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2012年1月

2012年1月31日 (火)

國學院大學経済学部・労供研究会共催シンポジウム「労働組合による労働者供給事業の可能性-非正規労働問題の解決へ向けて-」

2月23日の夕方から開かれる國學院大學経済学部・労供研究会共催シンポジウム「労働組合による労働者供給事業の可能性-非正規労働問題の解決へ向けて-」の案内がアップされていますので、こちらでも宣伝しておきます。

http://www.kokugakuin.ac.jp/event/kouho0300233.html

日時2012年2月23日(木)16:00~20:30(休憩:17:30~18:30)
内容16:00~17:30
第1部 労供事業とは何か
 (1)報告:労供事業の実態 本田 一成 氏(國學院大學経済学部教授・労供研究会事務局長)
 (2)報告:労供事業をめぐる法的諸問題   武井 寛 氏(甲南大学法学部教授)

18:30~20:30
第2部  労働組合による労働者供給事業の可能性-非正規労働問題の解決へ向けて
 (1)基調報告 橋元 秀一  氏(國學院大學経済学部教授・労供研究会座長)
 (2)パネルディスカッション
    パネリスト
     伊藤 彰信 氏(労供関連労働組合協議会議長)
     山根木 晴久 氏(日本労働組合総連合会中央執行委員・総合組織局総合局長)
     濱口 桂一郎 氏(労働政策研究・研修機構統括研究員)
     橋元 秀一 氏(國學院大學経済学部教授・労供研究会座長)
会場國學院大學渋谷キャンパス 学術メディアセンター1階 常磐松ホール
参費無料(事前申し込み不要、当日会場にお越しください)

他人の経験

賢者は他人の経験に学ぶとやら。

とはいえ、2世代、3世代前の過去は、なかなか他人の経験としても認識しにくいのでしょうか。

今はもう、誰も読まなくなったシュトルムタールの『ヨーロッパ労働運動』から、

>大不況が1929年に始まったとき、前述と同様な矛盾した事態が起こり、それは一層大きな重要性を有し、いっそう広範な結果をもたらしたのである。ヨーロッパの大手労働者団体は、不況を処理する政策を持っていなかった。まさに、労働組合のみが明確な方針を有していたのである。即ち、それは賃下げ反対、失業給付切り下げ反対ということであった。しかし、これは経済政策ではなく、労働者に対して、恐慌の結果をできるだけ緩和する一つの試みに過ぎなかったのである。労働者政党は、それ自身の経済政策を有していなかったので、自己の哲学と隣接していると伝統的に考えられた運動から政策を借りてこざるを得なかった。それは、イギリスでは急進主義、大陸では民主主義的自由主義であった。その原則とは、均衡予算、安定した兌換通貨制、自由貿易であった。労働者政党は、経済恐慌というものが好況時に行われた不確実な投資を清算する手段として必要であると確信していた。・・・

>以上の見解のいくつかは、労働運動の最近の経験から支持されていた。労働運動が均衡予算や安定通貨をいっそう良いと考えたことは、インフレの恐れで強化された。労働者政党は、インフレの悲惨な結果-低実質賃金、労働組合資金の破産、労働条件悪化への無抵抗-を最近になって認めたため、そういった社会的破滅を繰り返してはならないと決心していた。また、消費者の利益の擁護者としての労働者政党は、伝統的に保護関税に反対し、それを実質賃金の切り下げの試みと見なしていた。・・・

>このようにして、ヨーロッパ大国の労働運動は、自由放任経済政策の守護者となった。そして、労働運動は、自由放任と明らかに矛盾する労働組合の要求と、自由放任経済政策とを関連づけた。賃金は、有効需要の縮小が物価を下げた不況前の水準を維持できなかった。税収入が減少し、失業が増大するにつれて、もし失業給付が不変に保持されるならば、予算の均衡は図られないであろう。労働運動は、組合の圧力や自由放任の圧力のいずれかを受けて、依然として仮死状態であった。他方、その運動を取り巻いている世の中は、崩壊しつつあった。・・・・・・・

ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』

0227860 ロナルド・ドゥオーキン『原理の問題』(岩波書店)を、編集を担当された伊藤耕太郎さんよりお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/6/0227860.html

>英米法思想・政治哲学界に絶大な影響を及ぼしているドゥオーキンの法理論のエッセンスを示す,「現代リベラリズムの古典」ともいうべき重要著作を訳出.法の解釈とはどのような営みであるか,法と政治とはどのような関係にあるか,リベラリズムの基礎にあるものは何か――.これらの問いをめぐって,独創的な議論が力強く展開される.

正直いうと、ここまで原理的に哲学的な議論を展開する分野は、あまり得意分野ではないこともあって、ロールズにせよ、ドゥオーキンにせよ、やや敬遠気味に過ごしてきたもので、あんまり正面からのコメントはできるだけの素養はないのですが、それにしても、とりわけ後半の応用問題的な部分は、いろんな意味で興味深く読めました。

第3部「リベラリズムと正義」における平等の問題は、訳書からは落とされている教育や職業訓練におけるアファーマティブアクションとの関係でも興味深いですし、特に第10章の「リベラルな国家は芸術を支援できるか」は、最近大阪方面で起こった問題なども思い浮かびます。

>・・・第2に、高尚なアプローチは傲慢なパターナリズムだと思われる。正統的なリベラリズムの主張するところでは、政府は公金の使用を正当化するためには、何らかの生き方が別の生き方よりも立派である、テレビのフットボール中継よりも壁に掛かったティツィアーノの絵を見る方が価値がある、といった想定に依拠すべきではない。おそらく後者の想定は正しいのだろうが、そのことは問題ではない。この判断に賛同する人々よりも反対する人々の方が多い。だから民主的であるはずの国家が、その徴税・警察権力の独占を用いて、少数派しか受け入れないような判断を強制するとしたら、それは不正であるに違いない。・・・

さあ、この問いにどう答えるのがいいと思いますか?

次の第4部は「法についての経済学的検討」で、ポズナー流の「法と経済学」に対する徹底した論駁です。ここは、じっくり読む必要がありますね。

最後の第5部は「われわれはポルノグラフィーへの権利を持つか?」というくせ球。

毒がありすぎて・・・

旧拙著への短評ですが・・・、

http://twitter.com/#!/santa_MixCosy/status/164105860048629761

>hamachanの「新しい労働社会」を授業で使うのは毒がありすぎて難しいだろうなぁ。ゼミできちんとフォローしながらでないと、とんでもない勘違いが頻発しそうな予感。

はぁ、そんなに毒がありますかねぇ。

自分では大変素直な記述のつもりではあるんですが・・・。

2012年1月30日 (月)

職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告

本日、職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告がとりまとめられたようです。

厚労省のサイトには「案」付きの資料がアップされていますが、これで報告になったということなのでしょう

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r98520000021gfm-att/2r98520000021gh3.pdf

内容は、1回前の資料の時に本ブログで取り上げていますので、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-cf6d.html(職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告(案))

>職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいう。

というパワハラの定義規定についての卑見も、そちらをご覧下さい。

なんにせよ、最後のパラグラフで引用されているある人事担当役員のこの言葉がとても大事です。

>全ての社員が家に帰れば自慢の娘であり、息子であり、尊敬されるべきお父さんであり、お母さんだ。そんな人たちを職場のハラスメントなんかでうつに至らしめたり苦しめたりしていいわけがないだろう。

花街を継ぐ「会社員芸妓」

産経の面白い記事。

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120125/biz12012507230003-n1.htm(花街を継ぐ「会社員芸妓」)

>今も各地に残る花街のなかで、古町の特徴は、若い芸妓さんたちが固定給で、賞与もあり、厚生年金にも加入する「会社員」であることだ。自宅通勤可。個室の社員寮もある。

 北前船でにぎわったこの地には、明治後期から昭和初期にかけ、400人ほどの芸妓さんがいたという。それが昭和51年に110人、今はわずか30人弱。世の中が変わり、芸妓さんのスポンサーとなる「旦那様」がいなくなり、置屋で芸妓を養成する力がなくなっていったのだ。

 伝統文化の衰退に危機感を持った地元の有力企業約80社が出資し、62年に“株式会社版置屋”となる「柳都(りゅうと)振興株式会社」(「柳都」はかつて市内の縦横に堀がめぐり、堀端に柳があったことに由来する新潟市の別称)を設立した。

20~30代の10人がここに所属している。一人前とされる「留袖さん」が3人、修業中の「振袖さん」が7人。夜遅くまでお座敷を務め、翌朝は唄や踊りのけいこに励むから拘束時間の長いハードな業務だ。新潟市の観光PR役も担い、国内外への出張もこなす。

 旧来の常識を打破したシステムが存続している理由の一つは、昔ながらの置屋に所属する「お姐(ねえ)さん」と呼ばれるベテラン芸妓さんたちが時代の変化を受け入れ、花柳界全体で若手を育てようという発想に立って、芸の伝承に協力を惜しまないからだという

労働者を労働者でなくする方向ばかりが話題になりますが、逆に一つの伝統的な職業を維持するために今まで労働者と見なされてこなかった人々を労働者として扱おうという方向性も、当然ながらあるわけです。

目先の利益だけでなく、一つの職業を将来にわたって持続可能なものとして維持していくためにはどういうことが必要なのか、ということをまじめに考えれば、当然出てくる選択肢なのでしょうね。

最近の労働政策@『全国労保連』1月号

Kaihou1201s 全国労働保険事務組合連合会の機関誌『全国労保連』の2012年1月号に、昨年11月10日の全国労働保険適正加入促進会議における講演の記録の第1回目が載っています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/rouhoren1201.html

全4回の分載で、1回目は雇用保険制度関係。ちなみに2回目は求職者支援制度、3回目は高齢者対策、4回目は非正規関係です。

雇用構築学研究所『NEWS LETTER』No.37

旧青森雇用・社会問題研究所時代から刊行されている『NEWS LETTER』、日本の北(青森)と南(鹿児島)を縦断して出るようになってからはや数年、石橋はるか編集長から「ブログで取りあげて」というメッセージつきで、37号が送られてきました。

今号の興味深い論考は、岡本祐二さんの「派遣労働の縮小は若年雇用にいかなる影響を与えたか?」。岡本さんは都立大の修士で社会学をやった後現在は“大手人材派遣会社勤務”ですが、理論派と実務派の複眼性の感じられる文章が、わたくしにはとても好感が持てます。

>・・・日本型雇用システムの再編を考える場合、それが社会保障制度や人々のライフモデルの転換とも密接に関連する問題であるがゆえに、現実の課題を見据えつつも、既存のリソースをベースにして、如何に漸進的な改良を進められるかという着実な思考が求められる。その際、「正社員」の既得権益を切り崩し、職務給制度(同一労働同一賃金)を一斉に移行すれば事足りるというような「急進的」な思考も、非正規雇用を「正社員」並みに保護すれば皆ハッピーになると考える「保守的」な思考も、トータルな社会像とそこに至るまでのステップを欠いているがゆえに、結果的に(その利益に預かるそうとそうでない層との間で)労働者を分断してしまう可能性が高い。それゆえ、新たな日本型雇用システムは、その再編の過程において、綻びを見せつつある旧来の雇用システムからこぼれ落ちた人々をキャッチし、再び段階的に掬い上げていくような柔軟な仕組みが必要とされるだろう。その時労働者派遣制度は、日本の労働市場の中で新たな重要な役割を果たすはずである。

1087_9 ちなみに、岡本さんは『どこか〈問題化〉される若者たち』という本で「第4章 若者労働の現在」という一章を書いています。

http://www.kouseisha.com/05_sociology/1087_9.html

ほかに、興味深い文章としては、黒川恵理菜さんの「更生する元非行少年少女たちへの就労支援」があります。鹿児島の若駒学園という児童支援施設を調査してまとめたものですが、労働系の人の目からこぼれ落ちがちな対象だけに貴重です。

>実際に若駒学園を訪ね、同園の生徒にもあったがとても非行に常習性があったとは思えず、普通の子だという印象を強く受けた。視点を変えれば彼らは環境次第で変わることのできる柔軟性を持ち合わせているとも感じた。近年の不況のために企業は雇用に対して消極的な姿勢をとっており、受け口が少ないのが現実である。この就労支援というプログラムに共感し、協力してくれる事業主がさらに必要である。「歯車は全て噛み合わないとうまく回らない。一つでも欠けるとすぐに壊れてしまう」と大塚さん。・・

2012年1月29日 (日)

「身を切る姿勢」は泥沼の道@dongfang99

下の欧州労連のようなまっとうな主張と極めて対照的なのが、なぜか極東亡国で繰り返される「増税の前に身を切る姿勢を」という(主観的には善意に敷き詰められた)地獄への道の言葉でしょう。

繰り返し引用するdongfang99さんの日記から:

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20120126「身を切る姿勢」は泥沼の道

>それに、もし増税が社会保障制度の機能強化を目的としているなら、税負担を政治指導者の「身を切る姿勢」との関係で語ることは、その目的を妨げるものでしかない。そもそも、国会議員や官僚やギリギリまで身を削って追い込まれた状態を前提として、はじめて国民が税負担に応じることができるという論理は、今の日本においては増税というのもが、国民全員が国の厳しい財政状況を真摯に受け止めて耐えて我慢することと、ほとんど同義になっていることを示すものである。そうでなければ、国会議員や官僚に対して「増税の前に身を切る姿勢」などを要求する意味がわからない。

