個人の権利は、最終的に必ず衝突する
yellowbellさんの名言。
http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/299899616928107319
個人の権利は、最終的に必ず衝突する。
個人の集合たる社会は、ゆえに個人の権利の調整機能を持つ必要がある。
社会を社会たらしむ不可欠の要素は権利の調整であると自覚する個人は、個人の権利の調整に対して優先を主張し、
個人を個人たらしむ不可欠の要素は権利そのものであると自覚する個人は、個人の権利の尊重に対して優先を主張する。
個人の存続という目指す方向は同じでも到達点の異なる両者は、社会において常に相対する。
そして、その常に相対する両者の存在が、社会の健全な成り立ちである。
その常に相対する両者の織り成す喧騒が、社会が健全に営まれている証である。
だから、僕は思う。
個人の権利の調整を優先すべしと言っても、個人の権利を尊重しなくてよいわけではない。
個人の権利の尊重を優先すべしと言っても、個人の権利の調整をしなくてよいわけではない。
個人の権利は最終的に必ず衝突する。ゆえに、そのどちらを選んでも、全くの正解などありえない。
主義ということばで他人を、あるいは自らを固定して、意固地であろうとしない者でありたい。
優先順位の異なる誰かと出会ったときは、そのもっと根源の目指すところに立ち戻って振舞う者でありたい。
これがなかなか、難しい。
付け加えるべきことは何もないので、そのまま読んで味わってください。
とりわけ、「個人の権利の調整を優先すべし」と言うあまり「個人の権利を尊重しな」い人々や、「個人の権利の尊重を優先すべし」と言うあまり「個人の権利の調整をしな」い人々に読んで欲しいのですが、まあ、そういう人に限って、こういう台詞は目に入らないものですが。
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