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2012年1月 8日 (日)

法社会学における「労働」というテーマ

たまたま日本法社会学会というホームページを見つけて、その中の「法社会学会学術大会の歩み」というのをみていくと、法社会学で「労働」というテーマが結構論じられていた時代もあったことが分かります。

まず、1947年~1964年

http://wwwsoc.nii.ac.jp/hosha/tabidati/tabidati_04.html

>一九四八(昭和二三)年度一二月一一日 東京大学 [研究報告]
土建労働の構造 川島 武宜
日本における労働関係の特質 磯田  進

コシキ島の家族関係 舟橋 諄一
家父長権の成立過程と神授的権威 戒能 通孝

4つの報告のうち、2つが労働問題です。

磯田報告は、以前本ブログで紹介したこれですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b8cd.html(磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』)

>一九五〇(昭和二五)年度秋季一〇月三一日 大阪大学 [研究報告]
モンテスキューの法社会学について 長谷川正安
改正労組法とその施行の実態 野村 平爾
犯罪社会学の問題 平野 龍一
中国法史学の構想~~「封建」とフューダリズム 仁井田 陞
裁判の法社会学的考察 戒能 通孝

野村氏はれっきとした労働法学者ですが、改正労組法の施行実態というのが立派に法社会学のテーマになっていたのですね。

>一九五一(昭和二六)年度春季四月三〇日 慶應義塾大学 [研究報告]
明治末期の二、三の立法と裁判 中村吉三郎
漁業労働関係の法社会学的考察 川島 武宜=潮見 俊隆=渡辺 洋三
ソヴィエト社会における都市と農村~~婚姻と家産の問題に関連して 福島 正夫

漁業労働というのは、これはどうも直接雇用労働関係ではなさそうですが。

>一九五二(昭和二七)年度春季四月二五日 日本大学 [研究報告]
戸籍法の前近代的形態 山主 政幸
労働ボスの法社会学的考察 内山 尚三
[討論]
学問の自由と大学の自治 上原 専禄、尾高 朝雄
裁判 平野義太郎、戒能 通孝

労働ボスというのは、まさに労務供給請負業者のことで、こういう世界もちゃんと法社会学の研究対象であったわけです。

>一九五三(昭和二八)年度春季四月三〇日 中央大学 [研究報告]
造船業における臨時工 後藤  清
積雪山村の民主化 新田 隆信
[シンポジウム]
調査の目的と方法 戒能 通孝、磯野 誠一

これも、ガチに労働法の中心テーマをガチに労働法学者が報告してます。

>一九五三(昭和二八)年度秋季一一月一日 京都大学 [研究報告]
山林労働における庄屋制について~~特に村落構造と関連して 神谷  力
学生の住所に関する自治庁通達について 唄  孝一
[シンポジウム]
立法(その一)
民主立法の要件と諸問題 小林 直樹、千葉 正士

山林労働と庄屋制・・・。ううむ。

このあと、こういう実態を明らかにするような労働の法社会学的研究てのは見えなくなりますね。

このあたり、いろいろと考えるところです。

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コメント

>労働ボスというのは、まさに労務供給請負業者のことで、こういう世界もちゃんと法社会学の研究対象であったわけです。<

そのような研究対象、当に業務委託、各種アウトソーシング、或いは多様な形態や、業種によっては労働者同士でもあり得る労働力の売買が行われている今こそ必要だと思いました。
勉強になります。
悲しいかな、労働法学者による指摘だけだと、どうも“利益集団による手前味噌的な発言”と言う印象を与えているような格好になっているような気がしておりましたものですから・・・。

あと、刑法学からも、労働法違反が何故故意犯なのかということを広く訴えてもらえればいいのですが・・・。

法社会学会において労働問題が取り上げられることも大事でしょうけれども、それだけではなく、社会調査を行う社会学者や現場に足を運ぶジャーナリスト(今ならば、TBSの報道特集の関係者や原発労働を自ら体験した鈴木智彦氏)と労働法学者の連携・合作もあれば面白い、などと勝手なことを考えてしまいます。

少し飛躍するかもしれませんが(且つ誤解を与える発言かもしれませんけれど)、つまるところ労働それ自体をどの程度商品として扱うことが許されるのか?。
若しくは人身売買は何所まで許されるのか?
・・・なる議論が必要なのかもしれないのかと。
私は、まあなんと言うか、労働それ自体は商品ではない、と思ってはおります(働力の再生産は資本を持つ側の干渉しえない領域で、且つ、資本の自由になる労働力の供給が常に保証されるとはいえないという議論は今も大事<まあ、歴史的資料のレベル??>ではあるのですがね・・・)。
しかしそうは言っても、これをただ呪文のように唱えているだけでは、抜け駆けする人に競争で勝てないわけです。労働者自身が自分を身売りすることでそこそこの生活も出来てしまうわけですし。
そこで、これが進行すると(ないし現に進行している現場では)どんなことが起きてしまうのか。若しくは、現に、無責任な輩(少なくとも『利益と責任の均衡』が崩壊している)が不相応な利益(やリスク転化)を得ているのかを白日にさらすことは必要だろうと思います。

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