ノマドと社畜
ゴムホース大學さんが「ノマドと社畜という双子の言葉」というエントリを書いていますが、
http://d.hatena.ne.jp/Lacan2205126/20120626/1340698653
おそらく生き方の『自由』を象徴しているであろう『ノマド』に対する憧れと、サラリーマンが感じる閉塞感は反比例の形で互いに相関しているのかもしれない。ノマドと社畜は表裏一体の意味で深く有機的に繋がっている気がする。
確かに、常見陽平さんが
http://twitter.com/yoheitsunemi/status/218714100560171008
今週、再確認したことは、ノマド礼賛論者、ノマドオピニオンリーダーは、まったく、雇用・労働を、わかっていないということだ。ばーかばーか。自分を一般化するな、バカ。若者を路頭に迷わせるな、バカ。経歴詐称するな、バカ。まあ、本当に食いっぱぐれないノマド術はそのうち俺が教えてやろう、バカ
とまで罵らなければならないくらい、愚劣なノマド礼讃が蔓延る根本の理由は、それが「社畜」の対照点に浮かび上がる幻想だからなのでしょう。
とはいえ、それを自由と閉塞という二値論理で捉えてしまっては、事態の本質を捉え損ないます。
ここはやはり日本的「社畜」の存立構造をきちんと考える必要があります。そのために、藤本篤志さんの「社畜のススメ」について以前書いたエントリを引用しておきます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-b130.html(社畜とフツーの労働者の間)
題名は売らんかなですが、中身は(ある部分までは)極めてまっとう。
ただし、根本的なところに勘違いがあるので、そのまっとうさが大変歪んだ形で現れてしまうという致命的な問題があります。
藤本さんがサラリーマンの4大タブーと呼ぶのは次の4つです。
個性を大切にしろ
自分らしく生きろ
自分で考えろ
会社の歯車になるな
こんなメッセージに惑わされてはいけないといいます。
まったくその通り。雇用される労働者になろうとする者にとっては。
世界中どこでも、雇用契約とは、指揮命令下で労働を提供するということは、組織の歯車になるということです。
単なる歯車として、約束しただけの労働を提供する。それ以上は知らない。歯車は歯車であって、脳髄ではないのですから。
それがいやなら、自営業者になるか、雇用契約であっても極めて裁量性の高いエグゼンプト、つまりエリート労働者になるか、であって、世界中どこでも、フツーの労働者ってのは、そういうものです。
多分日本の「正社員」を除いて。
そう、藤本さんの致命的な勘違いというのは、欧米の労働者はみんな個性的に自分らしく働いているけれども、日本はみじめな社畜であると思いこんでいるらしいところなのです。
逆です。
単なる歯車であることを社畜というのであれば、日本の正社員ほど社畜から遠い存在はないでしょう。
なぜなら、単なる歯車であることを許されないから。一労働者であるのに、管理者のように、経営者のように考え、行動することを求められるから。
そして、それこそが、単なる歯車であることを許されないからこそ、別の意味での「社畜」性が必然となるのです。
藤本さんの致命的な勘違い。それは、これだけさんざんに歯車になれといいながら、24時間戦う人間を賛美したり、ワークライフバランスを貶したりすることです。
世界中どこでも、単なる歯車は24時間戦ったりしません。それは経営者やエリート労働者の仕事です。歯車は歯車らしく、歯車としての責任を、それだけを果たす。
世界中どこでも、経営者やエリート労働者は猛烈なワーカホリックです。ワークライフバランスなんてのは、歯車の歯車のための概念です。
そういう非歯車性を歯車たる労働者に要求するという点に、日本語の「社畜」という言葉の複雑怪奇なニュアンスが込められているのでしょう。
藤本さんが4大タブーという間違ったメッセージを、世界中でおそらく唯一日本においてのみ、歯車たるべきフツーの労働者に対して伝え続けてきたのには、それなりの理由があるということでしょう。
藤本さんの考えとはまったく逆に、「4大タブーが日本人の気質に合わないから」ではなく、その伝える非歯車性を要求してきたから。歯車でありつつ、その歯車であることに文句を言わずに、しかも歯車ではないかのように考え行動する歯車であるという高度に微妙なバランスの上に成り立っているから。
歯車であれというメッセージと歯車にとどまるなというダブルバインドを見事にこなしてこそ、日本的正社員なのでしょう。
その帰結が、藤本さん自身に示されているような、歯車であれといいつつ、24時間働けと口走ってしまう人なのではないかと思います。
エリートでもなければノンエリートでもない「24時間働く歯車」という矛盾した存在であることを要求されることへの反発が、やはりエリートでもなければノンエリートでもない「のまど」という空中楼閣への幻想に燃料を補給しているのだとすると、確かに両者には共犯関係がありますね。
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家畜は、なつくことはあるかもしれないけど、飼主に感謝したり気を使ったり、身を削って努力したりしませんからね。
投稿: かんだだ | 2012年7月27日 (金) 19時50分