 このように、自らの生活や人生をよりよくするための、政府に社会的な支援やサービスを要求するための根拠としての税負担ではなく、「財政危機」の中でみんなが我慢しているのだから「わがまま」は言えない、というネガティヴな同調圧力のなかで行われる税負担は、再分配・社会保障の機能強化へと道筋をつけるものとは決してならない。むしろそれは、増税が社会保障費の抑制(高齢層向け支出を除く)と同時に進行するような方向に向かわせ、貧困者の生活を直撃し、経済に深刻な打撃を与えてしまうような、そういう最悪な形での増税策になってしまう危険性がある。

人に「身を切る姿勢」を要求するということは、それがブーメランのように自分に返ってきて自分の「身を切られる」という当然の摂理が分かっていない人々がそれだけ多いのでしょうか。

自分だけは身を切られないとでも思いこんでいるのか、自分には人から切れと言われるような「身」がないとでも思っているのか。

たぶん、人からは切れる「身」がたっぷりついているような人ほど、なぜか主観的には自分には切られる「身」がないと信じ込んで、人の「身を切る」ことばかりに専念できるのでしょうね。

そういうブーメラン現象を繰り返して20年、そうやって「身を切られ」た人々が、自分の行為を反省するどころか、切られるはずのない自分の「身を切られ」たことに逆上して、ますます人の「身を切る」ことに夢中になるという素晴らしき循環を作り出しているような気もします。

まあ、突き詰めれば、これも本ブログで繰り返してきたことですが、

>やはり問題は、生活・経済上の利害関心や政策理念による政治の争点化が進まず、むしろ「改革へのやる気」「リーダーシップ」「既得権からの脱却」といった、抽象的な精神論が政治の対立軸になってしまったことに求める必要がある。有権者が経済利害や政策理念で支持すべき政治家や政党が決められなくなっているという状況が、政治家や官僚の指導力や道徳性の問題を必要以上に前面化させ、「増税の前に身を切る姿勢を」という世論を生み出しているわけである。

というところに行き当たるわけでしょうが。

欧州労連の宣言

欧州理事会を前にして、欧州労連(ETUC)が新条約案に対する宣言を発表しています。

本ブログでいつも言っていることですが、ヨーロッパの左派や労働運動は、極東の清貧サヨクと違って、まことに労働者の立場からまっとうなことを主張しています。そのまっとうぶりを良く味わってください。

http://www.etuc.org/a/9591

>1) In the absence of sustainable investments for growth, austerity measures will not lead to the solution of the Euro crisis and to employment; they will not either reassure financial markets.

持続可能な成長への投資なくして、緊縮政策はユーロ危機や雇用に解決をもたらさず、金融市場をも安心させないだろう。

2) Casting in national constitutions or legislation a strict adherence to public deficit rules will only exacerbate the current crisis.

各国の憲法や立法に公的債務ルールの厳格な遵守を書き込むことは、今日の危機を悪化させるだけである。

3) Returning to balanced public accounts requires a long term approach including fair taxation policies, a financial transaction tax, combating tax fraud and tax evasion, a partial pooling of the debt, adequate intervention of the ECB, and strong control over the financial sector.

公的財政に均衡を回復することには、公正な租税政策、金融取引課税、税金逃れとの戦い、債務の部分的プーリング、欧州中銀の十分な介入、金融業界への強力なコントロールを含む長期的なアプローチが必要である。

4) The need for economic governance is being used as a means of restricting negotiating mechanisms and results, attacking industrial relations systems and put downward pressure on collectively agreed wage levels; to weaken social protection and the right to strike and privatise public services. The ETUC actively resists these attacks, which, cumulated over the years, will dismantle a social model which is unique in the world.  The wrong and socially harmful German initiatives such as Agenda 2010 or increasing the retirement age should not be imposed on other European countries.

経済的ガバナンスの必要性は、交渉メカニズムやその結果を制約し、労使関係システムを攻撃し、断定交渉による賃金水準を引き下げ、社会保障を弱体化し、公的サービスを民営化しようとする手段として用いられている。欧州労連は、数年蓄積すれば世界に冠たる社会モデルを崩壊させるようなかかる攻撃に積極的に抵抗する。・・・

5) European integration, if it is to succeed, must be a positive project bringing social progress and more and better jobs. This is why the ETUC reiterates its demand that a social protocol should be integrated into the European Treaties.

欧州統合は、成功するためには、社会進歩とより多くのよりよい雇用をもたらす積極的なプロジェクトでなければならない。それ故に欧州労連は、欧州条約に社会条項を書き込むべきとの主張を繰り返す。

The new Treaty is only stipulating more of the same: austerity and budgetary discipline. It will force member states to pursue damaging pro-cyclical fiscal policies, giving absolute priority to rigid economic rules at a time when most economies are still weak and unemployment intolerably high. It will bring downwards pressure on wages and working conditions, surveillance and sanctions. Governments failing to comply with the fiscal compact will be brought to the European Court of Justice, which may impose sanctions.

新条約は同じことをまたもや規定しようとしているだけだ:緊縮と財政規律。それは加盟国に経済を悪化させる循環増幅的な財政政策を追及させ、多くの経済がなお弱く失業が許し難いほど高い時期において厳格な経済ルールに絶対的な優先順位を与える。それは賃金と労働条件に下方への圧力をもたらす。財政協定を遵守できなかった政府は欧州司法裁判所に持ち出され、制裁を科せられる。

・・・・・

というわけで、ヨーロッパの政治状況は、少なくとも極東のぐちゃぐちゃぶりに比べれば、分かりやすいという点において、一日の長があると言えます。

なにしろ、極東亡国では、マクロシバキ派とミクロシバキ派がケンカしているだけですから・・・。

2012年1月28日 (土)

そうだよな?そうだと言ってくれ (;´Д`)

「ano_ano_ano」さんのつぶやきから:

http://twitter.com/#!/ano_ano_ano/status/162972544088031232

>朝生みたいな討論番組を見るといつも思うのが、こうした何の役にも立たない不毛な議論とは別のところにテレビには出ない地味な専門家がいて、考え、計画を立て、実行に移してくれているに違いないということ。そうだよな?そうだと言ってくれ (;´Д`)

そうです。少なくとも、

「テレビには出ない地味な専門家がいて、考え、計画を立て、実行に移」そうとしていることは確かです。

でもねえ、やたらにテレビに出てきて「こうした何の役にも立たない不毛な議論」を撒き散らしている手合いと、そういうのに熱狂する人々が優勢で、大衆民主主義というのは、そっちの方が偉いという社会なんですよね。

(という私も今度テレビ(2月1日のNHK「視点・論点」)に出るので、これはブーメランですが(笑))

自分とは関係のない「国」が悪い・・・

「猪飼周平の細々と間違いを直すブログ」に、「原発震災に対する支援とは何か―福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理」という大変長い文章が載っています。

http://ikai-hosoboso.blogspot.com/2012/01/10.html

猪飼さんが「昨年7月以来細々と関わってきた原発震災に対する支援活動に関して自分なりに現状を整理しようとしたもの」で、大変興味深い指摘がたくさんあるのですが、その中で、より一般的な、というか、今日の政治の根っこにある課題に関わる重要な指摘があります。

>私の理解では、問題は2点である。1つは、国民が総じて福島の人びとの被曝に対して冷淡であるということである。財源が調達できないということは、結局のところ福島の人びとに対して十分な税金が投入されるということについて、国民的合意ができないということである。原発震災の責任が国にあるということは、国民全体が責任を負うということに他ならない。だが、このような意識は日本人には総じて希薄であり、自分とは関係のない「国」が悪いと思っているようにみえる。除染の責任を取るのも、自分ではない「国」であって、自分は関係ないと思っているようにみえる。そして、このような国民の態度は、結局のところ国が除染のための財源を確保することを不可能にしてしまう。

もう1つの問題は、現在の民主党政権に、福島の人びとに冷淡な態度を取る国民に責任を取ることを呼びかけるだけのリーダーシップが欠けているということである。国の取るべき立場は2正面的なものである。一方では、原発震災の責任者として福島の人びとに対して謝罪し、償いを約束しなければならないが、他方では、その究極的責任が国民にあるということを国民に納得させなければならない。残念ながら、そのような芸当をすることは非常に難しいことであるように思われる。

考えてみれば、現下の課題の税と社会保障の問題にしても、突き詰めれば、「自分とは関係のない「国」が悪い」という国民の意識を正すどころか、むしろそれを煽り立ててきた無責任な政治言説の行き着くところの果てであるように思われます。

「自分とは関係のない「国」が悪い」と煽り立ててきた張本人が、いざ自分自身がその「国」の立場に立ってしまって、「責任が国にあるということは、国民全体が責任を負うということに他ならない」という、本来ごくごくまっとうなことを言い出したら、今度は攻守ところを代えて、新たな無責任勢力から「自分とは関係のない「国」が悪い」と攻撃されて言葉を失っている姿・・・。

さて、この永遠回帰の無間地獄からどうやって抜け出しますかね・・・。

中町誠編『裁判例にみる 企業のセクハラ・パワハラ対応の手引』

41ulttk2yll__sl500_aa300_中町誠・中井智子編『裁判例にみる 企業のセクハラ・パワハラ対応の手引』(新日本法規)をお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.sn-hoki.co.jp/shop/product/book/detail_50766_5_0.html?hb=1

執筆は中町さんを中心とする若手の弁護士の方々です。

細かい目次が版元のHPに載っているので、以下それをコピペしますが、

■第1章 セクシャルハラスメント

第1 総 論
第2 セクシャルハラスメントに対する会社の調査
1 会社の調査体制
○病院に勤務する女性看護師らが、上司である男性看護師からセクハラを受けたとして、同病院の経営者に対応を求めた事案において、病院の職場環境配慮義務違反が認められた事例
○被告会社の研修期間中、指定された宿泊先で女性従業員が被告会社店長から、胸を触られるなどのセクハラを受けた事案において、被告会社につき、使用者責任は認めたが、就業環境に配慮し公平な立場で苦情を処理すべき義務に違反したとは認められないとした事例
○女性従業員が男性従業員から性的言動、接触行為を受けたセクハラについて、会社がセクハラ防止のための適切な措置を講じていればセクハラは生じなかったとして、会社に不法行為責任が認められた事例
2 会社の調査方法
○セクハラ行為を受けていることを相談した上司から強制わいせつ行為を受けたとして上司の不法行為を認定した事例
○セクハラの被害者である市の女性職員からの被害相談に対するセクハラ相談窓口の担当課長の対応について、違法があったとして、市に対する国家賠償請求が認められた事例
○セクハラ申立てに対する使用者の対応が二次セクハラには該当しないとされた事例
○会社が従業員のセクハラに関する相談を受けて実施した調査に関する事情聴取書、本社への調査報告書その他の調査資料は、専ら会社の内部の利用に供する目的で作成され、外部に開示することが予定されていないとして、会社の文書提出義務を否定した事例
○セクハラの存否が不明であるため、セクハラがあったと認められず、したがって、セクハラに対する是正措置を講じなかったことについての慰謝料の請求は理由がないとされた事例

第3 セクシャルハラスメントの認定方法
1 肯定事例
(1) 事実関係に問題がある事例
○女性従業員(セクハラ被害者)の供述が迫真性にとみ、具体的であることからその信用性が認められ、他方で、セクハラ加害者である会社会長の供述の信用性が否定された事例
○1 記載内容が具体的かつ詳細であったことを理由として、被害者がセクハラ行為について書き留めておいたノート、メモ、便箋の記載内容の信用性が認められた事例
○2 口頭弁論終結期日になって供述内容が変遷した陳述書の信用性が否定された事例
(2) 評価に問題がある事例
○性関係が継続した場合であっても、被害者の合意の存在が否定された事例
○セクハラ行為に対して、抵抗したり、抗議したりしないことは被害者の行動として不自然ではないと判断された事例
○身体的接触はなくとも、性的な発言が、被害者の人格権を侵害し、違法であると認められた事例
○被害者本人の供述に加え、外形的事実を考慮して、被害者の合意があったとはいえないと判断された事例
○軽微と思われる個々の行為が、積み重なって全体として不法行為に該当するとされた事例
○上司の部下に対する性的な内容を含む誹謗中傷する発言が、部下の名誉感情、人格権を侵害し、違法であると認められた事例
○上司が部下に対して性的目的を有さず、肉体的接触を行ったとしても、不法行為に該当するとされた事例
○大学助教授と非常勤講師との性交渉が、非常勤講師の意に沿わないものとは認められたものの、強姦とまでは認められなかった事例
○上司の部下に対する各発言が、部下の性的な行動を非難したものであり、受忍限度を超えた違法なものであるとされた事例
2 否定事例
(1) 事実関係に問題がある事例
○休日出勤の際のセクハラの申告に対し、申告者が当日タイムカードを打刻しておらず、出勤の事実が認められないなどとしてセクハラの存在を否認し、セクハラ行為の主張が被申告者の名誉感情を害したとして、慰謝料の支払が命じられた事例
○会社代表者によるセクハラに関する申告は、従業員が代表者に対し好意を示していたことからすると不自然であり、上司によるセクハラ発言に対する申告も、発言がなされたとする状況の当事者の位置関係や時間経過に照らし当該発言がなされたとは考えにくい、といずれも否定した事例
○同僚によるセクハラの主張について、申告者が行為者とされる従業員を疎ましく思い、辞めさせようとしていたことが明らかな状況で、行為後約半年以上してから被害を申告したのは納得し難いなどの理由で、セクハラの存在を否定した事例
○セクハラの被害を記録した日記は信用できないとして、セクハラを否定した事例
○宿泊施設で開催された小学校の謝恩会に出席した校長が、宿泊客にセクハラを行ったとの主張について、セクハラ及び使用者責任を否定した事例
○セクハラ訴訟で勝訴した被告が、セクハラ訴訟の原告に、虚偽の訴えの提起による損害の賠償を請求し、請求の一部の支払が命じられた事例
○セクハラの申告内容の具体性などから意図的な捏造とは考えにくいが、容易には信用し難いとセクハラの事実を否定した事例
(2) 評価に問題がある事例
○宴席への参加の誘いは強引であったが、セクハラとはいえないとした事例
○会社代表者の酒席の言動がセクハラに該当しないとした事例
○男性が独身と偽って交際をしたことは非難すべきだが、セクハラではなく、女性がセクハラに基づく損害賠償を求める文書を使用者に送ったのは、名誉棄損であるとした事例
○勤務先代表者は性的関係を結ぶに当たり職務上の地位を利用しておらず、原告の性的自己決定権の侵害はないとした事例
○妻が夫の不倫相手に慰謝料を請求したところ、不倫相手がセクハラによる自由意思に基づかない関係であるため責任はないと争ったが、セクハラではなく慰謝料を支払う義務があるとした事例
○上司による好意を示すメールの送付や食事同伴を条件とする経済的支援は外形的にはセクハラであっても、経済的支援を得ることを優先して応じていたため、違法性を否定した事例
○セクハラは認められたが、謝罪して宥恕され、人事異動処分を受けた後に、被害者がセクハラを理由として損害賠償を請求したが、認められなかった事例

