川口美貴『労働者概念の再構成』(関西大学出版部)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.kansai-u.ac.jp/Syppan/product/detail_product.php?control=2&tbl_product_autono=520
さてこの本、タイトル通り、労働者概念、近年話題の「労働者性」の問題について、460頁を超える大分量でもって微に入り細をうがって、かつ他の研究者の遠く及ばぬ極めてラディカルな説を展開した文字通りの大著です。
目次を一瞥しただけでも、
序 本書の目的・構成・基本的視点と結論・用語と表現
第1部 総論
第1章 前提的考察
第2章 労働法の対象とする労働者
第1節 問題の所在 第2節 従来の学説と批判的検討 第3節 労働法の対象とする労働者の再構成
第2部 各論
第1章 客観的基準・要件による契約締結前の決定
第2章 労働基準法上の労働者
第1節 前提的検討 第2節 法制の沿革 第3節 行政解釈・労基研報告・学説・判例 第4節 労働基準法上の労働者概念の再構成
第3章 労働契約法上の労働者
第1節 前提的検討 第2節 法制の沿革 第3節 行政解釈・学説・裁判例 第4節 労働契約法上の労働者の再構成
第4章 労働組合法上の労働者
第1節 前提的検討 第2節 法制の沿革 第3節 行政解釈・学説・命令・判例・労使関係法研究会報告 第4節 労働組合法上の労働者概念の再構成
第5章 労務供給者の類型別検討
第1節 問題の所在 第2節 労働者性の判断 第3節 外勤型
第4節 運動・芸術・芸能型 第5節 対人サービス型 第6節 技術・技能・専門職型
第7節 看護・介護・育児・保育・家事労働型 第8節 運送型 第9節 建設土木・林業型
第10節 家内労働・在宅勤務型 第11節 親族型 第12節 シルバー人材センター型
第13節 研修・実習型 第14節 店舗経営型 第15節 経営者型
総括 労働者概念の再構成・本書の意義・立法論上の課題
資料編
資料Ⅰ 労働基準法研究会報告
資料Ⅱ 労働基準法研究会労働契約等法制部会
労働者性検討専門部会報告
資料Ⅲ 労使関係法研究会報告
[追補] ビクターサービスエンジニアリング事件最高裁判決
(2012〈平成24〉年2月21日)の意義と評価
その大著ぶりが窺えるでしょう。
既に雑誌論文等で知られているところですが、川口さんの説は、
労働法分野及び労働基準法・労働契約法・労働組合法の対象とする労働者に関して、法制の沿革を考察し、使用従属性を判断基準とする従来の行政解釈・学説・判例を批判的に検討する。また自ら他人に有償で労務を供給する者であること及び交渉の非対等性を基本的判断基準として、法理論を体系的に再構成し、労務供給者の類型別に再検討する。
ひと言で言うと、労働基準法の労働者も、労働契約法の労働者も、労働組合法の労働者も、事業に使われるか、失業者も含むかといったことを除けば、全て「自ら他人に有償で労務を提供する自然人」という単一の基準で判断されるべきという説であり、裏側からいえば、独立事業者や独立労働者でない限り全て労働法上の労働者になるというラディカルな説です。
その批判の刃は、労働基準法や労働契約法の労働者について人的従属性、すなわち指揮命令関係を基準とする多くの学説をなで切りにするだけではなく、労働組合法の労働者について組織的従属性や労働条件の一方的決定などを基準とする近年の学説をも「失当」と片っ端から叩いていくというもので、読んでいてまことに爽快ではありますが、そこまでついていけるかというと、たぶん多くの研究者は立ち止まってしまうだろうな、という感じがします。
わたくしとしては、一つの法律の「労働者」概念は一つというのは法解釈のあり方として当然かも知れないけれど、法のそれぞれの規定の立法目的を考えるとそれでいいのか、という疑問がむしろ大きいですね。
実は、川口理論が一番素直に適用できるのは労働組合法3条の(7条とは区別された)労働者概念だと思います(と、区別することを川口さんは否定するわけですが)。
