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« 第85回日本産業衛生学会 | トップページ | 黒田兼一+山崎憲『フレキシブル人事の失敗』 »

2012年6月 2日 (土)

頭の整理のために

そろそろ騒ぎも一段落かと思いきや、当の政治家の近辺に延焼しかかっているようですが、そういう次元はさておき、ここでは頭の整理のために、もう少し原理的なレベルでものごとの筋道を考えておきましょう。

まず、財の一方的移転を受ける人が労働可能な人であるかそうでないかというのが大きな分かれ目でしょう。日本ではごく最近になるまで健常な就労可能年齢の生保受給者が極めて少なかったのですが、近年それが激増していることがワークフェア的な制度の見直しを要請しているのであり、それはここ十数年来の欧米の動向とも対応するものでもあります。ややもすると坊主憎けりゃ的に取り上げられる大阪市の生保対策も、そういう大きな流れの中ではそれほど踏み外しているわけではなく、そもそも知っている人は知っているとおり、平松前市長の時代から進められてきているものでもあります。

働ける人にはできるだけ働いてもらう・・・というのは、裏返すと、働けない人には働いてもらうわけにはいかないよね、という至極当然の理路になります。ということは、その働けない人以外の誰か、あるいは誰かたちがその人の生活を支えなければなりません。

これは、多くの人々が勘違いをしているところですが、生活保護だけの話ではありません。公的年金もまったく同じ理路から、働ける誰たちが働けない誰たちの生活を支えるか、という問題意識の上に構築されているものです。公的な財の一方的移転という意味では、実のところ何の違いもありません。

ここのところを、あたかも自分が若い頃に貯めた貯金を老後に引き出しているだけだという風な、間違った考え方、事実に反するイデオロギーが、政治家も含めて異常に瀰漫してしまっていることが、日本における公的年金に関する議論をどうしようもなく劣悪なものに貶めてきてしまっているということは、本ブログでも何回も指摘してきたことなので、今更詳しくは書きませんが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html(年金世代の大いなる勘違い)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a96e.html(積み立て方式って、一体何が積み立てられると思っているんだろうか?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-545a.html(年金証書は積み立てられても財やサービスは積み立てられない)

ここでは、「年金」という名目で受け取ろうが、「生活保護」という名目で受け取ろうが、労働不可能者への財の一方的移転の経済的本質には何の違いもないという点だけ確認すればいいことです。もちろん、法制的な意味での権利性には違いがあります。

比喩を使えば、輸血しなければならない人に対してどういう名目で血を入れるのか、昔は血液手帳というのがあって、献血したことが記録されるようになっていたわけですが、献血したことのある人だから、その献血量に応じて輸血を受ける権利がある。それ以外の人は権利じゃなくて恩恵としてあげるだけだと言っているようなもので、そういう建前で制度を作ればそういうことになりますが、とはいえ目の前に輸血が必要な人がいれば、輸血しないわけにはいかないでしょう、医学的には。

いうまでもなく、昔自分が献血した血は、その時の誰かに輸血されてしまっているのであって、どこかの血液銀行に冷凍保存されているわけではありませんから、輸血される血は全て他人が最近献血した血です。

積み立て方式などと脳内で言ったって、血は積み立てられませんからね。

で、ここに補足性の原理というのが出てくると話がややこしくなります。本来これは、自分で働いて稼げるならそうしろ、売れる財産があるならまずそれを売れ、というそれなりに当然の話なのですが、そこに親族による扶助もはいってくると、先の血液の比喩に持ち込むとこういう理屈になります。

かつて献血している人は権利があるので、堂々と輸血してくれと言えるけれども、そうじゃない人はまずは親族に血を出せと言わないといけない。逆に言うと、一族に献血していない人がいる場合は、いつそいつが輸血必要になった時に「まずは親族のお前が血を出せ」と言われるか分からない。

血の比喩で語ると、なんだかあまり美しくない、おぞましくさえ聞こえる話になるのですが、経済的にはまったく同じ話をお金の話にすると、誰もあんまり異様には思わなくなるようです。

まあ、血と違って、お金は平等ではなく社会的に大変不均等に配分されているので、「こんなにお金を一杯持っているんだから、お金の輸血が必要な親族に出すべきだ」という理路がわりと素直に通るのかも知れません。ただ、よく考えていくと、この論理は一体何を言っているのか不分明なところがあります。

