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2012年5月

2012年5月31日 (木)

国・地方公共団体で働く派遣・請負労働者の労働基本権

『労基旬報』5月25日号に掲載された「国・地方公共団体で働く派遣・請負労働者の労働基本権」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo120525.html

刑務所で働く人に労働基本権はあるか?素直に考えれば、答はノーであろう。非現業の国家公務員や地方公務員には(団体交渉権や争議権といった)労働基本権が制約されているというだけではなく、警察、消防、刑務所の職員には団結権自体も否定されており、刑務所で働く人には労働基本権はまったくないというのが唯一の答のはずである。

しかしながら、集団的労使関係法制におけるこれら例外は、あくまでもヒトに着目している。国家公務員法108条の2第5項は「警察職員及び海上保安庁または刑事施設において勤務する職員は、職員の勤務条件の維持改善を図ることを目的とし、かつ、当局と交渉する団体を結成し、又はこれに加入してはならない」と規定しているが、その名宛人は「職員」であって、「職員」ではない人にはこの禁止は及ばない。団体交渉権や争議権の禁止も同様である。

一方、労働者派遣や、請負と称していながらその実態が労働者派遣であるような状況下においては使用者機能が派遣元と派遣先に分かれ、それゆえ集団的労使関係法上の使用者性も(原則的には派遣元にあるが)一部は派遣先に配分される。この点は、有名な朝日放送事件最高裁判決(平成7.2.28民集49-2-559)において、「雇用主以外の事業主であっても、雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて、右事業主は同条の『使用者』に当たるものと解するのが相当である」と明言されている。

この二つの定理を組み合わせると、論理必然的に、刑務所で働く派遣・請負労働者には、団結権も団体交渉権も争議権もあるという結論が導き出されざるを得ない。他の結論の可能性は全くない。

これが現実のものとなったのは、神戸刑務所事件(神戸地判平成24.1.18労旬1766-65)である。刑務所と受託会社との業務委託契約で管理栄養士として刑務所で働いていた原告について、団体交渉拒否が不当労働行為に該当するとして、国家賠償法上の損害賠償を認めた。これに対して国は控訴していない。

刑務所職員には団結権すらないのに、同じ刑務所で働く派遣・請負労働者には団体交渉権や争議権まであるというのは、一見奇妙に見えるかも知れないが、現行法を素直に読む限り他の解釈はあり得ない。問題は、国や地方公共団体の当局がどこまでこの理路を認識しているかであろう。おそらく全く欠落していると思われる。

ギルガメさんの拙著短評

131039145988913400963ギルガメさんのツイートによる拙著短評です。

http://twitter.com/girugamera/status/208180732047273985

濱口桂一郎の『新しい労働社会』読んでる。欧米との対比が的確な良書。肯定的に評価されることの多い日本の解雇権濫用法理などにも、それが男性正社員を不当に優遇するものであったことを指摘。ワークライフバランスを実現するには解雇要件を緩和することも合理的だという。勉強になるなぁ。

2012年5月30日 (水)

「職場のいじめ」は本当に増えているのだろうか?

112050118J-CAST会社ウォッチの「「職場のいじめ」は本当に増えているのだろうか?」という記事が、『日本の雇用終了』所収のいくつかの事例を引用しながら、そのタイトルのような疑問を呈しています。

http://www.j-cast.com/kaisha/2012/05/30133888.html?p=all

一方、トラブルの中には、本当に「被害者」だけを救うべきなのかと首を傾げたくなるものもある。個別労働紛争のあっせん事例を集めた『日本の雇用終了』(労働政策研究・研修機構編)にも、「これは本当にいじめなの?」という事例が散見される。

としていくつかの事例を引用しています。

たとえばAさんという女性が、職場トラブルの解決あっせんを労働局に申請した。工場長からいじめを受け、専務からもたびたび「会社の悪口を言っている、他の人をいじめている」と身に覚えのないことで注意されたため、苦痛で体調を崩して退職せざるをえなくなったという。

   しかし会社側は、同僚であるBさんから「Aさんからひどいいじめを受けて仕事にならない」と泣きながらの相談を受けていた。そこで周囲に聴き取りをしたところ、「Bさんが可哀そうなくらい」という声があがり、「Aさんは新人が入ってくると必ずこういう問題を起こす」と指摘する人もいたという。

   本書ではこのようなケースを「相互被害者意識型」と呼ぶが、あっせん事例としてはAさんだけが「申請人」(被害者)にカウントされてしまう。どちらかというと、Aさんがいじめているようにも思えるのだが…。

これは、相互被害者意識型の節の

・10087(非女)いじめ・嫌がらせ(打切り)(不明、無)

ですね。同記事は、

悪質なハラスメントは根絶すべきだが、一方的に「悪いのは会社だ」「不況下で弱い労働者がいじめられている」と訴えても解決しない問題もあるのではないか。

というのですが、いやそこは分けて考える必要があるわけで。それこそ一方的に「悪いのは会社だ」「不況下で弱い労働者がいじめられている」という事例もあるし、とてもそうとは言えないようなものもざっくりと「いじめ・嫌がらせ」としてまとめられた膨大な事案の中に含まれているということですね。

そういうさまざまなものを含んだものとしての「いじめ・嫌がらせ」が年を追うごとに着実に増加してきているというのが、確認すべき事実であるわけです。

そのあたりが、アネクドート的にしか語られなかったために、主観的な議論になりがちであったわけで、そこがある程度客観的にかつ相当の量でもって分析されることによって、落ち着いた議論ができる土台ができていくのではないかと。

ちなみに、明日は、

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20120531/info/index.htm(労働政策フォーラム 職場のいじめ・嫌がらせ、パワハラ―今、労使に何ができるのか― )

ですので、宜しく。

2012年5月28日 (月)

『季刊労働法』237号のご案内

まだ先ですが、来月15日発行予定の『季刊労働法』237号(2012年夏季号)のご案内が労働開発研究会のサイトに載っているので、こちらでも紹介。

http://www.roudou-kk.co.jp/quarterly/archives/005151.html

特集は「有期・パート・派遣の法制の基本的視座」です。

労働者派遣法が改正され、有期労働契約法制(労働契約法改正)も近い将来に予定されています。パート労働法も改正を視野に入れた検討がなされています。今号では、有期・パート・派遣の3つカテゴリについて、現段階での動向を踏まえ、法規制を検討するにあたっての、基本的な視点を確認します。これに加え、雇用形態による均等処遇についての検討、韓国の非正規労働者をめぐる動向を特集として取り上げます。

ラインナップは次のようで、

●有期労働契約法制の新動向 川田知子
●パート労働の法的規制における基本的視座 宮崎由佳
●改正労働者派遣法をめぐる諸問題 本庄淳志
●雇用形態による均等処遇 濱口桂一郎
●韓国の非正規労働者保護法の実情と日本 小林譲二

わたくしも一本書いています。

その他、

【同志社大学労働法研究会】
●コナミデジタルエンタテインメント事件 土田道夫
    【ローヤリング労働事件】
●使用者側の和解(裁判手続きにおいて) 石井妙子
    【論説】
●業務委託契約における受託者の労働者性 萬井隆令
そのほか、研究論文、判例解説等も掲載しております。

三度目のバックラッシュにしてはいけない@上西充子

本日夕刻、雇用戦略会議の若者雇用ワーキンググループの最終回ということで、その資料もアップされていますが、

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koyoutaiwa/wakamono/dai5/gijisidai.html

委員の上西充子さんが原案に対する批判的意見をいかに述べたかを詳細にツイートしておられますので、再録。ある意味で、政策決定プロセスをその当事者がリアルタイムで解説している実例です。

http://twitter.com/#!/mu0283

雇用戦略対話WG(若者雇用)第5回(最終回)、今日は若者雇用戦略(原案)の紹介、後藤和智氏の報告、原案の検討。私にとって一番の焦点は、若者雇用問題が「若者をどうにかしよう」問題としてだけ捉えられず、働かせ方の問題があることが適切に盛り込まれるか、だった。

そのことは第1回から指摘してきたことであり、第4回の私の提出資料にも盛り込んだ。しかし原案(本日の資料1)には盛り込まれておらず、すっぽり抜け落ちていた。

原案の基本方針には、【就職できた場合も非正規雇用の割合が大幅に増え、正規雇用の場合も長時間労働等によって早期離職する場合も少なくない等、適切なキャリアを積み、自らの将来を展望することが難しくなっている】という指摘がある。

かなりの割合の若者が安定的な移行ができていない、という当初からのWGの問題意識の背景としては概ね適切な現状理解だろう(しかし「就職できた場合も非正規雇用」って変だな、契約社員のことだろうか)。

問題はその次。【このような厳しい環境の中にあって、若者が我が国の将来の中間層に育っていくためには、・・・自ら職業人生を切り拓いていくことができる力・・・を持った骨太な若者に育って行けるよう、・・社会全体で支援していくことが最も本質的かつ重要な政策である。】

非正規雇用や長時間労働の問題を指摘しながら、その「厳しい環境」をどう改善していくか、という発想ではなく、その「厳しい環境」に耐えていける「骨太な若者」を育てることが「最も本質的かつ重要な政策」だ、と。事前送付資料を見て、頭を抱えた。

そのあとの文章を見ても、労働法規違反が社会問題化している現状をどう改善していくか、サービス残業を伴う長時間労働をどう是正していくか、といった言及は全くなし。

かろうじて、【若者が働き続けられる職場環境を実現し、在職者の早期離職を防止するため、法違反やトラブルに対応する労働局の総合労働相談コーナーの体制を充実すると共に、労働法制の基礎知識の普及を促進する】が「中小企業就職者の確保・定着支援等」に盛り込まれたことと、

【就職支援等の仕組みやワークルール等について教えるなど、キャリア教育の充実を図る必要がある】【ワークルール、就職支援の仕組み等について、学生生徒の発達段階に適した教材を整備する】、

【若者の採用・育成に積極的な一定の基準を満たした企業が「若者応援企業」宣言を行う仕組みを構築】【雇用保険データを用いて、産業別・規模別の離職率を公表】などが盛り込まれたのみ。

どうしたものかと考えていたのだが、後藤さんが発表の中で若年就労言説の推移として2度のバックラッシュ(「ニート」言説の誕生→心の問題/「雇用のミスマッチ」言説の発生→学生の「選り好み」「大手志向」「未熟さ」)に触れられた。

さらに若年雇用政策が「人間力」「社会人基礎力」「キャリア教育」など、若者をなんとかしよう、という方向で推移してきたことを指摘された

そして、提言として、短期的に大幅な財政出動を伴うデフレ・不景気の脱却、非正規雇用でも生計を立てられる賃金制度・社会保障の充実、教育の投資価値を高める大学教育の在り方、を述べられた。

これで話がしやすくなり、私は、この若者雇用戦略を三度目のバックラッシュにしてはいけないと話をつなげた。

これは「若者育成戦略」を検討する場ではなく「若者雇用戦略」を検討する場であること、若者の育成・マッチング・若者が働く職場の問題の改善の3つが論じられなければならないのに、職場の問題の改善にはまったく触れられていないことを指摘した。

「厳しい」現状に対しては、労働法規の遵守や長時間労働の是正等による労働環境の整備、公正な採用募集の推進という第1の方策と、若者の育成という第2の方策の双方が必要であり、第2の方策だけが「最も本質的かつ重要な政策」と捉えられるのには同意できないと指摘した。

「働き続けられる職場環境の実現」が基本方針に盛り込まれるべき、という点については、吉田委員、村上委員、堀委員からも後押しの意見表明が行われ、内閣官房審議官(経済財政運営担当)からも、盛り込む方向での同意が得られた。

さらに「ワークルール」という言葉が2か所、「労働法制の基礎知識」という言葉が1か所あるが、いずれも「労働法制の基礎知識とその活用」で良いのではないかと指摘した。

津田厚生労働大臣政務官からは、「ワークルール」とは「労働法制の基礎知識」よりは幅広い概念であり、「遅刻をしない」といったマナー教育も含む、という回答が! それならなおさら、「ワークルール」という言葉を使わず「労働法制の基礎知識とその活用」で、と主張した。

その点は吉田委員からも後押しあり。労働法制の基礎知識とその活用というエンパワメントではなく、遅刻をしないといった規律教育だけがワークルール教育としてなされたのではたまらない。

今日は各委員から若者雇用戦略(原案)に対する意見が出て、どれを取り入れ、どれを取り入れないかまでは決まらずに終了。内閣府が今日の意見を踏まえて最終的な若者雇用戦略をとりまとめ、来月中旬に親会議の雇用戦略対話で提案する、とのこと。

会議の後、原案作成サイドの方から、社会を変えずに若者だけ骨太にしてなんとかしよう、というつもりで書いたわけじゃないんですよ、といったコメントを個人的にいただいた。けれども資料1はそうとしか読めない。そういうつもりじゃなくてこういう表現になるなら、問題は根深い。

具体的施策のところでは、ハローワークの機能の充実とか、法違反やトラブルに対する相談体制の充実、労働法教育の実施、雇用保険データを活用した産業別・規模別離職率の公表、所得連動返済型の無利子奨学金制度の着実な実施など、かなり要望は盛り込んでいただけたとは思う。

まあそういう次第で終了です。ちなみに私は「政策インサイダー」ではないと思う。たまたま今回は(どこかの推薦で)WGに呼ばれたけれど、その他には以前に労働法教育の研究会に呼ばれたぐらい。

「三度目のバックラッシュにしてはいけない」という言葉は、心からの叫びだったのでしょう。

上西さんとしては、こいつらなかなか話が通じないという思いをもたれたのだと思いますが、別の見方をすれば、官邸の会議で、こういうメンツで

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koyoutaiwa/wakamono/dai5/sankou01.pdf

議論できるだけ遥かにマシという面すらあります。

比べるか?と言われるでしょうが、文部科学省主導でやってると、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-d8f1.html(キャリア教育で学ぶべき「世の中の実態や厳しさ」とは何か?)

一方、こうした知識の習得や意欲・態度の涵養と同時に、誤解を恐れずに分かりやすい言葉で言えば、“世の中の実態や厳しさ”を子どもたちに学ばせることも重要である。

と、もろに「社会を変えずに若者だけ骨太にして何とかしよう」というメッセージがそのまま出ちゃうわけで。

佐藤博樹『人材活用進化論』

134243 この本は、八面六臂の活躍をしている佐藤博樹先生がこの間に書かれた調査研究論文をまとめたものですが、下記の目次を一瞥しただけでも、その広がりを感じることができるでしょう。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/13424/

日本の人材活用システムをめぐる改革はどのような課題を解決し、新たな問題を生み出したのか? ワークライフバランスなど様々な制度設計に携わってきた研究者が、激変の20年を総括し、問題提起を行う。

はじめに
序 章 変革期の人材マネジメントを追う
第I部 日本型雇用処遇――何が残り、何が変わるのか
 第1章 日本型雇用システムと企業コミュニティ――国際比較とその行方
 第2章 企業環境の変化に人事管理・労働政策はどう対応すべきか
 補 論 1960年代、日経連はすでに今日的な人事制度を提案していた
第II部 人事管理――迫られる決断 
 第3章 雇用区分の多元化と賃金管理の新しい課題
 第4章 成果主義・評価制度・人的資源開発の望ましい関係
 第5章 ホワイトカラーに裁量労働制を適用するための条件
第III部 就業形態と働き方――知られざる多様化の実態
 第6章 非典型的労働の実態――柔軟な働き方の提供か
 第7章 事務系の派遣スタッフに対応した人材活用と多様な就業意識
 第8章 変貌する店長と「仕事世界」
 第9章 「未経験者歓迎」求人と「正社員登用」機会
 第10章 ものづくりと外部人材の活用――競争力基盤の維持のために
 補 論 労働者概念と労働者保護の多元化を
第IV部 労使関係――問われる存在と新たな役割
 第11章 未組織企業における労使関係――労使協議制と従業員組織の組織状況と機能
 第12章 個別的苦情と労働組合の対応――職場の上司と労働組合
 第13章 権利理解と労働組合――組合理解のアピールを

いずれも読み応えのある論文ですが、ここではあえて横道に逸れたようなエッセイ風の文章を紹介しておきます。第1部の補論の「1960年代、日経連はすでに今日的な人事制度を提案していた」は、わずか7ページの中に戦後賃金制度史を簡潔に要約し、かつ『能力主義管理』が実際に言っていたことと、その後実際に行われたこととの乖離を指摘し、結構分かったつもりの人に考え込ませる内容です。是非ご一読を。

Okapia Johnstoniさんも『日本の雇用終了』をレビュー

112050118 引き続き、アマゾンカスタマーレビューで『日本の雇用終了』への書評がアップされています。評者は、やはり前著を評していただいているOkapia Johnstoniさん。

http://www.amazon.co.jp/review/RZ0WIR1ZFK4GF/ref=cm_cr_pr_perm?ie=UTF8&ASIN=4538500046&linkCode=&nodeID=&tag=

こちらはかなり長めの力の入った書評です。

本書が研究対象とするのは、労働局に持ち込まれた個別労働紛争あっせん事案である。
これまでこの領域においては、典型的といえるあっせん事例の紹介はあっても、統計的・全体的な分析はなされてこなかった。
濱口氏の分析によって明らかとなったのは、日本の雇用社会(とりわけ中小企業)には、国家の制定法や判例法理がそのままには通用しないことである。
そして、それらを代替する「フォーク・レイバー・ロー」とも呼ぶべき雇用慣行が定着していることである。

あっせんに持ち込まれる紛争の多くは、コミュニケーション不全に根ざしたものだ。
そもそも我が国の雇用社会は「メンバーシップ型」であり、それぞれの職場が固有の文化を持つものである。
そのような風土において解雇の理由となるのは、客観的な「能力」よりもむしろ主観的な「態度」なのである。
労働者がこのような雇用慣行の「文法」を理解しないまま「発言(voice)」をすると、売り言葉に買い言葉で紛争が発生することがある。
そこで問題とされるのは、主張内容の正当性より以上に「主張することそれ自体」すなわち協調性に欠けると看做されることである。
また、経営不振や試用期間を理由とする解雇など、使用者の行為に法規範との乖離がみられる点についても、その一方的である点においてコミュニケーション不全の現象と言うことができよう。
判例法理においては、経営不振を理由とする整理解雇には使用者の説明・協議義務が厳しく求められる。また試用期間は決して「お試し期間」というわけではなく、労働者に対する教育を充分に行い、それでも尚改善の見込みがない場合にのみ解雇が許されるのだ。
こういった判例法理に比して、あっせん事案から浮き彫りとなるのは、如何に安易に労働者のクビが切られるかという現実である。
コミュニケーションが可能となるのは相手を自分と対等の「人間」と認めたときであるが、日常業務における力関係の不均衡が、契約の成立・解約の場面にまで影響を及ぼしているのである。

本書は研究者向けの専門書であるが、具体的事例の分析をした第2章は誰にとっても興味深いものであるはずだ。時間のある方には、なるべくじっくり第2章をお読みいただきたい。時間のない方には、第4章が僅か8ページで本書のダイジェストとなっている。
世間で労働法が守られていないことを指摘するのみでなく、「実際に世間で通用しているルール」がそれとは別にあることを示したところに本書の主眼があるので、先に第4章を熟読したうえで本書の全体を軽く通読するのが最も効率良く的を外さない読み方であるかもしれない。

また第5章では金銭解決のメリットについても触れられており、今後の政策的提言として注目すべきである。

このように、必ずしも読みやすいとはいえない研究報告書をしっかりと読み込んで的確に評していただけることは大変有り難いことです。

2012年5月27日 (日)

さすが濱口本!!

112050118アマゾンでも購入できるようになった『日本の雇用終了』ですが、さっそくアマゾンレビューがアップされたようです。

http://www.amazon.co.jp/review/R1SXU2M2RX23TH/ref=cm_cr_rdp_perm

「さすが濱口本!! 」というタイトルで、5つ星をいただきました。

濱口桂一郎先生の著書はいつも現実をしっかりと見たストーリーなので、頭の中に自然に溶け込んでいく。原理原則としての「法」、それに対して現実の労働社会、その両者の真ん中で現実社会を尊重しながら下される司法の判例法理や政策立法。素人ながらこの世界に少し頭を突っ込んでいる人間にとって濱口先生の理論ほど役に立つものはない。今回の『日本の雇用終了』を入手して、今度はフォーク・レイバー・ローという概念を教わった。言ってみれば「巷の労働ルール」だ。これもなるほどと腑に落ちる。前作の新書2冊も仕事に活用させていただいているが、このたびの著書もこれから社会に出て行く労働者予備軍に対する教育の中で、労働法や判例法理と併せて、世の中の現実として伝えていきたいと思います。

評者はTomさん。前著『新しい労働社会』『日本の雇用と労働法』もアマゾンで評していただいています。

http://www.amazon.co.jp/review/R20MJI3CUV3KHT/ref=cm_cr_rdp_perm

http://www.amazon.co.jp/review/R1B0KOB867UMYZ/ref=cm_cr_rdp_perm

非常勤職員ながら労働問題に係る仕事をさせてもらっている。
非正規雇用労働者を使用する事業主に対して、労働基準法を監督する立場から啓発指導する仕事である。

とのこと。こういう方に評価していただけるのは、とても嬉しいことです。

なお、POSSE今野晴貴さんのブログでも、ちょいと言及がありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/perspective0301/5505465.html(ロスジェネより過酷な「ポストロスジェネ」@内閣府「雇用戦略対話」2012年3月19日 )

・・・その上、実際には正社員になっても「いつでもやめさせられる」状態にはかわりないことが、最近の研究で明らかにされている。濱口桂一郎氏の『日本の雇用終了』(JIL)は、「正社員化」の虚構を暴きだした。

そういえば・・・

そういえば、あのころも、テレビ朝日の朝まで生テレビで、田原総一朗が幸福の科学とオウム真理教を呼んでどっちが正しいとかいう番組をやってたなあ。麻原彰晃が出てきて、もっともらしいことを言っていた。ある意味でマスコミの寵児だった。

はじめは道化の如く・・・。そう、あのころはみんなあんなものテレビ道化のたぐいだと思っていたんだよな・・・。誰も警察庁を笑えないよ。

労働組合の必要のないワタミの「労使一体」

昨日の東京新聞から、「過労社会 防げなかった死」というシリーズの一回目で、基本的にはそっちの問題意識が中心なのですが、この部分は、やはり特筆する値打ちがあるでしょう。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012052602000099.html(過労社会 防げなかった死<上> 急成長ワタミ「労使一体」)

ワタミフードサービス(東京)に入社して二カ月で自殺した森美菜さん=当時(26)=の同僚だった元男性社員(26)は、入社時の本社研修を忘れない。

同期の一人が会場で「労働組合はあるんですか」と尋ねると、人材開発部の社員が即座に答えた。「うちにそんなものはないし、必要ありません。問題が起これば迷わず相談してください」。会場がざわめいた。

四年たった今も、ワタミグループに労働組合はない。「創業者の渡辺美樹氏は社員を家族と言ってはばからない。その思想が背景にある」と元幹部は説明する。だが、“娘”だった森さんの葬儀に渡辺氏の姿はなかった。

ワタミの法令順守担当の塚田武グループ長は「わが社は労使対等というより労使一体。問題があれば内部通報制度もあり、従業員の意見を集約する機能を十分果たしている」と話す。