独立事業者でない限り、指揮命令を受けていなかろうが、組織に組み込まれていなかろうが、働く者が団結して組合を作って何事かを要求して、行動を起こすということ自体を否定する必要はないと思います。それに企業者側が自発的に応じる分には文句を言う必要はない。文句を言う必要があるのは、つまり国家権力がそれを抑圧する方向に介入する必要があるのは、それが独占禁止法に反する事業者のカルテル行為になる場合でしょう。
しかし、それに対し企業者側が団体交渉に応じないことを不当労働行為として国家権力がそれを促進する方向に介入するべきかどうかとなると、やはりそれだけではまずいのではないかと思うわけです。
さらに、労働基準法のように、国家権力が司法警察権限を振りかざして(ほとんど使わないとはいえ逮捕権までありますからね)介入するとなると、川口理論で突っ走れるかというと、なかなか難しいのではないかと。
逆に、労働契約法みたいに行政権としての国家権力が介入することを予定しない場合には、また別のやり方があるかも、という気もしますが。
こういう法のエンフォースメント方法に着目すると、川口さんのあまりにも美しくも整合的な理論体系はやや概念的に過ぎるようにも思われるのです。
しかしいずれにしても、本書は労働者概念について論じようとするならば必ず参照されるべき大著であることは確かだと思います。
(参考)
ちなみに、わたくしは『中央労働時報』2012年3月号のGABA事件の評釈で、この事案についての論評の後で、やや一般論として、次のように論じています。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/roui1203.html
2 労組法上の労働者性再考
(1) 以上は、近年の議論に沿った形で本件決定を評釈したものであるが、実はより突っ込んで考えると、最高裁二判決やソクハイ事件中労委命令でかなり明確に示され、多くの論者から妥当な判断要素として評価されている「会社組織における不可欠性」や「契約内容の一方的決定」が、なにゆえに労組法上の労働者性の判断要素であるのか、という根本的な点にいささか疑問が生じる。
(2) そもそもこれら要素は何を示すものなのであろうか。菅野和夫によれば、これらは「使用従属性と連続的な労組法独自の判断要素」であり、「団体交渉の保護を及ぼす必要性と適切性という基本的視点からの独自の判断要素」であるが、それは「企業の業務遂行に不可欠の労働力として事業組織に組み込まれており、労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係といえるから」である*1。
ここでは、労働組合法という集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」が、企業組織の集団性として捉えられている。それは言い換えれば、秋北バス事件最高裁判決(最大判昭43.12.25民集22.13.3459)がいう「経営上の要請に基づき、統一的かつ画一的に決定され、労働者は、経営主体が定める契約内容の定型に従って、附従的に契約を締結せざるを得ない立場」であり、労働者性の議論においては「組織的従属性」と呼ばれてきたものである。それが労働に関わる一つの「集団性」であることは確かであるが、労組法が本来想定する「集団性」であるかどうかは別の問題である。
こうした企業組織の「集団性」に着目した枠組みは、西欧の枠組みでいえば従業員代表組織やそれが締結する経営協定であり、日本でいえば過半数組合/過半数代表者、労使委員会やそれが協議を受け、締結する就業規則、労使協定であって、私的結社たる労働組合やその締結する労働協約の「集団性」とは次元が異なると考えるのが、少なくともこれまでの集団的労使関係法の発想であったのではなかろうか。
(3) その発想を前提にする限り、企業組織の「集団性」を無批判に労組法上の労働者性の判断要素に持ち込むことは、本来批判されるべきことのはずである。実際、豊川義明は港湾労働をめぐる団体交渉や労働協約を例に挙げて、そこでは「労働者の特定企業への「組み込み」は想定しがた」いと主張している*2。企業を超えたレベルで団体交渉を行い、労働協約を締結するという西欧的な労働組合モデルを前提とする限り、集団的労使関係システムが適用されるべき対象の持つ「集団性」とは、何よりも労働組合に組織され、労働組合の締結した労働協約に拘束されることを受け入れているという労働者側の「集団性」であろう。この「集団性」には、少なくとも企業組織の側からは限界は存在しない。限界は、その「集団性」が独占禁止法上の「不当な取引制限」となるところで画される。言い換えれば、私的結社としての労組法上の労働者性の判断基準は、事業者でないことに尽きるはずである。実際、不当労働行為救済制度を持たない西欧では、自営労働者が労働組合を組織することは(独禁法違反とならない限り)ごく普通に見られる。
