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2012年4月12日 (木)

現代の魔女狩り@文藝春秋から・・・

先日、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-48c4.html(いま再掲載するなら・・・)

いま再掲載するなら、「日本の自殺」なんていう、龍馬かぶれの革命烈士(笑)が喜びそうな代物ではなく、そういうかぶれ者に冷水をぶっかけるような「現代の魔女狩り」の方が数倍リアリティがあるんじゃないか、と述べましたが、文藝春秋編集部はいまの熱狂に棹さす方向を選んだようですな。

2079367 そういうことなら、こっちはあえて、いまやほとんど忘れられているこの論文の重要部分をアップして、昨今の熱狂的な騒ぎになぞらえるよすがにしてみんとてするなり。

まず「はじめに」から

人間の精神と肉体が病に冒されることがあるように、ある時代の精神と社会が深い病に侵されることがある。われわれの診断によれば、最近の日本社会は、どうやらかなり重症の病に侵されており、しかもこの病は肉体の病というよりはむしろ神経症ないしは精神病の疑いが濃厚である。・・・

・・・先に列挙したような奇々怪々の諸現象は、魔女狩りという観点から観察しなおしてみると、よく分かることが多い。そして実はそう考えてみると、現代日本における魔女狩りは既にかなりの組織的成功を収めてしまっているのである。・・・

ここに進行していることは、どう考えても日本社会の自殺への行動であり、自分が自分の首を絞めるという愚かしい行動に他ならないのである。魔女狩りの集団妄想の結果、日本が自殺するようになることになるとすれば、それを喜ぶのはほんの一握りの魔女狩りの狩り手たちだけであろう。集団妄想の熱狂から醒めたとき人々はそこに地獄のような惨めな世界を見出すだけであろう。そうならないために、われわれは魔女狩りの流行病を拒否せねばならず、魔女狩りの疑いのある動きから手を引かねばなるまい。・・・

以下、近世ヨーロッパの魔女狩りの歴史を紐解き、(これが書かれた)少し前の学生紛争について触れ、そして本論として、自動車批判、カドミウム、商社批判、などについて論じていきますが、なにしろ今から一世代以上昔の話なので、はあむかしはそんなことがあったのか・・・という印象でしょう。しかし、最後の「魔女狩りの処方箋」は、いま現在の現象にそのまま当てはめても全然古びていないどころか、一言一言がぴたりとはまる感じです。

・・・魔女狩りに適合的に論理体系は、世界を神と悪魔との、或いは真理と誤謬との、対立と闘争に還元する単純な二値論理である。神と悪魔の葛藤というこの世界像には、灰色の箇所は一箇所もない。絶対的に正しいか、絶対的に間違っているか、この二色しか、単純な二値論理の世界像にはない。しかし現実の世界は、単純な黒白二色の世界図で説明するにはあまりにも複雑なものである。全ての物事は高度に多面的な性格を帯びており、善意の判断基準もまた複雑きわまるものである。真の合理精神は懐疑精神を不可欠の一部とし、自分も含めて人間は認識上、行動上の誤りを犯しやすい不完全な存在であると考えるものであるが、神か悪魔かの単純な二値論理の独断の支配する世界には、懐疑精神の入り込む余地などまったく残されていないのである。

二値論理の世界は、認識の行動の主体との関係でいえば、絶対的な一元主義の世界であり、無謬性と不寛容の支配する世界である。自分だけが絶対的に正しく、誤りなきものであり、自分に反対する者は絶対的に誤りで、邪悪である。この思い上がりと独善こそがある条件の下では恐るべき魔女狩りを繰り広げることになるのである。・・・

そして、具体的に次のような処方箋を提示します。これは当時とはまったく土俵を入れ替えながら、まったく同じような二値論理が猛威を振るう現代にこそ、熟読玩味されるべきでしょう。

1 二値論理のとりこになっていないか

2 トレードオフを忘れていないか

3 単純な因果連鎖を絶対視してはいないか

4 「敵」や「味方」を「超能力者」視してはいないか

5 善意に出たことだから結果も良いはずだと思いこんでいないか

6 これは魔女狩りではないのか

7 魔女狩りに荷担したり、のせられたりしてはいないか

8 自分の行為には有害な副作用はないか、社会的責任を果たしているといいきれるか、私欲に迷いすぎてはいないか

9 自分の力を過信し「空気」を甘く見すぎてはいないか

10 「魔女狩り」の圧力に屈服しすぎてはいないか

「おわりに」の次の言葉は、この論文が書かれた当時には魔女狩りの側がいわゆる「進歩派」で、狩られる方がもっぱら「保守派」であったことを思い出しつつ読むと、そのあまりにも予言の実現ぶりが、実に味わい深ものがあります。

・・・何人も魔女狩りの追及から完全に保護されてはいない。大学紛争では「進歩的文化人」も魔女と化し、現在では過激派ゲリラが最も恐るべき魔女とされている。今後の魔女狩りでは、公害反対運動や住民運動のリーダー、差別反対論者といった人々まで、犠牲にされるかも知れない。魔女の狩り手までがやがて魔女として狩られるというのが、魔女狩りの運動法則なのである。魔女狩りのコストはあまりにも高価で、あまりにも無意味である。しかもわれわれは明日にもまた大規模な魔女狩りに直面するかも知れないのである。・・・

今われわれの眼前に展開しつつあるのは、あまりにも見事にこのときの「明日」の姿ではないのでしょうか。

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