低価格・低賃金なのに過剰サービス
話題のワタミ労災事件に関連して、興味深いブログの記事がありました。
http://d.hatena.ne.jp/Lacan2205126/20120222/1329895239(『ブラック企業と旧日本軍』(ワタミ化と東南アジア化))
・・・それは低賃金、長期労働なのに現場の労働のモラルハザードが起きていない点である。それどころか賃金低下、サービスの価格低下に反比例するかのように神経症的にサービスを特化させている印象すらある。これはわが国外食産業で象徴的だ。
・・・しかし我が国の外食産業サービスは独自の進化を経ている。低価格化の価格競争に勝つため、さらに物的コストを必要としない従業員の『お客様サービス』を上乗せして対抗しようとする。その結果、低価格・低賃金なのに過剰サービスという単純な行動ファイナンスでは解析不能な現象が起きているのだ。何故、解析が不能なのかというと『従業員のモラルハザード』という低賃金長期労働に対して諸外国では不可避に起こるべき事態が、我が国では全く起きていないからである。
これは、本ブログでも何回か取りあげてきた問題に関わりますが、このブログ主は、この問題をやや安易に
日本人の精神性は家父長的な村社会構造に根ざしているのではないか
という文化論的説明に寄りかかっている感があります。いやもちろんその面は否定しませんが、近代以降日本でも労働運動が激しく燃え上がった時代があったということがすっぽり抜け落ちたスタティックな文化論には違和感があります。
むしろ、かつて低劣な労働条件に対する怒りとして燃え上がった労働運動が、他の先進諸国とはひと味違って、正社員型後払い方式ディーセントワーク(終身雇用で精算)という形で決着し、落ち着いたことが、「社長島耕作を夢見る係員島耕作」が特定の時点ではブラックに見えるけれども長期的にはディーセント(でありうる)な働き方を自発的に受容するという精神構造を生み出したと見るべきで、その意味では極めて近代的な所産だと思います。
そしてそれがさらに、そういう「近代的」日本型システムを批判する形で登場した「現代的」ベンチャー礼賛論が、ミクロの現場ではむしろそのガンバリズムを増幅昂進させる方向で機能するという一件パラドクシカルな現象が相俟って、こういう事態を引き起こしていると考えるべきでしょう。
このあたり、かつて『POSSE』第9号で萱野稔人さんと対談したときに喋ったことがあります。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/posse09.html
■「ブラック」だけど「ブラック」じゃなかった濱口:日本の企業ではもともと、目先で労働法が踏みにじられているからといって、ミクロな正義を労働者が追求することは、愚かなことだと思われていました。とはいえ、それは「ブラック」だったのかと言えば、そうではありません。これが、今日の柱のひとつになります。戦後日本で形づくられた雇用システムの中で、とりわけ大企業の正社員は、ずっとメンバーシップ型の雇用システムの中にいました。そこでは、会社の言うとおり際限なく働く代わり、定年までの雇用と生活を保障してもらうという一種の取引が成り立っていたのです。泥のように働けば、結婚して子供が大きくなっても生活できるだけの面倒をみてやるよと。これが本当に良かったのかどうかの評価は別にして、トータルでは釣り合いがとれていたと言えます。ところが、それは先々保障があるということが前提となっているわけで、これがなければただの「ブラック」なんですね。「働き方だけを見たら「ブラック」だけど、長期的に見たら実は「ブラック」じゃない」はずが、「ただのブラック」である企業が拡大してきた。それが、ここ十数年来の「ブラック企業」現象なるものを、マクロ的に説明できるロジックなんじゃないかなと思います。この取引はいわば山口一男さんの言う「見返り型滅私奉公」に近かったわけです。滅私奉公と言うととんでもないものに見えるかもしれませんが、ちゃんと見返りはありました。しかし、それが「見返りのない滅私奉公」になってしまったのです。■「日本型」ではなかった日本型雇用システム濱口:なぜそんなことになったのか。まず、日本型雇用システムを「日本型」と呼ぶことじたいがいささかミスリーティングだということがあります。この名称では、日本の労働者はみんなそうだという誤解を招きかねません。しかし、もともと典型的には大企業正社員だけのシステムだったんです。企業規模が小さくなればなるほど、正社員といえどもそんな保障は薄れていきます。中小になればもっと少ない。零細になればほとんどない。見返りもないのにことごとく忠誠心をつぎ込むなんてばかげたことは、普通しませんよね。