でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです
本ブログで既に、何回も本人の生の言葉で紹介してきた湯浅誠氏の「保守と中庸の感覚」が、毎日新聞紙上でも展開されています。
http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2012/03/30/20120330dde012040004000c.html
「90年代にホームレス問題に関わっていたころ、社会や世論に働きかけて問題を解決したいという思いはあったが、その先の永田町や霞が関に働きかけるという発想はなかった。こちらが投げ込んだ問題は、ブラックボックスを通して結果だけが返ってくる。『政治家や官僚は自分の利益しか考えていないからどうせまともな結論が出てくるはずがない』と思い込み、結論を批判しました。しかし参与になって初めて、ブラックボックスの内部が複雑な調整の現場であると知ったのです」
「ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。「以前は自分が大切だと思う分野に予算がつかないのは『やる気』の問題だと思っていたが、この状況で自分の要求をすべて通すのは不可能に近く、玉虫色でも色がついているだけで御の字、という経験も多くした」
「政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、『政府やマスコミが悪い』と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない--それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです。そういうふうに反省しながら積み上げていかないと、政策も世論も社会運動も、結局進歩がないと思う」
ここまでは、既に何回も紹介してきたことの繰り返しですが、今回新聞紙上で、湯浅さんはそれを一歩進めて、今日の政治状況の惨状に結びつけます。
「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善であるという判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とはされない。その結果の一つとして橋下さん人気がある。気を付けなければならないのは、多様な利害関係を無視しシンプルにイエス・ノーの答えを出すことは、一を取って他を捨てるということです。つまり、世の中の9割の人は切り捨てられる側にいる」
「けれど、自分たちが切り捨てられる側にいるという自覚はない。なぜなら複雑さは悪で、シンプルさが善だという視点では、シンプルかどうかの問題だけが肥大化し、自分が切り捨てられるかどうかは見えてこないからです。それが見えてくるのは、何年後かに『こんなはずじゃなかった』と感じた時。本当はそうなる前に複雑さに向き合うべきですが、複雑さを引き受ける余力が時間的にも精神的にも社会から失われている。生活と仕事に追われ、みんなへとへとになっているんです」
「民主主義って民が主(あるじ)ということで、私たちは主権者を辞めることができません。しかし、余力がないために頭の中だけで降りちゃうのが、最近よく言われる『お任せ民主主義』。そのときに一番派手にやってくれる人に流れる。橋下さんはプロレスのリングで戦っているように見えますが、野田さんはそうは見えない。要するに、橋下さんの方が圧倒的に観客をわかせるわけです。でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです」
おそらく、かつて湯浅さんがそうであったように、ブラックボックスの中身が複雑な調整の現場であることを理解せず、外側から「市民の立場で」批判を繰り返してきたのは、どちらかというと左派に属する人々だったのでしょう。
かつてグループ1984年が文藝春秋誌上で「現代の魔女狩り」を批判して見せた頃は、まさにそういう構図が一般的だったのでしょう。観念的に体制を批判する左派と、機能主義的に対応する保守派という構図。
今や時はめぐり、時代は変わり、ねおりべな人々が「市民の立場で」観念的な批判を繰り返し、ねとうよな人々が「庶民感覚全開で」魔女狩りに熱中する一方で、「活動家一丁上がり」の社会運動家が、機能主義的な保守と中庸の感覚を示すようになったわけです。
左派が世の中にウルトラCなんてないのだよと、やさしく人をさとす側にまわる時代なのですね。
(参考)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9f6e.html(浅誠氏が示す保守と中庸の感覚)
世の中の仕組みをどうするかというときに、「ステップを踏むなんてもどかしい」と「ウルトラCに賭ける」のが急進派、革命派であり、「ウルトラCなんかない」から「ステップを踏んでいくしかない」と考えるのが(反動ではない正しい意味での)保守派であり、中庸派であると考えれば、ここで湯浅氏と城氏が代表しているのは、まさしくその人間性レベルにおける対立軸であると言うことができるでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-3bac.html(湯浅誠氏がさらに深めた保守と中庸の感覚)
なにゆえに、保守と中庸の感覚が期待されるはずの人々にもっともそれらが欠落し、かつてまでの常識ではそれらがもっとも期待されないような「左翼活動家」にそれらがかくも横溢しているのか、その逆説にこそ、現代日本の鍵があるのでしょう。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-13b1.html(湯浅誠氏の保守と中庸の感覚に感服する城繁幸氏)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-6d5f.html(地方分権という「正義」が湯浅誠氏を悩ませる)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-01db.html(地方分権という「正義」が湯浅誠氏を悩ませる 実録版)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-47d3.html(湯浅誠氏のとまどい)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/part-bff1.html(湯浅誠氏のとまどいPartⅡ)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/part-f353.html(湯浅誠氏のとまどいPartⅢ)
そして、これらの原点に位置するもう4年前のエントリですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-ed5e.html(湯浅誠氏のまっとうな議論)
週刊ダイヤモンドの特別リポートに、もやいの湯浅誠氏が登場しています。そのいうところはきわめてまっとうであり、物事の本質を見据えながらも妙な急進主義に走らず、「穏健さ、均整の感覚、限界の認識という姿を取」ったリアリズムの感覚がきちんと示されていると感じられました。
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