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« 大内伸哉『労働の正義を考えよう』 | トップページ | 大学にハローワークの出先機関 »

2012年5月12日 (土)

資本論と日本型雇用経験「のみ」による賃金論

Shinsho211204_hatarakithumb150xauto最近、向井蘭氏の『社長は労働法をこう使え!』に代わって、アマゾン労働部門の第1位をキープしている木暮太一氏の『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』を、題名も気になったので買って読んでみたのですが・・・・・・・、

http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/505398/ref=pd_zg_hrsr_b_2_6_last

http://www.seikaisha.co.jp/information/2012/03/28-post-87.html

私は、大学時代に経済学の古典『資本論』と、お金の哲学を扱った世界的ベストセラー『金持ち父さん貧乏父さん』を深く読み込むことで、その後の人生が大きく変わりました。実はこの2冊は全く同じことを言っています。それは、資本主義経済の中で私たち「労働者」が必然的に置かれている状況についてであり、そこから考え始めることで、どういう「働き方」を選択すればラットレースに巻き込まれず、幸せに暮らしていけるかがよくわかるのです。今の働き方に疑問を持っているのであれば、転職や独立、ワークライフバランスを考えても意味はありません。しんどい働き方は、もっと根本的なところから考え、変えていかないといけないのです。

正直言って、頭を抱えてしまいました。

なぜ?

著者の木暮さんの頭の中には、マルクスの資本論による精緻な資本主義分析と、実際に日本の企業で働いてきた経験から自ずから得られた日本型雇用システムとがあまりにもしっかりと根をはっていて、そしてそれ以外には労働に関する認識枠組みが全くないということ、日本以外の社会の普通の労働者のあり方というのが全くないということが分かったからです。

冒頭近く、木暮氏はこう言います。

・・・経済学的に考えると、給料の決まり方には

①必要経費方式

②利益分け前方式(成果報酬方式)

の2種類があります。

本当はここに大問題があるのですが、それは後回しにして、

・・・日本企業では、その社員を家族と考え、その家族が生活できる分のお金を給料として支払っています。

これが「必要経費」方式という考え方です。

・・・日本企業が採用している成果主義は、「必要経費方式の一環」として採用されていることが多く、もともと利益分け前方式を採用している外資系金融機関などとは根本的に考え方が異なります。

この「必要経費方式」を、木暮氏はマルクスの理論を用いて労働力の価値はその使用価値ではなく、他の商品と同じく原材料の価値の合計、すなわち労働力の再生産の必要な価値なのだから、

手当といえば、会社には家族手当といったものがあります。労働者が結婚し、子供が生まれて扶養すべき家族ができると、家族手当が支給されることがあります。・・・いわゆる日本企業においては、家族手当を従業員に払っている企業がたくさんあります。

この家族手当も、労働力の価値という意味で考えると、全て説明が付くでしょう。

労働者に扶養すべき家族がいる場合、「明日も同じ仕事をするために必要な費用」には、家族の生活費も含まれるのです。

・・・そう考えると、日本企業で給料が右肩上がりになっているのも、年功序列型で給料が決まっているのも、納得できます。年齢が上がるにつれて給料が増えていくのは、社会一般的に考えて必要経費が増えるからなのです。

と説明していきます。

私が頭を抱えた理由がおわかりの方もいると思います。

これって、今から60年以上前に、日本のマルクス経済学者宮川実氏が生活給制度を擁護するために論じた理屈とまったく同じだからです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/equalpay.html(同一(価値)労働同一賃金の法政策)

これに対して労働側は、口先では「同一労働同一賃金」を唱えながら、実際には生活給をできるだけ維持したいという姿勢で推移していたといえます。
先述の電産型賃金体系は、終戦直後に家族手当などが膨れあがる形で混乱を極めていた賃金制度を、基本給自体を本人の年齢と扶養家族数によって決めるように明確化したもので、生活給思想の典型といえるものです。それと同一労働同一賃金原則の関係は、労働側にとってなかなか説明しがたいものでした。
これをマルクス経済学的な概念枠組みを駆使して説明しようとしたものとして、宮川實の「同一労働力同一賃金」説があります*4。

