な高等戦術。
いうまでもなく、ストライキ権は個々の労働者にあります。だから、
もし原発作業員がその劣悪な労働条件の改善を求めてストライキをする権利があるという趣旨でいっているならば、それはまったく当然
と言っている。
とはいえ、1人の原発作業員が「たった1人の反乱」をしたところで、そんなのただの欠勤にしかならないわけで、だから労働組合ってものができてきた・・・
<ああ、こんなこと教科書嫁!!!って、どれくらい叫びたいか。それをぐっとこらえて>
・・・わけなんですね。
そういう労働条件の改善を求める労働者の(集団的)行動としてのストライキこそが重要なんだよ、という肝心のメッセージを隠したまま、
労働者は労働組合の手駒ではないんですよ。
という、思わせぶりなひと言で悪印象を付着させる手際は流石に見事です。
もちろん、労働者は労働組合(であれなんであれ、労働条件とは関係のない政治行動に動員されるため)の手駒なんかではありません。
それこそが私の上記エントリで言いたかったことなんですけどね。
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