第4 セクシャルハラスメントに対する会社の措置
1 懲 戒
(1) 否定事例
○セクハラ行為の態様も考慮の上、これまで特段の懲戒処分を行っていないにもかかわらず、突如として行った減給処分が、裁量を逸脱したものであるとして処分の取消しが認められた事例
○普段からセクハラ言動はあったものの、特段の指導や注意を行っていなかった従業員に対し、社員旅行の宴会席上でのセクハラ行為を契機として行った懲戒解雇処分が権利濫用として無効とされた事例
○セクハラ行為の相手方、発言内容、時期等が特定されておらず、加害者に対し弁明・防御の機会が付与されていたとはいえないとして、懲戒免職処分が認められなかった事例
(2) 肯定事例
○部下の女性従業員らに対するセクハラを理由としてなされた普通解雇が有効とされた事例
○セクハラ行為を行った管理職に対する懲戒解雇について、一応の弁明の機会も付与されており有効と判断された事例
○セクハラを理由とする訓告処分が適法と認められた事例
○セクハラ行為等を理由とする諭旨解雇が適法とされた事例
○セクハラ行為の有無を確かめるための面談において行われた退職勧奨が違法とはいえないとされた事例
2 配 転
○セクハラの被害を受けたと主張する者に対する配転命令が有効とされた事例
3 解 雇
○セクハラ被害を受けたとの主張をした従業員に対し、主張を根拠付ける事実はなく、かえって職場の和を乱したとしてなされた普通解雇が相当と認められた事例
4 会社措置のミス
○セクハラについて当事者から事情聴取を行わないなど十分な調査を行わず、職場環境を調整すべき義務を怠り、適切な措置をとらなかったとして損害賠償責任が認められた事例
○セクハラ行為と自主退職の間に因果関係が認められ使用者の損害賠償責任が認められた事例
○セクハラ被害者である従業員に対し降格処分を行い、最終的に退職にまで追い込んだことについて、会社の責任が認められた事例
○財団法人の総務部長が、常務理事のパワハラ・セクハラ的言動を告発する報告書を理事長に提出したことなどを理由とする懲戒解雇が無効とされた事例
○セクハラ被害を受けた女性に対する上司の事後の対応が違法であるとして損害賠償責任が認められた事例

第5 セクシャルハラスメントに伴う会社が負う責任
1 責任の主体
○親会社から子会社へ出向している従業員のセクハラにつき、出向先の使用者責任は認めたが、出向元の使用者責任は否定した事例
○派遣従業員に対する派遣先会社の従業員によるセクハラにつき職場環境配慮義務違反は否定したが、解雇は不当だとして、派遣元会社の不法行為を一部認めた事例
○会社の代表者の作為義務違反につき会社法350条により会社の責任が認められた事例
2 事業性の問題
○終業後、職場外の飲み会の二次会における上司の部下に対するわいせつ行為に業務執行性を認めた事例
○外国法人の東京支店の支店長が、支店に勤務する女性従業員に対し、終業後、自宅に呼び寄せ強姦した行為等につき、外国法人に使用者責任が認められた事例
○勤務日以外に勤務先で仕事をしていた部下を上司が会長室に呼び出し行った性的行為、勤務時間終了後に仕事をしていた部下を上司が職場の応接室に呼び出して行った性的行為の事業執行性を認めたが、上司が部下の自宅へ夕食を取りに行った際の性的行為については事業執行性を否定した事例
○三次会からの帰る際のタクシー内で行われた上司の部下に対するセクハラ行為につき使用者責任の成立を認めた事例
○上司が部下に対し、勤務時間後に定期的に開催されていた食事会等で行ったセクハラ行為につき事業執行性が認められるとした事例
3 責任の増大
(1) 過失相殺
○被害者において性交渉を求めていると誤解するような言動があった場合に過失相殺を認めた事例
(2) 素因減額
○もともと内向的で神経過敏な気質を有していることや、セクハラ行為を受けた以降にストレスを生ずる様々な要因が重なったことから、セクハラ行為によるうつ病の発症につき民法722条2項の類推適用が認められた事例
(3) 因果関係
○継続したセクハラ行為及びこれに対する会社の対応との間に相当因果関係が認められた事例
○各セクハラ行為につき基本的には不法行為の成立を認めたものの、うつ病を罹患し、退職を余儀なくされたこととの間の因果関係を否定した事例
○比較的軽微なセクハラ行為と退職に至ったこととの間に相当因果関係が認められないとした事例
4 免責の有無
○上司らの宴席でのセクハラ行為につき、使用者の事後対応から配慮義務違反がないとされた事例


■第2章 パワーハラスメント・モラルハラスメント

第1 総 論
第2 パワーハラスメント・モラルハラスメントの原因
1 上司の立場を利用した問題行動・問題発言
○他の従業員の面前で、名指しで元上司の横領事件に関与した旨発言された行為について、不法行為が成立するとされた事例
○勤務時間外に庁舎外でなされたビラ配布活動に対する、管理職らの中止命令や侮辱的言辞などが問題となった事案について、不相当な態様での注意・指導の違法性が阻却されるものではないとして、国に対して損害賠償を命じた原審を維持した事例
○長時間の過重労働によりうつ病に罹患し自殺したとして、会社に対し安全配慮義務違反に基づいて請求した損害賠償請求が棄却された事例
○上司からいじめや退職強要を受けた上、理由無く退職させられたこと、及び不要な商品を売りつけられたことなどを理由とする、会社や上司に対する不法行為に基づく損害賠償請求が認められた事例
○長時間労働に従事していた従業員が、就業後に上司らと飲食した後、交通事故で死亡した件について、会社は交通事故には責任はないが、違法な時間外労働及び上司によるパワハラについては安全配慮義務に違反し、不法行為が成立するとされた事例
○契約社員であった原告が、業務について満足な指導を受けることができていないことを知り得る状況にありながら、部長らが会議の席上で厳しく仕事ぶりを揶揄するなどしたことは不法行為を構成し、被告会社には、従業員が業務について十分な指導を受けた上で就労できるよう職場環境を保つ労働契約上の付随義務違反が認められるなどとした判断した事例
○C型慢性肝炎に罹患して長期治療を継続していた従業員に対し、転勤後の職場の上司が、転勤直後の入院治療を非難したり、長期のインターフェロン治療を要することにつき退職を示唆したりした言動が、当該従業員のうつ病発症の要因となったとして会社の安全配慮義務違反が認められた事例
2 本人の態度・対応にきっかけがある場合
○上司による暴行や、労災申請手続の担当者の暴言について、それにより妄想性障害を発症したとして不法行為の成立を認めた事例
○人事課長が大きな声を出し、従業員の人間性を否定するかのような表現を用いて叱責したことについて、当該従業員に対する不法行為が成立するとされた事例
3 労働組合・一定の思想を背景とする嫌がらせ
○従業員が共産党員又はその同調者であることを理由として、監視や尾行をしたり、ロッカーを無断で開けて私物を撮影したりする行為を不法行為と認めた原審の判断が相当とされた事例
○職員会議での非難・糾弾による心因反応発症につき、当該職員会議での行為が不法行為に該当し、また、かかる行為が法人の事業の執行についてなされたものであるとして、法人の使用者責任が認められた事例

第3 パワーハラスメント・モラルハラスメントの行為態様
1 いじめの事例
○職員の自殺は、上司らによるいじめが原因であるとして、両親からの損害賠償請求が認められた事例
2 指導かパワハラか
○業務中の過誤について反省書の提出を求めるなどの指導が、部下に対する指導監督権の行使として裁量権を逸脱して違法であるとされた事例
○侮辱的言辞の含まれた職場内でのメールの一斉送信が、不法行為には該当する一方で、パワハラの意図までは認められないとされた事例
○医療情報担当者(MR)の自殺が、会社の業務に起因するものであると認められた事例
○社員のうつ病発症ないしこれに基づく焼身自殺について、業務起因性を認めた事例
○従業員の喫煙や電話応対に対する注意が、上司による嫌がらせではないと認定された事例
○海上自衛隊員の護衛艦乗船中の自殺が、上官の指導により心理的負荷を過度に蓄積させたことが原因であるとして、国の安全配慮義務違反等の責任が認められた事例
○パワハラによりPTSDに罹患したとする従業員の主張につき、パワハラの定義を示した上で、パワハラの事実は認められないとした事例
○上司からの指導の必要性を認めつつ、悪感情をぶつけ、退職を迫る指導が不法行為に該当するとされた事例
○長時間労働により疲弊している従業員が厳しい叱責を受けて自殺した点につき、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求が認められた事例
○上司が部下の不正経理の解消等について相当程度の指導・叱責をしても、それが社会通念上許容される範囲内であれば、不法行為には該当しないとされた事例
○病院の健康管理室に勤務する職員に対するミスの指摘等が、パワハラには当たらないとされた事例
○上司が命令口調で職務命令を出したとしても、パワハラではないとされた事例
3 嫌がらせ配転
○適当な配転先を検討する間、一時的にある部署へ配転し、その後、別の部署へ配転した一連の配転行為を適法とした事例
○元管理職であった従業員を退職に追いやる目的でなされた受付業務への配転について、会社の不法行為責任が肯定された事例
○退職勧奨を拒否した従業員に対してなされた配転命令が人事権の濫用に当たるとして無効とされた事例
○降格を伴う配転が人事権の濫用により無効とされた事例
○専門職の中途採用者に対する配転命令が無効とされた事例
4 退職勧奨
○支店従業員による仕事差別、嫌がらせ、暴力行為等につき、行為者ないし他の職員との共謀を肯定し、違法性を認めた事例
○多数回、長時間にわたる面談、従業員の人格を非難する言動を伴う退職勧奨につき、社会通念上許容される範囲を超えるものとして、会社の不法行為責任が肯定された事例
○従業員に対して多数回にわたって退職勧奨を行い、担当業務から外して出勤しても何もやることがない状況に置き、しまいには会社への立入りさえ拒否したという会社の対応につき、会社の不法行為責任が肯定された事例
○上司等の部下に対する複数回の退職勧奨行為等について、個別的にその違法性を判断し、一部について違法性を否定した事例
5 内部告発
○内部告発者に対して行われた不利益取扱いについて、会社の損害賠償責任が肯定された事例
6 その他の行為態様
(1) 暴力まで至った事例
○派遣元従業員らによる派遣労働者に対する暴行等につき、派遣先の使用者責任・安全配慮義務が否定された事例
(2) 「仕事を干す」という態様
○10年以上にわたる仕事外し、職員室内隔離、別室への隔離及び自宅研修が違法とされた事例
○配転を拒否した女性社員に対する仕事の取上げ及び嫌がらせが違法とされた事例
(3) 態様が悪い事例
○糾問的な事情聴取を受けた従業員がうつ病に罹患し自殺した事案について、業務起因性が肯定された事例

もちろんどれも裁判例なのですが、中には「労判」とか「労経速」とか「判タ」といった掲載雑誌名がない裁判例が結構あります。

ということは、これらは本邦初公開の裁判例かも。執筆担当者が担当した事件とかでしょうか。

たとえば、事例82のパワハラ事件。「上司からの指導の必要性を認めつつ、悪感情をぶつけ、退職を迫る指導が不法行為に該当するとされた事例」ですが、上司の発言がなかなか・・。