労働組合の存在を認めない「労使一体」というのは、つまり「使」と一体であるような「労」しか存在を許されないということでもあるわけで。

だがワタミフードサービスでは今も、従業員の意思が反映されないやり方で三六協定が結ばれ、労働基準法に抵触する状態が続く。従業員は、経営側の言うがままの労働条件を受け入れるしかない。

そもそも「労使一体」なのだから、「使」と異なる意思を「労」が持つはずがない。だから「使」が勝手に決めても、それは「一体」の「労」の意思であるはずである、と。

もとより、前々世紀のドイツの「ヘル・イム・ハウゼ」はじめ、そういう思想は歴史上いっぱいあるわけで、別に不思議ではありません。ただ、そういう思想の経営者が、リベサヨな人々からつい最近まで(あるいは未だに)持て囃されてきた/いるという点が、見る人が見ればいささか不思議な感想を持つかも知れません。

若き日の池田信夫氏

池田信夫氏のつぶやき:

http://twitter.com/#!/ikedanob/status/206617042676224001

0713fe530fcea06ff35722211e39f7b9_40私の友人は2人、中核派に殺された。それも誤爆だった。これから反原発デモに参加する人は、鉄パイプで殴り殺されるリスクを覚悟したほうがいい。

というところだけみると、まるでまったく無関係の学生がやられたみたいですが・・・

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/87b82fb7d88e3e98eaf045b8401db2c7週刊誌だけがテロと闘う日本

私の学生時代にも、私が部長だったサークル(社会科学研究会)で、革マルのメンバーが内ゲバで4人も殺された。念のためいっておくと、社研は(東大教授の)吉川洋氏も部長をつとめたアカデミックなサークルで、私自身も党派と無関係だったが、当時は革マルが駒場を拠点にしていたため、中核と革労協にねらわれたのだ。

池田氏の学生時代の末期はわたくしが駒場にいた頃と重なっていますが、少なくともわたくしが入学した時に先輩からこんこんと教えられたのは、社会科学研究会は革マルのフロントだから近づかない方がいいよ、という忠告でした。

それがどこまで正しい忠告であったか否かを判断することは、関わらなかったわたくしにはできませんが、少なくともそういう認識が一般的であったことは事実です。

さらに、わたくしが入学してすぐ、駒場で開かれていた革マル派の集会に顔を出していた新入生が、襲撃してきた他のセクトに殺されるという事件も起こったりしていて、ますます命が惜しければ社会科学研究会には近づかない方がいい、という雰囲気がありました。

もとより、セクトと無関係だった当時の一学生の感想に過ぎませんが、若き日の池田信夫氏が部長を務めていた社会科学研究会のメンバーが4人も中核派に殺されたのが全くの「誤爆」と言えるのかどうかには、いささか疑問があります。

少なくとも、わたくしの同期生であったその殺された学生が「誤爆」であったのに比べると、社会科学研究会のメンバーであると目星をつけられて殺されたわけですjから。

(追記)

稲葉振一郎氏の絵解き

https://twitter.com/shinichiroinaba/status/379984971923853313

W5s524vo1bu0xf6v1dxv元から単なる転向マルクス主義者や。発想の根幹はかわっとらん。彼にとって資本主義は前から暴力装置で、それを批判する代わりにそれに額づくようになっただけのこと。

少し冷静にドイツの制度でも

ネット上は今や熱狂を超えて炎上状態のようですが、こういう時こそ、冷静にものごとを考える訓練をした方が役に立ちます。

そうですね、たとえば、こういう簡単な紹介でも・・・、

http://www.ilcjapan.org/chojuGIJ/pdf/12_02_2.pdf(ドイツにおける高齢者の生活)

筆者は、在ドイツ日本国大使館 一等書記官の山口高志さん。

淡々とドイツの高齢者向け社会保障制度を紹介する中で、

ドイツにおいては、困窮した高齢者が尊厳を失うことなく基礎的な生活を営めるよう、65歳以上で生活のための所得・資産が十分でない者に対し、「老齢基礎保障」という社会扶助が存在する。その基本的な仕組みは、基礎的生活を営む上での資金需要と負担能力を比較して足らざる部分を給付するという形式であるが、通常の社会扶助(生活保護)との違いは、配偶者以外の親族が超高額所得者(年間10万ユーロ〈日本円にして1,400万円程度〉以上の所得があると見込まれる者)でない限り、その負担能力が問われることはなく、また、事後の補償も求められないことである。この制度によって、高齢者は、生活困窮に陥っても、親族に迷惑をかけることなく、基礎的な生活を営むことが可能となっている。
ただ、この老齢基礎保障はあくまでも本人及び配偶者の資力調査を伴う社会扶助の一種であることには留意する必要がある。日本では、一部の政党が主張している「最低保障年金」のようなものと誤解されることがあるが、両者は趣旨も態様も異なるものである。

ドイツの通常の社会扶助(生活保護)も、当然補足性原理がありますから、配偶者以外の親族による援助も求められるわけですが、高齢者については「生活困窮に陥っても、親族に迷惑をかけることなく、基礎的な生活を営むことが可能」とするために、上記のような仕組みとしているわけです。

実をいえば、世界的に公的扶助受給者の多くは圧倒的に現役世代であって、だからこそ彼らを働かせるためのワークフェア政策がいろいろととられていて、それが議論の焦点になっているのですね。

日本もようやく現役世代の生活保護受給者が増えてきて、そういうまっとうな議論が始まろうとしていたところへ、旧来型のいまさら働けとはとても言えないような高齢受給者をめぐって、これまたまことに旧来型の「子どもが養え」論議が話の中心になって燃えさかってしまって、なんともはや、というところなのですが、そのなんともはや感覚が政界にもマスコミ界にもまったく見当たらないようです。

2012年5月26日 (土)

「山口的なるもの」つまりhamachanの言う「リベサヨ」

古市憲寿さんと稲葉振一郎さんの会話から;

http://twitter.com/#!/poe1985/status/205913556280025089

森政稔の橋下論、「独裁の誘惑」(『現代思想』5月号)が超クール。実は、橋下批判の急先鋒である山口二郎などの政治学者は、戦後ずっと、自民党中心の割拠的利益政治を批判しながら、「強いリーダー」を求めてきた。それがなぜ橋下批判になるのか。

http://twitter.com/#!/shinichiroinaba/status/205918902591553536

あともうひとつ、山口先生個人は橋下を批判しているとしても、「山口的なるもの」つまりhamachan先生の言う「リベサヨ」のなかには橋下歓迎の雰囲気はいまだ濃厚にあるのではないか。三大紙なんか結構そんな感じじゃないの?

http://twitter.com/#!/shinichiroinaba/status/205917447163883521

山口先生がいろいろブーメランで自業自得だというのはもういい加減言い古されたネタではあるし民主党へのコミットについては反省の弁を述べておられたこともある。

言い古してた当人ですが(笑)、その言い古してた過去の発言を、ご参考までに。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_46a5.html(山口二郎氏の反省)

今頃あんたが後悔しても遅いわ、なんて突っ込みは入れません。この文章自体がまさにそれを懺悔しているわけで、人間というものは、どんなに優秀な人間であっても、時代の知的ファッションに乗ってしまうというポピュリズムから自由ではいられない存在なのですから。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-c012.html(山口二郎氏と竹中平蔵氏の対談)

まさに山口二郎氏のような「政治学の立場からの批判の矢」が、朝日新聞をはじめとするリベラルなマスコミをも巻き込んで多くの国民を、とにかく極悪非道の官僚を叩いて政治主導のカイカクをやっているんだから正しいに違いないという気分にもっていったのではないかと私は思うわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-54bc.html(政治とは悪さ加減の選択)

北の山口二郎さんといえば、名古屋の後房雄さんですが、河村市長を応援してしまった経験がどこまで身に沁みておられるのかなぁ、と思わせられるブログ記事が。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c357.html(こりゃだめだ)

その魔法使いの弟子たちの挙げ句の果てが大阪やら名古屋であるという教訓は、いったいどこに行ったのでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9826.html(山口二郎氏の反省その2 参加や直接政は必ずしも民主主義を増進させないのか!?)

立派な政治学者が今頃になってそんなことを言い出さないでよ!!といいたくなりますね。

実は、山口二郎氏と私は同年齢。同じ年に同じ大学に入り、同じような環境にいたはずですが、私がその時に当時の政治学の先生方から学んだのは、まさに歴史が教える大衆民主主義の恐ろしさであり、マスコミが悪くいう自民党のプロ政治のそれなりの合理性でした。

・・・今ごろ痛感しないでよ!と言いたいところですが、山口氏の同業者には未だに痛感していない、どころかますます熱中している方もおられるようなので、それ以上言いませんが。

銀杏並木をご通行中の皆さま・・・

今は昔、学生運動は既に世の表舞台から消えていたとはいえ、なおその残照が学内のここかしこに残っていたあのころ、「銀杏並木をご通行中の皆さま・・・」と毎日呼びかけていたあのグループがいよいよ消え去ろうとしているようです。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35255(ついにとどめを刺される「全学連」)

現在5つある全学連の中で最大の規模を持つとされるのが、「民青系全学連」と呼ばれる全学連である。民青とは、正式名称は日本民主青年同盟といい、「日本共産党の導きを受ける」青年政治組織である。その民青が執行部で主導権をとるため、民青系と呼ばれる。その民青系全学連が近く解散する可能性が高くなってきた。

 引導を渡すのは、「東京大学教養学部自治会」(通称「東C自治会」)だ。代々民青が執行部を掌握し、全学連を主導する役割を果たしてきた大学自治会である。それが今年4月、東C自治会執行部が全学連脱退を決議し、6月の代議員会で承認されれば全学連を脱退する。東C自治会の脱退は、民青系全学連にとどめを刺し、解散に追い込むと見られている。

未だに残っていたのか、という声もあるようですが、私より上の年齢の人々にとっては、それぞれに感慨深いものがあるのではないでしょうか。

・・・そして9月には日本共産党・民青に対する強烈な違和感を感じ始める。東C自治会は、第一に東大教養部学生の代表であり、優先されるのは党ではなく学生である。にもかかわらず、それまで受け入れてきた全学連の指導という名の自治会への介入が、あまりに学生の意向を無視している。そして何氏は確信した。「これはカルトだ」と。

なんというか、労働運動の世界では60年前に当時の産別会議を舞台に言われていたような言葉が出てくるあたりが、何とも言えないものがありますが。

ただ、労働運動と違うのは、そちらは共産党支配を否定して労働組合主義を掲げていくわけですが、こっちはたぶん、学生運動自体がもうすぐ完全消滅するというあたりでしょうかね。

いや、そうじゃない、とこの筆者の「代々木小夜」氏はいいますが。

思い起こせば全学連も、終戦直後の価値観の崩壊をきっかけにして生まれた。全学連の崩壊も、戦後形成された「公共性」に対する価値観が変化するのについていけなかったからだとも言える。

ならば全学連の崩壊は、これまでとは全く違った「新全学連」結成の端緒になるかも知れない。

どんなもんでしょうか。

2012年5月25日 (金)

ワーカホリックどもよ、労働法で自分を守れ! by 常見陽平

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常見陽平さんが叫んでいます。

http://hardwork.nifty.com/cs/catalog/hardwork_topics/catalog_120523000117_1.htm(ワーカホリックどもよ、労働法で自分を守れ!)

・・・そのためにな、労働法を学ぶんだよ、諸君。労働法というと、とても難しく聞こえるし、俺も専門ではないのだが、庶民が知っとくべきレベルのことは押さえておくべきなのだ。

常見さんが手にしているのは、いうまでもなくPOSSE今野さんの『マジ労』ですが、

これでサラリーマン生活は、いきなりバラ色にはならないが、灰色からは脱出できるぜ。

112483そのうしろに、申し訳なさそうにこういう本も紹介されています。

労働法と言えば、濱口桂一郎先生の『日本の雇用と労働法 』(日経文庫)もおすすめだ。こちらは、普段の会社での労働、日本の企業社会の素朴な疑問に対する答え、ヒントが見つかる入門書だ。

ということで、最後は

労働法を使いこなして、愛され社ペット生活しようぜ。ノマドワーカーwも読んどけ。いや、むしろ「会社、嫌だなあ。ノマドワーカーになっちゃおうかなあ。やっぱ職業=自分で人生の実験をするぜ」なんて思っている厨二病な君も、これらの本を読んで企業社会を生き抜く知恵をつけて欲しいぜ!夜露死苦!

ということでした。

『グローバル化・社会変動と教育2文化と不平等の教育社会学』

9784130513180 本田由紀さん、筒井美紀さんより、『グローバル化・社会変動と教育2文化と不平等の教育社会学』をお送りいただきました。第1巻に引き続き、ありがとうございます。

http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-051318-0.html

イギリスの教育社会学者たちが編んだ,定評あるリーディングス最新版の訳書第2巻.急激な社会変動は教育の場における文化を変貌させ,さまざまな問題が現出している.本書は各国の興味深い事例を交えつつ,現代の教育社会を描き出す.第2巻の編訳者による論文を巻末に収録.

収録論文は以下の通りですが、

1章 統治性と教育社会学(C・マッカーシー、G・ディミトリアディス/大田直子訳)
2章 新しい家族とフレキシブルな労働(M・カーノイ/平沢和司訳)
3章 社会的相続と機会均等政策(G・エスピン-アンデルセン/小内透訳)
4章 社会的紐帯から社会関係資本へ(E・マクナマラ、E・B・ウェイニンガー、A・ラルー/稲垣恭子訳)
5章 バイリンガリズムをめぐる政治的駆け引き(P-S・ライ、M・バイラム/酒井 朗訳)
6章 モダニティの歩兵たち(P・ウィリス/山本雄二訳)
7章 民主主義、教育、そして多文化主義(C・A・トーレス/小玉重夫訳)
8章 「ジュリアには問題がある」(E・ヒョルン、R・サーリョ/志水宏吉訳)
9章 教育における市場(H・M・レヴィン、C・R・ベルフィールド/小林雅之訳)
10章 教職の専門性と教員研修の四類型(A・ハーグリーブス/佐久間亜紀訳)
11章 教育の経済における成果主義と偽装(S・ボール/油布佐和子訳)
12章 パフォーマンス型ペダゴジーの枠づけ(M・アーノット、D・レイ/山田哲也訳)
13章 教育的選別とDからCへの成績の転換(D・ギルボーン、D・ユーデル/清水睦美訳)
グローバル化・社会変動と教育―解説にかえて(苅谷剛彦・志水宏吉・小玉重夫)

これは版元のHPをコピペしたのですが、現実の本とは順序がちょっと違いますね。これで第1章になっているマッカーシーらの論文は、実際は第13章になっています。以下1章ずつずれています。たぶん、編集の最終段階で変わったのが反映されていないのでしょうけど(おおい、東大出版会!)。

巻末の苅谷剛彦・志水宏吉・小玉重夫氏らによる解説が充実していて、とりあえずはまずこちらを読むのがいいでしょう。とりわけ、志水氏による日本の教育についての次のコメントは、労働をはじめあらゆる分野にも共通する問題でしょう。

・・・現代の日本においては、様々な後期近代的な現象が同時並行的に、しかも釣り合いのとれないまま、時にはねじれや逆説を伴いながら進行している。自立した個人が育っていないというリベラルな言説が、市場での個人の選択を強調する議論と同居する。そもそも社会関係の密度の高い社会において、その社会的紐帯の弱体化が言われつつ、同時に、選択的に形成されるネットワークの社会関係資本としての役割が高まる。もともと教育段階が上になるに従って私学への依存度が高まる、市場的で個人の選択に依存する仕組みを持ちながら、さらなる教育の市場化が求められる。教師の共同性や同僚性が質の高い教職の専門性を維持してきたとの海外からの高い評価がありながら、それらを解体して個人化した教員評価のスキームに載せようとする、などなど、跛行性が随所に見られる。しかも、こうした変化をもたらしている一因が、「海外の動向」の無批判な摂取であったりする。このようにもつれ合った、ねじれや逆説を丁寧に解きほぐしていくことが日本の教育論には求められている。

まったく同じように、「合った、ねじれや逆説を丁寧に解きほぐしていくこと」が日本の労働論にも、そしていうまでもなく政治経済社会のあらゆる分野の議論に求められているのでしょう。

2012年5月23日 (水)

HRmicsレビュー@東京

先週の大阪バージョンに続き、今夕は東京で海老原さんのHRmicsレビューに出てきました。

http://www.nitchmo.biz/index.cgi?c=mics_review-1&pk=20

本日は、労働法学者は水町勇一郎さん、企業実務家は新日鐵ソリューションの中澤二朗さんという大御所にNECの田中宏昌さんという若手を配する心憎い取り合わせ。わずか1時間のパネルディスカッションでしたが、大変面白い議論となりました。

私が一番かき乱していたという説もありますが・・・。

だから、日本の労働組合はギルドじゃないので・・・

finalventさんが極東ブログで、

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/05/post-145a.html(職業別労働組合が奨学生を支援するといいんじゃないの)

以前、米国の職業別組合みたいなのものに所属していて、それなりに面白い体験でもあった。・・・日本でも、いろいろ就職が問われていて、いろいろな模索をする時代になったので、そういう職業別の労働組合が主体になって、学生にその分野の仕事を伝えようとしたり、奨学金を出すようにしたらいいんじゃないか。

日本だと、よくわからないのだが、労組というかユニオンというのは、職業別というより、業界とかあるいは大手一社の結束という印象があるけど、もっと自分たちのやっているプロフェッションを自覚して、その仕事に就いてくれるように学生にアピールするとよいのではないか。すでにそういう試みがあるのか、知らないので、とんちんかんなことを書いているのかもしれないが。

いや、だから、そういうのはほとんどないのが日本なわけで・・・。

そこのところが、かつて日本の労働組合をギルドだと罵った池田信夫氏に対して、いやギルドだったらよかったんだけど、そうじゃないから難しいんだよ、と軽く批判したところ、膨大なイナゴさんともども逆上した挙げ句の誹謗中傷を受けたという昔の思い出につながる話なわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_a4ee.html(半分だけ正しい知識でものを言うと・・・)

池田信夫氏がブログで「労働組合というギルド」という小文を書いているが、

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/9edbf325d17cc62254dcf71ecc6395f1

典型的な半可通、というかなまじ半分だけ正しい知識でものを云うとどういうへんちくりんな結論になるかという実例。

いや、専門家にはいろいろと説があっていちがいに断定はできないものの、労働組合の源流が中世のギルドであるという認識はおおむね正しい。ただし、それはいかなる意味でも

つまり労組は「正社員」による独占を守る組織なのだ。

ではありえない。逆であって、「組合員による独占を守る組織」なのである。

組合へのメンバーシップがキモなのであって、企業へのメンバーシップとはまるで方向が正反対。

これに対して日本の企業別組合というのは、企業へのメンバーシップ(これを「正社員」という商法上奇妙な言葉で称する)に立脚したものであって、まさに「正社員による独占を守る組織」なのである。この性格は先日のエントリーでも書いたように、戦間期から生じていたわけだが。

池田氏の見解そのものも

若年層に非正規労働者が増えていること・・・を解決するには、労働組合の既得権を解体し、正社員を解雇自由にするしかない。

解雇自由にする代わり、職業紹介業も自由化して中途採用の道を広げれば、みんな喜んで会社をやめるだろう。

と、まことに乱暴だが、賛成反対以前に、「労働組合の既得権」を標題に掲げるギルドとしての既得権とは全く正反対の企業メンバーとしての既得権という意味で使っている論理矛盾への意識がまるでないという点で既にしてアウト。

ギルド的労働組合は解雇規制などではなく、入職規制がキモであって、その点において「職業紹介業の自由化」と対立する。

とにかくこういうなまじ半分だけよく分かったような議論が一番始末に負えない。

いや「ギルド」などと知ったかぶりをせず、初めから現代の企業別組合の話だけしているんですといえば、賛成反対は別としてこういう苦情を言う必要はないのだが。

(追記)

ギルド的組合と正社員組合は違うんだよと云っているのにそれが判らないひとだな。企業別組合以外の組合を想像したこともないのだろうが。

これも2007年9月というと、もう5年近くも前のことになりますね。

finalventさんのブログからおもわず回想にふけってしまいましたが、finalventさんはこういうことも言われています。

もしかすると絵空事のような響きを持つのかもしれないけど、学生さんたちが、なんのために勉強をするかというとき、もちろん、自分の教養を高めるためというのもあるけど、職業技能の基礎を得るというのもあるわけなので、そういう志向に対して、社会の側で、現役のプロフェッショナルから、その集団の意志として、支援する仕組みがもっとあるとよいように思う。

まあ、労働組合が主体に、というのはかなりの程度絵空事ではありますが、学生の職業技能向上に現役のプロフェッショナルが支援する仕組みというのは、もう少しまじめに考えてみてもいいかもしれませんね。

若者は社会を変えるか@労働政策フォーラム

例によって、労働政策フォーラムの宣伝ですが、今回は読者の関心も高いと思われる「若者」がテーマです。例によって、小杉、堀という現JILPT研究員に加え、本田由紀さんも出てきます。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20120630/info/(若者は社会を変えるか―新しい生き方・働き方を考える―)

若者の「自立」のモデルは輪郭を失い、就業をはじめ社会保障や介護などの様々な面で若者にとって閉塞的な状況が続いているように見えます。しかし一方では、それを破る若者たちの主体的な動きが見え始めています。とくに、大震災を契機としてそれは顕在化してきました。

本フォーラムでは、生き方・働き方を変革していく若者たちの主体的な取り組みにスポットを当て、その現状と、また、それを支える上で必要な政策について検討します。

日時は2012年6月30日(土曜)13時30分~17時00分(開場13時) ですが、場所はいつもの朝日新聞のホールではなく、六本木の日本学術会議講堂になります。

六本木といっても、最寄り駅は千代田線の乃木坂です。いまエルミタージュ展をやってる国立新美術館の隣です。

http://www.scj.go.jp/ja/other/info.html

プログラムはこういう感じでして、

13時30分~
開会挨拶 小杉 礼子 労働政策研究・研修機構統括研究員/日本学術会議連携会員

講演
社会構造の変容と若者の現状 本田 由紀 東京大学大学院教育学研究科教授/日本学術会議連携会員

若者の働き方と意識の変化―「若者のワークスタイル調査」から― 堀 有喜衣 労働政策研究・研修機構副主任研究員

実践報告
閉塞が一瞬だけ開けた被災地―ソーシャル・アントレプレナーと産・官・学の関係についてのケーススタディ―  菅野 拓 一般社団法人パーソナルサポートセンター事務局長 大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員

若者の新しい働き方―協同労働の実践―髙成田 健 ワーカーズコープ・センター事業団神奈川事業本部本部長

15時50分~

パネルディスカッション

パネリスト:
本田 由紀 東京大学大学院教育学研究科教授/日本学術会議連携会員
菅野 拓 一般社団法人パーソナルサポートセンター事務局長 大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員
髙成田 健 ワーカーズコープ・センター事業団神奈川事業本部本部長
堀 有喜衣 労働政策研究・研修機構副主任研究員

コメンテーター:
渡邊 秀樹 慶應義塾大学文学部人文社会学科教授/日本学術会議連携会員

コーディネーター:
宮本 みち子 放送大学教養学部教授/日本学術会議連携会員

菅野さんや高成田さんは、ここ数年堀有喜衣さんが手がけてきている「若者の新しい働き方」の研究の関係になりますが、本田由紀さんとどういうコラボになるかならないか興味深いところですね。

例によって人気の出るフォーラムですので、お申し込みはお早めに。

2012年5月22日 (火)

明日朝のTBS「朝ズバッ」に顔を出すかも知れません

明日朝のTBS「朝ズバッ」に顔を出すかも知れません。

出さないかも知れません。

どういう顔ですかね?

