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2012年1月 3日 (火)

「ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる」社会こそ「無理せずに誰でも働ける社会」

先日のエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-1605.html(無理せずに働ける社会という理想へ)

に、そこで取り上げた「人は働く機械ではない」のskicco2さんから反論(?)をいただきました。

http://d.hatena.ne.jp/skicco2/20120103/p1(憲法18条vs憲法27条)

「(?)」をつけたのは、内容的にまったく私と同じ意見なので反論ではないからなのですが。

>「無理せずに誰でも働ける社会」を実現するためには、ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる状態が必要であり、そのための「失業しても生活に困らない制度」なのだが。

「働かなくても生きていける社会」が実現すれば、無理のない仕事を選ぶことが可能になる。

「この仕事やりたいけど、給料安くて食えないから諦めざるを得ない」とか「この仕事嫌だけど金のためにしょうがない」とか言わなくてよくなる。

それはすなわち「無理せずに誰でも働ける社会」ではないのだろうか

いや、私もまったく同じ考えです。「ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる」社会でなければ、「無理せずに誰でも働ける社会」は実現できないでしょう。

どうして、まったく同じ考え方なのに、こういう反論し合っているようにみえるようになるのかといえば、やはり、skicco2さんの最初の

http://d.hatena.ne.jp/skicco2/20111227/p1「無職は悪」という考え方が、働く人を死に追いやる

>「無職の何が悪い」と堂々と言える世の中にすることが、人の命を救うことにつながる

が、働かないことの礼讃という誤解を招きかねない表現になっているからだと思われます。

自分が無理なく働けるまっとうな職場であればいつで働く気持ちはあるが、ふざけた職場では働くつもりはない!という趣旨には、なかなか理解されにくいように思われますし、何よりも私が懸念するのは、最近の風潮では、

>そうだ、そうだ、無職の何が悪い!生産性の低い、能力の低い人間は、なまじ職場にしゃしゃり出て有能な人間の邪魔をするぐらいなら、引っ込んでた方がいいんだ。無職の何が悪いんだ?

というたぐいの議論の一派とみなされかねない恐れがありますので。

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コメント

あけましておめでとうございます。

>>そうだ、そうだ、無職の何が悪い!生産性の低い、能力の低い人間は、なまじ職場にしゃしゃり出て有能な人間の邪魔をするぐらいなら、引っ込んでた方がいいんだ。無職の何が悪いんだ?

>というたぐいの議論の一派・・・


これってBIに通じる?

もし働かなくても生活できる収入が得られるとなったら。

1.「生活費を稼ぐ以外の目的」のために働く人と、
2.さらなる「いい生活」のために働く人と
3.その収入の範囲内で「のんびりとした生活」をして働かない

だいたいこの3パターンになるのではないでしょうか。
私は3.に関しても責められるべきではないと思います。
もちろん
「働く気持ちがあっても能力のないやつは働くな」というのは論外ですが。

また、このあたりの議論について、信念、対処に関する意見を大きく分かつものとして
「生活出来るだけの労賃を稼ぐだけの『仕事』は全員に回るだけあるか?」
というイシューに関する認識の違いがあるかと思います。
おそらく先生は「ある」とお考えでしょうが、
私は「ない」と考えています。
おそらく堀江さんも「ない」と考えているのでは?

また、高度技術(熟練工含)が必要な業務においては1人で10人分の仕事があるのに
その仕事を10人に分けると途端に効率が格段に落ちるというのはよくあります。
このあたりも産業革命の頃とは大きく変わってるのかなぁと
ITなどの新興産業はほとんど上記のような人間で出来てる産業で、雇用をほとんど増やしてませんし

ただ、国家・政府としては国民すべてを「食わせる」義務がありますし、
それをいかに行うかはもっと柔軟な議論は必要かと思いますが。

つらつらと書いてきましたが、つまりは
「働く気持ちが無いやつは無理やり働かさなくてもいい」
と思うということで。

度々お邪魔いたします。

>「ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる」社会<・・・このフレーズいただきます。下記の例も“ふざけた職場、ふざけた上司”に対する物言いがなかったのでしょうか。
読売新聞  2011年12月29日18時21分http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20111229-OYT1T00278.htm 「百万円たかりパワハラ」

なお私としては、このような事業場は民間なら不要、若しくは市場で存在意義を問われる存在であって、例えば不買運動などで潰しても(実際に潰れるかどうかはさておき・・)差し支えないところ、それが潰れない行政機関であることが誠に口惜しい訳です。

ひとつ上のエントリと関連する話ですが、被災地の支援のために寄付が集まる一方で、被災者を中傷したりデマを流す輩がいる。極限状況において世界中に共感されるほどの忍耐、秩序を示す一方で、現金給付によってモラルハザードが生じてしまう。
大多数の人々は利己心と利他心の間で揺れ動く存在であり、経済的な動機のみが人の心を動かすのではない。例えば、人は居場所がないと生きがいを感じることができない。
新古典派経済学者が想定する、人は利己心のみで構成されて常に合理的に行動する人間像でもなく、リベサヨの人達が想定する、生活実態と乖離した楽観的にすぎる人間像でもない、真にリアルな人間像に基づいた社会政策が必要とされているのでしょう。

>「無理せずに誰でも働ける社会」を実現するためには、ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる状態が必要であり、そのための「失業しても生活に困らない制度」なのだが。

問題なのは、「失業しても生活に困らない制度」によるモラルハザードのリスクを過少に見積もってしまっていることにあるように思います。ただ、「日本には過労死するほど仕事があり、自殺するほど仕事がない」という現状においては、カウンターとして多少は過激な言説が必要とされているのかもしれません。

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