それが世界的に見れば、普通の労働者の行動パターンです。日本の明治時代の労働者だって流動的で、1年経てばみんな職場を移動していました。しかし、高度経済成長が終わった後に、メンバーシップの基盤がない中小零細企業にも、大企業正社員型の働き方が、労働者のあるべき姿のイデオロギーとして規範化していきます。何がそれをもたらしたかというと、ふたつあります。ひとつめが判例法理です。日本の労働法には、民法や労働基準法が前提としていない、いわゆる大企業正社員型の判例法理があります。整理解雇四要件だとか、就業規則の不利益変更法理、あるいは時間外労働や配置転換の法理です。要するに「会社の言うことを聞くんだったら、それだけ守ってやるよ」という社会的契約が判例法理に入っているのです。これが確立したのは実は70年代、高度成長終了後です。もちろん大企業でそういう社会的契約があったからそれが判例法理になったわけですが、長期的な保障なんてあるわけない中小零細企業にまで、この判例法理が社会規範として広がっていったという側面があります。最高裁の判決には、大企業のみに限るなんて書いてないわけですからね。もうひとつは少し大きな話ですが、70年代以降、知識社会学で言う「日本人論」が流行します。60年代までは、「日本は前近代的で封建的だからダメなんだ。もっと欧米みたいな社会になりましょう」という議論が、山のように論じられていました。ところが、これがガラッと変わって、70年代~80年代には「日本はこういう社会だからいいんだ」という日本賛美的な言説が非常に流行し、90年代以降また流行らなくなります。そこで描かれた日本人の姿というのは、近代化以前のものと、近代を通り過ぎた後の大企業正社員型のものがない混ぜになったものです。これが、知識人の世界では忘れ去られるんですが、日本人の行動規範として大きな影響があったのではないかと思います。人々にとって社会の基本的なイデオロギーとしてはずっとこの規範が残っており、むしろ強化されているのではないでしょうか。■「会社人間」批判とネオリベラリズムの合流濱口:さらに、もうひとつ。これはものすごくパラドキシカルで頭が混乱するかもしれませんが、そういうメンバーシップ型社会のあり方に対する批判が80年代末から90年代ごろ、「「会社人間」はだめだ、「社畜」はだめだ」というかたちで、いっせいに噴き出します。これらを提唱していた人たちはおそらく、自由に働いて生きていく、というイメージを考えていたのだと思います。それと、世界的には80年代にイギリス、アメリカのネオリベラリズムが非常に流行って、90年代初めごろに日本に入ってきます。この二つの流れがないまぜになる中で、「だから会社に頼らずもっと強い人間になって市場でバリバリやっていく生き方がいいんだ」という強い個人型のガンバリズムをもたらしました。大変皮肉なことに、強い個人型ガンバリズムが理想とする人間像は、ベンチャー企業の経営者なんです。理想的な生き方としてそれが褒め称えられる一方で、ベンチャー企業の下にはメンバーシップも長期的な保障もあるはずもない労働者がいるわけです。しかし、彼らにはその経営者の考えがそのまま投影されます。保障がないまま、「強い個人がバリバリ生きていくのは正しいことなんだ。それを君は社長とともにがんばって実行しているんだ。さあがんばろうよ」という感じで、イデオロギー的にはまったく逆のものが同時に流れ込むかたちで、保障なきガンバリズムをもたらしました。これが実は現在のブラック企業の典型的な姿になっているんではないでしょうか。これは、大企業正社員型の「「ブラック」じゃない「ブラック」」とは全然違うんです。むしろそれを否定しようとしたイデオロギーから、別のブラック企業のイデオロギーが逆説的に生み出されたという非常に皮肉な現象です。そういう意味では現代のブラック企業は、いろいろな流れが合流して生み出されているのです。いわば保障なき「義務だけ正社員」、「やりがいだけ片思い正社員」がどんどん拡大して、それが「ブラック企業」というかたちで露呈してきているのだと思います。処方箋を二つだけ申し上げます。私は根本的には労働を損得で考えるべきであるとは考えていませんが、ブラック企業対策としてはとりあえずそれを括弧に入れて、「労働を損得で考えるよ」と言いたいと思います。「そんなに働いて保障があるの? 10年、20年、30年後にもとがとれるの? もとが取れないんだったら、そこまでするのは立ち止まって考えてみてはいかが?」というのが第一の処方箋。第二の処方箋は、解雇規制について少し考え直そうというものです。これは言い出すと大変長い話になるので、結論だけ。仕事がないのにクビだけ守ろうとばかり考えるのではなく、ものを言ってもクビを切られない解雇規制の方がずっと大事だということを、もっと世の中で議論していかなければならないと思っています。