(4) このような、従業員代表組織として必要な企業組織の「集団性」と、私的結社たる労働組合に必要な「集団性」の概念上の峻別は、しかしながら労働組合が従業員代表組織として機能してきた日本の労働社会では自明ではない、というのが、実はこの問題の背後にある最大の問題なのではなかろうか。ほとんどもっぱら企業レベルで組織され、交渉を行う日本の企業別組合にとって、企業を超えた「集団性」など存在せず、むしろ企業組織の「集団性」こそがその立脚基盤である。これに加えて、不当労働行為救済制度は、その源流であるアメリカ法が交渉単位ごとの排他的交渉代表制をとっていたことを考えれば、むしろ企業組織の「集団性」を前提とする制度という面が強いとも言いうる。菅野の「労働条件が一方的・定型的に決定されている労務供給関係こそが、労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である典型的労働関係」という説明は、この状況を前提にする限り、まさに現実に即したものとなる*3。
(5) しかしながら、話はそこで終わらない。過半数原理に立脚し、公正代表義務を伴うアメリカの団体交渉制度と異なり、複数組合平等主義に立脚するとされる日本の団体交渉制度は、企業組織の「集団性」に立脚していない企業外部の私的結社にも、企業に団体交渉に応じるよう要求する権利を認めているからである。いわゆる合同労組事案や、とりわけ駆け込み訴え事案において、「労組法の予定する団体交渉による労働条件の集団的決定システムが必要・適切である」根拠がどこにあるのか、原理的には大きな問題を孕んでいるはずである。本件は、880名のインストラクターのうち10名のみが加盟する典型的な合同労組事案であり、本件団交が労働条件を集団的に決定するという意味での「労組法の予定する団体交渉」でありうるのかどうか、という問題は論じられる必要がある*4。
(6) 以上を近年の議論の枠組みで言えば、労組法3条の労働者性は企業を超えた私的結社たる労働組合の「集団性」に立脚し、それゆえ事業者性という消極的要素によってのみ限界を画されるが、労組法7条の労働者性は企業組織自体の「集団性」に立脚するがゆえに、組織的従属性を最重要の判断要素とする、ということになるであろう。
(7) さらに付記すれば、以上の議論は労基法上の労働者性概念にも影響を与える。労基法上の就業規則や労使協定を企業組織の「集団性」に立脚した一種の集団的労使関係システムと捉えるならば、これらに関わる労働者性は、労組法7条の労働者性と同様、組織的従属性を最重要の判断要素とすべきことになるはずである。これに対し、工場法に由来する(物理的)労働時間、安全衛生、労災補償といった諸規定は、工場法制定時の発想に立ち戻れば、「雇傭関係ノ存在ハ必要ノ条件ニ在ラス ・・・仮ヘハ工業主カ他人ヲシテ一定ノ作業ヲ請負ハシメ其ノ請負者カ自ラ雇傭シタル職工ヲ連レ来リテ作業ヲ為ス場合、又ハ斯ノ如キ請負関係ナク唯単ニ他人ヲシテ労働者ヲ供給セシメ、其ノ供給者ニ於テ賃金ノ支払其ノ他ノ世話ヲ為ス場合ニ於テモ、此等ノ労働者カ前陳フル所ニ依リ工場内ニ於テ工業主ノ仕事ニ従事スル以上ハ孰モ其ノ工業主ノ職工タルヘキモノ」*5である*6。
(8) すなわち、労働法上の労働者性を、異なる性質の規定が混在する法典ごとに考えるのではなく、規定の性質に基づき、物理的な作業への従事に着目したもの、企業組織への組み入れに着目したもの、私的結社への団結に着目したものに3分類すべきということになる。これに対して、契約の終了/存続をめぐる紛争のような個別契約上の問題は、労働者性の判断が直ちに結論を分けるのではなく、継続的契約関係の保護の問題としてとらえるべきであろう*7。
これも相当に異端の考え方だと思いますが。
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