>「一回ダメだと思ったらダメなんだよ、私。前にも言ったと思うけど」

「もうあんた要らないよ」

「私、いじめるなら私徹底していじめるよ。私。私はジワジワやらないから。はっきり言うから。もう辞めてくれないって」

「もう一緒にやってるとイライライライライライラしてくるのよ」

「医局の方でもいま騒いでいるんだよぉ。あまりにもわからな過ぎるって、3年いて」

「性格直しな」

「私は教え方うまくないから。ほかを歩くのもいいかもしれないよ。就職がなくて、ここに入ったのが善し悪しかも知れない」

そして言われた方が適応障害になり、訴えたようです。

2012年1月27日 (金)

読み忘れられていた拙著が・・・

もう2年半前になる2009年7月に出版された拙著『新しい労働社会』(岩波新書)が、その時に社労士の小塚真弥さんによって買われたのですが、読まれないまま2年半が過ぎ・・・

http://blog.goo.ne.jp/officekozuka/e/c74038d982597e5f62a8faba8d745818(読み忘れ)

>3年前の夏に購入していたようだ・・・。
なぜ読み忘れていたのだろう。

読み忘れられていた拙著を、何かのきっかけで見つけられたようで、

>昨今の雇用問題について、皮相な議論ではなく、歴史的経緯や諸外国の状況に言及ししつつ、問題を構造的に解説している。何より現実的な提言が、けれん味なくて素晴らしい。(偉そうでスミマセン)

と評していただいております。

現実社会の問題を取り上げて論じた本というのは、数年経つとあっという間に古びることが多いのですが(特に経済評論系)、さいわい拙著については、アクチュアルな本として読んでいただけているようで、有り難いことです。

何より現実的な提言が、けれん味なくて素晴らしい」という評語が、わたくしの思いを見事に言い当てていただいていて、嬉しい限りです。

旧著短評

2009年に出した『新しい労働社会』(岩波新書)に、いまなおこうしてネット上の書評サイトで新たな評がアップされているのは嬉しいことです。「だるい。」さんの短評。

http://book.akahoshitakuya.com/b/4004311942

>新書らしい新書。赤い人たちの「シホンカガー」でもなく、ケーザイな人たちのような他人に思いをはせないでもなく、労働という問題に真っ向から取っ組み合いをしかけてるような本。/現実はクソだと思ってるど、それを認めた上でどうすればマシになっていくかって議論したいよね。前途多難だけど。/カビの生えたクソ授業をするぐらいなら、大学の一般教養でこの本使えればいいのにね。アカデミアでは難しいかな。/あと、作者のブログが面白い。本もブログで知って買った。    

ありがとうございます。ゼミの教材としては、結構使われているようです。

2012年1月26日 (木)

経団連経労委報告から

Bk00000230というわけで、帰りにブックファーストに寄って経労委報告を買ってきました。

わが国企業は、長きにわたる国内事業環境の劣化に加えて、行き過ぎた円高による収益の圧迫、さらに東日本大震災などの影響も相まって、まさにわが国企業は重大な岐路に立たされています。本報告書は、こうした状況下で迎える「2012年春季労使交渉・労使協議」に臨む経営者の指針として、経営と労働に関する考え方をまとめたものです。2012年版は、労使が取り組むべき最大の課題は「企業の存続」であるとし、企業が生き残り、新たな成長の礎を築くための議論を賃金交渉に加えてするべきと、経営側の基本スタンスを打ち出しています。さらに、危機を乗り越えるための人材戦略として、企業理念による求心力の強化や、グローバル経営者候補の育成などの重要性についても言及しています。目前に迫った春季労使交渉・労使協議にぜひお役立てください。

下のエントリの関係で、やはり定昇についての部分を見ておきたいと思います。

下のエントリの要約は、p61-62の「2012年交渉・協議における経営側のスタンス」という節の一部を持ってきたもので、その限りではまさに震災や円高による経営状況悪化に対応した賃下げとしての定昇延期・凍結論なのですが、そして、現実の交渉で経営側が使うのはもっぱらこちらになるだろうと思いますが、その少し前に「定期昇給の負担の重さを労使で共有する」という節があって、こちらはむしろ構造的な定昇見直し論に近い感じになっています。

「近い感じ」と言ったのは、前半は賃金制度の構造論というわけでもないやや意味不明の文章になっているからですが、

>定期昇給に関しては、労務構成が変わらない限り総額人件費は同じであること(定期昇給原資内転論)を根拠として、企業の負担は小さいとする見方がある。しかし、昇給のベースとなる賃金水準が既に競争力を失っている中で、企業環境は激変した。新興国を中心に、コスト競争力を持ちながら高い技術力で市場を席巻する企業も出てきており、労使は定期昇給の負担の重さを十分認識する必要がある。

なんだかよく分からない、というか、分からなくしたような文章ですが、「昇給のベースとなる賃金水準が既に競争力を失っている」という言い方は、定昇があろうがなかろうが、下のエントリのX円というベース賃金自体が高すぎるということのようで、つまり震災や円高といった一時的な話ではなく、絶対水準としての賃下げ論という趣旨のように解されます。とすると、「定期昇給の負担の重さ」じゃなくて、定昇があろうがなかろうが、現在の高すぎる賃金水準の負担の重さを、労働側は認識せよ、という趣旨のように理解できますが、そういうことなんでしょうかね。だとすると、アジア並みに下げようという話になって、そう簡単にそうだねという話にはなりにくいでしょうね。

それに対して、その次のパラグラフはむしろ賃金制度論としての構造転換論をストレートに打ち出しています。

>最近は、技術の進歩・機械化などの影響で仕事のやり方が変わり、高度な仕事に従事する人が増える一方、習熟度合いが付加価値に直結しない状況も生まれている。毎年、誰もが自動的に昇給する定期昇給は、個々人の貢献・能力発揮が見られない場合にも、昇給する文の賃金の積み上げがあるため、仕事・役割・貢献度と適切な賃金水準との間で乖離が生じやすい。個々人が創出する付加価値と、賃金水準との整合性を図ることは、従業員の納得性を高めるばかりでなく、付加価値を有効に使うという意味でも重要である

これはこれで、筋の通った議論の組み立てです。この構造論が、総額人件費を一定に保った上で労働者間での再配分という趣旨であるとすると、これは得する労働者と損する労働者の間のゼロサムゲームに近くなり、組合側としても、ケシカランだけでもいかない面があるでしょう。

とはいえ、実は経団連自身もそういう構造改革論に与しているかというと、それに続くパラグラフではむしろ定昇自体は維持したいという気持ちがにじみ出る文章になっており、

>定期昇給は、安定的な運用が望まれるものの、制度の持続可能性について労使で絶えず確認する必要があり、定期昇給の実施を当然視できなくなっている。

>労使は、企業の置かれている厳しい状況を直視し、必要な対策などを冷静に分析しながら、定期昇給の今日的意義や、そのあり方について多角的に議論することが求められる

このアンビバレンツ感がほとばしる重層的な文章は、経団連の中に構造的定昇見直し論と構造的定昇維持論が共存しており、それゆえアジア諸国だの、震災だの円高だのといった観点を表に出した方が定昇やらない論で一致できるという内部状況を示唆しているのかも知れません。

というわけで、定昇だけでいっぱいしゃぶれる美味しいネタですが、そのほかにも面白いトピックが結構ありますので、改めて。

《主な目次》
第1章 重要な岐路に立つ日本経済
 ○東日本大震災からの復興に向けた労使の取り組み
 ○一段と厳しさを増す経営環境
 ○日本国内での企業活動の維持に向けて
第2章 危機を乗り越えるための人材強化策
 ○グローバル経営に対応した人材戦略
 ○人材の多様化に対応した人材戦略
第3章 今次労使交渉・協議に対する経営側の基本姿勢
 ○「労使パートナーシップ対話」の深化
 ○総額人件費に対する基本的考え方
 ○2012年交渉・協議における経営側のスタンス
 ○企業の実態に合わない労働側主張
 ○人事・賃金制度(昇給ルール)の見直し
 ○労使コミュニケーションの強化
〈労使間で見解が異なる論点に関する経営側の主張〉
〈トピックス〉
 ○中堅・中小企業におけるBCP(事業継続計画)の必要性
 ○国内製造部門の競争力の強化に向けた取り組み
 ○介護休業者の増大への準備
 ○在宅勤務の可能性
 ○職場におけるメンタルヘルス対策の推進

善悪はともかく定期昇給しないことは賃下げであることについて

最近、日本経団連さんが経労委報告を目次しかアップしてくれなくなったので、早いとこ本屋に買いに行かなければならないのですが、経団連タイムスに要約版が乗っているので、とりあえず紹介。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2012/0126/01.html

マスコミで話題になっているところは、

>賃金の決定にあたっては、自社の支払能力に即して判断することが重要である。厳しい経営環境や収益の状況を踏まえれば、恒常的な総額人件費の増大を招くベースアップの実施は論外であり、雇用を優先した真摯な交渉・協議の結果、賃金改善の実施には至らない企業が大多数を占めると見込まれる。

さらに、大震災で被災し甚大な影響を受けた企業や、円高の影響などによって付加価値の下落が著しく定期昇給の負担がとりわけ重い企業では、定期昇給の延期・凍結も含め、厳しい交渉を行わざるを得ない可能性もある

連合が

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/kenkai/2012/20120124_1327389876.html

>また、従前からの総額人件費抑制に拘泥し、定期昇給制度といった長年労使で積み上げてきた制度にまで踏み込んだ主張をしている。これは、労働条件の不安定化をもたらし、労使の信頼関係をも揺るがすものであり、断じて認められない

と言ってることもあり、マスコミもそこが焦点みたいに言ってますが、いささか問題認識が混乱していると思うのは、これは要するに経営状況が厳しいところは賃下げもありうべし、ということであって、それ自体は良いとか悪いとかではなく、まさにありうべきことでしょう。

年功賃金においては、(年齢構成が変わらない限り)定昇を毎年定常的に行うことが総額人件費を一定に維持することなのですから、定昇を止めるということは賃金を下げるということですね。これは労働屋なら誰でも知っていることですが、念のため:

学校型モデルで、労働者が3期就労するとした場合、純粋非年功型であれば第1期、第2期、第3期ともX円支払うところを、年功型では第1期にX-a円、第2期にX円、第3期にX+a円支払います。労働者から見れば3期を通算して1期当たりX円ですし、会社側から見れば、1期生にはX-a円、2期生にはX円、3期生にはX+a円支払うので、ある期に一人当たり支払う額は常に平均X円になります。

今までやってきた定昇をストップするということは、前期X-a円だった2期生にX円ではなくX-a円を、前期X円だった3期生にX+a円ではなくX円支払うことなので、新たに入った1期生にX+a円払うのでない限り、定義上総額人件費の引き下げになります。

いや、もちろん、「大震災で被災し甚大な影響を受けた企業や、円高の影響などによって付加価値の下落が著しく定期昇給の負担がとりわけ重い企業では」そういうことは充分ありうべしだと思います。ただ、それが賃下げであるということははっきりした上で、正直に交渉した方がいいと思います。

年功制を維持したまま定昇をストップすることが総額人件費の引下げという意味で賃下げであるのに対し、賃金制度論としての定昇の廃止というのは、総額人件費を一定に保ちつつ、第1期、第2期、第3期ともX円支払うということであって、そこのところをごっちゃにしてはいけません。

まあ、わざとごっちゃにして人を騙すのが商売の人もいるようですが。

ミタさんは労働者ですよ

http://twitter.com/#!/yamakofu/status/162034715686207490

>ミタさんは阿須田家に直接雇われている形態なので、純粋な「家事使用人」であって、労働者ではないのですね。つまり労働者としての地位も、社会保険もなし…この点でも相当したたかですね~☆

ミタさんはれっきとした労働者ですよ。労働基準法が適用除外されているだけで。

労働基準法が適用除外されているという点だけで言えば、国家公務員と変わりはありません(いや、変わりはありますが)。

適用除外というのは、適用除外規定をわざわざおかなければ、当然適用されるということを所与の前提にしているわけですから、労働者か労働者でないかといえば、それは「阿須田家に直接雇われている」労働者であるわけです。

ちなみに、もともと、雇用契約というのは、こういう家事使用人が原型です。いまの労働者の原型の職工の源流は、むしろ請負契約であって、近代初期にシフトしているのですね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-3967.html(メイドさんの労働法講座)

>さて、メイド喫茶で労働基準法を勉強したよい子の皆さんは、メイド喫茶じゃなくって本来のメイドさんについて労働法がどうなっているのかご存じでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-7eb4.html(ILOがメイドさん条約を審議)

>いやいや、世界的にはメイドさん-家事労働者の労働条件についての関心が高まっているのですよ。

ついでに、これも

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-5cd8.html(同居の親族の労働者性)

周燕飛編『シングルマザーの就業と経済的自立』@JILPT

ChouJILPTの周燕飛さんが中心になってまとめた報告書『シングルマザーの就業と経済的自立』がアップされました。

http://www.jil.go.jp/institute/reports/2012/0140.htm

>日本のシングルマザーにとって、働いても貧困が解消されない、非正規就業者を中心に慢性的貧困に陥りやすいなど、経済的自立には多くの壁がたちはだかっている。

こうした状況を踏まえ、本報告書は、アンケート調査の二次分析を中心に、母子世帯の経済的自立状況とその必要条件について総合的に検討している。

執筆しているのは、

周 燕飛 JILPT 副主任研究員
マッケンジー・コリン 慶應義塾大学経済学部教授
馬 欣欣 JILPTアシスタントフェロー
大石 亜希子 千葉大学法経学部教授
阿部 彩 国立社会保障・人口問題研究所部長