「同じ種類の労働力の価値(価格)は同じである。なぜというに、同じ種類の労働力を再生産するために社会的に必要な労働の分量は、同じだからである。だから同一の労働力にたいしては、同一の賃金が支払われなければならぬ。・・・資本家およびその理論的代弁者は、同一労働同一賃金の原則を異なった意味に解釈する。すなわち彼らは、この原則を労働者が行う労働が同じ性質同じ分量のものである場合には、同じ賃金が支払われなければならぬ、別の言葉でいえば、賃金は労働者が行う労働の質と量とに応じて支払われなければならぬ、という風に解釈する。労働者がより多くの価値をつくればつくるほど、賃金は高くなければならぬ、賃金の大きさを決めるものは、労働者がつくりだす価値の大きさである、というのである。・・・既に述べたように賃金は労働力の価値(価格)であって、労働力がつくりだす価値ではない。労働力は、それ自身の価値(賃金)よりも大きな価値をつくりだすが、この超過分(剰余価値)は、資本家のポケットに入り、賃金にはならない。・・・われわれは、賃金の差は労働力の価値(価格)の差であって、労働者が行う労働の差(労働者がつくりだす価値の差)ではないということを銘記しなければならぬ。・・・この二つのものを混同するところから、多くの誤った考えが生まれる。民同の人たちの、賃金は労働の質と量とに応じて支払われるべきであるという主張は、この混同にもとづく。・・・賃金の差は、労働力の質の差異にもとづくのであって、労働の質の差異にもとづくのではない。だから同一労働同一賃金の原則は、正確にいえば、同一労働力同一賃金の原則であり、別の言葉でいえば、労働力の価値に応じた賃金ということである。・・・資本主義社会では、労働者は、自分がどれだけの仕事をしたかということを標準としては報酬を支払われない。労働者に対する報酬は、彼が売る労働力という商品の価値が大きいか小さいかによって、大きくなったり小さくなったりする。そして労働力という商品の価値は、労働者の生活資料の価値によって定まる。・・・労働者の報酬は労働力の種類によって異なるが、これは、それらの労働の再生産費が異なるからである。」

 このように、戦前の皇国勤労観に由来する生活給思想を、剰余価値理論に基づく「労働の再生産費=労働力の価値」に対応した賃金制度として正当化しようとするものでした。しかし、文中に「民同の人たち」の主張が顔を出していることからも分かるように、(とりわけ国鉄の機関車運転手のように)自分たちの労働の価値に自信を持つ職種の人々にとって、悪平等として不満をもたらすものでもありました。

ある意味で、戦後60年以上もの間、こういう賃金論が生きてきたことの証明なのかも知れません。

そして、その最大の弊害は、未だにこういう(マルクス理論的)生活給理論に対するものとして、一番上で引用したような「利益分け前方式(成果報酬方式)」しか認識されていないということです。

これは木暮氏だけの問題ではありません。あまりにも多くの人々が、生活給的年功賃金でなければ、外資系金融機関みたいな成果報酬だと思いこみ、それ以外には選択肢はないかのように語ることがなんと多いことでしょうか。

もちろん、ある程度ものごとの分かった人であれば知っているように、世界の労働者の大多数はそんな二分法のいずれにも属していません。

実際、上で宮川実氏がマルクスを振りかざして生活給を擁護していた頃、世界の労働組合の代表団は日本にやってきて、次のような痛烈な批判をしていました。

代表はつぎの点に注意した。すなわち国有事業をも含めた工業において、賃金統制は職業能力、仕事の性質、なされた仕事の質や量に基礎を置いていない。時としてそれは勤労者の年齢や勤続年限によっている。また他の場合、われわれは調査にあたって男女勤労者の基本賃金を発見しえなかった。というのは、報酬は子供の数に基礎を置かれており、これら家族手当の性質や価値を決定しえないのである。代表団は全部かかる賃金決定法を非難した。かかる方法は、雇主の意思のままに誤用され、差別待遇されうる道を開くものであるという事実はさておいても、方法そのものが非合法的非経済的である。賃金は勤労者の資格、その労働能力に基礎が置かれねばならぬ。妻子、老齢血族者等、家族扶養義務に対する追加報酬は切り離すべきで、そして受益者の年齢、資格を問わず、かれら全部に平等な特別の基準のものでなければならぬ。・・・

 代表団は全般的にみて、婦人労働者に正常の賃金と、よりよい社会的地位とを保障する努力がこれまでほとんどなされていないと考えている。似かよった仕事は同じ時間と、、同じ質に対して、同じだけの報酬に値するという原則に従って、代表団は、労働者の性別によって賃金に差をつけるべきではないと述べた。工場に多年勤めている婦人労働者は、男子見習員よりも安い賃金をもらっているが、この事実のなかに、低い婦人に対する不平等で、非人道社会的な考えが残っているのである。

世界の労働組合の目から見て、こういう「必要経費方式」は許されないものであったのです。

では労働組合は成果主義の味方だったのか?そんな馬鹿なことはありません。はじめに述べておいたように、そもそも給料の決まり方が必要経費方式か成果報酬方式の二つしかないというのが、世界の常識に反しているのです。