(追記)

今朝出たようです。

私は見てないのですけど。

(再追記)

J-CASTに、その記事が載っているのですけど、

http://www.j-cast.com/tv/s/2012/05/23132973.html

国際労働機関(ILO)が22日(2012年5月)に発表した報告書によれば、2012年の世界の15歳から24歳までの若年層の平均失業率は、前年より0.1ポイント高い12.7%に達する見通しであることが明らかになった。井上貴博アナによると、世界の失業人口は7460万人で、少なくとも2016年までは現行水準で高止まりすると見られ、「全世代の平均失業率は6.2%。若者の失業率はそれよりも倍以上と言われています」

   主要国では、イギリスでが21.9%、スペインは50%近くに達し、若者の2人に1人は仕事がない。

企業は即戦力の中年優先

   司会のみのもんた「えっ、2人に1人が無職。なんでまたそんな事態になったの」

井上「若者の失業率上昇の原因は、先進国では依然として低成長が続き、途上国では人口増に伴って若者たちが大幅に増えているためです。さらに、08年に起きたリーマンショックとそれに続く金融危機をきっかけに、失業率が上昇に転じました」

   労働政策が専門の濱口桂一郎氏は「若者には経験もなくスキルもない。中年には経験もスキルもあり即戦力として使える。若者か中年かといえば、中年を優先して雇用する傾向が世界的に広がっている」と説明する。

という風にまとめられてしまっていますが、正確には、「日本以外のジョブ型の国では、スキルのない若者より経験豊富な中年を優先するのが当たり前で、昔から若者の失業が大問題だった。日本はむしろ例外的に中年より若者の方が就職しやすい国だったが、90年代以来それが揺らいできている・・・」と言うような話をしたつもりです。

まあ、しょうがないですけど。

2012年5月21日 (月)

第123回日本労働法学会

昨日、関西学院大学(「くゎんせいがくいん」と発音しなければならないのだそうです)で第123回日本労働法学会が開かれ、わたくしも一傍聴者として参加して参りました。

http://www.rougaku.jp/contents-taikai/123taikai.html

午前中の個別報告では、鈴木俊晴さんの「フランス労働医が有する就労可能性判定機能の史的形成と現代的展開」が興味深かったのですが、不適格認定と再配置打診義務というところで、どこまでジョブを変えろと言えるのか、というあたりに興味を持ったら、奇しくも森戸さんが同じ質問をされていました。

午後のミニシンポでは、わたくしも若干関わりのある労働審判調査グループの報告に出ていましたが、何というか、この3年間労働局あっせんの実例をいやというほど見てきた目からすると、労働審判の解決金が安すぎるという言葉は、世界は何層構造にもなっているのだなあ、ということを改めて感じさせるものでもありました。

「労働審判制度の実態と課題」
                    司会:山川隆一(慶應義塾大学)
                    報告者:佐藤岩夫(東京大学)
                    高橋陽子=水町勇一郎(東京大学)
コメント:宮里邦雄(弁護士)
                    中山慈夫(弁護士)
                    野田進(九州大学)

112050118その延長線上というわけでもないのですが、今日の午前中は大阪弁護士会の労働問題特別委員会にお呼ばれして、『日本の雇用終了』の内容についてお話しして参りました。

この委員会は労使双方の側の弁護士さんが入っているもので、経営法曹の松下守男さんにご依頼を受けたのですが、雑誌などでよくお見かけする労弁の城塚健之さんなどもいらして、いろいろ突っ込みを受けました。

まったく労働法とは関係ないのですが、西宮というのは日本酒の名所なんですね。酒蔵通りなんてのもあるんです。

2012年5月19日 (土)

大内伸哉さんの『日本の雇用終了』評

112050118ということで、去る17日に海老原さんのニッチモのHRmicsレビューで大内伸哉さんとご一緒したわけですが、その際に(稀覯本の(笑))『日本の雇用終了』をお渡ししたところ、早速今日、「アモーレと労働法」でたいへん丁寧に突っ込んだ書評をいただきました。

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-dad3.html(日本の雇用終了)

労働局のあっせん事例を詳しく紹介した資料的な部分が大半を占めますが,それはそれで面白いのですが,さらに重要なのは濱口さんの分析です。要するに,あっせん事例からわかることは,職場における生ける法(「フォーク・レイバー・ロー」と呼ばれています)が,裁判規範とは別に存在しているということです。「フォーク・レイバー・ロー」のなかには,裁判となると否定されるものの,現実には妥当していて,あっせんの場では通用するようなルールがあるのです。そして,こうした,「フォーク・レイバー・ロー」の一つとして濱口さんが指摘するのは,「態度」が悪ければ雇用終了となるというルールです。

これは、その座談会でも議論になりまして、

私が定年制の機能として,雇用終了機能と雇用保障機能とがあり,近年では,この雇用終了機能が問題視されるようになったのだが,定年延長や継続雇用の強制をする以上は,もう一つの雇用保障機能を弱める必要になり,能力不足を理由とする解雇のような考え方を取り入れる必要があるのではないか,という趣旨のことを述べたところ,濱口さんは,そもそも雇用保障機能といったって,そんなものは大企業でしかなく,中小企業の労働者にはほとんどないのではないか,裁判になったら勝てるとしても,莫大な時間や金をかけて労働組合の後ろ盾もなく戦う人はいないだろう,という点,また企業はそもそも能力不足を理由とする解雇なんてしていなくて,態度の悪さによる解雇のほうが多い,という指摘をされ,労働法学者は雇用社会の一部しか見ていないのだという批判をしてくださいました。
 聴衆は,私たちが喧嘩を始めたのではないかと思ったようですが,そんなことはないのであり,私は雇用社会の実態がそんなものであろうということは,十分に承知しているのです。・・・

17日のパネルは、聴衆の皆さんにとっても大変面白いものだったのではないかと思います。

実は、17日の相方に大内さんを、というのは、私が海老原さんにお願いしたのです。それは、リアルな現実感覚と、筋の通った理論性を両方兼ね備えている方というのはあんまりいないからなんですね。一方だけだと話がアンバランスになってしまいます。

そのバランスの取り方が、しかしながら、大内さんとわたくしではかなり対照的な方向性を示しているところがまた面白いところで、それが同じ方向では面白い話にならないんですね。

来週の水町さんもそうで、やはりリアルな現実感覚と筋の通った理論性のある方です。そして(一部共通するところはあるんですが)やはりかなり方向感覚が違う。

ステークホルダー民主主義とは無責任なポピュリズムの反対

池田信夫氏が、それ自体はまっとうな議論を、おかしな用語法に流し込んでいるようです。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51790132.html(「ステークホルダー民主主義」の終焉)

「消費地の理解」とは何のことか。消費者の過半数が賛成しないと原発は運転できないのか。「再稼働に反対する各種の世論調査」というのは朝日新聞の調査のことだろうが、産経の企業アンケートでは48%が再稼働賛成だ。いずれにせよ世論調査も再稼働の法的要件ではない。

かつて日本的経営を「ステークホルダー資本主義」の一種として賞賛する議論が流行したことがあるが、このように多くの「世論」が政治的決定に関与するのはステークホルダー民主主義ともいえよう。企業統治については多くの研究があるが、法的な決定権者である株主以外のステークホルダーが意思決定に関与することは交渉問題を増やして非効率な結果をまねくので、株主資本主義がもっとも効率的だ、というのがほぼ一致した結論である。

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すくなくとも、拙著『新しい労働社会』で述べたのは、そういう大阪あたりを震源地とする無責任なポピュリズム政治にもっと対極的なものこそが、利害関係に立脚するステークホルダー民主主義だということだったのですが、

 大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。

 利害関係者のことをステークホルダーといいます。近年「会社は誰のものか?」という議論が盛んですが、「会社は株主のものだ。だから経営者は株主の利益のみを優先すべきだ」という株主(シェアホルダー)資本主義に対して、「会社は株主、労働者、取引先、顧客などさまざまな利害関係者の利害を調整しつつ経営されるべきだ」というステークホルダー資本主義の考え方が提起されています。そのステークホルダーの発想をマクロ政治に応用すると、さまざまな利害関係者の代表が参加して、その利益と不利益を明示して堂々と交渉を行い、その政治的妥協として公共的な意思を決定するというステークホルダー民主主義のモデルが得られます。利害関係者が政策決定の主体となる以上、ここでは妥協は不可避であり、むしろ義務となります。妥協しないことは無責任という悪徳なのです。労働問題に関しては、労働者代表が使用者代表とともに政策決定過程にきちんと関与し、労使がお互いに適度に譲り合って妥協にいたり、政策を決定していくことが重要です。

少なくとも現在の日本では、池田信夫氏が上記エントリで具体的に批判している対象の人々が、自分の意見も人の意見もそれぞれに利害に基づく立場というのがあり、その間で辛抱強く利害調整をしていかなくてはいけないなどという発想とは、まったく対極的な世界に生きていることだけは間違いないわけです。

そういう絶対的唯我独尊的な人々を、さまざまなステークホルダーの一つではなく、唯一の「法的な決定権者」にしてまったらどういうことになるか、それを考えることこそが、歴史を学ぶものの務めでもあるわけです。

今必要なのは、「電気がなかったら俺たちの生活どうしてくれるンや」というまさにステークホルダーの利害そのものの声のはずなのですが。

(ついでながら、こういうねじ曲げのロジックは「第何法則」といえばいいのでしょうか)

2012年5月18日 (金)

『新しい労働社会』第7刷

4004311942本日、岩波書店より、拙著『新しい労働社会』の第7刷が届きました。

2009年の7月に刊行してから約3年弱ですが、この間、ずっと心ある人々に読み継がれてきたことを、著者として心より感謝申し上げます。

第1刷から中身はまったく変わっておりません。ひと言も変える必要なく、そのまま現在の状況下でもお読みいただけると思います。いや、新書本というのは本来そういうもの、いや10年、20年読み継がれるのが当たり前の本のはずですが、昨今そうとばかりも言えないような出たらそれで終わりの名ばかり新書本が溢れていますからね。

ただ、届いてからあっと思ったのは、奥付の著書に『日本の雇用終了』を追加しておけばよかったかな・・・という点でした。これは次回の増刷の時にでも。

ふつうのエリートをノンエリートに着地させるには@海老原嗣生

昨日、ニッチモのHRmicsレビューが大阪であり、海老原嗣生さんの「ふつうのエリートをノンエリートに着地させるには」と題する講演の後、わたくしもはいってパネルディスカッションをいたしました。

http://www.nitchmo.biz/index.cgi?c=mics_review-1&pk=20

定年が65歳になるということは、55歳で役職定年をしたあとに、10年も雇用が続くことになります。役職を外れた熟年世代のモチベーションを10年も保つことはかなり難しいはず。つまり、もう、年功カーブを緩くして、全員一律型65歳まで長期雇用するという対策では、対応が難しいでしょう。そのために今、何をすべきでしょうか?

Part1
【テーマ】 ふつうのエリートをノンエリートに着地させるには
【講 師】 HRmics編集長 海老原 嗣生

Part2
【テーマ】 定年制をめぐる諸問題についての、識者・現場担当者の座談会
【座談会登壇者(予定)】
司会:海老原 嗣生
識者:濱口桂一郎氏、大内伸哉氏(大阪のみ)、水町勇一郎氏(東京のみ)

Part3
【テーマ】 懇親会の部(東京のみ)
セミナーの話者を交えて、ご参加いただいた方々の情報交換の場を設けさせていただきます。

というわけで、昨日は大内伸哉さんが出られました。来週水曜日の東京編では水町勇一郎さんが出られます。

古賀茂明氏についての本ブログにおける若干の言及

http://www1.kepco.co.jp/notice/20120517-1.html(本日のテレビ朝日「モーニングバード」での、今夏の電力需給に関する報道内容についての当社からのお知らせ)

本日(平成24年5月17日)、テレビ朝日「モーニングバード」の番組内で、大阪府市統合本部特別顧問・古賀茂明氏の「火力発電所でわざと事故を起こす、あるいは事故が起きたときにしばらく動かさないようにして、電力が大幅に足りないという状況を作り出してパニックをおこすことにより、原子力を再稼動させるしかないという、いわば停電テロという状態にもっていこうとしているとしか思えない」というインタビューが紹介されましたが、当社として、そのような事を検討している事実は一切ありません。

4062170744ついにこういうことをやらかしてしまった「輝ける脱藩官僚の星」について、本ブログがどういう視点で見てきたか、いくつかのエントリを改めて引用しておきたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-916a.html(古賀茂明氏の偉大なる「実績」)

正直言って、ここ十数年あまりマスコミや政界で「正義」として語られ続け、そろそろ化けの皮が剥がれかかってきたやや陳腐な議論を、今更の如く大音声で呼ばわっているような印象を受ける本ではありますが、それ自体は人によってさまざまな見解があるところでしょうし、それを素晴らしいと思う人がいても不思議ではありません。

彼が全力投球してきた公務員制度改革についてもいろいろと書かれていますが、不思議なことに、公務員全体の人数の圧倒的多数を占める現場で働くノンキャリの一般公務員のことはほとんど念頭になく、ましてや現在では現場で直接国民に向かい合う仕事の相当部分を担っている非正規公務員のことなどまるで関心はなく、もっぱら霞ヶ関に生息するごく一部のキャリア公務員のあり方にばかり関心を寄せていることが、(もちろんマスコミ界や政界の関心の持ちようがそのようであるからといえばそれまでですが)本来地に足のついた議論を展開すべき高級官僚としてはどういうものなのだろうか、と率直に感じました。まあ、それも人によって意見が分かれるところかも知れませんが。

しかし、実はそれより何より、この本を読んで一番びっくりし、公僕の分際でそこまで平然とやるのか、しかもそれを堂々と、得々と、立派なことをやり遂げたかのように書くのか、と感じたのは、独占禁止法を改正してそれまで禁止されてきた持株会社を解禁するという法改正をやったときの自慢話です。

不磨の大典といわれた独禁法9条を改正するために、当時通産省の産業政策局産業組織政策室の室長だった古賀茂明氏は、独禁法を所管する公正取引委員会を懐柔するために、公取のポストを格上げし、事務局を事務総局にして事務総長を次官クラスにする、経済部と取引部を統合して経済取引局にし、審査部を審査局に格上げするというやりかたをとったと書いてあるのですね。

嘘かほんとか知りませんが、

公取の職員はプロパーなので、次官ポストが出来るというだけで大喜びするはずだ。公取の懐柔策としてはこれ以上のものはないという、という私の予想は的確だった。

思った通り、公取は一も二もなく乗ってきた。ただ、公取としては、あれだけ反対していたので、すぐに持株会社解禁OKと掌を返しにくい。・・・

・・・公取の人たちは「こんなことをやっていると世間に知れたら、、我々は死刑だ」と恐れていたので、何があっても表沙汰には出来ない。

この独禁法改正が、今のところ私の官僚人生で、もっとも大きな仕事である。

純粋持株会社の解禁という政策それ自体をどう評価するかどうかは人によってさまざまでしょう。それにしても、こういう本来政策的な正々堂々たる議論(もちろんその中には政治家やマスコミに対する説得活動も当然ありますが)によって決着を付け、方向性を決めていくべきまさ国家戦略を、役所同士のポストの取引でやってのけたと、自慢たらたら書く方が、どの面下げて「日本中枢の崩壊」とか語るのだろうか、いや、今の日本の中枢が崩壊しているかどうかの判断はとりあえず別にして、少なくとも古賀氏の倫理感覚も同じくらいメルトダウンしているのではなかろうか、と感じずにはいられませんでした。

わたくしも公務員制度改革は必要だと思いますし、とりわけ古賀氏が関心を集中するエリート官僚層の問題よりも現場の公務員のあり方自体を根本的に考えるべき時期に来ているとも思いますが、すくなくとも、国家の基本に関わる政策を正攻法ではなくこういう隠微なやり口でやってのけたと自慢するような方の手によっては、行われて欲しくはない気がします。

それにしても、通常の政策プロセスで、それを実現するために政治家やマスコミに対して理解を求めるためにいろいろと説明しに行くことについてすら、あたかも許し難い悪行であるかのように語る人々が、こういう古賀氏の所業については何ら黙して語らないというあたりにも、そういう人々の偏向ぶりが自ずから窺われるといえるかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-9945.html(そうだよね!と共感できる、同じ視点のコメント)

古賀茂明氏の著書について、先日のエントリに「ようやく同じ視点のコメントが・・・」という共感の声が届きました。

http://pu-u-san.at.webry.info/201106/article_94.html

>「改革派官僚」古賀茂明氏については、新たな動きが大きく報じられているけれど、各方面の論客の皆様からも、やはり、いろいろな発信が。

池田信夫さん・・・もなかなか興味深い。「なるほど」と、説得力を感じるのです。

当然のことながら、改革の同志とも言える高橋洋一さんも大いに発信。・・・

でも、かもちゃん自身は、ベストセラーになっている「日本中枢の崩壊」の中身について、かなり違和感を感じていて、・・・それと同じようなことを誰も指摘しないのは、自分の感覚がずれているのかなぁ、と思っていたのでした。

そうしたら、hamachanブログが・・・
そうだよね!と共感できる、同じ視点のコメントをようやく見つけた

わたくしからも、共感できるコメントです。

>結局、古賀さんたち「改革派官僚」なる方々の視野に入っている「公務員」とは、どこまでなのでしょうか。
被災地の現場で連日苦闘しておられる公務員の方々については、どのようにお考えなのでしょうか

考えてなんか、いないのでしょう。

古賀茂明氏にしろ、池田信夫氏にしろ、高橋洋一氏にしろ、こういう「改革」芝居型の人々の頭の中にある公務員改革というのは、霞ヶ関村の中の権力争いで、どういう人々が権力を握るかどうかということでしかないように思われます。

現に今、被災地の現場で日々苦闘している多くの正規、非正規の公務員たちのことなんぞ、これっぽっちも頭にはないのでしょう。

そして、もうひとつ、こういう「構造改革」派の人々が、古賀氏が自らの著書であっけらかんと証言している独禁法改正の裏取引に対して何も言わないのは、自分たちが考える「正義」を実現するためなら、どんな手口でも許されると考えているからではないかという気もします。

古賀氏の正体を知るためにも、池田氏や高橋氏の賞賛で読んだ気にならずに、ちゃんと自分でこの本を買って、じっくり読んでみることをお薦めします。それで古賀氏のやり口に感動したというなら、それはそれでけっこうですから。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-5435.html(ふつう、そんなやり方はしません)

先日コメントした古賀茂明氏の著書ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-916a.html(古賀茂明氏の偉大なる「実績」)

大内伸哉先生が読まれたようで、その感想を「アモーレ」に書かれているのですが、

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-bccc.html(日本中枢の崩壊)

ちょっと気になるコメントがありました。

>この本で個人的に関心をもったのは,持株会社解禁のときの公正取引委員会との戦いやクレジットカード偽造の刑法犯化のときの法務省との戦いのように,古賀氏が具体的に扱った問題についてのことが書かれている部分です。なるほど,こういうようにして法律ができていくのかと勉強になりました。

いや、私も霞ヶ関で何回か法案作業やりましたけど、反対している官庁に次官級ポストをつけてやって黙らせるなんて話は聴いたことがありません。「なるほど、こういうようにして法律ができていくのか」と思われると、心外な方々が数多くおられると思いますよ。

藤沢道郎『ファシズムの誕生』

51pnp03a9l__sl500__21987年の刊行ですから、もう25年も前の本ですが、改めて読んでみて、やはり20世紀は大衆の時代、マスメディアの時代として現れたんだなということを再確認。

それにしても、兵役逃れでスイスに逃げて乞食しているのを労働運動に拾われて、帰国後も社会党のお蔭で飯を食えてた奴が、その社会党の機関誌の編集長になって活躍して、参戦論をぶって社会党から追い出されたら今度はファッショ運動のリーダーになって片っ端からテロぶっこいて権力を握っていくという、このムッソリーニという人物像は、小説だったら見事な悪漢小説の主人公として褒めそやされるんでしょうけど、残念ながら現実の話なんですよね。

独裁者は最初は道化っぽい姿でやってくる。

ていう歴史の法則は、ときどき歴史書を読んで思い出したおいた方がいいかもしれません。

2012年5月17日 (木)

日経「経済教室」の読み方

昨日、今日と、日経新聞の「経済教室」で、「高齢者雇用を考える」というエッセイが載っています。昨日は八代尚宏さん、本日は安藤至大さん。明日も「下」があるようですが、とりあえずこの2回分でコメント。

まずもって、日経の見出しの付け方が「規制による延長は弊害大」とか「一律義務化は不適切」と、いかにも高齢者雇用に対する敵意を示すかのようなものになっているのは、いささかミスリ-ディングの感があります。内容自体は、まともな労働経済学者の議論として、9割方は同意しうるものなのですから。

実際、八代さんは

働く能力と意欲のある高齢者が働き続けて、より多くの所得税や社会保険料を負担することは財政収支の改善を通じ、間接的に労使の負担軽減に貢献する。・・・その意味で、高齢者の労働市場参加は社会全体にとって望ましい。

と、世界の常識を淡々と述べています。彼が批判するのは、

個人の仕事能力の差は、年齢とともに広がる傾向にあるが、それに見合った処遇差を十分につけられない大企業の人事管理は、定年時までの雇用と年功賃金を保障することが「平等」であるとの思想に基づいている。このため企業にとって、必要としない労働者を解雇できる唯一の機会が定年退職時となる。

しかし、画一的な定年退職では、企業にとって専門的な技能を持つ有為な人材も、同時に手放さざるを得ない。

という日本型雇用システムであり、

定年制が日本のように平等な仕組みとしてではなく、むしろ禁止されているのが米国であり、欧州も同じ方向に向かっている。仕事能力の差に応じた雇用契約や賃金のもとでは、一定の年齢に達したというだけで解雇することは「年齢による差別」と見なされるためだ。労働者全体から見れば、こうした欧米の論理の方がはるかに公平ではないか。

と、むしろ年齢差別禁止法の導入を主張します。

これはこれで筋の通ったまっとうな議論です。少なくともレベルの低い「ワカモノの味方」とは違うことが分かります。

問題は、肝心の日本の企業が到底そのような主張を受け入れる可能性がない中で、せめて高齢者雇用を推進するにはどういう手段があるのか、という政治的選択肢の問題なので、少なくとも、そういう次元で論じないと、八代さんの意図をトンデモな方向にねじ曲げる危険性があることは留意が必要でしょう。

本日の安藤さんのエッセイも同様です。

基本的に、法案が現行通り定年延長ではなく継続雇用制度としていることから

この法案が理由で、若年層の正規雇用の職が失われるとは考えにくい

新たな制度により失われる若年者の雇用は非正規の仕事が中心になるだろう

とし、その評価について

長期的な技能形成に役立つ仕事ならば若者が雇用された方が望ましい。高齢者は先にリタイアするが、若者は先が長いからだ。反対に、熟練を必要としない仕事ならば、高齢者が雇用されて、若者は職業訓練を受ける方が望ましいと言うことも考えられる。

