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« 村上潔『主婦と労働のもつれ』(洛北出版) | トップページ | 日本型労使コミュニケーションシステムの落とし穴 »

2012年4月28日 (土)

財やサービスは積み立てられない

784241_l社会保険研究所の月刊誌『年金時代』5月号に、「財やサービスは積み立てられない」を寄稿しました。

中身は、本ブログで折に触れ書いてきたことですが。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nenkinjidai1205.html

 この期に及んで、未だに賦課方式ではダメだから積立方式にせよなどという、2周遅れ3周遅れの議論を展開する人々が跡を絶たないようです。

 この問題は、いまから十年前に、連合総研の研究会で正村公宏先生が、「積立方式といおうが、賦課方式といおうが、その時に生産人口によって生産された財やサービスを非生産人口に移転するということには何の変わりもない。ただそれを、貨幣という媒体によって正当化するのか、法律に基づく年金権という媒体で正当化するかの違いだ」(大意)といわれたことを思い出させます。

 財やサービスは積み立てられません。どんなに紙の上にお金を積み立てても、いざ財やサービスが必要になったときには、その時に生産された財やサービスを移転するしかないわけです。そのときに、どういう立場でそれを要求するのか。積立方式とは、引退者が(死せる労働を債権として保有する)資本家としてそれを現役世代に要求するという仕組みであるわけです。

 かつてカリフォルニア州職員だった引退者は自ら財やサービスを生産しない以上、その生活を維持するためには、現在の生産年齢人口が生み出した財・サービスを移転するしかないわけですが、それを彼らの代表が金融資本として行動するやり方でやることによって、現在の生産年齢人口に対して(その意に反して・・・かどうかは別として)搾取者として立ち現れざるを得ないということですね。

 「積立方式」という言葉を使うことによって、あたかも財やサービスといった効用ある経済的価値そのものが、どこかで積み立てられているかの如き空想が頭の中に生え茂ってしまうのでしょうか。

 非常に単純化して言えば、少子化が超絶的に急激に進んで、今の現役世代が年金受給者になったときに働いてくれる若者がほとんどいなくなってしまえば、どんなに年金証書だけがしっかりと整備されていたところで、その紙の上の数字を実体的な財やサービスと交換してくれる奇特な人はいなくなっているという、小学生でも分かる実体経済の話なのですが、経済を実体ではなく紙の上の数字でのみ考える癖の付いた自称専門家になればなるほど、この真理が見えなくなるのでしょう。

 従って、人口構成の高齢化に対して年金制度を適応させるやり方は、原理的にはたった一つしかあり得ません。年金保険料を払う経済的現役世代の人口と年金給付をもらう経済的引退世代の人口との比率を一定に保つという、これだけです。

 ところが、高齢者を優遇するなと叫んで、年金を積立方式にせよと主張するような経済学者に限って、一方では高齢者が働いて社会を支える側にまわるようにする政策に対しても、高齢者を優遇するなと批判することが多いようです。こういう安手の「若者の味方」が横行するのが、今日の悲劇かも知れません。高齢者を働かせずに現役世代に負担させ続けるのもダメなら、高齢者にも働いてもらって現役世代の負担を軽減するのもダメとなると、一体どういう政策が残ることになるのか。まさか「楢山節考」の世界ではあるまいと、心から祈るばかりですが。

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コメント

 濱口氏の申されることまことにもっともであるが、この主張をする論者は、バランスシートがナンセンスという主張もあわせて行っている有力な方がいる。
 ただ、上記の議論とバランスシートをつくることは直接は関係ないのではないか。
 年金のバランスシート作るのがナンセンスなんて話は、先進国ではないようだ。
 政府の責任として、当然、バランスシートをつくって議論している。
  正村先生も、バランスシートをつくることまで否定していたんだろうか?
 そういうあたりが、アカデミックにみて、疑わしくみられることにつながるのではないのか。
 なお、年金については、積立方式にせよ、現行の修正賦課方式にせよ、巨額の資金運用を行う必要があるが、どうみてもうまくいっていない。運用資金をもっていることが、まずもって、やめた方がよいということではないか。
 小塩先生の新著「効率と公平を問う」をみると、賦課方式と積立方式は実は等価だとしている。ただ、積立方式の方が、資本蓄積となり、マクロ経済学的には望ましいというが、それは、神様のような人が、ちゃんと資金を運用できるという強い前提があるのではないかと考える。

