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2012年1月 7日 (土)

「絶対反対」主義の蔓延

finalventさんが、「「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな」と首をかしげています。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/01/post-3ba2.html(「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな)

>TTP絶対反対。原発絶対反対。消費税アップ絶対反対。八ッ場ダム再開絶対反対。女性天皇絶対反対。歴史修正主義絶対反対。偽科学絶対反対。社会格差絶対反対。米国覇権主義絶対反対。中国覇権主義絶対反対。などなど。

 思うのは、それらは、絶対反対な「私」というのを各人が主張したいのだろうということ。いや主張というより、昆虫が特定の状況で仲間や異性を呼ぶために独自の臭いを発するように、仲間がここにいるというシグナルを発するという機能が「絶対反対」なのではないか。ツイッターとか見ていると特に昆虫の世界みたいだし。

 「絶対反対主義」になると言説というか言葉というものが、「オマエも絶対反対なんだろうな?」という審問にしかならなくなる。言葉が相手に「踏み絵」として提出され「さあ、踏むや否や」というキリシタン狩りという江戸時代の状況になっていく。踏んだら、あるいは「絶対反対主義」の絶対に抵触しそうな意見を言おうものなら、罵倒・中傷の嵐になってくる。

 もう言葉が内容伝達や議論として機能しないのだからそうなると黙るしかない。それだけの覚悟をしても発言するのが言論の自由なんだというのもあるかもしれないが、まあ、私のような小心者には無理。

>この「絶対反対主義」という、率直に言うと一種の精神病理がどうして蔓延してしまったのか。先にシグナルと書いたけど、基本的にシグナルとしてしか機能しないし、そのシグナルの機能は昆虫みたいに「群れること」。人が基本的な社会連帯を失って孤独になっているということの裏返しなのだろう。

 人間なんて誰しも突き詰めれば孤独なものだし、その上で「人はみな一人では生きていけないものだから♪」みたいなところで妥協する。妥協が社会制度でもあるわけで、その妥協で「自分の孤独も腹八部」みたいに我慢するものだが、そういうのが難しくなってしまった。

 もう一つはルサンチマンだろう。怨恨。嫉妬と言ってもいいのかもしれない。自分と同じような能力のある人間が偶然ラッキーなポジションにいると、それを見て、社会は間違っていると思うのもしかたない。それも一定の条件で諦める類のもののようには思われる。諦められないというのは、その相手への憎悪(ルサンチマン)があり、連帯の欠落というのも、やはり孤独や連帯の欠如ということだろうか

いかにもfinalventさんらしい人間学的な深みのある分析ですが、わたくしはもう少し表層的なレベルから。

かつて、保守勢力が巨人大鵬卵焼き的に厳然と屹立していた頃は、なまじ「是々非々」などというまっとうなことを言ってると、民社党みたいになかなか票が取れずに伸び悩むので、ホンネは「そんな極端なことできるわけねえじゃん」と思っていても、「○○○は絶対反対」みたいに言っておいた方がよかったのでしょう。

聞く方も、「○○○は絶対反対」という言葉を聞いても、5割引くらいに聞き取って対応していたので、それなりにうまく回っていた、ということではないかと思います。

その証拠に、日米安保絶対反対と言っていた日本社会党が、政権の座に就いたとたんに断固堅持になったわけですから。

もちろん、そういうのを本気にして街頭で騒いだりするのも居たわけですが、まっとうな「大人」は、ニヤニヤ笑いながら、「ケツの青い連中が・・・」と思っていたのではないかと。

こういうのは、与党と野党が未来永劫変わることがないという前提の上での相互了解の上の演技としては、それなりに様式美を持った政治芸術の姿であったのでしょうが、90年代に、それまでの「革新」の代わりに「改革」というアンチ・イデオロギーが登場し、その宣伝文句を売り物にするようになると、この「5割引でちょうどいい」玄人の様式美感覚が受け継がれず、本気で「○○○は絶対反対」と喚き散らす野暮天感覚が広まっていったのではないかと。

そして、恐るべきことには、その精神状態がかつての未来永劫野党であることを前提とした人々だけではなく、本気で与党になって政権を担うつもりの人々にまで、挙げ句の果てには、現に政権を取って権力の座にある人々の精神にまで及び、与党も野党もみんな揃って「○○○は絶対反対」と本気で喚くというガキ根性丸出しの未熟な政治を産み出してしまったのではないかと。

(追記)

なんだかとんでもない誤解をされてる気配・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-6f43.html

>「絶対反対」は"敢えて"であっても政治を貧しくする、という話かと思ったら違った/むしろ「「5割引でちょうどいい」玄人の様式美感覚」に眩暈が。そういうポーズを決めて遠い目をするのが玄人だとしたらお気楽杉

皮肉な書き方をすると、往々にして皮肉を真に受けた反応が返ってくるものですが、これはなんとも・・・

どうも、「玄人の様式美感覚」という皮肉を効かせたつもりの表現が、単純な褒め言葉と受け取られてしまったようですね。

いうまでもなく、「与党と野党が未来永劫変わることがないという前提の上での相互了解の上の演技として」の様式美など、それ自体愚劣以外の何ものでもない、という基本的価値判断の上での皮肉だということは当然理解されるものだと思っていたわたくしが莫迦だったのでしょう。

また、「なまじ「是々非々」などというまっとうなことを言ってると、民社党みたいになかなか票が取れずに伸び悩むので」という言い方が、わたくしの「本来それが正しかったのに・・・」という趣旨通りに受け取られておらず、かえって単なる皮肉ととられているらしいことも、こういうコミュニケーションの難しさを露呈しているようです。

とはいえ、皮肉系の文章というのは、そこに「いうまでもなくこれは皮肉でありまして、これを心底正しいと述べている趣旨ではありませんので宜しく」などとそれこそ野暮な注釈をつけて提示する性質のものでもありませんしねえ。

なかなか難しいものですわ。

(再追記)

上の素直系の誤解とはまただいぶ趣が違いますが、「思いこみ」系とでもいいますか、こういう読み方もされているようです。

http://d.hatena.ne.jp/ecopolis/20120109/1309310294(濱口桂一郎さんのブログより)

>・・・問題は、岩波新書から労働関係の本を出しており、良心的知識人の一人と目されている濱口さんが、このような文章に共感していることです。ということは、濱口さん自身も「原発絶対反対」や「米国覇権主義絶対反対」という主張は、賛同できないどころか病理と思っているわけです。・・・・心の中では、原発絶対反対や、米軍基地絶対反対を唱える運動を冷やかに見ているわけですね。

「良心的」という言葉の意味が判然としませんが、(いや、使われている主観的な意味はある意味でよく分かりますが、それは要するに「自分の政治的立場の側」というだけのように思われるので、)わたくし自身の考え方は本ブログの過去の記述等をご覧になれば分かるように、「絶対反対」が「良心的」というような物の見方からすれば到底「良心的」ではないでしょうね。

言うまでもなくある新書のレーベルから本を出しているからといって、他のあらゆる領域で特定の政治的立場をとっているかの如く思われるのは他の多くの著者の方々にとっても同様に不本意なのではないかと思われますが。

>とにかく、濱口さんの率直さは称賛しておきたいと思います。

一番違和感のあるのは、実はこの褒め言葉(もしかして皮肉?)で、わたくしとしては今までと同様のことを若干皮肉めかして述べてみただけに過ぎず、どうしてそれが賞賛されるほどの率直さになるのかがよく分からないのです。

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