と肯定的に見つつ、一方で、

とはいえ多くの場合、それが非正規雇用であっても、実際に仕事をすることによる技能形成の方が有益だ。従って高齢者の継続雇用を義務化するよりも先に、若者の雇用を確保するか、少なくとも同じ水準で雇用を確保すべきだ。

とやや否定的なコメントもしていますが、そこは先の八代さんの言うように、マクロ社会的に高齢者であれ若年者であれ労働市場にできるだけ多く留めておくための政策が重要なのであって、消極的権限争いをするべきところではないでしょう。

各論レベルでは、安藤さんの提言はまさに私が主張しているところと重なるところが多いです。

まず現在の法案では、関連会社などでの雇用でも可とされているが、これを「社外であっても、働く場を実質的に準備できればよい」とするなど、企業に工夫の余地を与えてはどうか。

これは単なる仕事のあっせんとは違う。あっせん先がなければ、自社での継続雇用が求められるからだ。

こういう外部労働市場まで含めて企業の高齢者雇用確保義務の中に含めて考えようという発想は、肝心の労働法学者の中には賛成する人は全然見当たりませんが、安藤さんは数少ない味方のようです。(『季刊労働法』236号「高年齢者雇用法政策の現段階」参照。これはまだ最新号なので、HPにアップされていません。)

また、

最後に、継続雇用の義務化では救われない層がいることへの配慮も求められる。

というのも、上記論文で指摘していることです。

なんにせよ、日経新聞がつけた見出しだけで分かったような気分になるのではなく、ちゃんと中身を読むことが必要です。

八代さんの文章中の次の一節など、私が繰り返し述べていることでもあります。

・・・判例に依存した日本の解雇規制では、裁判に訴えられる大企業の労働者を保護する一方で、そうした余裕のない中小企業では事実上の解雇自由に近い。

自分が在籍した大企業しか目に入らないたぐいの議論とは違い、こうしたマクロ的な視野をもった経済学者の議論というのは政策を進める上で重要です。

ワタミ叩きのネタでは済まない問題

Pk2012051702100036_size0 この記事自体は、いかにもワタミ叩きのネタとして報じている印象ですが・・・、

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012051702000093.html(労働条件 言うがまま 協定 店長指示でバイトが署名)

あらかじめ時間外労働の上限時間が書き込まれた三六協定届に、店長の指示でアルバイトが署名する-。新入社員森美菜さんが過労自殺したワタミフードサービスでは、違法な手続きで、従業員に時間外労働させていた。会社から一方的に提示された労働条件を、受け入れるしかない従業員。労使対等とは名ばかりの実態が浮き彫りになった。

森さんが働いていた「和民京急久里浜駅前店」(神奈川県横須賀市)。この店の三六協定届には、労使協定を結ぶ労働者側の代表は、「挙手による選出」と印字されていた。しかし、男性アルバイトは「協定届を見たことはないし、挙手で代表を選んだこともない」と打ち明ける。

 「会社側から三六協定の説明を受けたことはない」。首都圏で店長や副店長を務めた男性(30)も、そう証言する。男性は同意した覚えのない協定届を根拠に、毎月三百時間ほど働いていた。

 ある現役店長は「全従業員の意思を確認する時間もない」と明かす。自分の店の時間外労働の上限を知らない店長までいた。

 ワタミによると、毎年の協定更新の際、店長が経験の長いアルバイトの中から代表を指名。すでに時間外労働の上限時間が記載された協定届を印刷し、アルバイトが署名をして本社に返送するやり方が常態化していた。

 ワタミの辰巳正吉・ビジネスサービスグループ長は「大きな不都合やクレームは起こらなかったので、踏襲してきてしまった」と話している。

日本の職場、とりわけ36協定の本則である過半数組合の存在しない職場における「過半数を代表する者」なるものの実態は、多かれ少なかれこれに似たようなものであるということは、ある程度労働問題に通じた人にとっては常識に類するものであるわけですが、それがこうやって問題だという記事になるには、人一人くらい死なないといけないという実態もあまり変わらないようです。

なんにせよ、これはワタミ叩きのネタにしておくにはもったいない、労働法制のあり方を考え直す重要な論点であるはずなので、そういう風に扱って欲しいな、という希望だけ申し添えておきます。

2012年5月15日 (火)

CIETTパネルの議事録アップ

Top_image_3去る3月6日の「Ciettリージョナルワークショップ-変化する労働市場における人材派遣業界の役割を考える-」については、本ブログでも何回か紹介してきましたが、本日日本人材派遣協会のサイトに詳細な議事録がアップされましたので、わたくしの発言部分を引用しておきたいと思います。

http://www.jassa.jp/ciett/ws/report/

http://www.jassa.jp/ciett/ws/report/pdf/120306ciett-ws_PanelDiscussion.pdf

濱口 濱口でございます。

今、鶴さんから経済政策の観点からのコメントがありましたので、私からは主として労働を中心とした法政策の観点からお話をしたいと思います。とりわけ世界的に見れば、日本も含めて、派遣事業については規制から規制緩和の方向に向かっていたものが、なぜ2000年代の半ば以降事業規制強化の方向に向かっていったのかということについての、ある種政策分析的観点からのお話をしたいと思います。

実は若干、あるいはかなり皆様の耳には痛い話をさせていただくかもしれません。そして、これから私がお話しする話は、恐らく本日いらしているCiettの方々にとっても余りほかで聞いたことのない重要な話になるのではないかと思っております。

恐らく一番大きな理由は、間違いなく日本の社会における正社員モデルの優位性であります。つまり正社員、レギュラーワーカーだけがディーセントな働き方であって、派遣を含めた非正規労働はディーセントではないんだという考え方が非常に強固にある。とりわけ労働組合のほうにある。しかし実際は、とりわけ労働時間を見れば、決して正社員の働き方がディーセントであるわけではない。雇用はある程度不安定であるかもしれないけれども、逆にほかの面で様々なディーセントである面が恐らく派遣を代表とする非正規労働にあるはずなんですが、そういうイメージが必ずしも浸透していないということだろうと思います。しかしながら、実はこれは既にかなり指摘をされてきているところです。それだけであるならば、1990年代、そして2000年代半ばまで着実に規制緩和が進められてきたことがなぜ逆転したかという説明にはなりません。

私が思いますに、2000年代半ば以降の規制強化、とりわけ派遣事業を事業としてやることに対する事業規制が、ある意味政治家、マスコミ、その他の人々を巻き込む形で進められてきたその大きな理由は、1つには正社員モデルが非常に強いということもありますが、実は派遣業界そのものの戦略的な誤りがあるのではないか。あるいは、派遣業界という言い方は正しくないかもしれませんが、派遣業界に属する方々や周辺の方々の今までの議論、ディスコース(言説)のあり方に過ちがあったのではないかと思っております。それはどういうことかといいますと、日本の派遣規制というのはもう四半世紀前に作られました。基本的には正社員モデルがいいということを前提として、正社員に代替しないことを最優先の目標とする形で作られました。従って、派遣事業の立場、あるいは派遣労働者の立場から見れば極めて不満足な仕組みであったことは間違いありません。私はずっとそう思っておりますし、現在でもそう思っております。

しかしながら、そういった事業規制を改善すべきである、緩和すべきであるという議論を展開する中において、ややもすると行き過ぎがあった。その行き過ぎというのはどういう意味かというと、派遣労働者がよりもっと自由にディーセントな形で働けるようにしていくという目的を明確にするのではなく、あるいはそれを上回って、一般的な労働規制、まさにILOが言うディーセントワークであるとか、労働基準法に代表されるような様々な労働者一般に対する労働規制に対しても極めて敵対的な言辞を弄してみたり、本日のプレゼンにもあったようなソーシャルパートナーシップ、労使の協議、交渉によってあるべきディーセントワークを考えていく。そのディーセントワークの中身が何であるかは一方的に国が決めるべきものではなくて、まさに労使が話し合って、ある人にとってはこのほうがディーセントであるというような形で作っていくものである。そういう道筋が本来あるべきだったと私は思うのですが、ソーシャルパートナーシップのあり方に対してもまた敵視するような議論と、残念ながら派遣事業規制緩和の議論がないまぜになる形で進められていったということに実は大きな原因があるように思います。

最も典型的な例を挙げますと、例えばILOなんか要らないんだとか、あるいは厚生労働省や労働基準監督署なんか要らないという議論、こんなことを派遣業界が言う必要はなかったと私は思います。むしろ必要なはずです。しかし、世間的には、あたかも派遣業界というものは、ディーセントワーク、ソーシャルパートナーシップに敵対する人々であるというような間違ったイメージを作ってきた。そのことに、ここにいらっしゃる1人1人に責任があると言うつもりはありませんが、しかし少なくとも連帯責任の一端はあるのではないかと、実は反省をしていただきたいところがあります。こういう中でリーマンショックが起こって、先ほど坂本会長が感情論と言われましたし、長勢議員は誹謗中傷と言われました。全くそうなんですが、なぜそういうことが起こったかというと、実はそういう観念の不幸なコンビネーションがあったということがその原因にあるのではないかと思っております。

ここまでが私の分析でありまして、ではどうしたらいいかについては第2ラウンドでお話をしたいと思います。ありがとうございました。

濱口 ある意味で先ほどの話の続きといいますか、別の観点からになると思うんですが、八代先生が代替があるのかないのかという形で問題提起されたんですが、実は、こんなことをここで言っていいのかどうかわかりませんが、代替するのは当たり前だと思っています。世の中がどんどんグローバル化し、そして技術革新がどんどん進む中で、雇用という側面においては安定した部分が縮小していくこと自体は、それのみを悪であると考える必要は必ずしもないのではないかと私は思っています。むしろ問題なのは、代替ということで言うならば、ディーセントな働き方がノンディーセントな働き方によって代替されているとするならば、それこそが問題のはずであります。従って、問題の設定の仕方が若干ずれているのではないか。

そして、実は先ほどの話ともつながるのですが、日本の派遣法、派遣規制というものは、派遣を特定の業務に限定することによって、こういう特別の職種のみで派遣を認めているのだからそれ以上に保護する必要はないのだという、ある意味で余り根拠のない思い込みの上に法規制が成り立ってしまっている。従って、それがどんどん拡大することによって下手をするとノンディーセントな形に落ち込んでしまうかもしれない派遣というものをきちんと下支えするシステムが、規制が厳しいと言いながら、その規制というのはあれをやってはいけないこれをやってはいけないという規制だけであって、やるときにはこうしろというその規制が極めて緩い、あるいはほとんど欠如しているというところに実は最大の問題があるのだろうと思っています。

そして、そこを何とかしようとすると、今までの正社員モデルの考え方というのは、企業の中で話が完結するわけです。企業の中の経営側と正社員の組合が話し合って物事を決める。ところが、派遣というシステムはそこだけでは完結しません。これは企業の枠を超えた諸々の下支えするようなシステムを必ず必要とするんですが、残念ながら日本は企業別の正社員システムが非常にうまく作られてしまったために、逆にそれを外側から支えるシステムが非常に未発達である。そして、その未発達なところに派遣という仕組みを導入して、きちんと支えるものがないまま動かしてきたがために、先ほど、龍井さんも指摘していますし、私も今いる組織で様々な個別の労使紛争の研究をしておりますけれども、やはりいろんな問題が発生してきます。これをどうするかというのは、四半世紀前につくられた派遣法の発想から脱却して、そして真にディーセントな働き方を確保するためにはどうしたらいいか立ち返るというか、日本はもともとそこがないので立ち返るのではないんですが、グローバルなスタンダードであるそこに立ち返ってそういう話をしていかなければならないのではないかと思っております。

そして、それをやっていく上で一番重要なパートナーというのは、皆さんは意外に思うかもしれませんが、実は労働組合だと思います。先ほどのプレゼンの中で、日本では労使協約が定められている国に入っているとか、あるいは労組対話型であると書いてあります。日本は、企業内の正社員との関係においてはある意味で最もそういうタイプの国ですが、しかしながら、一旦そこを外れると一番関係が薄い国であります。その薄さが派遣という働き方に対する、先ほど、坂本会長が言われる感情論とか、あるいは長勢議員の言う誹謗中傷といった言葉が出てくるその培養土になっているということも改めて認識する必要があるだろうと思います。企業経営で何かするときに、アンチビジネスの発想で外から攻撃するときに一番頼りになるパートナーは企業内組合なんです。冗談じゃない、そんなことをするな、ここで働いている我々の生活をどうしていくんだと、派遣において派遣労働者の利益を代表して日本の社会の中でそれを言う人々というのはいません。いないがゆえに、例えばさっき松井さんが言ったように、秋葉原でたまたま派遣労働者が人を殺したら、これは派遣が悪いからだということをマスコミが言うと、それは違うというふうに派遣労働者の立場で言う人がいないのです。派遣会社が言っても信用されないんです。ここが非常に重要なところだと思います。

濱口 先ほど八代先生がボイスとイグジットということを言われまして、ここは恐らく八代先生と一番意見が違う、ニュアンスが違うところかなと。ボイスとイグジットのどちらかがあればいいということはない。そもそもベルリンの壁があったときの東ドイツ人にボイスの自由があったかと言うと、そんなものはなかった。ハーシュマン自身もたしか言っていたと思いますが、ボイスがあるからイグジットができるし、イグジットがあるからボイスができるんだという関係だろうと思っています。その意味では、派遣労働者にきちんとしたボイスのメカニズムがないというのはやはり考えなければいけないことだろう。

そして、ここからは実は大変コントラバーシャルな問題に、あえて火の中に手を突っ込むような話をしますが、労働組合はもちろん自発的な団体でありますから、会社あるいは業界団体が作れというような話ではないのですが、しかし、ボイスのためのメカニズムとして、例えばヨーロッパにあるような従業員代表システムといったことは十分考えられていいのではないか。そしてそれを個別企業というレベルだけではなくて、派遣業界というレベルで、実際に派遣で働いている方々のボイスをきちんと表に出すようなメカニズムは、組合が作らないからないんだよと言っている話ではないのではないかと思っています。これは、労働組合とはそもそも何ぞやという大変コントラバーシャルなところに触れる話なのですが、ここでそれをどれだけ議論する時間があるかどうかわかりませんが、実は八代先生が言われたボイスとイグジットということから引きつけて言うとそういうふうに考えております。

ちょっと違う話というか、先ほど龍井さんがちらっと言われた話でもあるんですが、私は今いる研究所で個別労働紛争の研究をしているんですが、実はそのうち1割近くが派遣労働関係者です。これは日本の労働市場における派遣労働者の比率からするとかなり高いです。なぜ高いかというのは多分色々な理由があるだろうと思います。やはり派遣だから文句を言いやすい、外に持ってきやすいという面はあるのかもしれないですが、現実に発生した紛争をそこまで持ち出さずに解決するメカニズムが余りうまく働いていないのではないか。これもある意味でボイスとも関わる話だろうと思います。

私は、四半世紀前につくられた日本の派遣法のシステムには大きな問題があると思いますが、しかしながら、それに代わる本当の意味での派遣労働者の保護になるような仕組みをどうすべきかということについて、ぜひここに集まっていらっしゃる多くの派遣業界の方々に真剣に考えていただきたいと思っています。

濱口 私もCiettの皆さん、日本人材派遣協会の皆さんに感謝したいと思います。そして、その立場に成りかわるわけではないし、そんな資格もないのですが、ぜひ今日お集まりの派遣業界の皆様には、この結構分厚いCiettの報告書をぱらぱらっと見るのではなく、よくじっくりと読んでいただきたいと思います。ここにはディーセントワークとかソーシャルパートナーシップという、恐らく皆さんは今まで聞いたこともない何じゃそれというような言葉がいっぱい乱舞しております。しかし、少なくともムンツさん初め、Ciettの中心にいらっしゃる方々はそういう世界で派遣を運営してきておられるんです。

そして、だからこそそういった国々では派遣は市民権を持って、決してここ数年来の日本で行われたような、先ほどの言い方で言うと感情論や誹謗中傷でない世界で運営しているのだということを学んでいただくためにも、この若干分厚くて重くてなかなかの荷物になるものを読んでいただければ幸いだと思っております。

非常に重要なことを言っておりますので、上っ面で読まないようにしていただければさいわいです。

なお、リンク先には動画もアップされていますので、リアルな発言を見聞きしたい方はそちらをどうぞ。

2012年5月14日 (月)

『日本の雇用終了』の中古が2倍以上の値段!?

Cover_no4なかなかネット上やリアルの書店に出てこなかった『日本の雇用終了』ですが、ぼちぼち姿を見られるようになってきました。

それはいいんですが、アマゾンに不思議な事態が・・・。

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9B%87%E7%94%A8%E7%B5%82%E4%BA%86%E2%80%95%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%B1%80%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9B%E3%82%93%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89-JILPT%E7%AC%AC2%E6%9C%9F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%94%BF%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%A9%9F%E6%A7%8B/dp/4538500046/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1336994698&sr=1-2

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一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です。

の下に、

中古品の出品:1¥ 6,955より

という一行が・・・。

はぁ?なんで出たばかりの定価2,625円の本が、中古で6,955円に?

いや、一時「稀覯本」とか冗談で言いましたけど、今は東京の大きな書店だったらだいたい並んでいますよ。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jilpthajimeni.html(はじめに)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/mokuji4.html(目次)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/jilptbookreview.htm(書評)

(追記)

と思ってたら、

あっという間に高値中古本が4冊になっていますぞ。

http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4538500046/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used

その値段が¥ 4,772、¥ 4,777、¥ 4,785、¥ 4,821ってのは、一体これはどういう現象なんでしょうか。私のような世間知らずには理解しがたいことがいっぱいあるようです。

2012年5月13日 (日)

大学にハローワークの出先機関

というわけで、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-1266.html(シューカツがただの職探しじゃなくなってるから・・・)

それで学生たちになんでハロワ行かないのって聞いたら、まあ聞いたらなるほどって思いましたけども、「ハロワに行くのって『職探し』って感じがするんですよー」って言われたときはびっくりした。いやお前らいまやってるの職探しやろ。違うのか

シューカツは職探しじゃないと思っているらしい学生さんたちのために、その職探しの本家のハロワが大学に乗り込んでくるようです。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012051201001786.html(大学にハローワークの出先機関 連携強化で就職支援)

政府がまとめる「若者雇用戦略」の骨子案が12日、判明した。景気低迷に伴い就職難が続く大学生らを支援するため、全国的情報網を持つハローワークの出先機関を大学内に設けるなど行政と学校の連携強化を打ち出した。雇用機会均等の観点から就学支援や職業教育充実を挙げ、中小企業の人材確保支援、フリーター大幅削減の確実な達成も盛り込んだ。

野田佳彦首相と関係閣僚、学識経験者、労使代表らでつくる「雇用戦略対話」の下に設置したワーキンググループで骨子案を基に議論し戦略を策定。6月にも対話会合で正式決定する。

この関連で、例のジョブカードの学生版ができたという話も併せて見ておきたいところです。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000028c8u.html(「大学等におけるキャリア教育推進に当たってのジョブ・カード活用・普及促進等に関する実務者会議」報告書まとまる)

今回取りまとめた報告書では、この「学生用ジョブ・カード」の様式と具体的な普及促進策などを定めました。

以下の3種のシートから構成されます。

1:ジョブ・カード様式1〔履歴シート〕
 現行のジョブ・カード様式1と同一(学習歴・訓練歴、資格・免許、自己PR、志望動機など)。

2:学生用ジョブ・カード様式〔学校活動歴シート〕(別添資料1)
 在学中に学んだこと、アルバイト歴、ボランティア活動やインターンシップなどの社会体験活動に関する事項を記載。

3:学生用ジョブ・カード様式〔パーソナリティ/キャリアシート〕(別添資料2)
 「興味・関心」や「得意なこと、苦手なこと」などのパーソナリティに関する事項と、本人のキャリア・ビジョン(将来取り組みたい仕事、仕事を通じて達成したい目標など)に関する事項を記載。

2012年5月12日 (土)

資本論と日本型雇用経験「のみ」による賃金論

Shinsho211204_hatarakithumb150xauto最近、向井蘭氏の『社長は労働法をこう使え!』に代わって、アマゾン労働部門の第1位をキープしている木暮太一氏の『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』を、題名も気になったので買って読んでみたのですが・・・・・・・、

http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/505398/ref=pd_zg_hrsr_b_2_6_last

http://www.seikaisha.co.jp/information/2012/03/28-post-87.html

私は、大学時代に経済学の古典『資本論』と、お金の哲学を扱った世界的ベストセラー『金持ち父さん貧乏父さん』を深く読み込むことで、その後の人生が大きく変わりました。実はこの2冊は全く同じことを言っています。それは、資本主義経済の中で私たち「労働者」が必然的に置かれている状況についてであり、そこから考え始めることで、どういう「働き方」を選択すればラットレースに巻き込まれず、幸せに暮らしていけるかがよくわかるのです。今の働き方に疑問を持っているのであれば、転職や独立、ワークライフバランスを考えても意味はありません。しんどい働き方は、もっと根本的なところから考え、変えていかないといけないのです。

正直言って、頭を抱えてしまいました。

なぜ?