財やサービスを積立ることができないと仮定しても、貨幣を払った対価としての債権を否定することにはならない。

債務の取り立ての効力を国債や預金並みに確立することが積立制度の本旨と言える。

老人が国家を通して、(実質的には現役の血税から)正当な債務の履行を要求することは、当然の権利だ。

国債との違いは、年金受給者は国に対して弱く、国債持ちはより強いということ。

金を毟り取られて「年金払う払う詐欺」を詐欺としってて納付せざるを得ない可哀想な年金加入者の権利を守ろうと言ってるだけ。

5月4日付け日経の1面には、「公的年金、新興国株で運用」とある。
修正賦課方式(現行)と積立方式の優劣をいうのは、皆得意で、今般、権丈教授も、自身のブログで、言及したが、このような議論がなされる中で、アメリカでもやっていない、公的年金の運用を株式で行うということについて、学術的な検討がなされないのはどうしてなのか?
積立金がナンセンスだから、議論しないというのでは、現状100兆円もある積立金を考えると、まさに机上の空論ではないのか?
賦課方式の優位を認めるなら、多少利回りを追求するようなことは必要ないのでは。
ここらへんが、賦課方式の優位性をいう論者が、厚生労働省の省益に甘いだけなのではないかと思われるゆえんではないかと考える。

「公的年金、新興国株で運用」で検索すると、数年前からの方針のようですね。

積立金があると、運用が好調なときははもっと運用益をあげられたはずだと批判され、不調なときはなぜ安全資産に投資しなかったと批判されてしまうのがオチです。

私は不確実性を考えると、賦課方式の方が優れているのではとさえ思っています。どちらかというと運用に積極的なのが積立方式論者で、懐疑的なのが賦課方式論者では。

ただ、今回の件は「省益」といえるのかな。権丈先生も含めて、賦課方式論者も別に現行の年金制度にいろいろ改善すべき点はあることは認めています。

ところで、鈴木亘氏の師は八田達夫・八代尚宏氏のようですが、鈴木氏の議論には不快感を感じても、師である彼らの議論にはいろいろ支持できないことはあっても不快に思うことはそんなにないのです。

なぜかなと思って考えてみました。彼らと鈴木氏の違いは「既得権益」という言葉など、陰謀論的なレトリックを多用するかどうかでしょう。

新自由主義にしろ社会民主主義にしろマルクス主義にしろ、思想はどうあれ、学術的な議論をする上では陰謀論的にくみしてはいけないと自省も込めて強く思います。

私が最近のリフレ派にウンザリするのも、高橋洋一氏などが行う陰謀論的レトリックのせいが大きいです。

門外漢ですので、的外れの発言になっていたら勘弁願います。
元リフレ派さんの言われる「学問的」の意味がよくわからないんですが、おっしゃるとおり既に100兆円の積立金があるのであれば、その有利な運用を心がけるのは当たり前ではないかと思います。その際何で運用するかというのは、もっぱら投資戦略の問題で学問的にどうこうというのとは違うのではないかと思います。年金資金運用の安全性ということであれば、運用が失敗したときに発生する事態を想定するというあたりは多少学問的な検討の射程内かなと思いますが、そのリスクをとるかどうかということになれば、やはり政策の範疇になり、学問的というには違和感を感じます。(長期的にはリスクとリターンは平衡するはずだと考えれば、途中の浪費を防止できれば何で運用しようと変わりはないという考え方もあり得ると思います。)
日本の経済規模で少数の仮定がなりたつかどうかということは、積立金の運用にかかわる学術的な検討の範疇に入ると思いますが、これはどちらかというと積み立て方式の有利を主張されている方が挙証責任を有する内容と思いますので、「賦課方式の優位性をいう論者が、厚生労働省の省益に甘いだけなのではないかと思われるゆえん」というお言葉とはうまくつながりません。
素人故の能力不足なのかもしれませんが、コメントを読ませていただいてかなり混乱いたしましたので、失礼ながら書き込ませていただきました。
長文失礼しました。

