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2012年4月 5日 (木)

扶養の社会化か貯蓄の社会化か

厚生労働省の「社会保障の教育推進に関する検討会」に出された資料に、面白い表現を見つけました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000026q7i-att/2r98520000026qbu.pdf

社会保険が創設された時、家族内で子が老親を扶養するという“賦課方式”が社会化されたのであり、社会 保険の創設で、自分の老後のために積み立てる仕組みが壊されて、これが賦課方式に置き換えられたのでは ない。特に今は、“社会保険”の仕組みができるまでの過渡期であり、その部分だけを取り出して、栺差を 議論することは国民に誤解を与える。

積立方式で自分の老後を賄う方法が、変動が激しくその動きが不確実な市場社会の中で、あたかも簡単に成立するかのような主張がなされているが、積立方式のデメリットももっと議論されていいのではないか。実際に1990年代に積立方式の年金を導入した中欧・東欧諸国では、リーマン・ショックで高齢者の積立金が大幅に目減りしてしまった。そして日本でも、積立方式を採る企業年金は、金融市場の変動に翻弄され続けてきた。・・・

これは結構、社会哲学の本質的なところに関わるような気がします。

社会保険なんてものはもちろん現代になって生み出されたものですが、ではそれがない状態というのは、誰が誰を養うのがデフォルトルールだったのか?

歴史的にはいうまでもなく、子が老親を扶養するというのがデフォルトで、それを社会化したのが公的年金なわけですが、世の中には、そういう歴史的事実よりも、自分の頭の中にある観念的なあるべき社会モデルからものを考える人々がいるわけです。

リバタリアン的世界観からすれば、およそ個人は全て独立の存在であって、個人が自分の生存を賄うのは全て自分の力によるべきもので扶養などというルール違反を持ち出すのは許し難いのでしょうけど、でもそれは近代人のある種のとんがった先端部分が頭の中ででっち上げたものでしょう。

その観念的世界観を前提に据えて、本来(歴史的にいつの「本来」かは不明ですが)自分の老後はことごとく自分の貯金で賄うのが人類のあるべき姿であるにもかかわらず、それを歪める社会保険はけしからん・・・という風に発想が進むのが、リバタリアンな人々なのでしょう。

ただ、それが自他ともに認めるリバタリアンな人々だけが口走っていることであるならば、「ふーん」と言ってればいいだけのことですが、なぜか世の中のさまざまなことについてはリバタリアンどころかはるかにオーソリタリアンだったりコミュニタリアンだったりする人々が、なぜかこれだけ自分でも意識せずにリバタリアンまがいのことを口走っているというところに、面白さがあるのかも知れませんが。

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コメント

>歴史的にはいうまでもなく、子が老親を扶養するというのがデフォルトで、それを社会化したのが公的年金なわけですが、世の中には、そういう歴史的事実よりも、自分の頭の中にある観念的なあるべき社会モデルからものを考える人々がいるわけです。

抽象論は複雑な現実を簡略化することによって法則性を導き出し、将来に役立つ資料を得るために必要なものであり、現実から遊離した抽象論は自己満足にすぎないどころか、しばしば社会に有害な思想をもたらすように思います。そのような抽象論が現実に資するのは数学だけではないでしょうか。もちろん、数学的方法論で社会のすべてを予知できると勘違いした人々がリーマンショックを起こしたのは事実ですが、それは勘違いした一部のケーザイガクシャが悪いのであって、数学に罪はないですから。

>我々の世代は、国・地方の公債等残高の対GDP 比で200%に至ろうとする公的債務を残してしまった。
そのため、将来世代に多額の公債費(国債・地方債等の元利払い)を負わせることとなる。これは明白に
問題視されるべきことであるが、こうした公債費を後世代に負わせたゆえに生まれる世代間格差と、私的扶養
の社会化ゆえに生まれる社会保障の中で観察される世代間格差の現象を、混同して議論していないか。

医療保障が充実しても、費用負担の心配が要らなくなるというだけであり、必ずしも失われた健康をすべて取り戻せるわけではありません。ヨーロッパの福祉国家もイコールフッティングを実現するための道具として社会保障を利用しているのであり、能力の差などによる格差を否定しているわけではありません。
クルーグマンが「格差はつくられた」で、アメリカで新自由主義的な考え方が伸張した原因として人種差別の存在を指摘しています。世代間格差を問題視する論者のほとんどが小さな政府を志向していること考えると、時代や現実の制約条件のなかで生じる不可避な理不尽をことさらに問題視することによって、社会保障を成立させる人心の基盤となる連帯、協同といった感情に仲間以外の人間が不当な利得を得ていると思わせることによって懐疑の念を抱かせ、人々が政府の存在を否定するように仕向ける意図があるのではないかと考えています。その結果生じる修正可能な格差の拡大をみようとせずに。
ただし私も、多額の公債費は回避可能であったという意味で問題であると考えています。しかし世代間格差を問題視する若年世代に限って、増税に否定的です。それがもっとも極端に現れているのが三橋貴明周辺の連中でしょう。財政のプライマリーバランスの黒字化すらおぼつかない現状で自らが最低限の増税すら引き受けようとせずに、拒否した高齢世代を責める資格などないと思います。
「あなた方は我々に多額の借金を背負わせた。せめて今からでも消費税、相続税、年金課税などあなた方が納付可能な形で責任をとってほしい。そのかわり、我々も将来利用することになる医療、介護といったサービスは大枠を維持できるようにします。我々はあなた方のように負担の先送りはしたくないので税、社会保険料の負担を受け入れますが、その代わり、積極的労働政策、少子化政策といった我々のための社会保障の充実に協力してください。」
このように主張することによってしか、財政を持続可能にしつつ若年世代の権利を拡大することはできないでしょう。

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