著者の木暮さんの頭の中には、マルクスの資本論による精緻な資本主義分析と、実際に日本の企業で働いてきた経験から自ずから得られた日本型雇用システムとがあまりにもしっかりと根をはっていて、そしてそれ以外には労働に関する認識枠組みが全くないということ、日本以外の社会の普通の労働者のあり方というのが全くないということが分かったからです。

冒頭近く、木暮氏はこう言います。

・・・経済学的に考えると、給料の決まり方には

①必要経費方式

②利益分け前方式(成果報酬方式)

の2種類があります。

本当はここに大問題があるのですが、それは後回しにして、

・・・日本企業では、その社員を家族と考え、その家族が生活できる分のお金を給料として支払っています。

これが「必要経費」方式という考え方です。

・・・日本企業が採用している成果主義は、「必要経費方式の一環」として採用されていることが多く、もともと利益分け前方式を採用している外資系金融機関などとは根本的に考え方が異なります。

この「必要経費方式」を、木暮氏はマルクスの理論を用いて労働力の価値はその使用価値ではなく、他の商品と同じく原材料の価値の合計、すなわち労働力の再生産の必要な価値なのだから、

手当といえば、会社には家族手当といったものがあります。労働者が結婚し、子供が生まれて扶養すべき家族ができると、家族手当が支給されることがあります。・・・いわゆる日本企業においては、家族手当を従業員に払っている企業がたくさんあります。

この家族手当も、労働力の価値という意味で考えると、全て説明が付くでしょう。

労働者に扶養すべき家族がいる場合、「明日も同じ仕事をするために必要な費用」には、家族の生活費も含まれるのです。

・・・そう考えると、日本企業で給料が右肩上がりになっているのも、年功序列型で給料が決まっているのも、納得できます。年齢が上がるにつれて給料が増えていくのは、社会一般的に考えて必要経費が増えるからなのです。

と説明していきます。

私が頭を抱えた理由がおわかりの方もいると思います。

これって、今から60年以上前に、日本のマルクス経済学者宮川実氏が生活給制度を擁護するために論じた理屈とまったく同じだからです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/equalpay.html(同一(価値)労働同一賃金の法政策)

これに対して労働側は、口先では「同一労働同一賃金」を唱えながら、実際には生活給をできるだけ維持したいという姿勢で推移していたといえます。
先述の電産型賃金体系は、終戦直後に家族手当などが膨れあがる形で混乱を極めていた賃金制度を、基本給自体を本人の年齢と扶養家族数によって決めるように明確化したもので、生活給思想の典型といえるものです。それと同一労働同一賃金原則の関係は、労働側にとってなかなか説明しがたいものでした。
これをマルクス経済学的な概念枠組みを駆使して説明しようとしたものとして、宮川實の「同一労働力同一賃金」説があります*4。

「同じ種類の労働力の価値(価格)は同じである。なぜというに、同じ種類の労働力を再生産するために社会的に必要な労働の分量は、同じだからである。だから同一の労働力にたいしては、同一の賃金が支払われなければならぬ。・・・資本家およびその理論的代弁者は、同一労働同一賃金の原則を異なった意味に解釈する。すなわち彼らは、この原則を労働者が行う労働が同じ性質同じ分量のものである場合には、同じ賃金が支払われなければならぬ、別の言葉でいえば、賃金は労働者が行う労働の質と量とに応じて支払われなければならぬ、という風に解釈する。労働者がより多くの価値をつくればつくるほど、賃金は高くなければならぬ、賃金の大きさを決めるものは、労働者がつくりだす価値の大きさである、というのである。・・・既に述べたように賃金は労働力の価値(価格)であって、労働力がつくりだす価値ではない。労働力は、それ自身の価値(賃金)よりも大きな価値をつくりだすが、この超過分(剰余価値)は、資本家のポケットに入り、賃金にはならない。・・・われわれは、賃金の差は労働力の価値(価格)の差であって、労働者が行う労働の差(労働者がつくりだす価値の差)ではないということを銘記しなければならぬ。・・・この二つのものを混同するところから、多くの誤った考えが生まれる。民同の人たちの、賃金は労働の質と量とに応じて支払われるべきであるという主張は、この混同にもとづく。・・・賃金の差は、労働力の質の差異にもとづくのであって、労働の質の差異にもとづくのではない。だから同一労働同一賃金の原則は、正確にいえば、同一労働力同一賃金の原則であり、別の言葉でいえば、労働力の価値に応じた賃金ということである。・・・資本主義社会では、労働者は、自分がどれだけの仕事をしたかということを標準としては報酬を支払われない。労働者に対する報酬は、彼が売る労働力という商品の価値が大きいか小さいかによって、大きくなったり小さくなったりする。そして労働力という商品の価値は、労働者の生活資料の価値によって定まる。・・・労働者の報酬は労働力の種類によって異なるが、これは、それらの労働の再生産費が異なるからである。」

 このように、戦前の皇国勤労観に由来する生活給思想を、剰余価値理論に基づく「労働の再生産費=労働力の価値」に対応した賃金制度として正当化しようとするものでした。しかし、文中に「民同の人たち」の主張が顔を出していることからも分かるように、(とりわけ国鉄の機関車運転手のように)自分たちの労働の価値に自信を持つ職種の人々にとって、悪平等として不満をもたらすものでもありました。

ある意味で、戦後60年以上もの間、こういう賃金論が生きてきたことの証明なのかも知れません。

そして、その最大の弊害は、未だにこういう(マルクス理論的)生活給理論に対するものとして、一番上で引用したような「利益分け前方式(成果報酬方式)」しか認識されていないということです。

これは木暮氏だけの問題ではありません。あまりにも多くの人々が、生活給的年功賃金でなければ、外資系金融機関みたいな成果報酬だと思いこみ、それ以外には選択肢はないかのように語ることがなんと多いことでしょうか。

もちろん、ある程度ものごとの分かった人であれば知っているように、世界の労働者の大多数はそんな二分法のいずれにも属していません。

実際、上で宮川実氏がマルクスを振りかざして生活給を擁護していた頃、世界の労働組合の代表団は日本にやってきて、次のような痛烈な批判をしていました。

代表はつぎの点に注意した。すなわち国有事業をも含めた工業において、賃金統制は職業能力、仕事の性質、なされた仕事の質や量に基礎を置いていない。時としてそれは勤労者の年齢や勤続年限によっている。また他の場合、われわれは調査にあたって男女勤労者の基本賃金を発見しえなかった。というのは、報酬は子供の数に基礎を置かれており、これら家族手当の性質や価値を決定しえないのである。代表団は全部かかる賃金決定法を非難した。かかる方法は、雇主の意思のままに誤用され、差別待遇されうる道を開くものであるという事実はさておいても、方法そのものが非合法的非経済的である。賃金は勤労者の資格、その労働能力に基礎が置かれねばならぬ。妻子、老齢血族者等、家族扶養義務に対する追加報酬は切り離すべきで、そして受益者の年齢、資格を問わず、かれら全部に平等な特別の基準のものでなければならぬ。・・・

 代表団は全般的にみて、婦人労働者に正常の賃金と、よりよい社会的地位とを保障する努力がこれまでほとんどなされていないと考えている。似かよった仕事は同じ時間と、、同じ質に対して、同じだけの報酬に値するという原則に従って、代表団は、労働者の性別によって賃金に差をつけるべきではないと述べた。工場に多年勤めている婦人労働者は、男子見習員よりも安い賃金をもらっているが、この事実のなかに、低い婦人に対する不平等で、非人道社会的な考えが残っているのである。

世界の労働組合の目から見て、こういう「必要経費方式」は許されないものであったのです。

では労働組合は成果主義の味方だったのか?そんな馬鹿なことはありません。はじめに述べておいたように、そもそも給料の決まり方が必要経費方式か成果報酬方式の二つしかないというのが、世界の常識に反しているのです。

では世界の常識は何か。給料は市場で決まるのです。労働市場で、集団的な取引によって、この仕事はいくら、その仕事はいくらと決まるのです。それを決めるために労働組合を作るわけですね。

この仕事はいくらと決めるのですから、子どもが何人いようが、マルクス経済理論でいう労働力の価値がどう違おうが、それは関係ありません。

つまり業界定価制なのです。この店は子どもが多いから値段が高く、あの店は子どもがいないから値段が安いというわけではありません。それが繰り返しますが、60年前から世界の常識であり、日本では非常識だったわけです。

一方、欧米でもエリート層は利益分け前的な面が強いわけで、その世界とは一応別の世界ですね。

こういう認識枠組みがないから、上に見たような話の展開になってしまうわけです。といっても、これは木暮氏だけを責めるのは酷かも知れません。

考えてみれば、頭の中には学生時代にかじったマルクスの理論を詰め込みながら、現実の企業の中で日本型雇用システムのみが周りを取り巻いている状況で長年過ごせば、どうしてもそうなるのでしょうし、実際、日本で(ある程度グローバルに労働問題を考えている人を除けば)ちょいと労働問題に口を出した感じの人の議論というのは、だいたいにおいてこういう感じになりがちなのです。

とはいえ、そういう本が、労働部門のベストセラー1位を驀進中と言うのは、正直なんだかなあ、という思いも湧いてみたりします。

2012年5月11日 (金)

大内伸哉『労働の正義を考えよう』

L14437大内伸哉『労働の正義を考えよう 労働法判例から見えるもの』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。とともに、いやあ大内先生、ものすごい勢いですね、というか・・・。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641144378

気がつくと、労働法の本棚が大内著で溢れかえりそうになるくらいの勢いで続々と本を出しておられます。淡々と教科書を改訂するというのではなく、一冊一冊違うコンセプトで出し続けていくというのは、なかなか凄いことです。

この本は、数年前に『法学教室』に連載した「Live! Labor Law」を単行本化したものです。

1 経営の要諦--採用の自由
2 正社員の恩典--解雇
3 格差の元凶?--非正社員
4 試練と希望--採用内定
5 不安定の功罪--試用
6 従属の代償--労働者性
7 契約か法規か--就業規則
8 自由と拘束--労働時間
9 遵法の前提--労働時間規制
10 権利のアイロニー--年次有給休暇
11 自律か配慮か--過労による健康障害
12 労働と対価--賃金
13 自由か保護か--デロゲーション
14 モビリティとスタビリティ--配転
15 指揮者の交替--出向・転籍
16 競争のルール--競業避止義務
17 秩序と制裁--懲戒処分
18 公と私--企業内での政治活動
19 他律と自律--労働組合
20 組織強制の是非--ユニオン・ショップ
21 集団の優越--労働協約の効力
22 GiveとTake--労働協約による労働条件の不利益変更
23 権利と受忍--企業内組合活動
24 闘いの手法--企業の争議行為
25 中立と差別--併存組合問題

L20120529305あと、『ジュリスト』最新の5月号が「企業経営と人事管理のこれから」という特集を組んでいて、その相当に大きな分量を取っているのが

◇[対談]これからの人事管理――HRMと労働法の対話●守島基博●大内伸哉……43

という対談なんですが、これがなかなか面白いです。本書のいい参考文献になります。

 

一般廃棄物処理施設において必要な設備の運転、点検または整備の業務

本日、労政審職業安定部会で派遣法施行令の改正が了承されました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000029yh1.html

「専門的な知識等を必要とする業務」いわゆる26業務に、標記「一般廃棄物処理施設において必要な設備の運転、点検または整備の業務」を追加するというものです。

これは私は悪いことではないと思いますよ。その関係資料にあるように、「東日本大震災で生じたがれきをできる限り速やかに処理していくために、被災地においてニーズが高まって」おり、かつ「被災地では処理能力が不足しており、被災地以外の施設を活用した広域処理が必要とされている」のは事実なのですから、やった方がいいことは間違いない。

でも、そこに書いてある業務の専門性の理屈は、それはそうだけどそれが専門業務なら、ほかにも同じくらい専門的な業務はいっぱいあるよね、少なくとも26だの27だのといったものじゃないよね、という反応がすぐに返ってくるようなレベルであることも確かなわけで。

やはりそもそも専門業務だから派遣はいいんだ、というおかしなロジックの上に載って27年間制度を動かしてきたことのほころびがあちこちで吹き出していることの一つの表れというべきなのでしょう。

「がれき処理ゆるさじ」というたぐいの人々は別として、これを契機に考えて欲しいところではあります。

テクノクラート目線

本日、人事院公務員研修所で、初任行政研修の(先日の講義での課題を受けての)報告発表を聴いてその講評をするというお仕事。

あらかじめ用意していた言葉では全くなかったのですが、彼ら新人官僚たちの作った報告を聴いていて、思わず口を衝いて出たのが「テクノクラート目線になりすぎてはいけないよ」という言葉。

でも、思うにこれは、近年の「公共政策論」だの「公共管理論」だのといった学問の議論の仕方が、妙に現実の複雑なひだひだを抜きにした、きれいきれいな紙の上では一見もっともらしくみえる議論をし過ぎていることの弊害が表れているんじゃないか、と思いました。

実際に行政なんてことをやっていくと、世の中そんなに紙の上の理論みたいに合理的に動くわけではない、その非合理に見える人々をどう動かすかが腕の見せ所なんだよ、という情景にいくらでも出合うわけですが、その辺があまり理解されていない。

独裁国家で、国民の文句なんて気にせずにやれる国の行政官なら、教科書に書いてあるからと押し通すこともできるかも知れないけれど、そういうわけにはいかないのが民主主義国家でしかも人権を尊重しなければならない政府の役人の務めだということが、あまり分かっていない。

まあ、独裁国家であり得る企業をモデルにし過ぎるとそうなるという面もあるのかも知れないけれど、やはり、とりわけ労働や教育を含めた社会政策というのは、そうたやすくテクノクラート目線で物事をうまく扱えるわけのものではないということは理解して欲しいなあ、と思ったものでした。

市庁舎退去問題から浮かび上がる日本の労働組合の二重性

2012_05『情報労連REPORT』5月号は、「日本復帰40年 翻弄される沖縄」が特集ですが、わたくしの連載「労働ニュースここがツボ!」は、「市庁舎退去問題から浮かび上がる日本の労働組合の二重性」を取り上げています。本ブログで書いたネタではあるのですが・・・、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororen1205.html

大阪市の橋下市長が労働組合を敵視してさまざまな行動に出ていることが報じられています。その中には市長選に絡むリストの捏造など、社会的に許されないようなこともある一方、ものごとの筋道からしてなかなか反論しにくい性質のものもあります。組合事務所に市庁舎からの退去を求めたことなどは、後者の典型的な事例です。今回はこの問題を、労働法の筋道から腑分けすればどうなるのかを説明します。

 
そもそもからいえば、企業の外側の存在であるはずの労働組合の事務所が企業の中にあること自体がおかしな話であり、その便宜を図ることは許されないことです。現に日本国の労働組合法も、「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合ではない(第2条)とか、「労働組合の運営のための経費の支払いにつき経理上の援助を与えること」は不当労働行為である(第7条)と明記しています。労働組合とは企業とは関係なく、労働者が企業の外側で勝手に団結して作る団体であるのですから、これは当然です。賃上げ要求などの組合活動は企業の外側で、従業員がやるなら勤務時間外に、というのは当然です。

 
一方で西欧諸国にはいずれも労働組合とは別に企業別の従業員代表機関というのがあって(ドイツの経営協議会、フランスの企業委員会など)、こちらは企業内部の問題を解決するために企業内部に、企業の負担で作られるものです。企業のリストラの際の労働者間の調整や、いろいろな苦情処理などは、本来企業内部の問題ですから、職場選挙で選ばれた企業の従業員代表が、勤務時間内に、企業の費用負担でやるのが当然です。ですから、従業員代表機関には団体交渉権もスト権もありません。

 
日本では、法律上は企業外部の存在と位置づけられている労働組合が、単に賃上げ闘争などをやるだけではなく、それよりむしろ主として、西欧であれば従業員代表機関がやるような仕事をやっているところに最大の特徴があります。法律上は「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合ではないと言っていて、それはまったくその通りではあるのですが、しかしその労働組合が現実にこなしている大部分の仕事に着目すれば、その経費の支出につき使用者が援助するのが当然、というまことに逆説的な状況にあるわけです。

 
これが逆説的であるのは、日本の企業別組合が事実上従業員代表機関の仕事をしているから経費援助が当然だというと、それ自体はまことにもっともなのですが、では春闘で団体交渉やストライキやるのも企業が賄わなければならないのか、という変な話になるからです。本来異なる機能を一つの組織が両方兼ねていることから来る逆説なのです。この複雑な逆説を、どれだけの人々が理解しているのでしょうか。

2012年5月10日 (木)

EUにおける経済的自由と労働基本権の相克への一解決案

Rojyun1766 『労働法律旬報』5月上旬号が刊行されましたので、前号(4月下旬号)に載せた「EUにおける経済的自由と労働基本権の相克への一解決案」をホームページにアップしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roujun1204.html

去る3月21日、欧州委員会は「事業設立の自由及びサービス提供の自由との関係における団体行動をとる権利の行使に関する規則案」及び「サービス提供の枠組みにおける労働者の海外派遣に関する指令の実施に関する指令案」を提案した。この両者、特に前者は、ここ数年来EU及びEU諸国において大きな議論を呼んできた問題に一定の解決を与えようとするものであるが、提案とともに労使双方から批判が相次ぐなど、なお先行きの見通しは晴れない。本稿ではこの問題について、その経緯を簡単に振り返り、何がどのように問題になってきているのかを解説した上で、今回の提案の内容を概観する。問題の性質上、本来ならば各国の集団的労使関係法制のあり方にまで深く研究の眼を及ぼした上で書かれるべきものではあるが、今回は速報性を第一義としてごく簡単な解説に留める。

解雇の金銭解決 by 野川忍先生

野川忍先生が、先日の日経記事に触発されてか、解雇の金銭解決について連続ツイートしておられますが、

http://twitter.com/#!/theophil21

解雇の金銭解決(1)「解雇の金銭解決」というテーマが現実の制度として検討されつつある。日経も非正規労働者のサポートという観点から解雇の金銭解決制度を導入する論陣を張っている。やがて労政審でも取り上げられるであろう。解雇を金銭で解決するとはどういうことか。なぜ検討されているのか。

解雇の金銭解決(2)一般の理解は、「金を払えば解雇できるという制度」もしくは「解雇されても金は取れる制度」というものであろう。しかしそれは間違い。解雇の金銭解決とは、「解雇が法的に無効であっても、一定の金銭を使用者に払わせて雇用関係を解消させる」制度である。

解雇の金銭解決(3)現在の仕組みでは、解雇が法的に争われて無効という判決が確定すると、使用者は労働者を復職させる義務を負う。しかし、アメリカや欧州諸国などでは、違法解雇の効果は金銭による補償ないし賠償が主であって復職はまれである。すると使用者の負担は日本より軽いとみなされる。

解雇の金銭解決(4)特に具体的に問題視されているのが整理解雇である。たとえばアメリカと比べると日本では整理解雇に対する法的判断は非常に厳しく、使用者は整理解雇に踏み切ってもそれが無効とされるリスクが大きい。そうすると、アメリカ企業との国際競争にはそれだけで不利になると考える。

解雇の金銭解決(5)そこで日本の企業は、「違法な解雇であっても一度解雇した労働者を復職させるのは負担が大きすぎる。金銭補償で勘弁してほしい」。と主張することになる。この主張に正当性はあるか。あながち全くないとは言えない。

解雇の金銭解決(6)仮に日本の労働市場がアメリカのように流動性が大きく、失業期間がきわめて短くて、解雇された労働者もすぐ新しい仕事が見つかり、しかも新しく就いた仕事の方が給与が高かったということも珍しくない、というような状況があればそれなりに傾聴に値する主張である。

解雇の金銭解決(7)また、労働者の側も、自分をくびにするような使用者に「捨てないで」とすがりつかなくてはならないよりは、「こっちからやめてやらあ!」と啖呵の一つも切って「その代り安くないぜ」と十分な転職費用をぶんどってただちに転職できる、というのなら一考の余地があろう。

解雇の金銭解決(8)もちろん、実際には日本の労働市場はこんなことが現実化する状況にはない。解雇は諸外国でも労働者にとって打撃であるのは変わらないが、日本におけるその脅威は比較にならないほど大きいのが現実である。

解雇の金銭解決(9)もし日本の経営者が解雇の金銭解決を現実化したいのであれば、労働市場の構造や会社における人事の在り方を抜本的に改革することが先決である。解雇されてもそれほど労働条件が変わらない転職ができる可能性を高める工夫を真剣に検討すべきである。

解雇の金銭解決(10)また、日本の企業は雇用保障と引き換えに強大な人事権を享受してきたのであるから、解雇の金銭解決を主張するのであれば人事権ではなく合意によって労働者を扱う方向へ人事制度を転換することも実現させるべきであろう。

解雇の金銭解決(11)こうした改革を本気で行うという対応なしに、解雇の金銭解決だけを提唱することは現実的ではない。「自らも痛みを負う改革」は、経営者にこそ求められる。また、私の親しい経営者の方々がそうであるように、日本の経営者には、それができるだけの聡明さがあるはずである。

ドイツ労働法の権威である野川先生としては、まさに適切な論評であり、労働法理論的には同感するのですが、それとともに、『日本の雇用終了』に示されているような(裁判規範とはかなり乖離した)職場の現実を考えると、いささか違う感想もあります。

つまり、労働法学的には、解雇の金銭解決の導入というのは、現状が違法な解雇は無効であり復職されている(ものである)という判例上の前提認識に基づき、「解雇の復職解決から解雇の金銭解決へ」、という枠組みで捉えられるのですが(そしてそのこと自体は法理論としてはまったく間違いではないのですが)、現実社会において違法不当な解雇の大部分が、ごく少額の金銭解決されるか、それよりさらに大きな確率でそもそも金銭解決どころか何ら解決されないという実態にあることを考えると、むしろ「解雇の少額解決または無解決からそれなりの金額の金銭解決へ」と捉えられる面もあるわけです。

先の日経の記事も、そういう面を強調していたと思います。

野川先生の言われる企業の人事管理システムの改革や労働市場システムの改革が必要であることは言うまでもないのですが、ただ、ではそれらが実現するまで待っていれば、解雇は復職で解決されているのかというとそうではなくて、むしろ圧倒的大部分は少額解決ないし無解決に終わっているという状況が放置されることになると思います。

ちなみに、今月開かれる日本労働法学会のミニシンポで水町先生らが労働審判の実態調査結果について報告されますが、そこでも示されるであろう労働審判と労働局あっせんの解決金の格差もなかなか大きなものがあります。

2012年5月 9日 (水)

今野晴貴「若年非正規雇用問題の焦点」@『労働調査』

Coverpic労働調査協議会の『労働調査』4月号は、「若年非正規雇用における問題点とその対応」という特集で、次のようなラインナップですが、

http://www.rochokyo.gr.jp/html/2012bn.html

1.若年非正規雇用の増加とその背景
阿部 正浩(獨協大学・経済学部経済学科・教授)

2.若者のキャリアと非典型雇用から正社員への移行
小杉 礼子(労働政策研究・研修機構・統括研究員)

3.若年非正規雇用問題の焦点 
-非正社員と正社員を包括した「限定」の課題-
今野 晴貴(NPO法人・POSSE代表)

4.若年者の就労支援の現状と課題  
-ハローワークの現場から-
駒井 卓(東京職業安定行政職員労働組合(東京職安労組))

5.学びのセーフティネットとしての普通職業教育のとりくみ 
-若年非正規雇用における問題点とその対応-
成田 恭子(日教組・組織労働局・高校センター事務局長)

ここでは、POSSEの今野さんの文章を紹介します。今野さんは、6年間に及び若年労働者からの相談を踏まえて、

正社員・非正社員ともに共通する問題の方が大きいように感じられるのだ。両者に共通する問題は契約内容そのものが守られないことであり、過剰な業務命令の「限定」が課題となっている。

と述べています。具体的な相談内容を示しつつ、

こうした「どんな命令でもできる」状況下では、業務の過酷さにおいて、正社員と非正社員の状況は「接近」してくる。先ほど見たように、長時間労働の相談も多数寄せられていることがそれを物語る。・・・ところが、実態は契約規範から逸脱し、雇用が不安定なまま命令が厳しさを増している。・・・

ではその「接近」しつつある正社員の状況はどうか。相談の中では、そもそも「正社員」の雇用自体も守られていない。・・・強い指揮命令権が濫用されると、正社員においても契約による労働条件や、無期雇用による雇用の保障という、契約上の権利が意味を持たない。「どんな命令でもできる」状態は、むしろ正社員にこそ本来的に当てはまり、これを駆使した退職強要は避けがたいのが実情だ。

・・・以上のように見てくると、非正規雇用問題については、これまでは「正社員になればよい」という対案が支配的であったが、そうではない実相が浮かび上がってくる。非正規においても正規においても、指揮命令をどのように制約・労使合意するかということが、共通する重大課題となっている。

と論じていき、最後に、

以上のように、非正規雇用の「限定」の課題は、契約規範の遵守という課題であり、これは正社員も含めた全般的な雇用改革の内実にも影響を与える。政策レベルにおいても、労使関係においても、この点に焦点を絞った検討が求められている。

と述べています。

用語法に若干違和感のある点もありますが、おおむね共通する認識を示していると思います。私流に言えば、「無限定」であることによるメリットを享受してきたかつての「幸福な」正社員モデルの規範的影響力が大きすぎて、「限定」にむけた労働者の意図や行動が(自分自身も含めて)正当と感じられなくなってしまっているところに一つの原因があるのでしょう。

週末を犠牲にしてでも取り組みたい仕事

「あごら」ですが、常見陽平さんが書いているので、そしてとても重要なポイントがさりげなく入っているので、ちょいとコメント。

http://agora-web.jp/archives/1454612.html(アップルが新入社員に渡すメッセージがブラック企業みたいな件)