「こんなにお金を一杯持っているんだから」というのがたくさんお金を供出する理屈であるというのは、そもそも累進課税をはじめとするマクロ的再分配政策の原理なのでしょう。それはそれとしてまことに筋の通った議論ではあります。ところが、それを親族にお金の輸血が必要なときにのみ限ると、たまたま親族に生保を受けてる人がいるお金持ちはそれを当該親族に供出しなければならないけれども、たまたまそういう人がいないひとはそういうめんどくさいことをしなくてもいいということになります。ついでに言えば、たまたま姻族にそういう人がいる場合には、めんどくさいことにならないようにさっさと離婚してまうとお金を堕さなくてもよくなるというのもあるかも知れません。

何にせよ、こういう「親族だから養え」論というのは、近代化の遅れたアジア諸国等でよく見られる現象で、一族の誰かが成功すると、どこからともなく一族と称する連中がうようよ湧いてきて山のように徒食するという事態が観察されるわけですが、今日の日本の有力なマスコミや政治家の皆さんは、日本をそういう社会にしたいとでもいうような異様な迫力を感じさせるものもありますね。

社会が近代化するということは、そういう発想を払拭して、お金をたくさん稼ぐ人はたくさん稼いで、それをたくさん納税して、それが(親族であろうがなかろうが)働けない人々の生活維持のための原資に使われるという社会のあり方に移行するということにはずであったのですけど・・・。

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コメント

日本民族の資質:下働きとしては優秀、政治指導者としては愚鈍
下の者は、現世に埋没している。「世の中は、、、、」の発想法に甘んじている。
あきらめと努力が必要である。不自由を常と思えば不足なしか。
上の者には、哲学がない。あるべき姿の内容を脳裏に蓄えることができないでいる。
我々の遠い未来に行き着く場所を示していない。だから、現実を批判することもできない。
「そんなこと言っても駄目だぞ。現実はそうなってはいない」と言い返されて終わりになる。やはり、現世埋没型である。
現在構文ばかりの言語で、非現実を語れば、それはこの世のウソである。
「現実を無視してはいけない」「現実を否定することはできない」などという精神的な圧迫がかかっている。
上の者には、自己の現実対応策 (成案) に説得力を持たせる意思が必要である。
自己の意思を示せば当事者になる。示さなければ傍観者にとどまる。
だが、意思は未来時制の内容で、日本語には時制はない。
我が国は、世界にあって世界に属さず。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

今回の騒ぎは、高額所得者の脱税節税に厳しい人たちが「節税テクニック」という理解の仕方をしないのが不思議でした。金持ち増税しても金持ちに事実上還付してしまったら無意味なんですけどね。切込隊長のエントリーも読むとマル暴並みの状況。

>血の比喩で語ると、なんだかあまり美しくない、おぞましくさえ聞こえる話になるのですが、経済的にはまったく同じ話をお金の話にすると、誰もあんまり異様には思わなくなるようです。

親が輸血が必要なのに、病気でもない子が血液提供を拒否するという比喩のほうが妥当では?というかこれはhamachan先生が繰り返し触れている冷たい福祉国家の文脈ならよく分かる話では?財テクまがいだろうと問題ない、もらえる物はもろとけ、「熱い」原点を抜きにしたそういう「小役人が眠たい目をこすりながら書類をいじるような」形で運用される制度なぞ糞くらえという。パチンコタバコ批判も、池田信夫氏が嫌う善導のパターナリズムの一種と言えなくもない。


>当の政治家の近辺に延焼しかかっているようですが
>こういう「親族だから養え」論というのは

ネット上では親はともかく、兄弟まして義理の姉を養うべきという意見を声高に主張する人は多くない気がします。擁護派が義理の姉を持ち出して件の政治家を攻撃しようと仕掛けただけで。

>chil さん
>擁護派が義理の姉を持ち出して件の政治家を攻撃しようと仕掛けただけで。

舛添氏は生活保護を受けている自分の姉への仕送りを拒否したわけですが、片山氏が夫のそうした行為を窘められなかったのであれば、そもそも赤の他人の親子関係に口を出す筋合いなど無いのでは?と普通は思うでしょうね。

