角のないオセロ
本日の朝日の「耕論」に、湯浅誠氏が登場しています。中身は既に本ブログで何回も取り上げてきた話なのでいちいち紹介しませんが、同じことの表現方法に面白いのがあったので、
どんな立場になっても、やっているのは結局「角のないオセロ」のようなものだと実感しています。オセロでは角を取れば一気に多くのコマをひっくり返せますが、現実にはそんな角はない。一個ずつ地道に反転させていくしかないのです。
世の中に「ウルトラC」はない、ってことを、これまた根気強く地道に説き続けていますね。
考えてみたら、むかしの左翼活動家ってのは、オセロの角(管官制高地!)を奪い取って、世の中をひっくり返すんだなんていうことを口走っておったわけですが・・・。
若い人に良く聞かれるんですよ。「自分は何をすればいいですか?」と。世の中をがらがらと変えるような大きなことをやらないと意味がないと思っている人がいる。だから私は「限りある時間と能力の中で、あなたが最も有効だと思うことをやってください。魔法のボタンはどこにもありません」と答えます。
ガラガラポン思想。魔法のボタン。そういう幻想に絡め取られると、この記事の記者が問うように
オセロの盤そのものをひっくり返そうという闘い方もあるのではないですか
という考え方に走りがちです。まさに革命烈士の道。そういう道の先に何が待っていたか、20世紀の歴史はあまりにも多くの教訓を示してくれているはずですが、残念ながらあんまり共有されているわけではなさそうです。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9f6e.html(湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-3bac.html(湯浅誠氏がさらに深めた保守と中庸の感覚)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-13b1.html(湯浅誠氏の保守と中庸の感覚に感服する城繁幸氏)
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強引な同音結び付けで申し訳ないけど、
シェイクスピア『オセロー』におけるイアゴーは、自らへの信頼も“てこ”に、異民族のオセロー将軍に対する追い落としにとことんまで執着するが、彼自身、なぜそこまでオセローを敵対視し、まして貶めるべきとまで考えなければならないのか、よくわからずにいる。
しかしとにかく、異民族将軍は追い落とすべきであり、不安感情のおおもとはそこから発しているに違いない。
イアゴーにおいては、オセロー将軍によって安全保障が達成されるのではなく、オセローの存在そのものが安全保障への脅威であるかのようである。
しかしこの事態を、現代のわれわれが笑って受け止められるかというと、そんなことはなくて、むしろ逆に、われわれ一人一人または集団レベルで、このイアゴーのような状況が容易に体現され、実行されているように(個人的には)思える。
もしも多くの人間が、それぞれの内なる“イアゴー”を自覚し自戒するならば、少しはましな社会が望めるのかもしれないが、『オセロー』の悲劇的な結末(例えば、オセローは周囲の蔑視にさらされる中で自殺)は、そんな甘い希望をあっさり遮断するかのようだ。
投稿: 原口 | 2012年4月13日 (金) 23時03分
官制高地というのは管制高地のもじりでしょうか
誤変換でしょうか
投稿: 歴史素人ですみません | 2012年4月14日 (土) 14時11分