常見さんが「吐き気を催す表現」とまで罵倒しているのが、この

週末を犠牲にしてでも取り組みたい仕事

って台詞です。

わたくしは、もちろん、

一見すると美談だが、人間には休息が必要である。「24時間働く」なんて大量の滋養強壮剤を飲まされたバブル期のサラリーマンみたいなことを言って酔っている場合じゃない。

という常見さんに賛成なのですが、それはもちろん、この台詞が労働者(いわゆるサラリーマンも当然含む)に向けて吐かれるという前提での話です。

経営者、あるいはむしろ企業家といわれる人々には、別の人生の見え方があり、考え方があり、生き方があるのはまた当然です。

問題は、そういうベンチャー企業家が、自分たちにのみ適用可能であるはずの倫理規範を、本来適用してはいけない自分が指揮命令して働かせているところの労働者にそのまま要求してしまったり、場合によってはその指揮命令を受けて労務に服している労働者ご本人が、あたかも自分をベンチャー企業家か何かであるかのように思いなして、当該労働者には向かない倫理規範を自分だけではなく他の労働者たちにも押しつけたりしようとし出すときに発生します。

そしてそういうたぐいの人が、自分のイデオロギーに沿わない人に対してぶつけるのが、この常見さんのエントリにつけられたコメントの筆頭に出てくる

この記事を憐れんでしまうのは、彼は根っからのサラリーマンであり、いまだ人生総てを懸けうる仕事に出会っていない「未熟児」であるが故だ。

というようなよくある(ほんとによくある)台詞であるわけです。(このコメント者が自ら企業家であるのか、それとも「気分は企業家」なのかは分かりませんが)

根っからだろうが枝葉からだろうが、指揮命令を受けて労務に服する労働者(サラリーマン)と企業家は違うのですけどね。

このあたり、例によってyellowbellさんの皮肉な表現を引きますと、

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/243606813759878176

自営業もそうなんですけど、経営者の仕事に対する感覚って、基本的に24時間365日フルタイムなんですよね。オンもオフもない。出会いが遊びに繋がり遊びがコネに繋がりコネが商売に繋がり商売が新しい出会いに繋がり、ぐるぐる回りながらその図体を維持する台風のようなサイクルができあがってく。

雇われ営業職の一部にもそれを求められる業態はあるにはあるんですが、そうした感覚っていわゆるサラリーマン的な働き方とはとても相性が悪いんだと思います。そして、多くの被雇用者にとって、いわゆるサラリーマン的な働き方って、本来責められたり揶揄されたりする筋合いのものではないんですよね。労働のモチベーションをどこに見出すかなんて、その人個人の自由なんですから。とはいえこのあたりは、「カネで自由を買ってるんだ」ってタイラントな人々にはどうあってもわかっていただけませんよね。

問題は、組織のTOPが組織とTOPである自分と組織に雇われている従業員とを明確に区分けできてればいいんですけども、未来の成功を信じて疑わない系、特に組織と自分の成功が部下の成功と一体になってる系のTOPは、ついつい「組織をよくすることが社会への貢献!社会のために組織をよくしよう!そのために、従業員諸君にはオンオフなんてありえない!休みのときも、常に組織の一員として情報を発信しまた収集してほしい!だってやれば成功するんだもの!やらない言い訳聞きたくない!」的なことを言ってしまいがちなんですよね。

という話だけだと、ああ、あのブラック企業論のところでやってたあの話ね、というだけで終わっちゃうんですが、これをもう少し引っ張ると、実は日本と欧米の労働社会の(余り指摘されない)一番大きな落差って奴につながってくるわけです。

1 それは、先に海老原嗣生さんの『HRmics』12号で述べた「「ふつうの人」が「エリート」を夢見てしまうシステムの矛盾」で述べたことなわけですが、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics12.html

エリートの問題についても大きな違いがあります。アメリカではエグゼンプト(exempt)、フランスではカードル(cadres)、ドイツではライテンデ・アンゲシュテルテ(leitende Angestellte)といいますが、残業代も出ない代わりに、難易度の高い仕事を任され、その分もらえる賃金も高い、ごく少数のエリート層が欧米企業には存在します。彼らは入社後に選別されてそうなるのではなく、多くは入社した時からその身分なのです。

一方、「ふつうの人」は賃金が若い頃は上がりますが、10年程度で打ち止めとなり、そこからは仕事の中身に応じた賃金になります。出世の階段はもちろんありますが、日本より先が見えています。その代わりに、残業もほどほどで、休日は家族と一緒に過ごしたり、趣味に打ち込んだりといったワークライフバランスを重視した働き方が実現しています。

日本は違います。男性大卒=将来の幹部候補として採用し育成します。10数年は給料の差もわずかしかつきませんし、管理職になるまで、すべての人に残業代が支払われます。誰もが部長や役員まで出世できるわけでもないのに、多く人が将来への希望を抱いて、「課長 島耕作」の主人公のように八面六臂に働き、働かされています。欧米ではごく少数の「エリート」と大多数の「ふつうの人」がいるのに対して、日本は「ふつうのエリート」しかいません。この実体は、ふつうの人に欧米のエリート並みの働きを要請されている、という感じでしょうか。

いってみれば、新入社員全てが「係員島耕作」として「社長島耕作」になったつもりで「週末を犠牲にしてでも取り組みたい仕事」にがむしゃらに取り組む・・・という日本型雇用システムを構築してきたわけであり、それがベンチャー企業家礼賛とくっつくと上記のようなコメントが化学合成されるというわけですね。

結構深いネタでした。

(追記)

ということがまったく分かっていない「人事コンサル」氏がいるから困るんだけどな。

http://www.j-cast.com/kaisha/2012/05/08131329.html

日本と諸外国の働き方の違いを簡単に説明すると、会社が責任を持ってきっちり管理するのが日本、個人がある程度の裁量を持って自己管理するのが他国、というくくりになる。

日本の場合は、労働者は裁量を放棄する代わりに、企業が(終身雇用も含めて)きっちり労務管理をするというのが建前となっている。でも、現実にはそれはとても難しい。

まったく逆であってね。

雇用契約のジョブ・デスクリプションに書いてあること「だけ」を、きちんとやり「さえ」すれば、それ以上余計な「何で自分で考えて仕事をしない?言われたことだけやってればいいと思っているのか?」などと、労働者に対する台詞とは思えないようなことを言われる心配がないのが、欧米のジョブ型の働き方であり、

「会社の仕事は全てお前の仕事と心得よ」とばかり、ある意味で「裁量性」の高い仕事をやらされるのが日本のメンバーシップ型の働き方なんだが。

「個人がある程度の裁量を持って自己管理する」なんてのは、まさにエグゼンプトやカードルといったエリート労働者の話。普通のそんじょそこらのノンエリート労働者はいうまでもなく「労働者は裁量を放棄する代わりに」余計な責任を負わされない。

064198 なお詳細は、海老原嗣生さんの『就職、絶望期』(扶桑社新書)の巻末近くに図と一緒に載っているので参照のこと。

てか、この本の巻末には海老原×城対談まで載っているんだから、当然読んでるはずなんだが・・・。

(再追記)

ちなみに、冷泉彰彦さんはまたちょいと違う視角からこの話題を取り上げていますね。

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/05/post-429.php(「週末も働け」というアップルが必ずしも「ブラック」でない理由)

確かに常見氏の言うように、この種の「メッセージ」をいきなり新入社員に突きつけるような会社があったら、日本では相当に「ブラック」でしょう。ですが、シリコンバレーのアップル本社「キャンパス」に入社した若者に、仮にこうしたメッセージが渡されるのだとして、そこには「ブラック性」はないのです。

 それはアップルが良心的な会社だからではありません。一般に、アメリカの労働慣行では開発を担当する技術専門職には、労働の「裁量権」というのが認められているからです。時には「週末を潰すぐらいのやりがい」がある、そんな種類のプロジェクトに関わっている技術者には「今日は調子が出ないので3時で帰ってリフレッシュ」とか、「進捗が順調なので金曜は休んで3連休」という自由があるのです。

と、言葉の本当の意味での裁量性があることを強調するのですが、しかしその後で語っていることは、上で私が述べたことと共通していますね。

いずれにしても、こうした現場での「社員」というのは、大学や大学院で最先端の技術を学んだか、他社から引きぬいた人材で、スタート時点での年俸は8万ドルを下回ることはないでしょう。更に言えば、仮に上層部とケンカしたり運が悪くて低評価になって辞表を出したりしても、労働市場がちゃんとあり、能力さえあれば他社から好条件で迎えられる可能性は十分にあるわけです。

 1つ注意しておかねばならないのは、こうしたメッセージはあくまで高度専門職・管理職向けのものです。例えば「アップルストア」のローカル採用組などには一切適用していないはずです。週末返上うんぬんという部分が労働法規違反に受け取られる恐れもありますが、それ以上に「ビッグな何かができる」という表現が、将来の昇進昇格の可能性を約束しているように受け取られる危険があるからです。

エリートはエリートらしく、ノンエリートはノンエリートらしく、それぞれにふさわしいやり方でやっているから、どちらも文句を言わなくて済む。

ただ、やはり冷泉さんの主たる関心は、ノンエリート層よりもエリート層の方にあるようで、

この種の「ブラック性」に若者が押し潰される危険も気になりますが、一方で、私としては、日本の産業界が、アップルのような働き方を好む世界の最先端人材を使いこなせないという問題も大変に気になります。

正直言って、認識枠組みは相当程度共有しつつも、やはり関心の向きはだいぶ違うなあ、と感じたところです。

(最後に)

当の常見さんが、

http://twitter.com/#!/yoheitsunemi/status/200161726715543552

最近「君は池田信夫さんのアゴラで書いていて、田中秀臣さんとTwitterでやりとりしていて、仲が悪い2人の共通の敵である濱口桂一郎さんのブログで紹介され、他にも立場の違う人とつながりのある君って何なの?」と突っ込まれたのですが、私は論壇島耕作を目指したいのです。

と島耕作風にまとめたところで、いいオチがつきました。チャンチャン、というべきなのでしょうか・・・。

シューカツがただの職探しじゃなくなってるから・・・

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120508-OYT1T00690.htm?from=main4(就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に)

就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。

 2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。

いやもちろん、ハロワで職探しに失敗して自殺する人だっているかもしれない。だけど、不況の時に職探しがうまくいかないのは洋の東西を問わず当たり前の話。それを何とかしろ!と政府に文句を言うのも洋の東西を問わず当たり前の話。職探しがうまくいかない原因をことごとく自分に着せて、自分を責めて、自殺してしまうというようなことは、もちろんないわけではないけど、やはりあまり普通じゃない。

なぜそうなっているのかというと、やはり先日のエントリで引用したように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-5f11.html(ハロワに行くのって『職探し』って感じがするんですよー)

それで学生たちになんでハロワ行かないのって聞いたら、まあ聞いたらなるほどって思いましたけども、「ハロワに行くのって『職探し』って感じがするんですよー」って言われたときはびっくりした。いやお前らいまやってるの職探しやろ。違うのか

いや、この学生さんたちの素朴な反応に、シューカツってのが、いかなる意味でも就「職」活動なんかではないという事実が、あまりにも露わになっていて、これってやらせでないの?と思わず言いたくなるほどです。

あれほど何年間もかけて一生懸命やっているシューカツってのは、その当人たちにとっては「職探し」じゃなかったんですよ、これが。

シューカツがただの職探しじゃなくなって、人生における人間の値打ちを決めるイベントになっちゃっているからなんでしょうね。

でも、本来就職活動ってのは、ただの職探しなんですよ。

2012年5月 8日 (火)

リベラルってなあに?

yeuxquiさんの

http://twitter.com/#!/yeuxqui/status/199723215185133568

マスコミの人たちで自分をアメリカの意味でリベラルだと思っていたひとは、じつはまったく正反対で、むしろフランスの意味でリベラル=サルコジ風で、頭のおかしい共和党支持者に近かったことにそろそろ気がつくだろうか。

いやあ、そいつは無理でしょう。

もう6年も前に、同じようなことを言ってた記憶が・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_c7ac.html(リベラルとソーシャル)

しかし、少なくとも欧州的文脈でいえば、リベラルとソーシャルという対立軸は極めて明確。それが日本でぐちゃぐちゃになりかけているのは、ひとえにアメリカの(本来ならば「ソーシャル」と名乗るべき)労働者保護や福祉志向の連中が自らを「リベラル」と名乗ったため。それで本来「リベラル」と名乗るべき連中が「リバタリアン」などと異星人じみた名称になって話がこんがらがっただけ。そこのところをしっかり見据えておけば、悩む必要はない。

もちろん、「第三の道」など両者を架橋する試みは繰り返しあるが、それもこれもリベとソシの軸がしっかりあるから。そして、経済学はじめ諸々の社会科学においても、これが最も重要な政策判断の軸であることになんの変わりもないし、およそ社会思想史なるものを少しでも囓った人間であれば、これが近代社会における最も重要な政治的対立の軸であることも分かるはず。

考えてみれば、本ブログの開設当時から、コウゾウカイカクとリフレの対立が人類の歴史で最も重要だなぞというたぐいの超近視眼的わけわかめ理論に対し、「をいをい」と当たり前のことを言い続けてきて疲れましたわいな。

『雇用ポートフォリオ編成の研究』

Maeura前浦穂高さんらの研究報告書『雇用ポートフォリオ編成の研究』がアップされました。

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2012/0145.htm

これは昨年出た『雇用ポートフォリオ・システムの実態に関する研究』

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2011/0138.htm

の続きの研究で、昨年のがスーパー、百貨店、市役所を取り上げたのに対し、今年のは主に製造業ですが、百貨店も取り上げています。

1990年代以降の日本の職場における大きな変化の1つに、非正規化の進展をあげることができる。この変化は、同時に雇用形態の多様化をもたらしている。しかし上記の2つの変化は、企業が雇用ポートフォリオ(複数の雇用形態の組合せ)を編成した結果を事後的に捉えたものである。それゆえ2つの変化に伴って発生する諸問題への対応策を考えるには、雇用ポートフォリオを編成する主体である企業(需要側)を対象に行った調査によって、これらの変化を生み出す背景を明らかにする必要がある。

そこで本研究は、上記の問題意識に立って、電機メーカー2社(ITソリューション部門)、鉄鋼メーカー1社(中央研究所)、百貨店1社を含む4つの企業を対象に、雇用ポートフォリオ編成の実態を明らかにすることを目的としている。調査は下記の2つの仮説に基づいて、非正規雇用を含めた要員管理と総額人件費管理の観点から進めている。

1 総額人件費管理は、組織の雇用ポートフォリオ編成に影響を与える。

2 1.の結果、組織単位で雇用ポートフォリオが編成され、その結果として、非正規雇用に求められる役割や職域、スキルの程度などが決まる。そして非正規雇用が働く実態に応じる形で非正規雇用の処遇が見直されるのではないか。

なお総額人件費管理とは、コスト削減圧力のもとでの正社員数の決定及び事業予算の制約のもとでの非正規雇用の活用の両者を含んだ概念である。

今回の報告書の事実発見は次の通りです。

第1に、総額人件費管理は組織の雇用ポートフォリオ編成に影響を及ぼすことである。組織の正社員数の決定には、程度の差こそあれ、毎年削減圧力がかかる。各職場では正社員不足を補うために、与えられた予算の範囲内で、非正規雇用の活用が選択される。つまり効率的な雇用ポートフォリオ編成を促す主因の1つは、総額人件費管理である。

第2に、人的資源を指標とするモデルでは、雇用ポートフォリオ編成の実態を説明できないことである。非正規雇用に求められる役割や職域、スキルの程度は、組織の雇用ポートフォリオ編成が確定した後、事後的に決まる。したがって、雇用ポートフォリオ編成の実態は、人的資源を指標として、事前に雇用を類型化するモデルの主張と逆のことを示している。

第3に、非正規雇用の処遇である。非正規雇用の処遇は、質的基幹化や職域の拡大を契機として、非正規雇用の働く実態に合わせて改善されている。つまり仕事の配分ルールが賃金の配分ルールを規定する。

これをもとに、つぎのような政策的含意を示しています。

第1に、既存の雇用ポートフォリオ理論は、その編成原理を説明できないことである。それは主な事実発見の2点目に指摘した通りである。そのため既存の理論に基づいて、政策的対応を講じれば、理論と実態との間に乖離を生み出し、その効果を得ることは極めて難しくなる。そうした事態を避けるためには、理論を実態に当てはめるのではなく、まず素直に実態を見ること、すなわち雇用ポートフォリオを編成する需要側(企業)を緻密に調査し、得られた事実を基に、政策的対応を考えることが重要である。

第2に、雇用ポートフォリオ編成の多様性である。雇用ポートフォリオ編成を規定する要因が、その編成原理であるとすれば、それは業種や事業などによって異なる。つまり雇用ポートフォリオ編成原理は多様であり、雇用形態別の対応だけでなく、業種や事業に考慮した対応が必要となる。

第3に、雇用形態別の仕事の境界が曖昧になりつつあることである。非正規雇用に求められる役割や職域、スキルの程度は、組織の雇用ポートフォリオ編成によって規定される以上、非正規化が進めば、雇用形態別の仕事の境界はますます曖昧になる。この事実は、総額人件費管理によって非正規化が進む一方で、その動きに歯止めをかける仕組みがないことを意味する。

第4に、均衡処遇への対応である。非正規雇用に求められる役割や職域、スキルの程度が事後的に決まり、その実態に合わせて非正規雇用の処遇は見直される。仕事の配分が事後的に決まる実態からすると、企業は常に仕事の配分(働く実態)と処遇の関係を見直さなくてはならなくなる。この処遇の見直しが均衡処遇に向かっているかを注視する必要がある。

さりげなく言っていますが、これって結構凄いことを言ってるんですよ。

こういう仕事だから正社員、こういう仕事だから非正規に振り分ける・・・なんて綺麗事を言ってる既存の雇用ポートフォリオ理論じゃダメなんだよ。結局総額人件費管理というカネで決まってるんだ。それで現実には非正規がどんどん基幹的仕事に振り向けられて、そのあとから処遇問題が付いてくるのだから・・・。

惜しむらくは、タイトルがやや地味すぎて、表紙を見ただけではそれほど凄いことを言っているようなものには見えないところが玉に瑕というべきか。

例によって公務員初任研修の課題

例によって、今週月曜と金曜は公務員初任行政研修ということで、入間の公務員研修所にいきました(す)。

例によって、なぜか権丈善一先生と裏番組という構成。

権丈先生の課題は、ますます過激になって(笑)、社会保障を超えてます。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/120507iruma.pdf

課題1 . 医療を市場に任せると、どういうことが起こるのか。それはなぜだと考えられるか。

課題2 . 日本人の生活水準が新興国の人たちよりも平均して高いのは、なぜか。そうした日本人の生活水準の高さを維持していくためには、どうすればよいと考えられるか。

課題3 . 今の日本、 投資 と消費 、どうすればそれぞれを増やことができるか。いずれの方が、うまくいくと考えられるか

わたくしの方の課題は、昨年と変わりません。おとなしいものです。

1 「働ける人には所得保障よりもまず働いてもらうべきだ」という意見と「働ける働けないにかかわらず生きていける所得を保障すべきだ」という意見についてどう考えるか?

2 「学校は専門技術的な教育よりも普遍性のある基礎教育を重視すべきだ」という意見と「学校はもっと社会に出てから役に立つ専門技術教育を重視すべきだ」という意見についてどう考えるか

3 「正規と非正規の格差は早急に是正すべきだ」という意見と「拙速に介入すべきでない」という意見についてどう考えるか

日本の解雇まるごとHOWマッチ

出井智将さんが、『日本の雇用終了』をお買い求め頂き、ブログでご紹介頂いています。

http://ameblo.jp/monozukuri-service/entry-11238502131.html(JILPT第2期プロジェクト研究シリーズ『日本の雇用終了-労働局あっせん事例から』)

あくまでも研究書なので、過去の労働局のあっせん事例から、労働紛争事案の判例をまとめられたもので、読み物としてというよりは、事ある度に開く、辞書的書籍なのだと思いますが、ページをめくる度に、あるわ、あるわ…。

解雇規制が強すぎるから、緩和すべきという意見も多いこの日本で、バッサバッサの首切り事例(汗)。

いやまさに、大企業正社員の経営上の理由による整理解雇に対する規制だけで日本の雇用終了を考えてると、本書にあるような膨大な実態が目に入らなくなるということなわけです。

出井さんの評語は、これで決まりでしょう。

また、個別事案での解決金なども書かれていますので、参考書「日本の解雇まるごとHOWマッチ」というような一冊でもあります。

解雇ルールを議論しよう@日経「中外時評」

一昨日(5月6日)の日本経済新聞の「中外時評」に、論説副委員長の水野裕司さんが「解雇ルールを議論しよう」という文章を書いておられますが、その中に、私たちJILPTの研究報告が引用されています。

・・・その結果、労働組合がない場合が大半で、大企業に比べて従業員が解雇されやすい中小企業では、急に解雇通告を受けても、一銭の補償金ももらえない場合が少なくない。日本も金銭補償のルール作りを議論するときにきているのではないか。

全国の労働局が2008年度に扱った個別労働紛争のうち、労働政策研究・研修機構が1100件余りを抜き出して分析した調査がある。それによると解雇や退職勧奨など「雇用終了」に関する紛争では、企業が和解金を出すなどで解決に至った例は3割にとどまった。

個別労働紛争の多くは、労組がない中小企業の労働者からの相談によるものだ。企業側が労働者との交渉の席に着かず協議が打ち切られた例は「雇用終了」関係の紛争全体の4割強に上っている。

大企業もグローバル競争の激化で雇用が不安定になっているが、中小企業の従業員はさらに不利な状況にある。金銭補償は中小企業労働者の雇用を改善する手だてになる。「補償額の目安を法で定めるべきだ」と労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員はいう。

このあと、先日経済産業研究所から慶応大学に移られた鶴光太郎氏が、補償額は「勤続年数などを考慮する必要がある」とも語っています。

Mizuno

2012年5月 6日 (日)

日本の伝統的子育てが息づいていた時代の若干の実例

さて、昨年10月31日付けで本ブログで紹介したネタですが、1950年代、三丁目の夕日がまだ明るかった頃の、日本社会の実相を、当時の政府資料から改めて確認してみるのも、一興ではありますまいか、ということで、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-97de.html(年少者の不当雇用慣行実態調査報告@婦人少年局)

旧労働省の婦人少年局というところは、むかしは非常に熱心に女性や子どもたちの労働実態の調査をやっていたのです。とりわけ、今ではほとんど忘れ去られているでしょうが、年少者の不当雇用慣行について、1950年代の半ばごろにその実態を暴いた報告書は、東北地方、九州地方、近畿地方、関東甲信越地方の4分冊として、刊行されています。

おそらく今では役所の中でも誰も知らないであろうこの報告書を、ちょっと紹介してみましょう。今ではみんながうるわしく描き出す「三丁目の夕日」のちょっと前の時期の、日本社会の凄絶な実態をちょっとの間だけでも思い出すために。

やはり、人身売買の本家といえば東北地方で、1950年代にもこういうケースが結構あったようです。

年齢:15,性別:女、業務内容:芸妓見習、前借金:1万円、備考:中学1年中退

もともと生家があまりに貧しいので、食べるだけでもという親の考えと、芸者にすれば教育をしない女の子でもまとまった金が入るという親の考えから、雇主は「この子はここにいるからこそ乞食もしないでいられる」と言っていた。

