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2012年3月 7日 (水)

湯浅誠氏がさらに深めた保守と中庸の感覚

かつて、2年半近く前に本ブログで「湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚」というエントリを書いたことがありますが、今回内閣府参与を辞めるに当たって公開したかなり長めの文章は、湯浅誠氏がその保守と中庸の感覚をさらに見事なまでに洗練させたことを物語っているようです。

さきほど、ひさしぶりに「哲学の味方」さんがコメントを書き込まれ、そこで紹介していただいたので、エントリを立てて改めて紹介したいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-7d76.html#comment-88893122

この記事を拝見している同じ日に、以下の記事をも読みました。湯浅誠さんが、内閣府参与を辞任するに当たって書かれたもので、こちらのキーワードは「日本型雇用」なんですよね。

http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html(【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版))

はじめのところは経緯と政府への要望ですが、その後に「特に関心のある方のみ、お読みいただければと思います」と断りつつ、現時点の湯浅氏の認識をかなり包括的に書かれています。論点を追っていくと、それだけで大変膨大な分量になるので、政策的な論点はむしろあまり意識せず、活動家が政府部内でさまざまな経験を経ることでエラボレートしてきた「透徹した認識」のさまざまなサンプルという観点から引用していきたいと思います。

私は、解決すべき課題があるときに、それを誰かの責任にすることで自分は免責されるとする思考が嫌いです(たいていの場合、「誰か」にも自分にも、双方にそれぞれの責任があるものです)。それは真に課題を解決しようとする姿勢ではないと思う。私は基本的に民間団体の人間です。だから、民間の人たちは、行政の縦割りの弊害を指摘する以上に、自分たちの縦割りの問題に敏感であるべきと思います。それは、行政の縦割りの弊害を免責することを意味しません。その意味で、縦割りの弊害打破は、行政とともに民間の課題です。そしてどちらが先にその弊害を打破できるか、競争のようなものだと感じています。

先ほど、財源の問題に触れました。端的に言って、私は税の問題をもっと簡単に考えていました。「なんとかしようとすれば、なんとかなるはずの課題」と。参与としての2年間は、それが「なんともならない」ことを知った2年間でもありました。その点で「なんとかなる」と言って政権を取り、そうはならなかった民主党と同じです。

 予算は、きわめて厳しい状態にありました。最初にぶつかったのが「ペイ・アズ・ユー・ゴー原則」と言われたもので、新規の予算要求をしようと思ったら、その予算要求をする省庁が、その金額を自分たちが所管する予算のどれかを削って捻出しないといけない、という原則です。

それに加えて、政策経費の毎年10%カットという原則もありました。・・・

したがって、ただでさえ毎年10%ずつカットされている中で何か新しいことを始めようとすると、さらに他から政策的経費を奪ってこないといけないことになります。奪われる側からすれば「10%+新規予算要求分の予算」が減らされることになり、当然打撃が大きいため、抵抗は大きくなります。

 私が関わっている分野は、先ほど言ったように日本型雇用、日本型福祉社会の「想定外」の部分であり、これまでは何もなかったに等しい分野です。問題そのものが新しく、かつこれまで手をつけてこられなかった課題のため、基本的に新規予算で対応する他ないのですが、何かしようとすると、必ず既存分野との予算の競合関係が生じます。自分の関心のある分野しか見ていなかったときは「こういう分野にちゃんとお金がつけられていない」と「意識」や「やる気」の問題にしていましたが、たとえやる気があっても、税と財政の規模が確保できず、義務的経費が政策的経費を圧迫し続ける状況下では、十分な予算措置を講じる余地がそもそもないことを思い知りました。

政府の中に無駄なお金が大量にある、と思っている人は今でもたくさんいます。実際、政府の予算はいくらでも削ることができます。公的業務をより安い価格で運営してくれる民間団体・企業にアウトソーシングすれば、差額は浮きます。また、医療や介護、教育の公費投入分を減らして私費負担割合を増やせば、支出を削減できます。さらには、国の役割を外交や安全保障に狭く限定し、公共事業や社会保障を地方自治体に引き渡せば、国の支出は大幅に削減できるでしょう。これらはすべて、国から他のところ(民間団体・企業、地方自治体)にアウトソーシング&ダウンサイジング(たとえば、一括交付金としてパッケージ化する代わりに総額を抑制する)する手法です。小泉政権下で行われたように、これを強引かつ強力に推し進めていけば、国の支出はさらに縮小し、財政状況は一見好転するでしょう。難しいことではありません。

