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2012年3月20日 (火)

赤木智弘氏を悩ませたリベサヨの原点-マイノリティ憑依

9784334036720これはいろんなテーマがやや雑多に詰め込まれた感のある本ですが、本ブログの関心からすると、何よりもまず第3章、第4章のあたりで論じられている「マイノリティ憑依」の現象が、例の赤木智弘氏を悩ませた日本的「リベサヨ」の歴史的原点を見事にえぐり出しているという点において、大変興味深い本です。

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334036720

佐々木氏によると、その出発点は1965年、『ドキュメント朝鮮人 日本現代史の暗い影』という本にあります。それまでもっぱら被害者としてのみ自分たちを見ていた日本人に加害者意識を初めて提起したのです。それに続くのはベ平連の小田実。そして出入国管理法案をめぐる華僑青年の自殺から引火した華青闘の7・7告発。それらを総括するような形で著された津村喬の『われらの内なる差別』。

こういう流れを佐々木氏は「マイノリティ論のオーバードース」(過剰摂取)と評します。

「あなたの体験のことはもうみんなが知っていることだ。そんなことより問題は、あなたが自分も加害者だったという事実をどれだけ認識しているかだ」・・・

行き着くところはただ一つだ。

ただひたすら、人を<加害者>として断罪し続けても構わないという無惨な論理へと落ちていってしまうのである。これは実におぞましいオーバード-スの罠だ。

ここで登場する日本戦後思想のトリックスターが太田龍です。そう、あの阿久根市長さんが熱烈に入れあげていた伝説の思想家ですが、この60年代から70年代にかけての時期には、『辺境最深部に向かって退却せよ!』というアジテーションによって知られていました。ちなみに、わたくしは中学生時代にこの本を読んでいますから、同時代的存在でもあります。

この極めて巧妙な構造によって、苦悩する当事者たちは、一瞬にして第三者へと変身し、高みへと昇りつめ、日本社会を見下ろすことができるようになる。

これはつまりは「憑依」である。

つまり乗り移り、乗っ取り、その場所に依拠すること。狐憑きのようなものだ。マイノリティに憑依し、マイノリティに乗り移るのだ。そしてその乗り移った祝祭の舞台で、彼らは神の舞を演じるのだ。

この「世界革命浪人」のアジテーションを真に受けて北海道庁を爆破し今も死刑囚として収監されている大森勝久氏のストーリーを読むと、この今となっては嗤うべきと見える「思想」が現実に人間を動かしたことがわかります。

しかしそれはやはり同時代的にもごく周縁的な存在だったのでしょうが、それよりも遥かに広い範囲に多大な影響を与えたのが、朝日新聞のスター記者であった本多勝一です。

書かれていることは本当にカッコいい。ベトナム人と共にアメリカ軍の銃弾を浴び、黒人と共に白人の人種差別主義者からピストルでつけねらわれる。世界の紛争地帯をゆくジャーナリスト、そういうイメージだ。

しかしそういうカッコいいイメージをいったんはぎとってしまい、この文章をよく読んでみると、そこにあるのは身も蓋もない<マイノリティ憑依>そのものだ。・・・

<マイノリティ憑依>というのは、とても気楽な状態だ。気楽だからこそ、その落とし穴に人ははまりやすい。

こういう事態の推移に、火をつけた当人の津村喬はむしろいらだちを感じ、

「本多さんの文脈の中では、『殺す-殺される』という二項が、まったく無内容なメロドラマとして成立してしまう」

と批判するのですが。

さて、こうして引用してきて、改めて赤木智弘氏が何に苛立っていたかを振り返ってみましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

>で、その時に、自分はどうなるのか?

>これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

>ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

まことに、60年代から70年代に産み出された「マイノリティ憑依」という鬼子が、90年代、2000年代に至ってもなおこうして、社会経済的状況から自らを素直に被害者と認識することを妨げ、自分を「殺す側」と責め、どこか遠くにいる「殺される側」を支援することが「左派」のあるべき姿だと思いこむ若者たちを産み出し続けたわけです。

この「リベサヨ」問題については、本ブログでいやというぐらい取り上げてきましたので、これくらいにして、今回この佐々木さんの本を読んで改めて感じたのは、この「マイノリティ憑依」という悪霊が、元々の出身地だった左翼界隈から遥かに拡大して、いまや右翼界隈でこそ一番蔓延っているのではないかということでした。

在特会やら、新しい教科書がどうたらこうたらという人々の言説というのは、なんというか太田龍もかくやと思うほど、被害者意識に充ち満ちており、「殺される側」の可哀想な日本人が「殺す側」の朝鮮人や中国人を憎悪しているかのごときレトリックに充ち満ちています。少なくとも昔の右翼界隈とはまったく違う霊気が漂っていますが、その原点もまた、佐々木氏が指摘するこの時期の思想転換にあったように思われます。

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コメント

憑依される方が望ましいと考えているとしか思えない人も居ます。
中毒性が有るかもしれません (躁状態)。

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