という面子です。テーマのシングルマザー自体、労働よりも厚生系のテーマですし、社人研の阿部彩さんが入っているのも、労働と社会保障のクロスオーバーになっていて、これからの研究の一つの方向を示しているのかも知れません。

周さんによる要約として、主な事実発見は:

>経済的自立を果たせたグループと果たせなかったグループとの比較(第2章、第4-5章、第8章)を通じて分かったことは、比較的高い人的資本(短大以上の学歴、社会経験、専門資格等)や身体的資本(年齢の若さ、健康状態等)を持つシングルマザーは、稼働能力が高いため、経済的に自立しやすい。また、同等な稼働能力を持つシングルマザーの場合には、子育て負担の低い母親は経済的に自立しやすい(図表)。したがって、母子世帯の経済的自立を促進するためには、シングルマザーの稼働能力の向上と子育て負担の軽減に向けての支援が必要不可欠である。

では、シングルマザーの稼働能力を向上させるためには、具体的にどのように支援すれば良いのであろうか。本報告書は、職業訓練、専門資格の取得、正規就業のキャリアラダーの構築、ジョブマッチング効率の改善など様々な角度から稼働能力の向上策を論じようとしている(第3章~第9章)。これらの実証研究より、看護師等の専門資格を持つ者や(第3章、第4章、第8章)、就業履歴において正社員就業を継続してきた者(第5章)、国の職業能力開発支援を利用した者(第9章)等は、その比較相手と比べて平均的に高い稼働能力を持っていることが分かった。こうした就業支援を充実・拡大することによって、より多くのシングルマザーが稼働能力を高めて、経済的自立に向けて一歩前進できるものと考えられる。

しかしながら、母親の就業所得の向上に頼って経済的自立を目指すことも、一定の限界がある。例えば、高年齢、低学歴または疾病等の関係で専門資格を目指すような職業訓練を受けることができないシングルマザーが大勢いる。また、多くのシングルマザー(とくに低年齢児の母親)が、子どもとの時間を大切にしたいため、フルタイム・正社員就業をそもそも希望していない(第4章)。さらに、シングルマザーはそうでない女性に比べ、家事時間と睡眠時間が既に少なく、勤労時間が長くなっている(第11章)。

そして、政策的含意としては:

>シングルマザーに必要なのは、「企業戦士型経済的自立」というよりも「ワーク・ライフ・バランス(WLB)型経済的自立」である。

「WLB型経済的自立」を実現するためには、母子世帯の母の稼働能力を高めるような就業支援が今後も必要である。また、離別父親にきっちり養育費を支払ってもらい、国が社会保障(児童扶養手当等)や税金での所得移転を通じて母子世帯に引き続き経済支援を行うことも重要である。離別父親に養育費の追及を強めることや(第10章)、児童扶養手当の減額議論により慎重な姿勢(第2章、第5章)が、いま、行政側に求められているのではなかろうか。

研究者である以上当たり前のはずですが、日本人だとわざと曖昧な言い方をするようなところで、周さんは結構方向性を明確に打ち出すので、すごく分かりやすいのですね。私は大事なことだと思います。

2012年1月25日 (水)

昨日の労働政策フォーラム

(既に0時を過ぎているので)昨日の労働政策フォーラム「経営資源としての労使コミュニケーション」には、多くの皆さまにいらしていただき、ありがとうございました。

わたくし自身が事前に予想していたよりも、かなり迫力のある熱っぽいパネルディスカッションになったのではないかと思います。

資生堂労組の赤塚さんの「涙の団体交渉」、ケンウッドグループ労組の恩田さんの「全体最適」、そして山田製作所の山田社長の「社員共育力」。いずれも、聴衆の皆さんの胸に響くものがあったのではないでしょうか。

昨日の記録は、『ビジネス・レーバー・トレンド』の4月号に掲載される予定ですので、昨日聞けなかった皆さまも、その際には是非お読みいただければと思います。

2012年1月23日 (月)

明日は労働政策フォーラムです

既に何回かここでも広報してきましたが、明日1月24日、13時半より、浜離宮朝日ホールにて、労働政策フォーラム「経営資源としての労使コミュニケーション」が開催されます。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20120124/info/index.htm

JILPTの呉学殊さんの研究対象となった多くの企業や労働組合から、

労使関係のフロンティア―労働組合の羅針盤 呉 学殊 労働政策研究・研修機構主任研究員

資生堂労働組合の取り組み~イキイキと活力ある職場づくり~ 赤塚 一 資生堂労働組合中央執行委員長

連結経営下、個別最適から全体最適へ~グループでシンフォニーを奏でよう~ 恩田 茂 ケンウッドグループユニオン中央執行委員長

好ましい企業風土づくりは、経営者の経営姿勢の確立からはじまる 山田 茂 株式会社山田製作所代表取締役社長

の3人の労使代表の方が登場し、「信頼関係と良き緊張感のある労使コミュニケーション」の姿を描き出していただきます。司会は不肖わたくしですが。

お申し込みいただいた皆さまは、雪の積もる中ですが、お運びいただきますよう。

バイトみたいにインターン@田奈高校

朝日の夕刊の記事ですが、ネット上にはアップされていないようなので、

>バイトみたいにインターン 神奈川・田奈高校 体験事業を有給に 家計苦しい生徒の就活を支援

>アルバイトのように時給がもらえるインターンシップ--。神奈川県立田奈高校が有給の職業体験事業を始め、注目を集めている。題して「バイターン」。家庭の経済事情で就職活動が思うようにできない生徒を支援するのが目的だ。・・・

>キャリア支援の課題となったのが、生徒の約2割が授業料の減免措置を受けているという家庭の経済状況だった。アルバイトで家計を支える生徒も少なくないため、有給の職業体験を独自に考案。「バイターン」と銘打って今年度から試行的に始めた。賃金を受け取ることで真剣さや達成感を高めることも狙いだ。・・・

田奈高校の試みについては、本ブログでもいままで何回も取り上げてきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-6f0e.html(神奈川県立田奈高校の労働教育)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5e38.html(第4回今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会議事録)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-da89.html(バイトの悩み 学校お助け)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-eb6d.html(『現代の理論』特集記事から)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/blt-5334.html(若者支援とキャリア形成@BLT)

労働局あっせん制度へのささやかな改善提案

『労基旬報』1月25日号に載せた小文です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo120125.html

>筆者はこの3年間、個別労働関係紛争解決促進法に基づく労働局あっせん事案の内容分析を行ってきた。本稿ではそれを踏まえて、個別労働紛争解決システムのあり方について、若干のコメントを述べてみたい。 ・・・

労働市場の変容と教育システム@広田科研報告書

昨年7月に広田照幸さんにお誘いいただいて、科研研究会で喋ったものが、『社会理論・社会構想と教育システム設計』というタイトルの分厚い報告書の一部として送られて参りました。

わたくしの参加したセッションへの金子良事さんのコメント論文も興味深いし、自由投稿論文の窪さんの中卒労働市場のも面白いのですが、ここでは、わたくしの発言部分を載っけておきます。

ミニ・シンポジウム「教育制度・教育政策をめぐって(2)――教育と雇用・福祉」
 
2011年7月3日(日)
 
日本大学文理学部百周年記念館 会議室2
 
○濱口桂一郎(ゲスト)「労働市場の変容と教育システム」
○小玉重夫「教育システムへの期待」
○山口 毅「教育に期待してはいけない」
指定討論者:広田照幸
 
第1報告:濱口桂一郎「労働市場の変容と教育システム」
 
はじめに
 
 普通の人にとって、若い頃は、ものを学ぶのが主な時間の過ごし方で、それを過ぎた大人の時期には、労働が主な時間の過ごし方です。そういう意味で、人間は、引退後はともかく、おおむね教育と労働が一番なじみのあるところです。
 
 教育が人生の前のほうに置かれていて、労働がそのあとに置かれていることからすると、教育は労働の準備であり、労働は教育の成果であるというのが一般的な考え方です。そうすると、教育と労働は、本来、密接な関係にあるはずです。
 
 しかし、現実の日本社会では、少なくとも教育にかかわる政策や学問は、労働の中身にあまり関心がなかったように見えます。逆に、労働にかかわる政策や学問は、教育の外形には非常に関心を持っていますが、教育の中身にはあまり関心を持ってこなかったように見えます。
 
 より正確に言うと、高度成長期が始まった頃までは、まだお互いにそれなりの関心・関与がありました。むしろそのあと、それがだんだん失われていったように見えます。これは、その必要がなくなってきたからそうなっただけですが、とりわけここ数年来、再びその辺が議論されるようになってきました。
 
 その理由として、若者の非正規問題が一番大きなきっかけであったことは間違いありません。ただそれだけなら、その問題だけを解決すればいいという議論もあり得ます。しかし、それをきっかけにして、今まであまり議論されなかったもろもろの問題が、いわば一連のかたちで議論されるようになってきました。
 
1 「教育」と「労働」の密接な無関係
 
 教育と労働がお互いの中身に関心を持たなかったといっても、もちろん、お互いに無関係だったわけではありません。ややひねった言い方ですが、私はこれを「教育と労働の密接な無関係」と呼んでいます。「密接な無関係」というのは意味不明な言葉ですが、当然のことながら教育の世界と労働の世界は非常に密接な関係があります。学校で受けた教育が、卒業後にどういう職業キャリアをたどっていくかに大きな影響を与えるのは事実で、だからこそ「学歴社会だ」とか何だとか言われるわけです。
 
 本田由紀さんが『若者と仕事』(東京大学出版会)を出してから「職業的レリバンス」という言葉が人口に膾炙するようになりましたが、それまでは、そんなことを議論しなくてもいい仕組みになっていたから、世間は関心を払ってこなかったのだと思います。
 
 ここは、企業や職場レベルがなぜそうなってきたかという話だけでも、たっぷりと時間を使って議論ができますが、そこは置いておいて、政策のレベルで言うと、意外に多くの人に認識されていないことですが、かつての日本政府はむしろ職業的レリバンスを重視する政策を掲げていたのです。私の土俵である労働政策の観点からすると、むしろ、教育と労働を中身でつなげるような方向を志向する政策の考え方が中心的でした。
 
 国民所得倍増計画は高校の教科書にも太字で出てきますが、中身を読んだ人はほとんどいないと思います。これを読むと、まさに近代化論に満ちています。近代化論とは、日本はまだ前近代的な社会で、もっと近代化しなければいけないという考え方です。近代化とは、労働市場がもっと流動化し、職種と職業能力に基づいた社会が作られなければいけないということです。国民所得倍増計画には、そのようなことが延々と書いてあります。経済政策も労働政策も基本的にはそういう方向を向いていました。
 
 もっと意外に思われるかも知れませんが、日本の経営団体も、ある時期まではそういうことを一生懸命言っていました。労働関係の人にとっては常識的な話ですが、それ以外の方々にはあまり知られていないと思います。
 
 日経連がこうした近代化論から身を離すのは、むしろ1960年代末期以降です。政府はもう少し遅れて1970年代半ばです。一番大きな契機は石油ショックで、日本的な長期雇用や年功的な賃金制度を前提にして、それを称揚する方向の政策が進んでいきます。
 
 そうすると、教育と労働の関係も、必ずしも教育課程の中身そのものが労働に直接リンクするものである必要はありません。こうして私の言う「労働と教育の密接な無関係」が確立してきたと思います。
 
2 フィクションとしてのジョブ型システム
 
 ここまでは、どちらかというと「そう演じろ」と言われて演じているような議論です。本来ならば、これに対する広田先生の突っ込みがあったうえで、それに対するリプライとして言うべきことかもしれませんが、こういう職業的レリバンス論に対する批判を想定して、それに対する応答的な議論をいくつかお話ししたいと思います。
 
 私は実は、どういうジョブについてどういうスキルを持ってやるかで仕事に人々を割り当て、世の中を成り立たせていくジョブ型社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に割り当て、その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をしていくメンバーシップ型社会の在り方の、どちらかが先験的に正しいとか、間違っているとは考えていません。
 
 ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団の中で人と仕事をうまく割り当てることはできません。
 
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、ある人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間を処遇していくというのは、お互いに納得性があるという意味で、非常にいいよりどころです。
 
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
 
 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろその点です。そこから見ると、日本のように妙な硬直的なよりどころがなく、メンバーとしてお互いによく理解しあっている同じ職場の人たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見て、その中でおのずから、「この人はこういうことができる」というかたちで処遇していくというやり方は、ある意味では実にすばらしいということもできます。
 
 ただし、これは一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがないよその人間との間にそうことができるかというと、できるはずがありません。いきなり見も知らぬ人間がふらりとやってきて、「私はできるから使ってくれ」と言っても、誰も信用できるはずがありません。そんなのを信用した日には、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うに決まっています。だからこそ、何らかのよりどころが必要なのです。
 
 よりどころとして、公的なクオリフィケーションと組織へのメンバーシップのどちらが先験的に正しいというようなことはありません。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、公的なクオリフィケーションでは行き届かない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力を把握し、それに基づく人間の処遇ができていたという面があります。
 