・・・・・・のですが、よく調べると出るわ出るわ。U子は、昨年11月ごろから売春を強要され、置屋で客を取っていたが、あまり客を取らされることが辛く、置屋を飛び出し、市内の某マーケット内にあるバーに身を寄せた。・・・

置屋では、その町の大親分と恐れられている一六親分を介し、バーに対して、U子の身柄と、前貸金を始め貸金及び費用を請求した。・・・

父親は「長女の時以来、長いこと置屋のお蔭で生活してきたので、大変御恩を受けているのに今度U子が約束を果たさなかったので置屋に申し訳ない。その代わりにみよ子(四女、小学6年の長欠児)を置屋にやる」といっており、・・・

年齢:12、性別:女、業務内容:農家の家事手伝、前借金:2万円、契約期間:5年

既に作男として働いていた兄が、父親に実家で生活するより川口にいた方がよいから、H子もここで働くようにしてはとすすめたことや、父親にしても長男が良くしてもらっているのを知っていたので、長女のH子を説得して、雇い入れ先の農家へ住み替えさせたものである。

本人に会って聞いてみると、「貧乏な家のことを思えば、現在の方がずっと良いから帰りたいとは思わないし、このまま働いていて、家への送金や、自分の貯金ができるようになりたい」ということしか考えていず、就学の希望も全くない。

年齢:14、性別:女、業務内容:商店の女中兼子守、契約期間:3年、備考:中学1年中退

調査担当者がA子に会ったとき、A子の両手は凍傷で真っ赤に腫れ上がっているにもかかわらず、元気で働いていたという。学校へ行きたいかと尋ねると、及びもつかぬといった顔で目を見張っていたそうで、遊ぶことも、着ることも考えないで、仕着せにもらった着物や、洋服などは、着ないで仕舞っておき、3年の年期もあと1年と、辛抱して家へ帰るまでは、自分の身体のことなど考えてもいないらしく、何を聞いても辛いと言わなかった。

というような事例が、次々に、これでもか、これでもか、と並んでいます。

念のため、これは言うまでもなく日本国に既に労働基準法が施行されている時期の話です。

わたくしの生まれるほんの少し前の時代の日本社会の話です。

こういう「古き良き時代」の話を聞くと、金融関係者はやはりこういう感想を持つのでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-b9d7.html(キキを見てこういう感想を持つたぐいの人々)

魔女の宅急便のキキは、労働組合も作らないし、首になっても割増退職金も要求しない。セクハラだパワハラだと訴えない。今の労働者も見習うべき。

見習うべき模範は、ほんの半世紀前には山のようにあったわけです。

(追記)

同じシリーズの「九州編」から。

年齢:16、性別:女、業務内容:接客婦、前借金:4万円、仲介人:兄の夫、備考:中学2年中退

W子の父は白痴、母はその夫と10人の子をなしながら正式に結婚せず、・・・

6人の姉たちは皆料理飲食店に勤めた経験のある者ばかりであり、無知無能な両親、特に母親は生活困難のために子どもを犠牲にしてその日を送ることを何ら社会悪として観ずることなく、母親としての愛情に欠けている。W子は中学2年の時料亭に行き暫くして連れ帰られ、学校へ出たが途中で止めている。・・・

彼女が料亭に出るようになったのは掲記の通り長女H子及びその夫の強制によるものである。長女H子は現在第2回の刑に服役中であるが、第1回の刑を終えて帰った際、W子に家の加勢をせよとだまし県内某地方に売り、4万円の前借りは母に渡さずH子夫婦が着服している。

年齢:17、性別:女、業務内容:接客婦、前借金:2万3千円、仲介人:父の知人、動機:家計補助

7人兄弟の長女であるE子は家計を助けることが子のつとめと思い働くことにしたと就業の動機を語っている。親元の家族は父母兄弟の9人で父は造船所職工だが給料の遅欠配で月収平均2000円、長兄は会社員で5000円、母は日傭い日給150円とあわせて1万円前後が総収入であるが、家計困難はE子をかかる業婦としての途へ追いやり、更に父(46歳)が雇主に借金をなしE子の前借りが嵩むということになっている。

年齢:15、性別:女、業務内容:接客婦、備考:中学1年退学

Y子の親元は7人家族で父は日傭い稼ぎをして月収平均7000円、ほかに収入は全然ない状態である。

このような状態のもとにあって、Y子は13歳の折、父より親のためと思っていってくれと勧められ、父はまた周旋人の口車に乗り、遙々と青森へ売られていった。無知という前に自分の娘を私物視する観念がいかに根強くこれらの階層の中に残っているかを多くの事例は示している。

2012年5月 5日 (土)

かなり興味もって読めるぜ!「日本の雇用と労働法」

拙著『日本の雇用と労働法』をめぐって、社労士受験者の方の間でこういうついーとが、

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/197263880567791617

誰か、一般常識のいい勉強の仕方あったら教えてくださいm(__)m

http://twitter.com/#!/kirari1234/status/197272300792459264

効率のよい勉強かどうかは微妙ですが、去年と同じような問題が労一で出た時の対策として購入した「日本の雇用と労働法(日経文庫)」が非常に参考になりました。 労働法関係諸法令の立法趣旨や時代背景などが分かりました。

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/197278879428251649

ありがとうございます!「日本の雇用と労働法」早速Amazonで注文しました。去年は、そんなん知るわけないやろ!常識やあるかい!!的な1点で泣いております。あれ常識と言えるくらいに今年は頑張ります!将来役に立ったらいいなぁ。

http://twitter.com/#!/kirari1234/status/197296213844967424

某予備校の先生が、開業社労士の方にH23年の労一解いてもらったら、例外なくみんな解けたんですって。だから社労士にとってあれは常識なんでしょうね。ちなみに「日本の雇用と労働法」、H15労一、H20労災選択に関する記述もあり、勉強になりましたよ(^^)

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/197866788686532609

「日本の雇用と労働法」が届いたのでGWはこれを読む。

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/198393511836520451

なるほど!確かに法定労働時間=割り増し賃金の計算の基礎くらいにしか考えてなかった。そもそも、労働時間と割り増し賃金(残業代)は全然別の概念として考えなければならないんですよね。法定労働時間なんか36協定次第でないも同然だし。

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/198394733884747776

電算型賃金体系とか能力主義管理とか何回も出てる。やっぱりこれって社労士の常識だったんだ。

http://twitter.com/#!/cappuccino6601/status/198395147355045889

かなり興味もって読めるぜ!「日本の雇用と労働法」

ということで、何にせよ拙著をかなりの興味を持って読んでいただけているようで、ありがとうございます。社労士を目指す方だけでなく、労働問題の常識を軽く読んで身につけるのに最適です。

あと、ブログでもいくつか拙著評がありました。

http://der9002.way-nifty.com/blog/2012/05/post-d5b9.html(パソコンメンテナンスと浦和レッズ、それと読書)

日本型雇用の実質を、比較で説明してくれる。
人間は、比較でしか事実を知ることができない。
事実は、相対的にしか存在しない。

日本の雇用の実質がメンバーシップで、それが法の建前と乖離し判例がそれを埋める。
よくある話であるが、労働法との乖離は常軌を逸していないか?

http://ameblo.jp/yoss2525/entry-11240812629.html(技術系社労士?を目指す!)

労働組合は、使用者組織の外側にある、というのが日本における組合の法的考え方であると言えましょう。

しかしながら、日本ではそのほとんどが企業別組合で、組合が従業員の組織となっており、組合の事務所が使用者組織の中にあったりしています。

理念と現実が違うのです。

・・・・以上のことは、濱口桂一郎氏の本の受け売りでありました。

http://blog.goo.ne.jp/go2c/e/93af3d5b0ec02f9053b1f88a344bedc5(一寸の虫に五寸釘)

本書は労働法の本、というよりは労働法制度を歴史的背景を含めて俯瞰した本です。

・・・「そんなこと常識じゃないか」と具体的な事件や法制度・判例まで頭に浮かんでくる人には本書は不要だと思いますが、私のような半可通には、個々の法律や判例を俯瞰する視点が新鮮でした。  

・・・・・・ただ最終章「日本型雇用システムの周辺と外部」で非正規労働について扱っている部分は(日本の法制度下では労働者はすべて雇用契約に基づいて働いているにもかかわらず「契約社員」という言葉が特定の就労形態を指す、というあたりのつっこみはさすがなのですが)、「メンバーシップ型vsジョブ型」の切り口で単純には料理できない部分もあり(非正規=ジョブ型、というわけでもない)切れ味の鋭さが欠けているのはちょっと残念。

現在の労働法制や判例がどういう時代背景から形成されてきたかを理解するには役に立つ本だと思います。

それぞれの観点から拙著を読んでいただいていることが窺われ、大変嬉しく思います。

三井正信『基本労働法Ⅰ』

32976三井正信『基本労働法Ⅰ』(成文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

この本は、ロースクールの授業をもとにしたテキストブックであり、Ⅰが総論と労働契約法、Ⅱが労働条件決定・変更システム、Ⅲが集団的労使関係と紛争解決という予定だそうです。ざっと通読してⅠが大変面白かっただけに、ⅡⅢを早く読んでみたいという思いが湧いてくる本です。

さて、本書のテキストブックとしての特徴としてわたくしが感じた点は、大きな枠組みに関するところと、コラムに表れる自分史表白的なところです。

まず前者ですが、Ⅰだけでも全編にわたって日本的雇用慣行との関係における労働法制という問題意識が強く示されていて、ある意味で拙著『日本の雇用と労働法』と通じるものも感じられました。いや、もちろん、素人向けの拙著と違って、ロースクールというプロ仕様のテキストですが。

・・・さて、このようなルール形成にあたっては終身雇用制、年功処遇制、企業別組合といった日本的雇用慣行・・・が考慮に入れられた。・・・これを単純化して言えば、労働者はよほどのことがなければ簡単にはクビにはならない・・・代わりに、労働者は使用者に命じられれば時間外労働やさまざまな仕事を(業務)を行い、辞令一本で転勤や配置換えなどの人事異動に従い・・・、一定の労働条件の不利益変更を甘受(ガマン)しなければならない・・・という構図になっているのである。つまり、労働者雇用安定化機能と使用者裁量権容認機能はギブ・アンド・テイクないしトレード・オフの関係に立っていると言える。このような労働関係の継続性と柔軟性を重視するという特徴を有する一群の判例ルールが労働契約法理と呼ばれるものである。

後者は、著者略歴を見てから読むとよく分かりますが、

1982年 京都大学法学部卒業 以後、住友金属工業(株)勤務、京都大学大学院、京都大学助手、広島大学助教授を経て、現在広島大学教授

民間企業への勤務経験をお持ちなんですね。で、それがコラムに結構たくさん顔を出します。

採用内定のところでは、

なお、ついでにここで、筆者の就職活動について書いておきたいと思う。1981年に大学4年生となったが、当時はまだ就職協定があり・・・・・・

配転のところでは、

かなり以前、筆者が某鉄鋼会社に勤めていた頃の話である。当時、筆者は、北九州の小倉にある製鉄所の労務部に勤務していた。・・・

とか、

・・・筆者はかつて大学を卒業して某鉄鋼会社に就職した経験があり、配属された製鉄所の近くの独身寮に入っていた。・・・

出向については、

・・・しかし、その後筆者が、某鉄鋼会社に勤めていたとき、製鉄所の労務部にいた関係で、出向はいわば日常茶飯事に話題となっており、それでようやくいろいろなタイプの出向があることが肌身に沁みて分かった。・・・

転籍のところでも、

筆者がかつて勤めていた会社のことばかり書いて恐縮であるが・・・

そして合併のところではしんみりと、

先日、かつて筆者が務めていた某鉄鋼会社が業界第1位の鉄鋼会社と合併するというニュースに接し非常に驚いた。・・・昔いた会社がもはやそのままの名前と形では存続しないのかと思うと、若干寂しい気もした。しかし・・・

ここまで著者の個人史が色濃く描かれたテキストブックはあまりなかったのではないかと・・・。

2012年5月 4日 (金)

ハロワに行くのって『職探し』って感じがするんですよー

「sociologbook」さんのブログに、大変興味深い記述が。あ、この方、大学の先生で、学生さんの就活に心を痛めておられる方なんですが。

http://sociologbook.net/?p=385(シューカツと就活のあいだ)

・・・それでも既卒を中心にハロワですぐに内定取るやつがたくさんいて、話をきくと確かに地味な中小が多いがなかなかのんびりした昭和な感じの会社も多くて、もうこれは職探しの手段としてはハロワ最高ちゃうん、って思って、苦戦してる学生にめっちゃ勧めてるんだけど、あれっと思うほど反応が悪い。

・・・もちろんハロワで見つかる会社にブラックがぜんぜんないっていう話ではぜんぜんなくて、そうなんじゃなくて、どうせ同じならムダに苦労することないと思うんだけど、っていうことやねんけども。やたらと競争率の高いところに行こうとして無理して長い期間しんどい就活しなくても、給料に差は無いんだから、ハロワで地元の中小企業探して、あとはのんびりと最後まで学生生活楽しんだらいいと思って、かなりアツくハロワ推しをしてるんだが、なんかあんまり反応がない。

それで学生たちになんでハロワ行かないのって聞いたら、まあ聞いたらなるほどって思いましたけども、「ハロワに行くのって『職探し』って感じがするんですよー」って言われたときはびっくりした。いやお前らいまやってるの職探しやろ。違うのか

いや、この学生さんたちの素朴な反応に、シューカツってのが、いかなる意味でも就「職」活動なんかではないという事実が、あまりにも露わになっていて、これってやらせでないの?と思わず言いたくなるほどです。

あれほど何年間もかけて一生懸命やっているシューカツってのは、その当人たちにとっては「職探し」じゃなかったんですよ、これが。

こういう就活を続けて内定取れなかったやつが、方向を変えてハロワであっさり就職先を見つけていくのを見るにつけ、そしてそして、大多数の学生がしんどいことを長期間やって貴重な学生生活が削られてるのを見るにつけ、ほんとうにもったいないと思う。

いかなる意味でも「職探し」ではないところの「シューカツ」によって大学生たちの時間が使われているという事実に、もう少し先生方も気づいて欲しいところです。いや、うちの学生は「職探し」なんていう下賤なことはやらないんだ、「シューカツ」っていう高級なことをやるんだからいいのだ、っていう先生はそれでいいわけですが。

身分論的公務員法制の憲法化

自由民主党の日本国憲法改正草案があちこちで話題になっているようですが、もっぱらイデオロギー的側面のみを有するような話題は(ブログの安全保障上)避けておいて、本ブログのテーマに沿って労働基本権に関わる28条について見ておきましょう。

現在の条文を1項として、第2項として、

2 公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部または一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するために、必要な措置が講じられなければならない。

という規定を新設することにしています。

そのそも労働基本権は!という議論を別にして言えば、これは現行公務員法の考え方を憲法上に書いたものに過ぎないとも言えます。労働基本権の制限とその代償措置としての人事院勧告制度はまさにこの考え方に立っているので、その仕組みを憲法上に明記することによって人事院勧告制度を断固守るぞ!と言っているわけです。

それをどう考えるか、言い換えれば現在国会に提出されている国家公務員法改正案をどう考えるか、については、もちろんさまざまな考え方があるところでしょうが、ここでは一般の議論ではあまり注目されていない、それゆえ自民党の憲法改正案でも考慮されていないある側面について注意を喚起しておきたいと思います。

それは、現行法もそうですし、この自民党の改正案もそうですが、問題を「公務を行う者」という機能論的にではなく、「公務員」という身分論的に捉え、公務員という身分を有する者についてのみ、労働基本権を制限する代わりに「勤労条件を改善するため」の「必要な措置」を補償するという仕組みになっている点です。

その両者にどういう違いがあるのか?と思われるかも知れませんが、ありますよ。官公署に派遣や請負で働いている労働者は、「公務」を行っていますが「公務員」ではありません。

この問題が裁判所に持ち出されたのは、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-d973.html(派遣先たる国の団交応諾義務)

公務員法によって労働組合法の適用が排除されているのは公務員という身分にある労働者なので、公務員じゃない派遣労働者が労働組合法の適用を受ける=部分的に派遣先たる国・地方自治体に団交を要求できるというのも、理論的に当然です。

ですが、わたくしは既に以前からこの問題について注意を喚起してきました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chihoukoumuin.html(地方公務員と労働法)

これよりもさらに深刻であり得る問題は、地方公共団体に派遣された派遣労働者の労働基本権である。派遣労働者は地方公務員ではないので団体交渉権も争議権も有している。法律上派遣労働者の団交応諾義務について規定した条文は存在しないが、最高裁の判例*11によれば、「雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて右事業主は同条の「使用者」に当たる」。従って、労働者派遣法に基づき派遣先に責任が分配されている事項については、地方公共団体は派遣労働者の加入する労働組合からの団体交渉に応じなければならず、拒否すれば不当労働行為になりうる。また、派遣労働者を大量に使用している職場で彼らが争議行為を行う可能性も考えておく必要がある。

上記神戸刑務所事件では、何とも皮肉なことに、国家公務員たる刑務所職員は団結権すらもなく、全ての労働基本権を否定されているのに、そこに派遣されている身分論的には民間労働者たる刑務所業務従事者はスト権も含め全ての労働基本権が認められているのです。

こういう事態になるのは、そもそも現行公務員法制が機能論的ではなく身分論的に制度を構成してきたからなのですが、そういう問題意識は、この憲法改正案を見る限り、少なくとも自由民主党の皆さまにはないように見受けられます。

この改正案では、そういう身分論的公務員法制度が硬性憲法規定として固定化してしまうのではないでしょうか。

しかし、本当に考えるべきは、一定の労働条件保証と引き替えに労働基本権を制約すべきはいかなる「公務」なのか、という機能論的発想ではないかと思われます。

(さらに参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-58f5.html(公務員の任用は今でも労働契約である)

・・・要するに、終戦直後にできた労働分野の基本立法は、公法私法峻別論などという変な考え方には全然立っていなくて、まことに素直に公務員関係はみんな労働契約だと考えていたのです。

法政策としては、職務の特殊性から労働法の中のある部分を適用除外するというのは、まったく当然なことです。例えば本来の官公署にスト権を与えるべきではないでしょう。そのことと、その法律関係が労働契約であるかどうかというのはまったく別次元のことです。

日本国の立法府は公務員は労働契約だという法律を作って以来、一度たりともそれを否定するような法改正をしていないにもかかわらず、行政法学説やら裁判所やらが勝手に法律をねじ曲げて、本来日本の法体系が立脚していない公法私法二元論で説明してきてしまい、それを真に受けた労働行政当局も、もともと大先輩が作った法律は全然そんなことはいっていないのに、新しい法律を作る際には勝手に公務員は適用除外にしてしまってきたというだけなのですね。

こういうことを言うとびっくりされてしまうのですが、びっくりする方がおかしいのです。素直に労働基準法を読めば。

「あの人件費であの人員ならそういうもんだよな」という状況にしておいて「ムダででたらめをやっているコームインの人件費を下げろ」となる「見事なサイクル」

被災地の地方公務員として、「GWといいながらフルで休める状況ではない」マシナリさんが、それでも激務の合間に胸の内をひっそりと書かれています。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-513.html(適切な処理に要する人件費)

というような実務上の処理に追われるチホーコームインからすれば、「しごとプロジェクト」といって緊急雇用創出事業にばんばん予算をつけて、被災された方々だけではなく地方自治体の仕事を増やしてその成果を誇示する一方で、コームインの人件費削減を嬉嬉として喧伝する政治家の方々には、感謝とともに嘆息が漏れるところですね。・・・

もしかすると、業務の質を下げてもいいから人件費を減らせというのが「民意」であればコームインなんぞにはもはや質を期待しないというのが正しい態度でしょうから、業務でミスっぽいことをしようが住民の方に不十分なサービスを提供しようが、「あの人件費であの人員ならそういうもんだよな」と納得するのが主権者たる日本国民のご判断だということなのかもしれません。

そうはいっても、・・・、「あの人件費であの人員ならそういうもんだよな」という判断が「民意」となることはあり得ないように思います。ところが、そうしたあり得ない「民意」を駆り立てることができるのがデマゴギーといわれる方々でして、いつの世にもそうした輩は存在しますね

まあもちろん、いくら「民意」があろうと会計検査院とかオンブズマンの方々はそうした処理を認めてくれるとは到底思われませんし、・・・マスコミからすれば「○○県が不適切な処理をした」とか「△△省では×億円の無駄遣い」といった見出しが打てればそれで売上げが上がりますから、それをみた「民意」はさらに「ムダででたらめをやっているコームインの人件費を下げろ」と公的セクターへの攻撃を強めるという見事なサイクルが働くわけです。

まあ、この間ずっとそういうサイクルがひたすらくるくると回り続けて、それに追っかけられてへとへとになっているマシナリさんがぼそりとこう漏らされる言葉には、本当は千金の重みがあるはずなんですが、デマゴーグやその腰巾着連中に限って、こういう言葉だけは耳に入らないようです。

このエントリがどちらかというと地方公務員の胸の内を素直にさらけ出したものだとすると、それに続くこのエントリは、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-514.html(歴史の読み違え)

スティグリッツやポランニーを引用しながら、それを理論化しようとしています。

自由主義者が規制として糾弾するさまざまな保護政策というのは、そもそもそうした自己調整的市場システムでは保護されないとしても保護しなければならないものが現に存在し、それを保護することを目的としているものであって、誰が対象者であっても必要とされる規制なわけです。上記でポラニーが指摘しているのは、それが自己調整的市場システムによる経済的利益を阻害していることを主張しようして、結局その証拠を示すことができないときは陰謀論に頼らざるをえないしまうという陥穽ですが、スティグリッツが「ポラニーが適切に論じているように、彼らの見解は歴史の読み違えを象徴している」と指摘する点は、21世紀の現在においても傾聴すべきものと思います。

こういう高い識見と深い洞察力を示す偉大な経済学者からの引用の後に、ややお口汚し的な劣化ウラン的文章が引用されると、いささか胸が焼ける思いが致しますが、それもまた現代日本というものの現実の姿であれば仕方がないのでしょうね。

こうした歴史的な考察を抜きにして、たかだかバブル崩壊後の十数年の経緯のみを取り上げて「財政政策は経済学的にはかえって逆効果だから金融政策をすべきだ」という主張がリフレ派と呼ばれる一部の方々の根幹にあるように思われるわけですが、ポラニーの上記の主張と読み比べてみるのもおもしろいかもしれません。ちなみに、以下の方がいう「弱者」には長期失業者も貧困者も障害者も高齢者も片親世帯も含まれていないこと、所得再分配が単純な産業政策論にしか還元されていない点には十分注意する必要があるでしょう。

・・・誰がなにを見落としているのかはよくわかりませんが、少なくとも「勝ち組」に対するルサンチマンを煽って「純経済学的」な議論をしておきながら「政治経済学的な考察をまったく欠いている」という結論に至る論理展開は、デマゴギーの一つのスタイルとして大変興味深いものだなあと思います。

サービス経済化と労働の変容

ツイッター上で、『日本の雇用終了』についてコメントされている方を見つけました。

http://twitter.com/#!/tkz3/status/198050856069906434

『日本の雇用終了』JILPT第2期プロジェクト研究シリーズを読了。使用者と労働者とに間にある「対人関係業務における「信頼」や「コミュニケーション」の客観的認識」のズレから始まり雇用終了へとつながる事例が多く取り上げられています。サービスの消費者ともおそらくズレがあるんだろうな…

http://twitter.com/#!/tkz3/status/198056271704895492

(同書pp169)「物的労働における能力の認識評価が生産物という形である程度客観的に現れるのに比べると,その認識評価を共有することの本質的困難性をもたらしているように思われる.」使用者ー労働者,提供者ー受益者…ずれがあちらこちらに.「ずれ」に対する気になりが再生産される構造.