(参考)
上記『POSSE』での萱野さんとの対談のさらに詳しいバージョンとして、1年ちょっと前に明治大学で喋った講演の記録を参考までにリンクしておきます。
これはその後『労働法律旬報』2011年7月下旬・8月下旬号に掲載され、さらに最近『労働行政研究』冬号に転載されました。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/roujun1107.html
http://homepage3.nifty.com/hamachan/roujun1108.html
はじめに
1 日本の労働社会の特徴
雇用契約は「ジョブ」か「メンバーシップ」か
労働時間規制は「残業支払いの基準」か
配転命令は服従するのが義務か
雇用安定・職業不安定
メンバーである正社員とそうでない非正規労働者
2 日本的フレクシキュリティとその動揺
男性正社員と女性正社員
パートやアルバイト、派遣などの非正規化の進展
家計補助的労働者への差別・不安定雇用の容認
家計維持的非正規労働者の大量出現とセーフティネット不全
メンバーシップ型正社員の「収縮」と「濃縮」
白紙の学生に即戦力を要求
「ブラック企業」現象とシステム的な要因
「ブラック企業」現象とシステム的な要因
これに対して最近、「ブラック企業」という言葉があります。昔から労働者を酷使してぐちゃぐちゃに働かせて、使い潰すような企業はありました。産業革命のころのイギリスだろうが、明治時代の日本だろうが、当時の本や政府の報告書を見ると、そんなものばかりが書いてあります。しかし、最近、ブラック企業が問題になっているのは、これとは性格が違います。
どこが違うか。一番明確なのは、いまの日本にしろ、どの先進国もみんなそうですが、産業革命から100年以上たって、きちんと労働者を守る仕組みは確立しているはずです。労働者を酷使して使い潰すなんて無茶苦茶なことはできないことになっているはずです。
ところが、なぜブラック企業がまかり通ってしまうかといえば、いまの若者たちは労働者の権利を知らないからというのが、よく言われる説明です。だから若者たちに、自分たちにはどんな権利があるか、きちんと教えなければいけない。労働法教育が必要だと言われるわけです。
私も関わって、2年前に厚生労働省で労働法教育の研究会が始まり、議論しました。若者が労働者の権利を知らないが故にこうなってしまっている。だからきちんと労働者の権利を知らしめていこう。そういう報告書も出されています。しかし、問題はそう単純ではありません。
大変逆説的ですが、今日ブラック企業がまかり通るのは、戦後日本がメンバーシップ型の社会をつくってきたからだという側面があります。メンバーシップ型の社会というのは、一生面倒をみてやる代わりに会社の言うことを聞けという社会です。会社の言うことを聞けということは、労働基準法にこう書いてあるからできませんと言うなということです。戦後の日本で、労働法にこう書いてあるなんて、会社に言う馬鹿な奴は真っ当な正社員になれません。「労働基準法?上等だ。お前は一生面倒をみてもらいたくないということだな。一生面倒を見てもらいたいのなら、ぐたぐた言うな」。
世の中で、あるシステムがある程度長期間維持されているとしたら、それは両方がそれによって利益を得ているからです。もちろん、そうではないこともありますが、一般的にはそうです。少なくとも戦後の何十年もの間、日本の労働者たちはメンバーシップ型の社会ですごく不利益を被ってきたわけではないのです。
多分、日本のお父さんたちは、夜中まで仕事をしたり、土日に仕事に出たからといって、それがものすごく致命的な、自分にとって大事な利益を損なわれているとあまり感じてこなかったでしょう。むしろ、戦後のいろいろな労使紛争を見ると、「なぜあちらの組合員には残業をさせて、俺たちにはさせないのだ。差別じゃないか。俺たちにも残業をさせろ」と訴えて、裁判所が認めたという事例が山のようにあります。
だから、少なくとも制限なしに働くということが、そんなに不都合なことだと日本の労働者は思っていなかったのです。普通の日本の真っ当な企業の正社員の働き方というのは、本当にそれが労働法に従っているかといえば、必ずしもそうではない面があっても、それで文句を言うのは馬鹿なことで、法律に規定されているということとは違うレベルの社会的な一種の交換が成り立っていたのです。大事なのは、長期的な約束ですから、途中で相手が裏切らない限りは良いわけです。そういう約束が中高年になっても守られている限りは、法律に違反していてもブラックでなかった。