 おそらくここ十数年来の日本で起こった現象は、そういう公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりもより最適な状況を作り得るメンバーシップ型の仕組みの範囲が縮小し、そこからこぼれ落ちる人々が増加してきているということだろうと思います。
 
 ですから、メンバーとして中にいる人にとっては依然としていい仕組みですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、公的なクオリフィケーションでも評価してもらえず、仲間としてじっくり評価してもらうこともできず、と踏んだり蹴ったりになってしまいます。「自分は、メンバーとして中に入れてもらって、ちゃんと見てくれたら、どんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思って、門前で一生懸命わーわーわめいていても、誰も認めてくれません。そういうことが起こったのだと思います。
 
 根本的には、人間はお互いにすべて理解し合うことなどできない生き物です。お互いに理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。
 
 ジョブ型システムというのは、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、まことに硬直的な仕組みですが、そうしたもので身を固めなければ生きていくのが大変な人のためには、そうした仕組みを確立したほうがいいという話を申し上げました。
 
3 「抵抗」について
 
 残りの3分の1の時間で、想定される小玉先生の話に対するコメントをします。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になります。
 
数年前に、若者関係の議論がはやった頃に結構売れたのが、フリーターの赤木智弘さんが書いた本です。その中で、彼は「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がいうには、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分の生活は全然よくならない。こんなのは嫌だ。だからもう左翼は捨てて戦争を望むのだ」というわけで、気持ちはよくわかります。
 
 この文章が最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞の雑誌(『論座』)です。その次の号で、赤木さんにたいして、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。それは「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかりで、こういう反論では赤木さんは絶対に納得しないでしょう。
 
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために戦うという概念がかけらもないことです。そういうのは左翼ではないようなのです。
 
 もう一つ、私はオムニバス講義のある回の講師として、某女子大に話をしに行ったことがあります。日本やヨーロッパの労働問題などいろいろなことを話しましたが、その中で人権擁護法案についても触れ、「こういう中身だけど、いろいろと反対運動があって、いまだに成立していない」という話を、全体の中のごく一部でしました。
 
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に提出するのですが、それを見ていたら、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものが結構きました。
 
 要するに、人権を擁護しようなどとはけしからんことだと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法とか人権運動とか言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちの人権だと思いこんでいる。そういう邪悪な人間を、たたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護法案なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきているのです。
 
 私は、正直言って、なるほどと思いました。オムニバス講義なので、その後その学生に問い返すことはできませんでしたが、もし問い返すことができたら、「あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことは考えたこともなかったのだと思います。
 
 何が言いたいかというと、人権が大事だとか憲法を守れとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉で申し上げますが。
 
 少なくとも終戦直後には、自分たちの権利を守ることが人権の出発点だったはずです。ところが、気が付けば、人権は、自分の人権ではなく他人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権を意味するようになっていた。その中で自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、すっぽりと抜け落ちてしまっているのではないでしょうか。
 
 なぜこのような話をしているかというと、結局、集団的労使関係の問題や労働教育の問題は、そこに淵源するのではないかと思うからです。
 
 私が生まれたのは1958年ですが、この年に労働省から労働教育課がなくなりました。それまでは、労働者あるいは国民一般に対して、労働組合や労働法を教えることが国の政策の一つの柱になっていました。しかし、もう十分にわかったからいいということで廃止されたのです。
 
 職場で働いている人間が自分たちの権利をどう守るかということは、わかっているからもういいということで、それ以来、公的な政策としては半世紀以上なされないままになっています。その代わり、その間にされてきた人権教育は、自分ではないどこか遠くの人の人権を守る話です。それが悪いと言っているわけではありませんが、そういうことだけがずっと教育されてきました。そういう中で育てられて、「人権はそういうものだ」と思いこんだ若者たちから跳ね返ってきた反応の、一つの形が赤木さんの戦争待望論であり、私に猛烈な抗議を書いてきた大学生たちだと思います。
 
だとすると、「権利や人権というのはあなたのことだ。あなたが今いるその場で、自分の権利をどう守るか。そのために、法律も含めたいろいろな仕組みをどう使うか。それが人権擁護ということなのだ。」というところから話を進めないと、政治教育の議論は始まらないのではないでしょうか。
 
 政治とは何かというと、多くの人は、政治とは永田町でやっていること、あるいは地方でも政界という特別な世界でやっていることだと思っています。それは確かにそうで、そういうところでやっているものを追い掛けるのが新聞の政治部の記者なので、仕方がありません。
 
 しかし、機能的に考えると、社会のありとあらゆるところに政治があり、会社の中にも政治があります。企業小説を読むと、まさに政治のはらはらどきどきする世界がたくさん描かれているし、私はよく知りませんが、たぶん、大学の世界も非常に政治に満ち満ちていると思います。
 
 およそ人間が組織を作れば、そこにはありとあらゆる政治があるはずです。どんな小さな職場であっても、そこの管理職や下っ端、そして、その間に挟まれた中間管理職の間には、実に手に汗を握るような政治が日々展開しているはずです。
 
 そういう政治に対してどう適応するか、それが自分に対して何らかの不利益をもたらすならば、それに対してどう対抗するかも含め、それこそが政治を捉えることのはずです。政治にかかわる在り方、生き方を教えるというのは、永田町でやっている政治の話ではなく、むしろ社会のありとあらゆるところで日々行われている政治に対する対し方を教えるということだと思います。
 
 それを労働の話に引き付けると、自分が働いている場で起こるいろいろなトラブル、不満、問題をどううまく解決するかが政治の術です。政治は古代ギリシャ以来、まさに人間社会の技術の方法で、それが集団的労使関係であり、労働教育で問われている課題です。
 
 
(当日配布参考資料)
 
濱口桂一郎「労働の場のエンパワメント」「労使関係から見た労働者の力量形成の課題」日本社会教育学会6月集会発表メモ2010年6月5日。
 
濱口桂一郎「新規学卒者定期採用制の歴史と法理とその動揺」『ニューズレター』第36号。
 
濱口桂一郎「日本型雇用システムと職業訓練』『都市問題』2010年12月号。

旧拙著、なぜか4位に

2009年に刊行した拙著『新しい労働社会』ですが、岩波の編集者の方から教えていただいたところによると、突然岩波新書のベストテンランキングに4位で入ってきたようです。

http://www.iwanami.co.jp/best/index.html

1. シリーズ日本古代史 6 摂関政治 古瀬 奈津子  2 
2. 平成不況の本質 大瀧 雅之  1 
3. 勝海舟と西郷隆盛 松浦 玲  3 
4. 新しい労働社会 濱口 桂一郎  56 
5. 本へのとびら 宮崎 駿  5
 

どうしたんですかね。

2012年1月22日 (日)

500万ビュー

2005年11月に始めた本ブログが、本日ようやく500万ビューに到達しました。

これもひとえに、お読みいただいている読者の皆様のお蔭と、心より感謝申し上げる次第です。

これからも、さらに「労働関係でもっとも中身の濃いブログの一つ」として頑張って参りますので、よろしくお願いいたします。

第85回日本産業衛生学会の案内

今年の5月30日から6月2日にかけて開かれる第85回日本産業衛生学会のプログラムがアップされています。

http://jsoh85.umin.jp/program/

このうち、6月1日(金)の午後には、労働と生活をテーマに基調講演とシンポジウムがあります。

基調講演  
 「労働と生活の新しいかたち –生活保障の再構築へ-」
    宮本太郎(北海道大学法学部教授)

    
メインシンポジウム
 「希望に満ちた労働と生活への構想」
  シンポジスト 水島治郎(千葉大学)
濱口桂一郎(労働政策研究研修機構)
高橋 都(獨協医科大学)
岸 玲子(北海道大学)
杉浦昭子(スギホールディングス)

というわけで、わたくしもシンポジウムに参加いたします。

ベーシックワーク、キャッシュフォーワーク、失業対策事業

少し前の毎日新聞に、宮本太郎さんが「ベーシックワークという構想」という小文を寄せていましたが、

http://mainichi.jp/select/biz/kansoku/news/20120113ddm008070162000c.html

>年頭の夢を語るには目の前の現実はあまりに厳しい。せめて少し大きな構想を論じたい。

 生活保護の受給者が206万人を超えた。条件次第では就労が可能な「その他世帯」も17%に達している。被災地では、巨額の復興資金が投入されているにもかかわらず「震災失業」に起因する生活危機が広がる。

 これまでの政策や制度の限界が露呈しているのだ。いっそのこと生活保護や年金などに代えて、国民全員に一律に現金給付する「ベーシックインカム」を実現しようという議論も出てくる。

 だが、仮に財源の問題をクリアできたとしても、ベーシックインカムで人々が社会に参加しつながりあう条件は確保されるか。むしろすべての成人に一定時間の就労の権利を保障しようとする「ベーシックワーク」とも言うべき考え方に注目するべきではないか。例えば、1996年のローマクラブのリポートでイタリアのエコノミストのジアリーニらが提起した構想である。

 政府と自治体が責任をもって、18歳から78歳までの男女に、地域密着型の事業などで週20時間の就労を保障する。公的扶助の財源の一部をこちらに転用する。最低賃金を守る雇用とし、これに給付付き税額控除などを組み合わせることで、生活可能な所得を実現する。技能やコミュニケーション能力を身につけ一般的就労につなげる「中間的就労」という機能も持たせる。かつての日本の「失業対策事業」は閉じた世界となってしまったが、一般的就労との連携こそが大切だ。

 被災地では、寄付金などで被災者を雇用しながら復興事業を進めるキャッシュフォーワークと呼ばれる試みがある。地域の取り組み次第ではこれは正夢になりうる構想なのだ

これがどこまで「正夢」になるかは、やはりそのベーシックワークが「そこしか生きようのない人じゃない人々の逃げ込む場所」にならないような制度設計が必要ではないかと思います。

キャッシュフォーワークはまだ災害復興時の緊急事業という位置づけがあるので、平時になれば解消するということが担保になりますが、この構想だと、ベーシックワーク以上に働ける人がベーシックワークにとどめるインセンティブを防ぎきれないという感じがします。

これは、失業対策事業を「夢魔」と捉えてしまう実務家的な偏見のゆえと言われればそうかも知れませんが、やはり気になるところです。

「地域密着型の事業などで週20時間の就労を保障」し、「給付付き税額控除などを組み合わせ」、「技能やコミュニケーション能力を身につけ一般的就労につなげる「中間的就労」という機能」を担うというのは、ある部分間違いなく必要な社会的機能ではあるのですが、それをベーシックワークという風に一般化しすぎるのも、ベーシックインカム論と似た危うさがあるのではないか、と感じます。

ほろほろさんの拙著書評

ほろほろさんがブクログで拙著を評していただいています。ブクログとしては異例なかなり長めの書評です。

http://booklog.jp/users/kawasemi112/archives/4532112486

>本書は大学の講義用のテキストとして執筆されたということで、労働問題(及び労働法)の大部分について網羅的に言及されている。なのでそういう意味では非常に教科書的ではあるが、ただ著者がその方面に対して(実務経験も含めて?)非常に強固なバックグラウンドを有しているせいか、この手の本には珍しく読者をぐいぐい引っ張って読ませる本だ。

まあ、日経文庫というわりと確立した学問内容を初心者向けに分かりやすく解説するというスタイルの本が並ぶ中におくと、かなりの程度異色の本であるのは間違いないでしょう。

一見極めて教科書的に書かれているように見えて、そして、書かれている事実そのものは確かに教科書的なレベルの事実が並んでいるのですが、それを解説する視座は、決して教科書的どころか、相当程度に個性的になっていますので。

>本書を読んだ多くの読者に強烈に印象を残しただろう主張は、とにかく日本における労働契約の本質は(特に規模の大きい企業になるほど)メンバーシップ型のそれであるというものである。メンバーシップ型の一つの特徴として、労働契約は(欧米とは異なり)職務の定めのないものであるというのが挙げられる。つまり大雑把に言えば「仕事がなくなってもそう簡単にクビにはしないから、定年までしっかり会社が面倒見るつもりだから、仕事の内容とかそういうものについては基本的には会社の言うことに従ってね」というものだ。僕はこれはわりかし普通のことだと思っていたのだが、これはどうも日本の労働における大きな特徴の一つであるらしい(このメンバーシップという概念は、日本社会の特徴をとらえた言葉として出てくることのある「村社会」「均質」「平等」なんかとも非常に共通点の多い概念であると思う。とにかく「みんな仲良くやろーぜ!」である。僕も嫌いではない)。著者はこのメンバーシップという用語を一つの軸として様々な事象、法解釈なども説明しているため、こちらとしても非常に理解がしやすかった。

また元々欧米(独?)に倣って作られたジョブ型の雇用契約の原則が、(司法が)信義則や種々の法理といった法の一般原則を駆使することで、メンバーシップ型雇用契約の原則に軌道修正されて行く過程(「司法による事実上の立法」)は、純粋に読み物としても面白い。
知識や経験が足らず、まだ理解の追いつかない箇所がいくつもあるが、それも踏まえて何度も読み返すだけの価値がある本なのは間違いないと感じた

純粋に読み物として読んでいただいても、それなりに満足いただける代物にはできあがっていると思っております。

細波水波さんの拙著書評

細波水波さんが拙著を丁寧に評していただいております。

http://yaplog.jp/mizunami/archive/537

>濱口桂一郎ことhamachan先生の日経文庫(でも新書(笑))。ジョブ型雇用とメンバーシップ雇用の分析軸から、日本の雇用をめぐる一切のシステムを説明する、というか日本の雇用の歴史からメンバーシップ型雇用の成り立ちを説明するもの。前の岩波文庫(ママ)より歴史に重点があって、ブログでのhotissueではさすがにここまでの通しの解説は望めないから、知らないことだらけですごく面白かった。労働経済の授業でも、テーラー主義とかフォードシステムとかは聞いたけど、戦前の日本の話なんて女工哀史や蟹工船しか触れたものなかったし。戦後史なんてなおさらで、ゼネスト中止くらい?