では世界の常識は何か。給料は市場で決まるのです。労働市場で、集団的な取引によって、この仕事はいくら、その仕事はいくらと決まるのです。それを決めるために労働組合を作るわけですね。

この仕事はいくらと決めるのですから、子どもが何人いようが、マルクス経済理論でいう労働力の価値がどう違おうが、それは関係ありません。

つまり業界定価制なのです。この店は子どもが多いから値段が高く、あの店は子どもがいないから値段が安いというわけではありません。それが繰り返しますが、60年前から世界の常識であり、日本では非常識だったわけです。

一方、欧米でもエリート層は利益分け前的な面が強いわけで、その世界とは一応別の世界ですね。

こういう認識枠組みがないから、上に見たような話の展開になってしまうわけです。といっても、これは木暮氏だけを責めるのは酷かも知れません。

考えてみれば、頭の中には学生時代にかじったマルクスの理論を詰め込みながら、現実の企業の中で日本型雇用システムのみが周りを取り巻いている状況で長年過ごせば、どうしてもそうなるのでしょうし、実際、日本で(ある程度グローバルに労働問題を考えている人を除けば)ちょいと労働問題に口を出した感じの人の議論というのは、だいたいにおいてこういう感じになりがちなのです。

とはいえ、そういう本が、労働部門のベストセラー1位を驀進中と言うのは、正直なんだかなあ、という思いも湧いてみたりします。

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コメント

世界の賃金制度と日本の賃金制度の違いは、職務給か人属給かということではないでしょうか。仕事に値段をつける、この仕事はいくらというのは、日本にはなじまない。
 サービス業の現場で「それは私の仕事ではない」という言葉を日本で聞くことはないし、聞きたくもない。

我が国において「レモンをお金にかえる法」の価値はいまだに偉大ですね。

職務給制度について、ヒロさんは日本にはなじまないと書かれましたが、私や私の周りの大勢の人々はー本当に大勢の人々です、それはこの20年間、年々増えることはあっても減ることは全くないのですー職務給制度の方が納得がいく、なじむ、と言っています。

だからこそ、濱口氏のご著書の『新しい労働社会』も皆さん、真剣に読ませていただいているのです。

ヒロさんが聞きたくもないとおっしゃっても、「それは私の仕事ではないのに」という言葉を口にのせる人はたくさん見かけます。また、「なぜこんなにひどい残業をしなければいけないのか」、あるいは「なぜこれほどの仕事をしながら賃金がこれほどに低いのか」という言葉も、私はサービス業の現場でもその他の仕事の現場でもよく聞いています。

日本が世界標準をなぜ採ることができないでいるか?。何が一番止めているのか?。大企業の組合が企業内組合である限りもはや永遠に変われないのか?。(←これは濱口先生にもとても教えていただきたいところです)。ガラパゴス化して、世界の国々から取り残され、ワーク・ライフ・バランスも経済成長もできず、少子化もどんどん進んで、置き去りにされていっていいのか、と、集まるごとに人々とよく話しています。

日本的賃金制度や雇用慣行が、今は非常に大きな壁にぶつかっています。日本が活性化するには職務給システムや均等待遇が、一番力強い次の時代への鍵になるのでは、と思われるのですが、いかがでしょうか。

>ヒロ様
>サービス業の現場で「それは私の仕事ではない」という言葉を日本で聞くことはないし、聞きたくもない。

その結果、サービス残業と、モンスター顧客の襲来の間で板挟みが起こるんですよね。よく分かります。

さておき以前から不思議なのは、例えば自民党や日本経団連が主張するように大々的に移民労働力を導入したいのであれば、何よりも先に労働慣行の是正を行わねばならないはずなのに、彼ら自身は一向にその旗振り役を務める気がないらしいところです。
出稼ぎ労働者は低賃金で使い倒せるし、日本語も上手くないから団体交渉の面倒もない、しかもいずれは本国に帰るから長期的な社会保障も不要……等という底意があってのことではない、と思いたいところですが。

「日本の労働慣行は確かに特殊だが、それは『ものづくり』において不可欠なのだ」と仰る方も見受けるのですが、最早
「だったらグーグルやマイクロソフトは要らないのか」
「ベンツやヒュンダイだって良い車を作ってますよね」
で終了してしまうのが21世紀。何よりも変革が必要なのは日本の企業経営者の側だろうよ、と思わずにはいられません。

もはや、

『僕たちはいつまでこんな“考え方”を続けるのか?』

というメタ・タイトルが背後に隠されていると皮肉にも思わざるを得ないですね。

多分、
「36協定便利すぎ」ってところに
要因の多くの部分があると思うんですよね。

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