ここで「KOMAZAKI Toshitake」さんが引用されている部分を含む事例を全文示しておきますと、

・30449(非女)普通解雇(36万円で解決)(50名、有)

 学童保育指導員。子供たちからの信頼も厚く、コミュニケーションがうまくとれ、企業の利益に貢献していたのに、解雇通告された。

 申請人は感情的になって言い合いをしたり、児童を傷つけるような言動を行うなど、児童と直接接する業務に全く不向きであり、主任指導員を介して適宜指導を行ったが、素直に聞き入れるどころか、自らの意見に固執して反発したため、やむを得ず契約の打切りを通告したもの。この団体は社会教育団体で企業ではないので、ボランティア精神が必要である。

 労使双方の労働の実績に対する認識評価がまったく正反対に近いほど異なっている事案である。対人関係業務における「信頼」や「コミュニケーション」の客観的認識が、労働者自身の主観的認識と恐ろしいほど食い違っていることは、物的労働における能力の認識評価が生産物という形である程度客観的に現れるのに比べると、その認識評価を共有することの本質的困難性をもたらしているように思われる。サービス経済化による能力認識の困難性という問題は、今日の労働過程を考える上で重要な論点となるのではないか。

このほかにも、サービス経済化による労働の変容という問題意識を刺激するような事例が結構多く見られます。

この事例は含みませんが、「顧客とのトラブル」という項目に23件上がり、その項目の最初と最後で、わたくしは次のように述べています。

(4) 顧客とのトラブル

 同じトラブルでも、顧客とのトラブルは雇用契約の目的である業務の遂行に直接関係するものであるが、必ずしも意図的な行為ゆえのトラブルとは言えず、むしろ業務遂行上の気配りの乏しさゆえトラブルが発生することが多いという意味では「能力」を理由とする雇用終了と類似した面もある。件数は23件で、うち金銭解決したものは9件とかなり多めである。おそらく職務の違いゆえであろうが、解決金額も訪問看護の3万円から医師の160万円、専門学校講師の215万円まで分散している。

 顧客とのトラブルが雇用終了の理由となるのは、事業活動において顧客とのある程度長期的な関係を良好に維持することが重要であり、特定の労働者のサービス提供上における行動が顧客との関係を悪化させることが事業運営上に好ましくない影響を与えるという状況が一般的に存在していることを物語っているであろう。これは、とりわけ、日本においては顧客のサービスへの要求水準が極めて高く、事業側も顧客の意向に沿うことを最も重要と考える傾向にあることから、より強められている可能性がある。

 しかしながら、労働者と顧客との間で発生するトラブルが常に労働者の責めに帰すべきものであるとは必ずしも限らず、近年社会問題ともなっているモンスターペアレントやモンスターペイシャントと言われるような不当な要求を行ってトラブルを発生させる顧客も存在しうることを考えると、顧客とのトラブルの発生自体に雇用終了を正当化する要因があるとは限らない面もある。

 ややマクロ的観点から言えば、産業構造が製造業中心からサービス産業にシフトしていく中で、業務運営上顧客との円滑なコミュニケーションの持続が強く求められるタイプの労働が増大してきていることが、顧客とのトラブルを理由とする雇用終了の背景事情としてあるとも考えられる。近年労働社会学で注目されている「感情労働」の問題などとも関連するであろう。

・・・

 以上、顧客とのトラブルを理由とする雇用終了事案を概観して浮かび上がってくることは、現在のサービス化する経済社会においては、顧客の権力が極めて強大化してきているということではなかろうか。もともと、雇用契約においては、使用者が指揮命令権を有し、労働者がそれに服従すべき義務があるという意味において、上下の権力関係が存在しているが、顧客との間にそのような権力関係があるとは想定されていない。しかしながら、サービス経済においては、サービスの受け手である顧客が労働者の労務提供行為それ自体に対していちいち注文を出し、使用者としては顧客の意を迎えるためには、もっぱらその注文に服従する以外にないという状況が一般化するように思われる。

 上掲の各事案においても、「来年度以降は契約を締結しないとまで言われており」(10154)、「どんな理由であれ、会社は得意先を失うことはできず」(20205)、「請負先が人を入れ替えてくれという以上、従わないわけにはいかない」(30533)と、使用者にとっての雇用終了の「やむを得なさ」を説く言辞がみられる。

 この点をさらに深く検討すると、雇用契約に基づく労働者の使用者に対する労務(サービス)の提供行為と、労働者を履行補助者として用いて行われる使用者の顧客に対するサービスの提供行為とが、サービス経済化の中で徐々に区別しがたくなり、顧客が労働者の労務提供の態様自体に対して、あたかも指揮命令権を有する使用者のような権力を使用者を通じて行使するというような事態が現出すると考えることもできる。この点は、さらなる考究が必要であろう。

2012年5月 3日 (木)

プレカリアートの幽霊

欧州労研(ETUI)の今日付のニュースに「The Spectre of the Precariat(プレカリアートの幽霊)」という記事が載っています。

http://www.etui.org/News/The-Spectre-of-the-Precariat

冒頭、どこぞのマニフェストみたいな文が出てきますが、

A spectre is haunting Europe in the form of a new class-in-the-making called the precariat and it is still unclear how this new class will restructure the political landscape.

ヨーロッパに幽霊が取り憑いている。プレカリアートと呼ばれる形成中の新たな階級の形をとって。この新たな階級が政治的情景を作り替えてしまうかどうかはなお明らかではない。

4月27日にバース大学で開かれたETUIの月例フォーラムで、スタンディング教授が語った言葉だそうですが、

Professor Standing explained how globalisation had given rise to a new class fragmentation which threatens democratic governance. At the top of this new global class structure are the capital elites or the “plutocracy”. Below these elites is “the salariat”, a group with over-average income and employment security. A third group are the “proficians”, self-selling entrepreneurs with socially liberal but economically conservative values. Next in line is the old manual working class, the proletariat whose union-led agenda has come under pressure in the 21st century.

スタンディング教授はグローバル化が民主的ガバナンスを脅かす新たな階級分裂を引き起こしていると説明した。この新たなグローバル階級構造の頂点に立つのは資本エリートあるいは「プルトクラシー」である。これらエリートの下に来るのは「サラリアート」であり、彼らは平均以上の収入と雇用保障を得ている。第3のグループは「プロフィシアン」であり、社会的にはリベラルだが経済的には保守的な価値観をもつ自営企業家である。この列の次に位置するのは古き肉体労働者階級であり、その組合主導のアジェンダは21世紀に圧力を受けている。

The newest group is the “precariat”, a class-in-the-making, which consists of people in millions of insecure jobs, with no “occupational identity” and fewer rights than normal citizens. That’s why Standing calls them “denizens”.

一番新しいグループが「プレカリアート」で、雇用の保障もなく、「仕事のアイデンティティ」もなく、普通の市民よりも権利の乏しい何百万の人々からなる。それゆえ、スタンディング教授は彼らを「デニズン」と呼ぶ。

The precariat is not an underclass or lumpen proletariat but is desired by the current capitalist system according to Standing. It is a “dangerous class” because its members are disengaged from traditional political discourse and could turn to more radical populist voices.

プレカリアートは下層階級でもなければルンペンプロレタリアートでもなく、現在の資本主義システムによって求められている。そのメンバーは伝統的な政治的議論から切り離されており、よりラディカルなポピュリストの呼びかけに向かいがちであるゆえに「危険な階級」である。

日本でもじわりと沁みる分析です。

EUの道路運送に関する特定の社会立法の調和に関する規則

EUでは、雇用社会総局が所管する道路運送労働時間指令(本ブログで既紹介)に加え、運輸総局が所管する「道路運送に関する特定の社会立法の調和に関する規則」というのもあります。

http://eur-lex.europa.eu/LexUriServ/LexUriServ.do?uri=CELEX:32006R0561:EN:HTMLRegulation (EC) No 561/2006 of the European Parliament and of the Council of 15 March 2006 on the harmonisation of certain social legislation relating to road transport and amending Council Regulations (EEC) No 3821/85 and (EC) No 2135/98 and repealing Council Regulation (EEC) No 3820/85

重要部分を紹介しておきますと、

第6条 1日の運転時間は9時間を超えない。ただし、1週間に2回、10時間に延長できる。

2 1週の運転時間は56時間を超えない。

3 連続する2週間の総運転時間は90時間を超えない。

第7条 4時間半の運転の後、45分以上の休憩を取らなくてはいけない。

・・・・・

こちらは運輸総局所管の法令なので、労働時間ではなく運転時間を規制しています。

『日本の雇用終了』がネットショップで買えます

Cover_no4刊行から1ヶ月が過ぎ、ようやくいくつかのネットショップで『日本の雇用終了』がお買い求めいただけるようになってきたようです。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9988044356(紀伊國屋書店BookWeb)

http://www.7netshopping.jp/books/search_result/?ctgy=books&kword_in=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9B%87%E7%94%A8%E7%B5%82%E4%BA%86&fromKeywordSearch=true&oop=on&submit.x=0&submit.y=0(セブンネットショッピング)

なお、以下の2つは、なぜか「この本は現在お取り扱いできません」になってますが・・・。

http://search.books.rakuten.co.jp/bksearch/nm?g=001&sitem=%C6%FC%CB%DC%A4%CE%B8%DB%CD%D1%BD%AA%CE%BB&x=0&y=0(楽天ブックス)

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9B%87%E7%94%A8%E7%B5%82%E4%BA%86%E2%80%95%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%B1%80%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9B%E3%82%93%E4%BA%8B%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89-JILPT%E7%AC%AC2%E6%9C%9F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%94%BF%E7%AD%96%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%A9%9F%E6%A7%8B/dp/4538500046/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1336033438&sr=1-3(アマゾン)

なおもちろん、JILPT自体のサイトからもお買い求めいただけます。

http://www.jil.go.jp/institute/project/series/2012/04/index.htm

ルイセンコ条例

いろいろと世の中では騒ぎになっているようですが、教育学だの精神医学だのという狭い範囲だけでなく、一番参考になるのは、実はこういう歴史の実例だったりしませんかね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B3%E8%AB%96%E4%BA%89(ルイセンコ論争)

ルイセンコの学説は1934年に発表され、スターリン政権下で「マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論を証明するものだ」とされ、メンデルの遺伝学はブルジョア理論として否定された。

ルイセンコは低温処理によって春まき小麦が秋まきに、秋まき小麦が春まきに変わることを発見したとされている。これはいわゆる春化処理であるが、ルイセンコはこれを遺伝的性質がこのような操作によって変化するものと見なし、これまでのメンデル遺伝学や自然選択説を否定した。後天的に獲得した性質が遺伝されるというルイセンコの学説は努力すれば必ず報われるという共産主義国家には都合のよい理論であり、スターリンは強く支持した。

当時のソ連の生物学会ではルイセンコの学説に反対する生物学者は処刑されたり、強制収容所に送られるなど粛清されていた。日本の学界にも1947年に導入されルイセンコの学説を擁護する学者があらわれ、ルイセンコの提唱した低温処理を利用するヤロビ農法が寒冷地の農家に広まった。また中国でも毛沢東が大躍進政策の中でルイセンコの学説を採用し、数多くの餓死者を出した。朝鮮民主主義人民共和国でも、金日成の指導の下にルイセンコ学説を利用した主体農法が実施されたが、土地の急速な栄養不足におちいり、これに天候不良が重なることで1990年代の食糧不足につながった。スターリンの死後はスターリン批判に伴いルイセンコも批判され論争で得た地位を一旦は失ったものの、フルシチョフの知遇を得たルイセンコ派は再び巻き返すことに成功する。この結果、ソ連の農業生産は著しいダメージを受けることになる。

(参考)

デフレは日銀の会議室で起こっているんじゃない!企業の現場で起こっているんだ!

日本経済研究センターの愛宕伸康主任研究員が、「実質値下げが招く「デフレの罠」―原価・人件費抑制と売り上げ低迷の悪循環に―」というディスカッションペーパーを書かれています。

http://www.jcer.or.jp/report/discussion/detail4430.html

わが国が陥っている「デフレの罠」の背景については、金融政策の有効性や長期的な需要不足、「負の生産性ショック」といった供給側から見た構造問題など、マクロ的な観点から多くの研究がなされてきた。しかし、そもそも価格を設定しているのは企業であり、その価格設定行動を丁寧に分析することが、長期デフレの原因を解明する上で極めて重要である。

本稿では、名目(表面)価格を据え置くという企業行動が、「品質調整」という物価指数を作成する際の統計処理を通じて、物価指数の緩やかで安定的な下落を引き起こしていると考える。企業は、国内市場が伸び悩むなかで、製品性能の向上に伴うコスト増を名目価格に転嫁できないため(「実質値下げ」)、生産性の引き上げによってそれを吸収せざるを得ず、原価低減・人件費抑制姿勢を緩めることができない。それが所得環境の悪化、ひいては売り上げ低迷という形で再び企業に跳ね返り、ますます名目価格引き上げを困難にしている。これが「デフレの罠」の基本的なメカニズムである。

こうした企業行動は、全要素生産性の分析からも確認できる。すなわち、全要素生産性を分配面から分解すると、2000年代入り後、生産性を向上させて価格を抑制する傾向が強まっているほか、円高局面では、収益や賃金の減少を通じてデフレ圧力が強まっている姿が浮き彫りとなった。   

デフレの原因はマクロではなく、ミクロの企業行動にこそあった・・・、ということのようです。

全文がリンク先のPDFファイルで読めますが、こういった記述は、いかにもなるほどな、と思います。

・・・何か日本人独特の感性に関わる背景があるように思われる。そうした思いは、東日本大震災直後、数多くの商品が極端な供給制約に直面したにもかかわらず値上げされず、それまで行っていた特売が抑制される程度の措置にとどまったのを見て、ますます強くなった。「サービス」を「対価を得るものではなく無償で提供するもの」と考えるのと同じように、日本人の感性として、厳しい経済状況が続く下では「値上げすること自体が異例のこと」という観念が売る側にも買う側にも定着し、名目価格据え置きが日本人独特の「規範」として確立してしまったのではないだろうか。

これは、経済状況が厳しくなると労働力商品の価格引き上げなんてとんでもないという「規範」が異様に強まったり、「サービス残業」が無償労働という意味になってしまったりする日本の労働社会の感覚と見事に通底していますね。

いずれにせよ、日本が20年にわたる長期デフレから脱却するためには、企業が値上げのできる環境を作り出す必要がある。・・・本稿で論じたように、名目価格据え置きが「規範か」しているとすれば、それを突き崩すのは容易なことではない。価格を決定する企業にとっては、売り上げが拡大していくという確信、すなわち期待成長率の明確な上振れが必要であり、買い手である消費者にとっては賃金の上昇や将来不安の解消が必要である。どうすればそうした環境に持っていくことができるのか、全ての経済主体にとって取り組まなければならないことは何なのか。実体的で地に足の着いた議論を醸成していくことが望まれる。

デフレは日銀の会議室で起こっているんじゃない!企業の現場で起こっているんだ!とでもいうところでしょうか。

(参考)

なんだか、りふれは論争でしか物事を見られない人々がいろいろコメントしてるようなので、このエントリの最も重要なポイントに関わる過去のエントリを:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-107c.html(スマイル0円が諸悪の根源)

生産性を上げるには、もっと少ないサービス労務投入量に対して、もっと高額の料金を頂くようにするしかありません。ところが、そういう議論はとても少ないのですね。

河野太郎氏のメンバーシップ型思想

労務屋さんの紹介で、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20120502#p1(東電よ、値上げするなら賃下げせよby河野太郎先生)

全体としてとにかく値上げする以上は労働条件を引き下げろというトーンが非常に強く、まあ河野代議士の東電憎しの心情はわからないではないのですが、しかし国民にとってそれが本当にいいのかどうかはかなり疑問ではないかと思います。いや連合は本気で怒ったほうがと。

労務屋さんの感想とはいささか違う角度からになりますが、ここで河野太郎氏が示しているものの発想には、東京電力株式会社という法人の労働力取引相手先である労働者たちを、当該東京電力の一味郎党として一緒に叩いてやらずんば済まぬ、という感覚が濃厚に表れていますね。

まあ、当該東京電力の「社員」と法制的には間違って呼ばれているところの労務提供者たち自身も、そういう発想をかなりの程度共有している面もあると思われますので、そもそもそこのところを突っ込むなどという野暮な人間はあまりほかにいないのかも知れませんが、こういう理屈はほかの社会では通用しませんぜ、ということくらいは認識しておいた方が、グローバル化とか言っている方々はよいのではないかと思われます。

労働力の価格は、たまたま労務を提供している取引先会社が原発事故を起こしたからと言って、懲罰的に引き下げていいものではないわけです。もしフランスで原発事故が起こったときに同じようなことをされたら、彼の地の権利意識をもった労働者たちは冗談じゃねえ、とストに訴えるでしょうし、国民はそれに声援を送るでしょうな。

まあ、日本社会はみんなそうは思っていないから、政治家もごく自然にこういう発想になるわけですが。まことに、社会規範としてのメンバーシップ思想は、立法府の選良も含めて全ての人々に共有されているという良き実例でありました。

2012年5月 2日 (水)

『労働六法2012』

125792刊行以来、EU労働法の部分を担当しておりますが、今年は特に変化はありません。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/746?osCsid=55ddc65a9bcaf047992f48b19354c57c

日本の労働法令については、

職業訓練の実施等による特定求職者の就職の支援に関する法律・施行規則を収録。
精神障害等の労災補償についての新基準に対応。
職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告を掲載。
新国立劇場運営財団事件、INAXメンテナンス事件の両最高裁判決を紹介。

です。

うーむ。いじめ・嫌がらせのワーキンググループ報告を載せますか。さらに、その後の円卓会議の提言も載せています。正直、まだそこまで熟していない気はしますけど・・・。

昨年末の心理的負荷による精神障害の認定基準は評価表も全部載せていて便利でしょう。


学校基本調査について

NHKニュースが、学校基本調査の項目改定について報じているようです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120502/k10014852921000.html文科省 大卒の契約社員を調査へ

大学を卒業したあと契約社員などになった人たちを把握しようと、文部科学省は、昭和23年度から行っている「学校基本調査」を抜本的に見直し、「就職」の項目を初めて正社員と契約社員の2つに分けて調べることになりました。

ということなのですが、実は昨年11月、この問題について『労基旬報』でちょっと疑問を呈しておいたのですが、当然のことながら・・・というべきか、まったく読まれていないようです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo111125.html(『労基旬報』11月25日号 「学校基本調査の改正」 )

・・・しかしながら、来年度以降用いられる予定の調査票案を見ると、労働市場の現実をどの程度認識した上で設計しているのか、いささか疑問も感じられる。それによると、「就職者」を「正規の職員・従業員、自営業主等」と「正規の職員等でない者」にわけ、これと別に「一時的な仕事に就いた者」を設けることになっている。解説によると、「正規の職員・従業員」とは「雇用の期間の定めのない者として就職した者」であり、「正規の職員等でない者」は「雇用の期間が1年以上で期間の定めのある者であり、かつ1週間の所定の労働時間が概ね40~30時間程度の者」であり、これに対して「一時的な仕事に就いた者」とは「臨時的な収入を目的とする仕事に就いた者であり、雇用の期間が1年未満又は雇用期間の長さにかかわらず短時間勤務の者。一般的に、パート、アルバイトとして雇用される者が該当すると考えられる」となっている。

 雇用契約が(更新を繰り返した後の実態としての勤続期間ではなく)1年以上であるか1年未満であるかというところで、「就職者」かそうでないかの線引きすることにどういう意味があるのであろうか。2009年改正以前の雇用保険法が、まさにそのような適用基準を設けていて、それが多くの非正規切りによって矛盾を露呈したため、同年の改正で6か月、2010年改正で1か月という基準に変更したことは記憶に新しい。雇用契約は数ヶ月であっても、それを「経常的な収入」として働いている非正規労働者がこれだけ増加している中で、彼らを一律に「臨時的な収入」目的の労働者と見なすような調査票案には、再考の余地があるように思われる。

(追記)

http://twitter.com/#!/konno_haruki/status/197557090951237632

新卒の就職率の調査、ようやく無期雇用と有期を分けるらしい。

ということではないようなのです。残念ながら。

ついでながら、ブログ開設おめでとうございます。期待しています。

2012年5月 1日 (火)

川人博+平本紋子『過労死・過労自殺 労災認定マニュアル』

12630川人博+平本紋子『過労死・過労自殺 労災認定マニュアル』(旬報社)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/755?osCsid=71bbdad00468f71204a91e253b283b07

題名通り、家族が過労死したり、精神障害で自殺したりしたときのマニュアルです。細かい通達の羅列ではなく、ポイントを解りやすく解説しています。

1「過労死」「過労自殺」の労災補償
   労災保険制度による補償/労災の受給資格者/申請方法/時効 ほか
2労災の認定基準
  長時間労働の立証方法/業務上の出来事の立証方法/精神障害・自殺 ほか
3不服申立手続
  不服申立手続の種類/給付基礎日額の不服申立
4行政訴訟
  行政訴訟手続/行政訴訟の進め方/行政訴訟の判断基準
5公務災害申請
  公務災害申請手続/認定基準/裁判における公務災害認定基準 ほか
6企業責任の追及
  代表取締役に対する損害賠償請求/損害賠償請求の時効/労災申請 ほか
7過労死・過労自殺の予防
  会社に対する職場改善要求/労基署や労働局への申告/退職の自由 ほか 

労災認定関係だけでなく、末尾の方には今話題の「退職の自由」なんて項目もあります。

Q 今の会社がひどい長時間労働なので退職を申し出たのですが、上司が認めてくれません。どうすればよいでしょうか?

A 労働者は退職する権利を持っています。会社の承諾は必要ありません。

と、当たり前のことなんですが、やはりこういう項目もマニュアルに必要なんですね。

ちなみに、「休憩室」ではその名の通り「休むことの大切さ」で、「風邪?のど痛い?明日休めないんでしょう?と女優が語りかける風邪薬のCMに対する違和感を語っています。


法政大学に連合大学院

『労働新聞』5月7日号によると、

連合は、4月19日の中央執行委員会で「連合大学院設立構想の具体化案」を確認した。労働運動における将来のリーダーや専門スタッフの育成を目指すもので、14年4月に法政大学大学院公共政策研究科にコースを新設する形で開校する。

とのことです。ただでさえ労働運動の人材不足がいわれてきているのに加え、最近公共政策大学院など政策志向の専門職大学院があちこちにできていることも背景にあるのでしょう。

・・・法大大学院に新設する専門コースは、昼間開校も視野に、夜間開校でスタート。当面修士課程のみを設置する。

というわけで、当面は昼間仕事のある人が夜間通うことを想定しているようです。

入学対象者は、労働団体や労働者福祉事業団体などで働き、各組織が選抜、推薦した者。それら被推薦者だけでなく、一部一般にも門戸を開放する考えで、定員は1学年10人程度とする予定。

こういうのは、やはり意欲のある人でないと。

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