知っている話だけでそれなりのストーリーは描けてしまって、しかし蓋を開けると全然違うリアルなストーリーがそこにある。勉強しなくちゃなあ、と思わされると同時に、これがすんなり読めるお買い得な新書だからありがたい。歴史に知識に謙虚でなくてはと思う以前に単純に面白いのです。

「お買い得な新書」というのは、まさにわたくしが目指したところですので、こう言っていただけるのはありがたいです。

>さてメンバーシップ型雇用とジョブ型雇用、ジョブが単なる取引関係だとしたら、労働者保護の源泉はなんだろう。交渉力の格差なんて耳タコですが、それはジョブでもメンバーシップでも同じだと理屈としては分かりますが、今までイメージしてきたその格差是正のためのツールは、単なる取引相手のためのものでない。どっぷり漬かり抜け出し難い、そういう関係を背景にイメージしてきた自分を再読時にしみじみ感じた。exitだけじゃなくてvoiceを取引先(みたいなもの)のために保障しようとする、その理念はなんだろう。

それでも、voiceの方がうまくいけばwin‐winなんだとは思うのだよな。でもそれはまた、結構メンバーシップを前提とした、長期雇用に傾く方策だと思うのでして。

やっぱりいまの自分の実感、この国のこの歴史の上のこの雇用から離れて考えられなくて堂々巡りをしそうになるのでして。これはもう、hamachan先生に国際比較を新書化していただくよりないのでは(専門書読めよ(笑))。考える視点の軸を示してくれる(というか楽しんでいるとついつい染まる)一冊です。

はぁ、今度の企画は「国際比較を新書化」ですか。それは考えてはいるんですが、わたくしの知識がヨーロッパ方面に偏り、全世界的なパースペクティブに欠ける面があるので、いまの時点では自信がないのですね。

>ちなみに、語られる授業レジュメと思って読むのが吉です。現状を皮肉に描写する表現が、著者の出張(ママ)と受け取られないか、老婆心ながら心配です

老婆心ありがとうございます。でも、皮肉って大まじめな顔でやる方が面白いんじゃないでしょうか。

2012年1月21日 (土)

仁平典宏・山下順子編『労働再審5 ケア・協働・アンペイドワーク』

94526仁平典宏・山下順子編『労働再審5 ケア・協働・アンペイドワーク』をお送りいただきました。このシリーズもはや5巻目。6巻目もそろそろ出るそうです。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b94526.html

さて、本巻は

>ケアワーク、ボランティア、コミュニケーション労働……「支払われるべき」労働の境界はどこにあるのか。ケア/再生産をめぐる社会変容、そして3.11以後の日本における「労働」概念の動揺と再編に気鋭の社会学者たちが迫る。

ということで、

序章 揺らぐ「労働」の輪郭―賃労働・アンペイドワーク・ケア労働の再編(仁平典宏)
第1章 原発事故と再生産領域の抑圧―開発の社会的費用(渋谷望)
第2章 家事労働の揺らぎと担い手(服部良子)
第3章 ケア労働の分業と階層性の再編―「関係的ケア」から周辺化される労働(山根純佳)
第4章 「新しい認知症ケア」時代のケア労働―全体的にかつ限定的に(井口高志)
第5章 介護サービス・労働市場の再編とNPO(山下順子)
第6章 労働/ケアの再編と「政治」の位置(田村哲樹)
第7章 雇用社会の変容と疑似自営化―利便性の追求と提供を下支えする働き手の記述を踏まえて(居郷至伸)
第8章 完全従事社会―働き方の多様性(福士正博)

第2章から第6章までが、ケアワークを中心にあれこれ考察している文章ですが、ざっといえば、いままでの市場経済で一人前の「労働」扱いされてこなかったケアワークが公的、市場的、非市場的なルートを経て「労働」化しつつある事態のさまざまな問題を取り上げているというところでしょうか。

仁平さんの序章では、「不払い労働の賃労働化」と「賃労働の不払い化」の二つのベクトルが「労働の再編」の二大柱として示されているのですが、本巻を読んだ印象では前者に強く重点が置かれていて、後者に関わるのは居郷さんのコンビニ論くらいという感じで、若干アンバランスな気もしましたが、そもそもタイトルが「ケア・協働・アンペイドワーク」なのだから、前者が中心なのは不思議でないのでしょうね。

も一つ言うと、コンビニ論は居郷さんのいままでの論文でも扱われていて、これはこれで面白いのですが、それは「賃労働の不払い化」なのかというと、だいぶ違うような気もします。

さらに、もうこれは余計なことなのですが、そもそもアンペイドワークのペイド化ってイメージ自体、産業社会以後の雇用契約を前提にしているように思われますが、産業化以前の社会における雇用契約ってのは主として家庭内の家事労務に従事するサーバントだったわけで、それこそが当時のペイドワークの中心で、産業化後の労働者につながる職人たちはむしろ請負で働いていたわけで、議論の構図自体がもう一回りぐるっと回転しているのじゃないかと思ったりするわけですが。

2012年1月20日 (金)

過労死企業名公表訴訟判決

昨年11月10日の大阪地裁判決(行政文書不開示決定取消請求事件)が最高裁HPにアップされました。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120119151418.pdf

その時の新聞記事で概要を見ておくと、

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111110/trl11111021570008-n1.htm(企業名の開示命じる「不開示情報に当たらず」と大阪地裁)

>社員が過労死認定を受けた企業名を大阪労働局が開示しなかったのは不当として、「全国過労死を考える家族の会」代表、寺西笑子(えみこ)さん(62)=京都市伏見区=が、国に不開示処分の取り消しを求めた行政訴訟の判決が10日、大阪地裁であった。田中健治裁判長は「個人や法人の利益を害する不開示情報には当たらない」として、労働局の決定を取り消した。弁護団によると、過労死認定を受けた企業名の公表を命じる判決は全国で初めて。

 情報公開法で不開示が認められている個人情報や法人の利害情報に、企業名が該当するかどうかが最大の争点だった。

 判決理由で田中裁判長は「企業名だけで、過労死した労働者を特定することはできない」として、個人情報には当たらないと判断。法人の利害情報か否かについて、国側は「企業名が明らかになれば取引先から不利な扱いを受け、人材確保の面でも影響が出る」と主張したが、田中裁判長は「企業評価に直結する情報とはいえず、抽象的なリスクに過ぎない」と退けた。

重要なのは「法人の利害情報」というところなので、そこを判決から引用しますと、

>被告は,本件文書に記載されている事業場名が開示されれば,労働災害を発生させた事実のみから法令違反の事実の有無にかかわらず法令を遵守しない事業場であると認識され,当該事業場に対する社会的評価が低下する旨主張する。

この点につき検討するに,近時,企業における法令遵守が重視され,労働者の職場環境に対する関心の高まりもあいまって,過労死等の労働災害認定を巡る紛争等が報道されることも多く,その中には使用者側に対し批判的な報道がされることも少なくないこと,労働者が過重労働により死亡や発病等した事案では長時間の勤務がその一要因と思われるものも少なくないこと等の事情からすると,ある事業場において過重業務に起因する脳血管疾患及び虚血性心疾患等の発症及びそれに基づく死亡等の労働災害が発生したという事実が明らかになれば,そのこと自体から当該事業場について一定の社会的評価の低下が生じる可能性は否定できない。しかしながら,労働者災害補償保険制度は,業務上の事由又は通勤による労働者の負傷,疾病,障害,死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするため,必要な保険給付を行い,あわせて,業務上の事由又は通勤により負傷し,又は疾病にかかった労働者の社会復帰の促進,当該労働者及びその遺族の援護,労働者の安全及び衛生の確保等を図り,もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とするものであり(労災保険法1条),その支給決定に当たって使用者に労働基準法等の法令違反があったか否かを問題とするものではないから,ある事業場における労働災害に対して労災補償給付の支給決定がされたとの事実が当該事業場において法令違反行為が存在したことを意味するものではなく,当該事実自体は当該事業場に対する社会的評価の低下と直ちに結びつくものとはいえないところであって,当該事実が明らかになることにより一定の社会的評価の低下が生じ得るとしてもそれは多分に推測を含んだ不確かなものにすぎないといえる。さらに,本件で問題となっている脳血管疾患及び虚血性心疾患等そのものは,労働時間等の労働環境以外に年齢,生活習慣等の様々な要因が影響するものとされており,一般的には単純に労働時間の長短や労働環境の影響のみによって発生するものとまで認識されてはいないものと解されるところである。

また,上記説示の諸点に照らせば,仮に労働災害に対して労災補償給付の支給決定がされたという事実により一定の社会的評価の低下が生じたとしても,そのことが直ちに当該事業場が取引先からの信用を失い,あるいは,求職者から当該事業場への就職を敬遠されるような事態を招く蓋然性が存するものと認めるに足りる的確な証拠はなく,そのようなおそれはあくまでも抽象的な可能性にすぎないものというべきである。

(3) したがって,本件文書中の事業場名は情報公開法5条2号イ所定の不開示情報には当たらず,この点に関する被告の主張は理由がない。

情報公開と社会的評価の低下のリンケージについて、やや否定的な判断をもとにこういう判決になっているわけですが、そして判決文に見られる原告の主張もそうなっているのでそれを受け入れる形でこういう判断になっているわけですが、しかし原告側の本音としては、過労死を発生させたような企業の社会的評価を低下させたい、それによって過労死を発生させるような労働環境をなくしたいということではないかと思われるので、やや本音の議論と法律論とがずれている感がないでもありません。

まあ、その辺をうまく回してこういう判決を勝ち取るのが腕のいい弁護士ということになるのでしょうが。

私としては、むしろ情報公開法時代においては企業名公表が原則で、公表しない方が例外ということが着々と進んでいるという印象を受けました。

話は飛ぶように見えますが、今回法改正予定の高齢法では、65歳継続雇用をしない企業名の公表というのが入っています。実は昔、60歳定年法で企業名公表というのをいれたことがありますが(実は私も担当者でしたが)、その時の感覚では、企業名というのは公表しないのがデフォルトで、公表する方が例外という感じだったので、その例外である企業名公表というのが、まさに「企業の社会的評価を低下させるぞ」という脅しとして使えるということで、制裁規定として設けられたという風に思います。

ところが、情報公開法により公表がデフォルトだとすると、わざわざ個別法で「やらない奴は公表するぞ」と規定することの意味は何なのか?という結構深刻な問題が出てくるように思われます。いや、障害者雇用率ではすでに起こっている問題ですが。

このあたり、統一的な観点からきちんと議論しておく必要性があるのではないでしょうか。

2012年1月19日 (木)

小杉礼子・原ひろみ編著『非正規雇用のキャリア形成』

94914 フリーターやニートといった若年雇用問題については小杉礼子さんが中軸ですが、本書はそのうち副題にもなっている「職業能力評価社会を目指して」という観点からの分析をまとめたもので、とりわけ原さんが非正規労働者への教育訓練機会という観点から、ここ数年もみくちゃにされてきたジョブ・カード制度の効果を分析しています。

かなりの論文は、既にJILPTの報告書等で公表されたものですが、こういう形で一冊にまとめられて通読すると、全体像がすっきりとします。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b94914.html

>近年、非正規雇用者が増大しているものの、彼らのスキル・アップの機会は正規雇用者に比して著しく少ない。本書は、大規模調査によって非正規雇用者のキャリアパスや正社員への転換の現状、能力開発の実態を捉えるとともに、企業内訓練の効果を分析。さらに、正社員への移行支援政策としてのジョブ・カード制度の現状と課題を論じる。

所収論文は次の通りですが、

序章 非正規雇用者のキャリア形成と政策対応[小杉礼子・原ひろみ]
第Ⅰ部 非正規雇用の職業能力開発とキャリア形成の実態
第一章 職業への移行の脱標準化はいかに起こっているのか?[香川めい]
第二章 非正規就業する若者が正社員へ移行する要因は何か――継続期間データを用いた規定要因分析[山本雄三]
第三章 正社員への移行の実態と課題――内部登用の可能性[小杉礼子]
第四章 非正社員の企業内訓練の受講とその効果[原ひろみ]
第Ⅱ部 ジョブ・カード制度の実態
第五章 正社員への移行支援政策としてのジョブ・カード制度の現状と課題[小杉礼子]
第六章 教育訓練と職業能力評価の普及のために――ジョブ・カード制度の有期実習型訓練を事例として[原ひろみ]
終章 非正規雇用者のキャリア形成機会を拡大するために[原ひろみ]

