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2012年3月 2日 (金)

新左翼によって「創られた」「日本の心」神話

9784334035907 ホブズボームの『創られた伝統』以来、いま現在一見「伝統的」と見なされている事物が実は近代になってから創作されたものであるという認識枠組みは、社会学や人類学方面ではそれなりに一般化していますから、その意味ではその通俗音楽分野への応用研究ということでだいたい話は尽きるのですが、

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334035907

「演歌は日本の心」と聞いて、疑問に思う人は少ないだろう。落語や歌舞伎同様、近代化以前から受け継がれてきたものと認識されているかもしれない。ところが、それがたかだか四〇年程度の歴史しかない、ごく新しいものだとしたら?
本書では、明治の自由民権運動の中で現れ、昭和初期に衰退した「演歌」――当時は「歌による演説」を意味していた――が、一九六〇年後半に別な文脈で復興し、やがて「真正な日本の文化」とみなされるようになった過程と意味を、膨大な資料と具体例によって論じる。
いったい誰が、どういう目的で、「演歌」を創ったのか?

そして、そういう観点からは膨大に繰り出されるマニアックなまでのトリビアが、演歌がいかに「創られた伝統」であるかをくっきりと浮き彫りにし、かつyoutube時代にあっては、そこで紹介された「演歌未満」の曲たちをその時の音源で聞くことができるということもあって、まことに楽しい読書の素材であるわけですが、

わたくしの観点から見て、本書が明らかにしたなかなか衝撃的な「隠された事実」とは、演歌を「日本の心」に仕立て上げた下手人が、実は60年代に噴出してきた泥臭系の新左翼だったということでしょうか。p290からそのあたりを要約したパラグラフを。

いいかえれば、やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正な下層プロレタリアート」であり、それゆえに見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人」なのだ、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった、ということです。

昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

この泥臭左翼(「ドロサヨ」とでも言いましょうか)が1960年代末以来、日本の観念構造を左右してきた度合いは結構大きなものがあったように思います。

そして、妙な話ですが、本ブログではもっぱら「リベサヨ」との関連で論じてきた近年のある種のポピュリズムのもう一つの源泉に、この手のドロサヨも結構効いているのかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-9d19.html(「マージナル」とはちょっと違う)

それまでの多数派たる弱者だったメインストリームの労働者たちが多数派たる強者になってしまった。もうそんな奴らには興味はない。そこからこぼれ落ちた本当のマイノリティ、本当の「マージナル」にこそ、追究すべき真実はある・・・。

言葉の正確な意味における「マージナル」志向ってのは、やはりこの辺りから発しているんじゃなかろうか、と。とはいえ、何が何でも「マージナル」なほど正しいという思想を徹底していくと、しまいには訳のわからないゲテモノ風になっていくわけで。

それをいささかグロテスクなまでに演じて見せたのが、竹原阿久根市長も崇拝していたかの太田龍氏を初めとするゲバリスタな方々であったんだろうと思いますが、まあそれはともかくとして。

(追記)

上で、「ドロサヨ」などという言葉を創って、自分では(「泥臭」と「左翼」という違和感のある観念連合を提示して)気の利いたことを言ってるつもりだったのですが、よくよく考えてみると、それはわたくしの年齢と知的背景からくるバイアスであって、世間一般の常識的感覚からすれば、むしろ、上で「ゲテモノ」とか「グロテスク」と形容した方のドロサヨこそが、サヨクの一般的イメージになっているのかも知れませんね。少なくとも、高度成長期以降に精神形成した人々にとっては、左翼というのは泥臭くみすぼらしく、みみっちいことに拘泥する情けないたぐいの人々と思われている可能性が大ですね。

このあたり、リベサヨについて生じている事態と並行的な現象ということができるかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_b2d6.html(構造改革ってなあに?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5af3.html(リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い)

・・・かくのごとく、日本のサヨク知識人はリベラルなことノージックよりも高く、アンチ・ソーシャルなことハイエクよりも深し、という奇妙奇天烈な存在になっていたようです。そうすると、福祉国家なんぞを主張するのは悪質なウヨクということになりますね。これを前提にして初めて理解できる発言が、「構造改革ってなあに?」のコメント欄にあります。田中氏のところから跳んできた匿名イナゴさんの一種ですが、珍しく真摯な姿勢で書き込みをされていた方ですので、妙に記憶に残っているのです。

