労働条件がひどいだけではブラック企業じゃない件について
ブロゴスの3若トリオ鼎談(3重にリダンダントな表現だなあ~)に対して、uncorrelatedさんの「ニュースの社会科学的な裏側」が批判しています。
http://www.anlyznews.com/2012/06/blog-post_10.html(ブラック企業は無くならない ─ 社会学者の卵の会話にある無責任)
言っていることに、部分的にはそれなりの正当性がないわけではないのですが、そもそもブラック企業という言葉を、どうやら単に労働条件がひどい企業という程度に使っているために、議論にずれが生じているように思われます。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/posse09.html(これからの労働の話をしよう )
戦後日本で形づくられた雇用システムの中で、とりわけ大企業の正社員は、ずっとメンバーシップ型の雇用システムの中にいました。そこでは、会社の言うとおり際限なく働く代わり、定年までの雇用と生活を保障してもらうという一種の取引が成り立っていたのです。泥のように働けば、結婚して子供が大きくなっても生活できるだけの面倒をみてやるよと。これが本当に良かったのかどうかの評価は別にして、トータルでは釣り合いがとれていたと言えます。ところが、それは先々保障があるということが前提となっているわけで、これがなければただの「ブラック」なんですね。「働き方だけを見たら「ブラック」だけど、長期的に見たら実は「ブラック」じゃない」はずが、「ただのブラック」である企業が拡大してきた。それが、ここ十数年来の「ブラック企業」現象なるものを、マクロ的に説明できるロジックなんじゃないかなと思います。
この取引はいわば山口一男さんの言う「見返り型滅私奉公」に近かったわけです。滅私奉公と言うととんでもないものに見えるかもしれませんが、ちゃんと見返りはありました。しかし、それが「見返りのない滅私奉公」になってしまったのです。
労働法も完備しているはずの現代日本におけるブラック企業現象を、単に労働条件がひどいというだけの概念に閉じこめてしまうと、平板な議論になってしまいます。このuncorrelatedさんの批判が、そのいい例になっているように思われます。
はじめから「使い捨て」ルールが双方に共有されているなら、労働者の方もそれに応じた最小労力戦略をとるからいいのです。そうではなく、労働者側には「滅私奉公」ルールが適用されていながら、使用者側は暗黙の「使い捨て」ルールであるという社会ゲーム上の非対称性が問題なわけですよ。
(追記)
uncorrelatedさんが、
http://www.anlyznews.com/2012/06/blog-post_8858.html(ブラック企業の存在をゲーム理論で考察する)
で、問題をゲーム理論的に整理しています。ただ、整理がいささか(理論経済学風に)きれいになりすぎていて、ややリアリティから離れている感もありますので、泥臭い次元に引き戻しつつ解説をしたいと思います。
「きれいになりすぎ」と評するのは、ブラック企業現象を「不完全情報」というゲーム論タームで説明してしまうと、その現実社会における必然性が見えにくくなるからで、
雇用環境が変化すれば、社会に蓄積された情報が使えなくなるので、求職時の情報の非対称性が高まる。濱口氏が指摘するように、メンバーシップ型からジョブ型へ労働市場が遷移しているとすれば、こういう不完全情報ゲームが成立しやすくなるであろう。
というのもやや表層的に過ぎるでしょう。
メンバーシップ型の社会的交換の社会的正当性がなお高く評価され、そちらにはいることが望ましいとなお社会的に意識されている状況下において、そこから排除されたまたは排除されかねないと思う者が、(実はそのような社会的交換を保障していないにもかかわらず)滅私奉公的な働きを要求する企業に惹き付けられ、自分が救済されていることの証しとして滅私奉公的に働こうとすることは、ある意味で極めて自然な反応といえます。
これはまことに皮肉なことなのですが、「正社員にならなくてはいけない」という社会的圧力が強くかかればかかるほど、その「正社員」の内実を確認するよりも、せっかくつかんだ「正社員」の身分であることを自己確認するためにも、盲目的に滅私奉公することが(主観的には)合理的になってしまいます。もちろん、それは客観的には全然合理的ではないわけですが。
その意味で、社会全体で(社会的交換が成り立っている)正社員の枠を減らしながら、正社員志向を強めることは、(社会的交換が成り立っていない)疑似正社員への自発的供給を増幅する効果があるということもできます。
この問題は少なくともその程度には社会構造論的な問題であって、情報流通の円滑さで解決しうる面もあるとはいえ、それが本質とは必ずしも言いがたいように思われるわけです。
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私も転職歴7回(39歳)という転職市場ではアウトカーストな条件を3年前に採用してくれた現在の会社に恩義があるから言う訳じゃ在りませんが、確かにハードワークに文句を言いながらも、何か達成できた局面(新施設オープンや1周年記念)などでは、文句を言いながらも高揚感、生の充実に包まれることは否定できません。そして、それは集団での狂騒という、客観視すればキモイ情景(王将の新人研修後の号泣や福本マンガ『涯』での人間学園での研修後の集団的感情発作ばかりでなく、一人で、風呂につかりながら、杯を傾けながらニヤニヤできるという瞬間もあるからです。それは個人としての成長と組織の苛斂誅求が幸福な結合を見せた場合でしょう。
宮沢賢治の『オツベルと象』では象たちの蜂起によるデウス・マキーナで物語りは大団円を迎えていますが、起業家として計算高いオツベルの苛斂誅求で付加価値を挙げながらそれを還元する。かつものの限度(それは子育てが不能になる時間的拘束、低収入を含みます)をわきまえながらであれば、あの『オツベルと象』もドイツサイレント映画の高峰『メトロポリス』の大団円に繋がるような航路にわが国、企業、社会をもっていくのは可能ではないかとするのが先生のこれまでの営為ではないかと拝察しております。
ちなみに、私の先月のハードワークは年休80日以下、残業代ゼロ、1ヶ月に5時始発の出社5回です。
投稿: arkanal | 2012年6月10日 (日) 14時32分