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非正規労働者と労使コミュニケーション@『月刊社労士』

『月刊社労士』6月号が来ました。わたくしの連載の3回目は「非正規労働者と労使コミュニケーション」です。

大変コントロバーシャルな問題に対して、あえて乱暴なまでにざっくりと斬り込んでいます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sharoushi1206.html

今回は第1回の問題意識に立ち戻り、そのうちとりわけ非正規労働者問題と労使コミュニケーションというテーマについて論じたい。今日、労使コミュニケーションの重要性が最も強く感じられている分野の一つが非正規労働問題であるからである。

ここ数年来、非正規労働者の問題は労働法政策の中心的課題となっている。たとえば、処遇の低さについては既に2007年改正パートタイム労働法において、特定の正社員型パートタイマーについては差別禁止、それ以外については均衡処遇の努力義務という形で定式化され、それ以外の非正規労働者についても極めて曖昧模糊とした表現ながら2007年労働契約法において「均衡考慮」という規定が設けられた。また先日成立した改正労働者派遣法でも「均衡を考慮した待遇の確保」が規定され、さらに現在国会で審議中の労働契約法改正案でも、有期労働契約について「労働条件の相違は、労働者の業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度、当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して、不合理と認められるものであってはならない」と規定されている。

一方、雇用の不安定さについては、上記労働契約法改正案において、通算契約期間が5年を超える労働者が無期契約の申込みをすれば、使用者はその申込みを承諾したものと見なすという形で、ある種の出口規制が設けられるとともに、最高裁の判例法理に基づき、有期労働契約が反復更新されて無期契約と「社会通念上同視できる」場合や「更新されるものと期待することについて合理的な理由があるものと認められる」場合に、労働者からの更新の申出を使用者が拒絶すること(いわゆる「雇止め」)ができず、承諾したものと見なすという規定が設けられている。

こういった動向はもちろん注目すべきであるが、そこに欠落しているのは、集団的労使関係法制の枠組みの中で非正規労働者を正面から論ずる姿勢である。

1 日本の集団的労使関係法制の歪みと非正規労働者

集団的労使関係法制、すなわち労働組合法や労働関係調整法といった法制度は、六法全書を一瞥すれば分かるとおり、その対象を何ら正社員に限定してはいない。ところが、日本の労働組合のほとんど大部分はそのメンバーシップを正社員に限定し、非正規労働者を組合員として受け入れていない。実態としては、主婦パートや学生アルバイトが非正規労働者の主力であった時代には、彼らは正社員たるその夫や父親を通じて別の企業に帰属していたことが、その働く職場で労働組合に加入するインセンティブを持たせなかった大きな原因であったろう。

しかしながら、そのような労働組合の行動様式を容認してきた法思想的背景として、労働組合は結社の自由に基づく私的結社であり、公共的な責任を担うべき存在ではないという発想があったように思われる。その理論的根拠となってきたのは、憲法上の労働基本権が労働者個人の人権保障として理解され、集団的労使関係システムを通じた利害調整や政策形成といった参加的な仕組みとして捉えられてこなかったことであろう。このため、本来労働組合が産業民主主義の担い手として持つべきパブリックな性格は否定されてしまった。

極めて皮肉なことに、アカデミックな労働法学はこういう労働組合の私的結社性を批判するどころかむしろ推進してきた。それは、組合分裂等による複数組合現象に対して、少数派組合を擁護するという意図がなされたものであろうが、たった一人や二人の組合でも多数派組合とまったく平等に団結権、団体交渉権を行使する立派な労働組合だと論弁することによって、結果的に労働組合を個人の権利主張に集団的な衣装をまとわせるだけのものにしてしまった。そうすると、労働組合は自分の組合員のことだけに専念していればよいのであって、それ以上余計なことを考える必要はないことになる。産業民主主義ではなく、個人に立脚したリベラリズムが日本の集団的労使関係法制の指導理念になってしまったのである。

とはいえ、実態としての企業別組合の多くは、その組織内においては集団的な利害調整が中心であったし、そこでの指導理念はリベラリズムではなく民主主義であったことは確かである。労働法の教科書における労働組合像と実際の企業別組合の姿の乖離はこうして半世紀にわたって進んだ。

問題は、その企業別組合における民主主義は正社員組合員に限られたものであって、その外側に及ぶことがなかった点にある。本来の産業民主主義の理念からすれば、同じ職場に働く者を排除して何の疑問も持たない民主主義には問題が指摘されるはずであるが、リベラリズムに偏った労働法学からはそのような批判が行われることはほとんどなかった。団結権は労働者個人が有する権利なのであるから、その気になれば自分で組合を作って活動すればよいのであって、既存の企業別組合に入れてくれないなどと泣き言をいう必要はないという発想である。現実に立場の弱い非正規労働者がそのような権利を行使するだけの力があるかどうかという発想は見当たらない。