ほとんど報道されていないが、行政刷新会議では独立行政法人の見直しの議論が行われ、公的年金の積立金の運用を行っている「年金積立金運用管理法人」については、根本的な批判がなされている。
行政刷新会議独立行政法人改革に関する分科会や第二ワーキンググループの議事録は、ネット上でも読める。
11月15日の分科会の議論とかをみてほしい。運用の損に個人として責任などとれるものではないのである。
賦課方式なら、いまある積立金は安全確実に持つべきで、市場で運用する必要などないということになるはず。中途半端な、「修正積立方式」なる言葉自体も欺瞞的。クリントン政権のときに、公的年金について、株式でも運用しようという議論があったが、反対論が勝ってそのようなことは行われなかった。
純粋な賦課方式にたつなら、積立金の運用益など考えるべきではないというのが、論理的・「学問的」態度だと思う。このような細部まできちんと考え抜けというのは、最近の権丈教授のご宣託ではないのだろうか?
賦課方式論者が、実際の制度の重大な部分について、現状肯定なのは解せない。

リフレ氏のコメントを読ませて頂いて、私の前のコメント時に抱いた元リフレ派氏のコメントに対する違和感の原因が理解できました。ありがとうございました。
このような論理を立てるとあのような結論に結びつくこともあるのですね。(元リフレ派氏の論理構成がリフレ氏と同じとは限りませんが、そのような論理立てを考える人もいるのだという一つの実例を提示頂いたという意味です。)
根本的には「学問」と「社会」の関係性が人によって捉え方が違うのだということですね。私はどちらかというと「経済学が悪いのではなく、経済学者が悪いと思う」に親近感を感じますので、これにより違和感が生じているように思います。
リフレ氏の論理には首肯できない点(例えば「賦課方式なら、いまある積立金は安全確実に持つべきで、市場で運用する必要などないということになるはず」については、逆に「賦課方式なら、いまある積立金は余金なので、安全性を気にすることなく運用することができる」という結論も純粋に「学問的」な論理としては成り立つような気がします。)がありますが、このプログの趣旨とはかけ離れた事項について他人がコメントを頻発することは適切ではないと思いますので詳述は避けさせて頂きます。
どこかリフレ氏が関係するプログ等でそのような議論をすることが適切な場がありましたら、ご紹介いただけたらと存じます。
hamachan先生にはプログの場をお借りして趣旨外のコメントをしてしまい失礼をいたしました。

すみません。
こちらのアドレスも伝えられない状況で、「プログ等を紹介して」はおかしいですね。
当該部分は、取り消させて頂きたいと存じます。
申し訳ありませんでした。

 釣りネタに飛びついていただいたようでうれしい。
 賦課方式なら、そのお金は、税金により近いものだろう。余り金だから、自由にしてよい、とは、まったくいいもいったものですね。
 税金に近いのなら、使い道(運用)についてもっと厳しく監視されるべきもののはず。
 それが学問的態度というものだろう。
 こういう論理で、国債金利にも満たない運用利回りで許される厚生労働省は、そういうこともあって、年金局は、「修正積立」方式とかいって、賦課方式を強くいってこなかったのだろうが、今回、私も尊敬してる権丈先生なども味方につけて、そのタブーに踏み込んだということだろう。
 しかし、年金保険料も、この際、すっきり、年金税とか、連帯税とか、税にかえたらどうだろう。地方税で、国民健康保険の保険料は、「保険税」としてとることもあり、その場合は、地方税法の適用となるように。
 やはり、賦課方式を主張する論者の本質をみたように思う。たしかに、経済学が悪いのではなく、経済学者の人が悪いということと理解した。それはそのとおりと考えた。

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