つまり、どんなに会社の言うように無茶苦茶働いても、その先にちゃんと良い報酬が待っているなら、それはブラック企業ではありません。そういう報酬がないのに、外形だけ見ると大企業の正社員のような働き方をさせているとブラックとなります。
ブラックか、ブラックでないかというのは、実はスナップショットを写しただけではわからない。夜中に働いている姿、土日に出勤してやっている姿を見ただけではわからないのです。職業人生全体を通じて、ちゃんと元が取れるかどうかが問題です。
若い頃に夜中まで働いても、年をとるまで長く雇用が保障されるのであればつりあいがとれていて、そんなに問題とされなかったのです。しかし、正社員的な無限定な働き方を要求して使い潰してしまい、長期的な報酬を約束しないことがすごく目につくようになってきたことが、ブラック企業として問題視され始めたのではないかと思います。
それゆえ、ブラック企業がけしからんということも大事ですが、もう少しシステム的な要因を見ないと根本的な解決につながらないのではないかと思います。
日本では、企業だけではなくて、労働者も一緒になって、ある時期からは国も一緒になって、メンバーシップ型の社会をつくってきました。しかし、ジョブではなくて、会社のメンバーとして働いていくのだという仕組みであることが、いろんなところで機能不全を生じてさせています。その機能不全の解消に向けた議論が、非正規は非正規だけ、正社員の働き方は正社員の働き方だけと別々に議論されています。あちこちで起こっている矛盾がばらばらに議論されています。その結果、それぞれになんとかしないといけないということにはなっても、それが全体としてどういう枠組みから生まれてきているかというトータルなものの見方がどうしても欠けてしまいがちになるのではないでしょうか。
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「『ブラック企業と旧日本軍』(ワタミ化と東南アジア化)」と言うブログのエントリーで、日本の飲食産業で従業員のモラルハザードが発生していない事を、村社会構造の組織であるゆえだと「村社会構造の組織」と批評している。興味深いが、問題の側面を良く表していない。過去の労働運動などが考察されていないと言う指摘があったが、労働組合が雇用主の“モラルハザード”を防止してきたと言う観点が無いからだ。... [続きを読む]
「精神性」は説明した気になっちゃうマジック・ワード。
村社会構造に根ざすっつったって、ロングセラー『武士の家計簿』に目を通してみるだけでも、村社会と無縁のはずの当時の支配階層(特に下級武士)が、いまにつながるかのような貧しく見返りに乏しい奉仕状態を強いられていたのがわかるし、
貨幣(銀)流通が偏在的だったことで、生産者(農民)がよく働いていたのにその恩恵にさしてあずかれず、というよりむしろ貧しく、それを買いたたいて仕入れた商人が、その仕入品で都市経済(都市市場)で大きくもうけを出し、同時に悲しいかなそれがまた好況をも演出するというのが、明代の中国だったわけで、
逆にこのたびのギリシャの苦境は、(ウソついてたのも大きいとはいえ)統一通貨制度に参入できてしまったことで、バブッてしまった面があるわけで(つまりギリシャ人の“怠け性向”とかいうもので説明がつくものじゃない)、
ようするに、社会構造や制度環境といったものの複雑作用および変遷が、ときどきの同時代の特徴としてあらわれてくるのであって、それを「精神性」なるものでへたにカタをつけようとすると、
おそらく「心でっかちな日本人」(山岸俊男)の罠にはまり、「日本文化論のインチキ」(小谷野敦)の落とし穴に落ちる羽目になるでありましょう。
投稿: 原口 | 2012年2月25日 (土) 00時40分
…んでもって、最後は「人間性」を持ちだされて、詰め寄られてしまうのです。人間性を提示されたら困るンです。
哲学的な倫理の問題を労働の視座に入れられて正論? っぽくなってしまう。ごちゃごちゃのカオスな労働観のできあがりです。
これを東洋的、日本的であると説得されてしまうのが悲しい。
投稿: 佐藤浩 | 2012年2月25日 (土) 10時03分
日本ではそれだけ「正社員」という言葉に甘美な響きがあるように感じます
僕も私見をブログに書きました
参考にしていただければ幸いです
僕らが「モンスター経営者」 ワタミ会長を創りだした
http://d.hatena.ne.jp/infox0113/20120222/1329888162
投稿: infox0113 | 2012年2月25日 (土) 14時32分