歪んだ日本型フレクシキュリティ
3年近く前のエントリにコメントが付いたと思ったら、大田弘子さんがこういうことを言っていたのですね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-695c.html#comment-88888267
http://www.asahi.com/business/news/reuters/RTR201203070060.html
<北欧の雇用戦略に学べ>
もうひとつ、日本の雇用システムについて正面から議論する時期が来ているのではないか。
日本は小さなことでもなかなか変えられないと先ほど述べた。その理由は既得権だけではなく、私たち国民の側にも変わることへの不安があるのだと思う。変わることへの不安をもたらしている最大の要因は働き方の硬直性ではないか。
日本では、一度退職すると容易に次の職が見つけられないし、転職すると税制や企業年金も不利になる。こういう状況では、現状にしがみつこうとするのは無理からぬことだ。グローバル化のもとでは、成長分野にシフトしないと雇用機会が増えないが、今の日本の状況はその流れに反している。
例えば、グローバル化を全面的に受け入れて成長しようとしている北欧諸国は、フレキシビリティとセキュリティを合わせた「フレキシキュリティ」とよばれる労働市場を構築した。柔軟な労働市場と、失業の際の安全網の両立だ。国際競争力を失った企業は一切守らないが、失職した労働者は次の職に移れるようさまざまなかたちで守られる。多種多様なタイプの職業訓練が用意されており、転職は新しい技術を身につけるチャンスでもある。
日本型雇用システムは持続できなくなっているが、では、その後に日本はどんな雇用システムをめざすのか。むろん、北欧諸国と同じモデルを採用する必要はないが、我が国の労働市場におけるフレキシビリティとセキュリティのあり方を労使で正面から議論する時期が来ている。雇用は生活の根幹だけに議論を起こすこと自体難しいが、硬直的な雇用システムを変えないと、企業も社員も国際競争に取り残される。また、正規と非正規の壁を低くすることもできないだろう。
ここ数年はやりのフレクシキュリティ論を、現実のねじれやらアイロニーやらを抜きに北欧の議論の字面だけを平板に語れば、たぶんこういうことになるのだと思います。
しかし、いま現在の日本で語るのであれば、ある意味でかつてこういう「国際競争に取り残される」という問題意識に近いところから主張された議論が、結果的に正社員型の限界まで働ける労働のフレクシビリティも、非正規労働者の流動的な雇用のフレクシビリティもそれぞれに強化し、かえって両者の壁を分厚くする方向に働いてしまったというアイロニーにも敏感である必要があるのでしょう。
日本型雇用システムにおける中核的要素が、雇用の安定と引き替えに課せられた極めて高度の労働のフレクシビリティであるという認識を抜きにした議論は、大事な部分が抜け落ちる傾向にあります。北欧にはそういう要素が希薄であるために、北欧の議論を字面だけで語ると、どうしてもこういう風になりがちなのですが。
« CIETTパネルディスカッション | トップページ | 湯浅誠氏がさらに深めた保守と中庸の感覚 »
とてもお久しぶりです。
この記事を拝見している同じ日に、以下の記事をも読みました。湯浅誠さんが、内閣府参与を辞任するに当たって書かれたもので、こちらのキーワードは「日本型雇用」なんですよね。
http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html
日本とヨーロッパの差、社会保障や労働ばかりでなく、個人の自立を考えても、その差は埋められないのでは、と悲観することがあまりにも多く、考え込んでいます。
投稿: 哲学の味方 | 2012年3月 7日 (水) 22時06分