しかし、それはいったい何のためなのでしょうか。税と財政の機能が弱くなった分は、家計(私費負担)でカバーしなければなりません。・・・

混合診療の全面解禁については、アメリカの民間保険会社などが長らく主張しており、日本の財界もそれに呼応しています。国会議員の中にも、それを主張する人は少なくありません。よって「その連中が悪い」と言われることがありますが、だとしたら「そうならないように、医療費の負担と給付を増やそう」と主張しないと、筋が通りません。混合診療全面解禁は反対だが、医療費負担も反対というのでは、現実は私費負担割合が増えていく方向に進まざるを得ません。両方に反対していれば病気になる人が減る、というのでないかぎり、実際にかかる経費は変わらないからです。

そのため、混合診療全面解禁も反対だが、医療費負担増も反対だというとき、人々の矛先は「どこか(自分ではない)他のところにお金があるはずだ」というところに向かいます。それが企業だったり(法人税)、富裕層だったり(所得税・資産課税)、消費税だったり、政府(特別会計など)だったり、主張する人の意向によって矛先はまちまちです。現在のところ、多くの人たちが合致できる最大公約数が「政府に隠れたムダ金があるはずだ」という点にありますから、「まずは政府が身を削れ」という行革路線が強くなり、それを主張する分には、国会議員もマスコミも、あまり批判にさらされず安心、という状態になっています。

私は公務員を無批判に擁護しようというのではありません。不満はないのかと言われれば、不満はあります。私が擁護したいのは社会です。社会を擁護したいという視点から現在の状況を見ると、公共サービスを設計・運営するのが公務員という当たり前のことが忘れられて、公務員批判が自己目的化しているような危機感を抱きます。何らかの目的を擁護するための手段にすぎなかった批判が、そもそもの目的を見失って自己目的化するとき、それをバッシングと呼びます。その意味で、現在の状況は「公務員バッシング」だと感じています。そしてそれが擁護すべき社会を強化する行為であるかといえば、私は懐疑的です。私は公務員を盲目的に擁護はしませんが、盲目的な公務員批判には反対です。それは結局、公共サービスを劣化させてしまうからです。

こう言うと、すぐに「じゃあ社会主義的な大きな政府にするのか」と目くじらを立てる人がいます。第一に、日本よりも社会保障給付費のGDP比の高いヨーロッパ諸国は、すべて資本主義諸国です。この批判はあまりにも低劣です。第二に、はるかに高齢化率の低いアメリカと同程度の社会保障支出しかない現状を改善しようということと、北欧諸国のような大きな政府にしようということとの間には、大きな開きがあります。前者は、いわば「せめて小さな政府に」と言っているにすぎず、「大きな政府」とは雲泥の差があります。私は、日本社会の歴史と現状から考えて、私や他の誰かが何を言おうと、実際問題として日本が北欧並みの「大きな政府」になることなどないだろうと思っています。私が言っていることは、はるかにずっと控えめです。医者が過労で倒れ、介護ヘルパーは低賃金でどんどん辞め、低年金・無年金で生活できない人が増え、非正規が増えているにもかかわらず、まともなセーフティネットが生活保護以外になく、本人や家族が課題を抱え込んで煮詰まり疲弊して残念な事件が頻発し、自殺も減らず、社会に閉塞感が蔓延している現状を少しでも変えるために、せめて小さな政府になるくらいの税と財政規模を確保しませんか、と言っているにすぎません(もちろん、この控えめな主張に対しても反対する人がたくさんいるのは重々承知しています)。

しかし、居酒屋やブログで不満や批判をぶちまける人、デモや集会を行う人たちの中には、それが奏功しなかった場合の結果責任の自覚がない人(調整当事者としての自覚がない人、主権者としての自覚がない人)がいます。それらの行為がよりよい結果をもたらさなかったのは、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまう人です。その人が忘れているのは、1億2千万人の人口の中には、自分と反対の意見を持っている人もいて、政府はその人の税金も使っている、という単純な事実です。相互に対立する意見の両方を100%聞き入れることは、政府でなくても、誰でもできません。しかしどちらも主権者である以上、結局どちらの意見をどれくらい容れるかは、両者の力関係で決まります。世の中には多様な意見がありますから、それは結局「政治的・社会的力関係総体」で決まることになります。だから、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させることに成功したほうが、同じ玉虫色の結論であっても、より自分たちの意見に近い結論を導き出すことができます。

 しかし、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまうと、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させるために不足しているものは何か、どうして自分たちの意見は十分に広がらないのか、どんな工夫が足りないのか、という問題意識が出てきません。それは社会運動にとって、とても残念なことだと私は思っています(それは、よくある「独善的」との批判に根拠を与えてしまいます)。そして、政治的シニシズムが「強いリーダーシップ」によって政治的に活性化された現在、社会運動はますますそのことを強く意識する必要があるのではないか、というのが私の趣旨でした。だから、「政府の外でやってないで、政府内部の調整過程にコミットしよう」などという話ではありません。そもそも、もしそうだとしたら、社会運動を見切っているわけで、「社会運動の立ち位置」などという文章を書く動機が私自身に存在しません。