>稲葉さんの偉さは、一左翼であることがリフレ派であることと矛盾しないことを左翼として始めて示した点だと思う。それまでの左翼は、ある意味ネオリベ以上の構造派で、つまりはアンチ・リフレであったわけだから。それに対して、稲葉さんはそれが「ヘタレ」にすぎないことを左翼として始めて断言したわけで、これは実はとても勇気のあるすごいことだと思う。

投稿 一観客改め一イナゴ | 2006/09/20 14:46:18

普通の人がこれを読んだら頭を抱えてしまうでしょう。特にヨーロッパ人が見たら、「サヨクは市場原理主義者であるはずなのに。稲葉氏はめずらしくソーシャルだ、偉い」といってるようなもので、精神錯乱としか思えないはず。でも、上のような顛倒現象を頭に置いて読めば、このイナゴさんは日本のサヨク知識人の正当な思考方式に則っているだけだということがわかります。

高度成長後の日本においては、「左翼」というのはこの上なく自由主義的で福祉国家を敵視するリベサヨか、辺境最深部に撤退して限りなく土俗の世界に漬り込むドロサヨか、いずれにしてもマクロ社会的なビジョンをもって何事かを提起していこうなどという発想とは対極にある人々を指す言葉に成りはてていたのかも知れません。

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コメント

今となっては、「ふつうのひと」として扱われていた「労働者」という身分が細分化されておりますし、また、非婚化も進んでいるが故に、「サザエさん」だとか「クレヨンしんちゃん」のようなモデルも成立しづらいでしょうね。メインストリームらしきものはあるかもしれませんが、それを規定しにくい状況にあるのは確かです。

また、マージナルであることが当たり前になっているのだから一体性を再生しようではないかという動きも生じましょうが、これはこれで下手を打つと無理を生じさせる恐れもあるでしょう。「真正さ」の使用方法にも気をつけなければいけないでしょうし、あまりそういう概念に頼らない方がいいのかもしれないですね。

「少なくとも、高度成長期以降に精神形成した人々にとっては、左翼というのは泥臭くみすぼらしく、みみっちいことに拘泥する情けないたぐいの人々と思われている可能性が大ですね。」

こういう考え方が反映された物言いとしては、「ブサヨ」というものがありますね。とはいえ、いざなみ景気の終焉等で、ネトウヨだとかブサヨだとか言ってられる場合ではなくなっておりますし、マクロ社会的なビジョンが求められるようになっているのも確かでしょう。そこで、ディーセントワークだと打ち出すにしても、既に生じている道州制の導入あるいは統治構造の変革の動きに伴う形にするのか、そういう動きが収まるまで凌ぎつつ別個にするのか、ということになるのかもしれません。

まあ、正直な所、土俗的なものに拘りすぎるのはともかくとして、それを忌避すればするほどリベサヨもしくは国家主義に行き付きそうに思えてなりません。安丸良夫や宮本常一の仕事は馬鹿にできませんよ。

もう左翼はイデオロギーではなくてなっているんですよね。元々左翼の言葉はイデオロギーから来てませんけど(汗)。

話は変わります。一時期そのスタイルが非難の的だった極右の最先鋒「在特会」の最近の活動が、極めて以前の左翼的になっている事についてです。

実は、それらは彼らの方法論において左翼を取り入れているからなんですが、そうだとしても極めて正攻法であり、一つの正論でもって(あくまでひとつ)挑んでいるという事。

で、もう一方の所謂左翼といわれている人たちは何をしているんだ?というと、何もしてない、もしくはその実態が見えない。

思うに、左翼はもう既に権力側なんだろうなぁと。例えば、橋下大阪市長が労働組合と対決しているのは、ある意味わかりやすい既得権益に対しての構図です。

しかしですね、そこで多くの日本人は「悪い人がいるなぁと」と思いながらも、労働者の権利を訴える左翼も信じているんですね。
本当は、それは別々の事じゃなくて、労働者の権利を延長した先にある景色だよ、という事実に目を瞑る。

まさに、これこそ神話となっている事の証左ではないかと、思った訳です。左翼が体制側になり、右翼が反体制側になっている妙な現象。

左翼がね、その言葉に力を失ったのは凄い理解できるんです。彼らは言葉を壊し続けた結果、自己矛盾に陥っているからです。

人権や自由における解釈において、社会正義が都合よく使われている。「命」という言葉が、現実の不条理を無視して、浪漫で語られる。そりゃあ、アレ?と思うわけです。

この現実と理想におけるイメージの乖離が、リアリズムでなく、まさに神話だと思いました。

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