2 コミュニティユニオン型の非正規労働運動

このように既存の企業別組合が非正規労働者をその組織対象から排除し続けてきた中で、圧倒的大部分の非正規労働者はよるべき労働組合のないまま孤独に放置されてきたが、ごくまれながらまさに上記リベラルな労働法学の思想に合致する形で企業外部の労働組合に個人加盟してその権利主張を行う例が現れてきた。このような企業外部の労働組合は古典的には合同労組、近年の言い方ではコミュニティユニオンなどと呼ばれる。

近年の非正規労働者とりわけ派遣労働者をめぐる社会問題化の中で、派遣ユニオンなどをはじめとするこれらコミュニティユニオン型の非正規労働運動が大きな役割を果たしてきたことは否定できない。その戦略はどちらかというとマスコミ等をフルに活用して非正規労働者の就労実態に社会の関心を集めることに重点があったように見えるが、日常活動としてはむしろ個々の職場に発生する個別労使紛争を拾い上げて、労働組合法に基づき付与されている労働組合の権限をフルに活用することによって何らかの解決をもたらすという一種のNGO的役割を果たしている。

日本では企業別組合によってカバーされているのは大企業と一部の中堅企業が大部分で、中小零細企業は圧倒的大部分が未組織のままであるし、労働組合のある企業においてもそのメンバーシップは正社員に限られ、非正規労働者は自らの働く職場の労働組合に頼ることができない。このような状況下において、解雇や雇止め、労働条件の切り下げやいじめ・嫌がらせといった問題を抱える労働者が、企業外のコミュニティユニオンに駆け込み、その組合員になって使用者に団体交渉を申し入れると、複数組合平等主義に立つ現行法の下では、使用者はその団体交渉に応じなければならない。拒否すると不当労働行為として労働委員会から団交応諾命令が発せられる。

この形式的には集団的だが、実質的には個別的な「団体」交渉は、個別紛争を解決する上ではかなり有効に機能してきた。今や労働委員会に係属する事件の大部分はコミュニティユニオンがらみである。しかしながら、こうして集団的労使関係システムがもっぱら個別紛争解決手段として活用されればされるほど、その本来の存在意義であるはずの集団としての労働者の利害調整メカニズムという側面はその陰に隠れがちになる。リベラリズムの立場からすれば望ましいことかも知れないが、労働者を広くカバーする産業民主主義という理想からすれば、このような方向性には疑問を呈さざるを得ないであろう。

集団的労使関係システムを本来の産業民主主義の思想に基づくものに再構築することが、結果的に労働者の権利を奪うことになってはならない。このきわめてパラドクシカルな状況が、現代日本の集団的労使関係法制が置かれている状況なのである。

3 公的労働者代表機関としての労働組合

労働組合の私的結社性を今まで通り所与の前提としつつ、そこから排除される非正規労働者も含めた利害調整システムを構築しなければならないという問題意識を打ち出そうとすると、それは往々にして労働組合とは別建ての労働者代表機関を法的に義務づけるべきといった議論に向かいがちとなる。

ところが日本では賃金労働条件の基本的決定自体が個別企業レベルで行われる。労働組合が企業レベルで組織され、団体交渉も労働協約の締結もほとんどすべて個別企業レベルである。そのような(西欧の産業別組合と同じ機能を個別企業レベルで果たしている)企業別組合が同時に、西欧の労働者代表機関とほぼ同じ機能を同じく個別企業レベルで果たしているところに、この問題の難しさがある。企業別組合の役員をしている人の実感としては、日常的な組合活動の大部分は職場の問題解決や利害調整といった業務に費やされているのではなかろうか。そのことはなんら不思議ではない。西欧の労働者代表機関の役員もまったく同様である。異なるのは、日本ではそれを法的には私的結社でしかないことになっている労働組合役員が行っているという点なのである。

そのような日本において、「労働組合は組合員の利益しか考える必要のない私的結社に過ぎないのだから、それとは別に公的責任を担う労働者代表機関の設置を義務づけ、非正規労働者も含め職場で働くすべての労働者のためにさまざまな問題解決や利害調整に当たるべきである」と主張することは、その役割の大部分を非組合労働者代表機関に移行させることを意味する。その時、企業別組合のどれだけが生き残ることができるであろうか。私的結社に過ぎない労働組合の活動費は組合費で賄わなければならず、使用者からの経費援助は不当労働行為として禁止されているのに対して、非組合労働者代表機関はフルに使用者側の経費負担によって活動することができる。そういう状況下であえて高額の組合費を払って私的結社の一員であり続けようとする労働者が多数に上るとは想像しがたい。

