言論で世の中を変えられると思ってる人
http://twitter.com/#!/ryojikaneko/status/181791675830636544
今、言論で世の中を変えられると思ってる人がTLを駆け抜けて行った気がするんだが、気のせいだったか。まさか、そんなことを本気で考えてるやつが21世紀まで生きてるなんてことはないよな。
いやいや、まさに「言論で世の中を変え」てるじゃない。この「21世紀」にさ。
ただし、『思想』とかの、庶民に理解できないむづかしげな議論によってじゃなく、「貴様は民意に逆らうのかぁ」的なテレビで流される「言論」によってだけど。
もっとも、どっちも「熟議」とかいうよくわからないタームを使って煙幕はってるところが一緒というのも皮肉だが。
21世紀はそれまでに比べてもより一層、そういう空疎な「言論」でそんじょそこらのふつうの人たちが振り回されるようになった時代だと思うよ。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-6a4c.html(テレビ漬け高齢者のポピュリズム政治)
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ネットがオルタナティブな場として大して機能しなかったというのも残念ですね。ここを含め良心的なサイトはあってもマスには勝てないというか。「マスゴミ」の合わせ鏡的2ちゃんねる罵倒大会に回収されてしまうというか。
投稿: 通行人貮號 | 2012年3月20日 (火) 10時27分
彼らは言論で世の中を変えられるなんて、そんなナイーブなことを考えてなどいませんよ。ただ既存の選挙システムに適応するに当たって、それが有効だというだけで、その限りにおいてはリアリストですよ。
投稿: 金子良事 | 2012年3月20日 (火) 18時43分
それは「世の中を変える」という言葉の定義次第。
というか、その「言論」で選挙に勝って、権力をフルに行使して、現実に結構多くの人々がその影響を受けてさまざまな目に遭うとすれば、それは立派に「世の中を変え」たということもできる。
逆に、『思想』に書いてるような「言論」はその程度の「世の中を変え」ることもできていないけど、仮にできたとしても、やっぱり同じ程度でしかないとも言えるし。
いやまあ、はてぶでいうように、これも「言論」の定義であり、「世の中を変える」の定義であって、ふざけた徒輩のふざけたやり口による変化など俺は「世の中を変え」たと認めない、って言い方はありだけど、それは「変化」という概念に一定の価値判断を入れ込んでしまっているわけで、信仰告白の言葉でしかない。
投稿: hamachan | 2012年3月20日 (火) 20時16分