一般論として「義理の姉の面倒まで見る必要はない」のは確かにそうでしょうが、片山氏の人間性は、やはり攻撃されても致し方ないと思いますよ。

>そこじゃないさん

ろくなソースがないのですが、片山氏と舛添氏の離婚後に受給だそうですが違うのでしょうか?また実質的な婚姻期間は3ヶ月程度のようですが、その間に役所から問い合わせがきたのでしょうか?ウィキペディアの編集履歴を見ても騒動後に書き換えられたわけではないと思うのですが。

片山さつきの義姉も生活保護を受給 「もはや他人だろ」「まずは舛添要一を叩けよ」の声
http://getnews.jp/archives/223370
たしかに過去は片山さつき議員からしても義姉だったかもしれないが、1989年に離婚し受給を始めたのはその後(1992年頃)となり

舛添要一
http://ja.wikipedia.org/wiki/舛添要一
2度目の妻は官僚時代の片山さつき(当時朝長さつき)であり、衆議院議員だった近藤鉄雄の紹介でお見合いしたのが馴れ初めで1986年に結婚。しかし実質的な結婚生活は長続きせず、3ヶ月後には片山が弁護士に相談する事態に陥ったといい、調停を経て89年に離婚した

舛添要一 「生活保護の姉 北九州市の扶養要請を断わった非情」
http://matome.naver.jp/odai/2133792023049106701
平成四年(1992年)、北九州市の担当職員が「可能な範囲で1万でも2万でもいいから仕送りしてくれ」と頼みに舛添氏の家を訪ねたが追い返された(元市職員談)。

>chil さん
片山氏の論理を敷衍するなら、舛添氏の姉が生活保護を申請せざるを得なくなる前に、舛添氏は姉に援助すべきだったわけです。ましてデビュー当時は貧乏だった河本氏のケースとは違い、舛添氏には継続的に十分な金銭収入があったはずなのに、援助を行っていなかった。つまり倫理的な責任は舛添氏の方がより重い。

「元夫とはいえ婚姻期間は短いから他人も同然」と仰りたいのでしょうが、それでも片山氏が先に指弾すべきは舛添氏の方であり、一芸人ではなかったはずです。

>そこじゃないさん
>「元夫とはいえ婚姻期間は短いから他人も同然」と仰りたいのでしょうが

違います。私には時系列を把握しないまま批判しているように見受けられましたので、「片山氏が夫のそうした行為を窘められなかった」と仰っているのだから、婚姻期間中の出来事だったのかという点の確認です。

時系列を把握しても同じことです。
要は「きちんと調査してないでしょう」ということです。
不正受給の様々な事実にあたった上で発言していないことに問題があるのです。
http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-19.html

ヨーロッパでは「不正受給」ってどうなっているのかとちょっと検索してみました。
イギリスの雇用年金省が発表している社会的給付の年報がありました。

http://research.dwp.gov.uk/asd/asd2/fem/fem_apr10_mar11.pdf

これでみると、過払いだけでなく、未払い分も含めて年度の執行状況がまとめられていますから、単に不正需給を監視するのではなくて、過不足ない適正な執行を目標とした情報公開だと思えます。もっとも同省のサイトには「給付泥棒は許さないぞ」キャンペーンのページもありました。

そもそもヨーロッパは社会給付の受給者がとても多いですよね。(主要国の受給者数はJILの統計にもあります http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/databook/2012/09/p260-261_t9-13.pdf
受給者もですが、この受給を認定し、稼働可能層ならその後の求職活動などを支援するソーシャルワークの官民のマンパワーも日本より相当多いでしょう。多数のソーシャルワーカーが受給者にこまめな対応をできるということが、不正受給防止には一番効果があるのだろうと思いますね。これもネットでみた世界銀行の報告書に、問題解決には、政治的意思と行政能力が必要とあり、行政能力の冒頭には、適正な数の、質の高いスタッフの必要性があげられていました。

日本では議論はスキャンダルのレベルで終わってしまいそうですけれども。

おお、「哲学の味方」さん、大変お久しぶりです。

何というか、それなりにまじめな議論が積み上げられてきている分野で、それをまったく分かっていない傲慢素人が鉄拳を振り回して話をぐちゃぐちゃにしていくという、素晴らしき大衆民主主義の香りがますますこの国を覆ってきているようで、感涙に絶えないところです。

時々はぴりりと効いたコメントを書き込んで下さい。


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