それゆえわたしは、「現在の企業別組合をベースに正社員も非正規労働者もすべての労働者が加入する代表組織を構築していくこと」を、唯一の現実可能な選択肢として主張せざるを得ない。憲法上私的結社であるはずの労働組合を、そのまま職場のすべての労働者に責任を負う公的労働者代表機関にしてしまえという主張であり、未組織企業については労働組合の強制設立論である。これが論理的に破綻した主張であることを重々承知の上で、あえて「それに代わる現実的な処方箋があるのか?」と問いたい。戦後60年かけて作られてきた日本の現状を前提にしながら、しかしすべての労働者が集団的な枠組みの中できちんとその権利を保障されるようなあるべき仕組みを作らなければならないという、二律背反的なものを両立させようとすれば、矛盾に満ちた回答にならざるを得ないのである。

4 労働NGOとしてのコミュニティユニオンの再生

理論的な面はともかく、現実の企業別組合をそのまま公的な責任を担う労働者代表機関とすることに対する現実社会からの批判は、間違いなく上述のコミュニティユニオン型の非正規労働運動から噴出するはずである。なぜなら、それは彼らがまさに担っている社会的役割を剥奪するものに他ならないからだ。

その批判には聴くべき点があることは間違いない。しかしながら、そもそもこういったユニオン活動によって救われる非正規労働者はごくごくわずかなものに過ぎず、しかも労働者が主体的に企業外のユニオンに駆け込むことによって初めて事態が動き出すという意味において、まさに個人主義に立脚したリベラリズムをより一層強化してしまうことを考える必要がある。団結権は労働者個人が有する権利なのであるから、その気になれば企業外部のユニオンに駆け込んで活動すればよいのであって、既存の企業別組合が助けてくれないなどと泣き言をいう必要はない・・・というインプリケーションを否応なく含んでしまうのである。

これは、ある種の人権論的労働組合論に共通の性格であるが、「連帯を求めて孤立を恐れず」自らの権利を堂々と主張できるような自立した個人のすばらしさを唱い上げる余り、そこまでの「強さ」を持てず行動に踏み切れない心の弱い者に対しては自業自得的な冷たさがにじみ出るところがある。しかし、そもそも市民権的な結社の自由とは異なる労働者の団結権なるものに独自の意義があるとすれば、それは個人では怖くて行動できない「弱い連中」が「衆を恃んで」ようやく自分たちの権利利益を主張しうるというところにあるのではなかろうか。自分からわざわざ声を上げなくても、自分の利益を考えてくれる公的な労働者代表機関が職場にあるということの安心感の持つ意味は、自立した個人を自認する者が考えるよりも大きなものがあるはずである。

とはいえ、現にさまざまな形で活躍し、非正規労働者をはじめとする多くの寄る辺なき労働者たちにとって有効な救済手段となっているコミュニティユニオンの役割を失わせる結果にならないように、適切な措置をとる必要がある。わたしは、それはこれら団体をその現に果たしている役割を正面から認めて、労働NGOとして位置づけることではないかと考えている。その実態がむしろ公的支援にふさわしいパブリックな性格の人権擁護団体であることを考えれば、この二重にねじれた法制度と実態の関係を整理し直すことを考えても良いのではなかろうか。

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コメント

インパクトのある論文だと思います。特に・・・
>そもそも市民権的な結社の自由とは異なる労働者の団結権なるものに独自の意義があるとすれば、それは個人では怖くて行動できない「弱い連中」が「衆を恃んで」ようやく自分たちの権利利益を主張しうるというところにあるのではなかろうか。自分からわざわざ声を上げなくても、自分の利益を考えてくれる公的な労働者代表機関が職場にあるということの安心感の持つ意味は、自立した個人を自認する者が考えるよりも大きなものがあるはずである。<
・・・の部分、共感します。
「>自立した個人を自認する者<」は、とりわけ弱い立場に立たされているところの非正規労働者のために汗をかいてほしいものです。
個人的には、組合員の利益というより、社会正義を実現するくらいの気負いがほしいと思っています。

ただ、現実としては、非正規労働者へは決定的に対峙しており、事業集団としての組織に不服従な者を炙り出すようなこともあったりして、非正規労働者から全然信用されていない事実はありますけど。とくに公的部門では、です。

投稿: endou | 2012年6月28日 (木) 21時43分

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