私の推測が間違っているかもしれませんが、今の社会に欠けているのは、少なからぬ人たちがそのように振舞って、それぞれができる範囲で、政治的・社会的力関係総体への働きかけを行っているという信頼感ではないか、と感じています。私がこの2年間で発見したのは、官僚の中にも、私と同じような方向性を目指しながら働きかけを行っている人たちがたくさんいる、ということでした。その人たちはテレビや新聞で原則論をぶったりはしません。錯綜する利害関係の中で説明・説得・調整・妥協を繰り返しています。決定権をもたない組織の一員として、言いたいことを声高に言うことなく、しかし結論が「言いたいこと」になるべく近づくように奮闘しています。ところが、外側の私たちは、そうした内部の奮闘の結果として最後に出てきた結論が情報に接する最初になるので、そこから評価が始まり、交渉が始まります。批判の矛先が奮闘した当の本人に向くこともしばしばです。Aという担当者がいて、ある事柄をなんとかしたいと発案し、提起する。課内から局、局から省、省から政府と持ち上がる過程でさまざまな修正が入り、結論としての政策が出来上がる。しかし、もともと同じ方向性の主張を掲げていた人たちが、その結論を原則的な立場から頭ごなしに批判し、説明者でもある担当者をなじる。この過程が何度となく繰り返されていけば、少なくとも私だったらだんだんと気持ちが萎えていきます。

原則的な立場は大事です。問題は、原則的なことを言っていれば原則的なことが実現するわけではない、という点にあります。「ぶれずにある立場を堅持していれば、いずれ理解される」と言って、30年40年と同じことを言い続けている人がいます。しかし、言い続けてきた30年分40年分、世の中が言っていることに近づいてきているかというと、必ずしもそうでないという場合があります。世の中には、反対の立場から30年40年原則的なことを言い続けている人もいるからです。その際の問題点は「原則的な立場を堅持するかどうか」ではなく、「原則的な立場に現実を少しでも近づけるための、言い方ややり方の工夫をする必要がある」という点にあります。工夫が足りないことの結果として自分の見解が広く理解されなかったことの結果責任の自覚なく、「聞き入れないあいつらがわかってない」と言っているだけでは、さらに多くの人たちから相手にされなくなっていくだけで、その逆にはならないでしょう。

 あたりまえのことしか言っていないと思うのですが、実際にはそのあたりまえが通用しない局面があります。現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、より思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます

 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です

容易に転換しそうにないこの風潮をどうすれば変えることができるのか、私にはまだよくわかりません。ただ少なくとも、このような局面で社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていくために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性により磨きをかけていくことではないかと思います。それが、私の考える「社会運動の立ち位置」です。

わたくしがこれらの言葉の中に聞くのは、「他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態」が猛威を振るう現代において、ほとんど得難いほどの透徹した「保守と中庸の感覚」の精髄です。

なにゆえに、保守と中庸の感覚が期待されるはずの人々にもっともそれらが欠落し、かつてまでの常識ではそれらがもっとも期待されないような「左翼活動家」にそれらがかくも横溢しているのか、その逆説にこそ、現代日本の鍵があるのでしょう。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-9f6e.html(湯浅誠氏が示す保守と中庸の感覚)

世間的には、湯浅誠氏と言えば、左翼の活動家というイメージで、城繁幸氏と言えば、大企業人事部出身の人事コンサルで、保守的とお考えかも知れませんが、そういう表面的なレベルではなく、人間性のレベルで見ると、なかなか面白い対比が浮かび上がってきます。

・・・わたしが興味を惹かれたのは、「活動家一丁上がり」などと言っている左翼活動家の湯浅氏がフェビアン的であり、企業の人事部に対して現実的なコンサルやアドバイスをしている(はずの)城氏がレーニン的であるという、対比の妙が面白かったからです。

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コメント

http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2012/03/30/20120330dde012040004000c.html


”「でもね、複雑なことについて、その複雑さが分かるというのは悪いことではありません。物事を解決していくには、複雑なことの一つ一つに対応していく必要があります」”

”ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。”
ステークホルダー

”気を付けなければならないのは、多様な利害関係を無視しシンプルにイエス・ノーの答えを出すことは、一を取って他を捨てるということです。つまり、世の中の9割の人は切り捨てられる側にいる」”

甲子園出場校の99%は負ける=負けるのが当たり前論

”複雑さを引き受ける余力が時間的にも精神的にも社会から失われている。生活と仕事に追われ、みんなへとへとになっているんです」”
そこでりふれですね(違

”でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです」”
 鈴木亘先生も維新の会に身を投じたということですし、頼もしいですね

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