ここでは、原さんの終章から、メッセージ的な文章を。

>・・・こうした現状を受けて、非正規雇用で働く人々のキャリア形成を促進する対策を検討したのが本書である。

どのようにしてキャリアを切り開いていったらよいのかを、一番真剣に考えているのは非正規雇用で働いている本人たちであろう。・・・

>その中の一員としてわれわれがたどり着いた答が、実践的な職業能力開発機会の提供と職業能力が社会的に評価される仕組み、すなわち「職業能力評価制度」の普及である。

>本書では、施行後間もないジョブ・カード制度を一例として取りあげて、導入過程で何が起こったのかを検証した。そこで分かったことは、職業能力評価制度を普及させるには、直接的にも間接的にも多大なコストがかかるということである。その一方で、制度導入の効果も確かなものとして実感されていた。しかし、残念なことに、ここで注目した有期実習型訓練は、「仕分け」を受けての見直し後は、採用企業が減っている。

企業内での能力開発やキャリア形成の仕組みに乗れない人たちが増えている今こそ、そして正社員だからといって必ずしもこのような機会が与えられない人たちも増えている今だからこそ、こうした制度の導入を真剣に議論すべきであり、社会として受け入れる覚悟を決めなければいけない

派遣先たる国の団交応諾義務

判決文そのものはまだないので、新聞報道だけによるコメントになりますが、この判決は論理的には今までの考え方の延長線上であっておかしなことではありませんが、実際にこういうことをやっている多くの国や地方自治体の機関にとっては結構インパクトが大きい可能性があります。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120118/trl12011822140003-n1.htm(刑務所の偽装請負認定、派遣労働者に対する国の団体交渉義務は認める 神戸地裁の国賠訴訟判決)

>神戸刑務所(兵庫県明石市)で管理栄養士として派遣され働いていた明石市の女性(48)が、雇用形態が偽装請負だった上、刑務所に団体交渉を拒否されたとして、所属する労働組合とともに、国に計880万円の国家賠償を求めた訴訟の判決が18日、神戸地裁であった。矢尾和子裁判長は、偽装請負があったと認める一方、女性の請求は退けた。団交拒否については「正当な理由がない」として、労組に対して33万円を支払うよう命じた。

 原告側によると、国の偽装請負を認定し、派遣労働者の労働組合に対する国の団体交渉義務を認める司法判断は初めてという

偽装請負も派遣であり、派遣先は派遣先が決めることについては団交応諾義務を負うというのは最高裁判例で確立していますし、

公務員法によって労働組合法の適用が排除されているのは公務員という身分にある労働者なので、公務員じゃない派遣労働者が労働組合法の適用を受ける=部分的に派遣先たる国・地方自治体に団交を要求できるというのも、理論的に当然です。

とはいえ、管理者側は、なんで身分の安定している公務員とは団交しなくてもいいのに、派遣労働者如きと団交しなくちゃいけないんだ、と思っているんでしょうね。それは、公務員という身分から排除しているから、民間の労働法が適用されるからなんですけど。

(参考)

実は、一昨年、『地方公務員月報』2010年10月号に「地方公務員と労働法」という文章を寄稿しておりまして、その中で、まさにこのことを指摘しております。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chihoukoumuin.html

>これよりもさらに深刻であり得る問題は、地方公共団体に派遣された派遣労働者の労働基本権である。派遣労働者は地方公務員ではないので団体交渉権も争議権も有している。法律上派遣労働者の団交応諾義務について規定した条文は存在しないが、最高裁の判例*11によれば、「雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて右事業主は同条の「使用者」に当たる」。従って、労働者派遣法に基づき派遣先に責任が分配されている事項については、地方公共団体は派遣労働者の加入する労働組合からの団体交渉に応じなければならず、拒否すれば不当労働行為になりうる。また、派遣労働者を大量に使用している職場で彼らが争議行為を行う可能性も考えておく必要がある。

今になって慌てたりしないように、公共部門の管理者諸氏におかれては、改めてこの拙文を読み返していただければ幸いです。

2012年1月18日 (水)

拙著短評+契約期間短縮による雇止めの効力

拙著『日本の雇用と労働法』について、事務屋稼業さんがついったで短評していただいていたことに気づきました。

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/158181419850539008

>濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』読了。日本的雇用の本質を「職務の定めのないメンバーシップ型」とし、法と判例を引きつつその来歴を語る。特定のイデオロギーを喧伝するものではなく、雇用における制度と「世間」の通念のありよう(おもに後者の優越)を明瞭にあぶり出している。好著です。

好意的な書評をいただきありがとうございます。

というだけだと、いつものエゴサーチ結果だけなんですが、この事務屋稼業さんの前後のついったをぱらぱら見ていたら、

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159244986259476481

>派遣切りの話。直属の上司や役員をまじえて討議の結果、ふたりのうちひとりを「切る」ことに。無念。

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159251908102594561

>「こんなときは真っ先に切られる。派遣ってそういうもんだからな」と役員。ちみっとキレて、「当人たちはそんなつもりで働いてるわけじゃないと思いますけどね」と言い返して黙らせた。俺の抵抗なんかこんなもんです。こんなもんですよ。

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159254999929585664

>契約期間を短縮というか圧縮したのですよ。両社および当該派遣社員が書面にて「合意」の上で。そんなもんです。RT : よくわからない。派遣って、期間が決められてる契約。それを途中で切るとは?

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159256632478539777

>6カ月ごとの契約を2カ月ごとに圧縮→3月いっぱいで契約終了ハイサヨウナラ、というだけの簡単なお仕事です。

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159257475755950081

>書面上は契約破棄ではないのですよ。巧妙なことに。単に契約期間を「変更」しただけ、ということになっております。RT : ちなみに、そうした場合は、解除側が補償というか、契約破棄に対するキャンセル料的なものの支払いはあるんでしょうか?

http://twitter.com/#!/jimuyakagyo/status/159259661122543618

そうですね。使えないから切るとかいうわけでは決してないので、あとは派遣会社の担当者に対して、彼のスキルに太鼓判を押しておくとか、僕にできるのはその程度です…

せっかく書評していただいたので、労働法の実務的なことを。

これはけっして「単に契約期間を「変更」しただけ」と言うわけには逝かないように思われます。

これと似たようなケースがアンフィニ事件(東京高決平21.12.21労働判例1000-24)です。

>(1) 疎明資料によれば、平成21年3月ころ、資生堂から相手方に対し、本件工場の勤務時間が変わり、発注額の減少が見込まれる旨の通知がされたこと、そこで、相手方は、従業員との間で既に締結されていた、期間を同年1月1日から1年間とする契約を、期間を2か月とする契約に変更することとしたこと、同年4月9日、相手方の営業所の課長であるIは、藤沢労働基準監督署を訪れ、退職者募集の場合の上積み条件の要否、整理解雇の場合の人選基準、解雇の場合のスケジュール等について相談したことが一応認められ、相手方が解雇の対象者を選定する基準として、入社半年以内の者及び出勤率の低い者から順に20名に満つるまでとしたこと、相手方は同年4月10日ころ、本件工場に勤務する従業員全員を一人づつ順次呼び、契約期間を同月1日から同年5月31日までに変更する契約(本件契約)を締結したこと、同年4月13日及び同月15日に退職希望者の募集がされたこと、同月17日、相手方が抗告人Aら5名を含む22名の従業員に対し、解雇の通知をしたことは前記前提事実のとおりである。

(2) 上記の事実関係によれば、相手方は、資生堂からの受注の減少が続くことを見込み、本件事業所に勤める従業員の約3分の1に当たる20名程度の従業員を削減するため、退職希望者の募集及び整理解雇を行うこととし、整理解雇の対象者が解雇の効力を争っても、当該従業員について雇止めとすることにより同年5月31日には確実に雇用関係を終了させる目的で本件契約を成立させたものと推認することができる。

 これに対し、疎明資料によれば、抗告人らは、相手方が鎌倉工場における就労者の雇用者となった平成18年6月以降、相手方と雇用契約を継続し(多くの者は、それ以前から同工場で就労していた。)、平成21年についても、既に前年の期間を1年間とする契約を更新して、契約期間を同年12月末日までの1年間とする雇用契約を締結していたことが一応認められる。したがって、抗告人らは、その期間の途中で契約期間を短縮する合意をしたからといって、同日までは契約が更新されるものと期待して当然であり、少なくとも、本件契約を締結することにより同年5月31日に雇止めとされることを予期し得なかったことは相手方においても認識していたものと推認されるところ、相手方が本件契約を締結するに当たり、抗告人ら従業員に対し、契約期間の途中にその期間を変更する趣旨を十分に説明したことを認めるに足りる疎明はなく、むしろ、疎明資料によれば、相手方の担当者は、就業時間の変更についての説明に重点を置き、契約期間変更の趣旨については、その質問をした者に対しても、曖昧な返答をするにとどまったことが一応認められる。

 以上の諸点を総合すると、契約期間を同年5月31日までと変更することが、抗告人ら従業員には現実にも著しく不利益となるにもかかわらず、相手方がそのことを抗告人らに告げずに本件契約を成立させたことは、著しく不当であり、相手方が、抗告人らの意思に反して、本件契約後最初の期間満了の日である同年5月31日をもって更新を拒絶し、雇止めとして雇用契約を終了させることは信義則上許されないというべきである。

 なお、疎明資料によれば、抗告人らは、相手方から解雇された後、相手方に対し、有給休暇の買取りを求め、相手方がこれに応じたことが一応認められるが、上記の経緯に照らせば、これをもって雇用契約終了の合意がされたと認めることはできない。

(3) 以上によれば、相手方が抗告人らについて同年5月31日をもって雇止めとすることはできず、抗告人らは同日以降も賃金請求権を失わない。

『生産性新聞』アンケート

『生産性新聞』1月15日号が届きました。毎年恒例の「経済・労働情勢に関するアンケート結果」が載っています。

http://www.jpc-net.jp/paper/index.html

わたくしも「学識者」の末席を汚しておりますので、どういうことを回答したのかをアップしておきます。

>景気見通し  やや悪化する

>日本の課題  ①政治的ポピュリズムからの脱却、②冷静なマクロ的利害調整の体制整備、③職業生活と連携した教育制度の確立

>企業・労組の課題  ①ポピュリズムにつけ込まれない非正規労働者の適切な処遇制度の確立、②グローバル人材とローカル人材それぞれに応じた人事制度、③学校とりわけ大学の教育内容への発言

>春期労使交渉  (1)非正規雇用、(2)企業内、職場内における正規・非正規を通じた構成・公平な処遇の決め方こそが論じられるべき

>今後の日本に必要なこと  ①冷静な大胆さ、②今日の日本の混乱の原因は、とりわけリーダー層が過度に情緒的なポピュリズムに乗りながら、実際の行動は怯懦であることにある

>人生に影響を与えた人や転機となった出来事  欧州連合日本政府代表部に労働アタッシェとして赴任し、労働問題では日本を代表して発言するようになったこと。一気に視野が広がった

連合総研『DIO』267号がアップされました

Dio267 先日、掲載された拙論を紹介した連合総研の機関誌『DIO』267号が、ようやくHPにアップされたので、改めてリンクを張っておきます。

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio267.pdf

特集 就業を通じた参加型社会をめざして

政権交代後の雇用政策 濱口 桂一郎…………… 6

パーソナル・サポート・サービスの運営実状 濱里 正史 …………… 10

知らなければ困る―NPO「職場の権利教育ネットワーク」の活動― 道幸 哲也 …………… 13

わたくしのは既に拙HPにアップしてありますので、ここでは道幸先生の労働法教育に関する文章の最後のパラグラフを:

>NPOが活動を開始して4年が経過した。その間、高校への出前授業、大学生対象のシンポジウム、教師や組合員への研修等を行ってきた。その間に学校でワークルールを教えることの困難さも少しずつ明らかになってきており、課題は多い。

 第一は、権利教育の必要性について社会的意識の高揚・啓発である。具体的には、まず、インターンシップや就職活動にとどまらない労働や働くこと自体についての論議を深めることが不可欠である。その意味では、2009年2月に厚労省から「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会報告書」が発表された意義は大きい。もっとも、社会的反応はほとんどない。世論形成の担い手という点では、教職員組合の役割も重要であるが腰は重い。

 第二は、ワークルール教育内容の精緻化である。これは高度なことを教えることではなく、教育の仕方・スキルの高度化を意味し、そのための研究会の立ち上げや教育モデル・教材の作成が考えられる。実際には、生徒と日常的に接触している受け入れ教師との連携、つまり生徒と教師と外部講師との三面的な授業の試みが有効となろう。はっきり言って「出前授業」的な対応では意味のある教育は不可能である。

 第三は、ワークルールの実現のための仕組みを理論的に研究することも重要である。私は、そのために①法的な知識、②心構え・気合い、③職場でのサポート、④法的な制度、が必要だと考えている。特に、②についての本格的な研究は緊急の課題といえる。

 第四は、権利教育の制度化・義務化の試みである。教育カリキュラムに入れることは無理であっても、進路指導の一環としての一定の義務化はありうる。本来NPOの仕事ではない。

あと、今号で興味深いのは、『日本の職業訓練および職業教育事業のあり方に関する調査研究報告書』の紹介です。

>わが国はいま、労働者の職業能力の育成(以下、「人材育成」と呼ぶ)のあり方を見直さねばならない時にきている。

しかし、わが国の人材育成の基本的な仕組みは、時代や社会の変化に対応できないでいる。変化に対応するには個々の企業に依存せずに、社会全体として人材を効果的に育成するための仕組みを整備することが必要になる。その政策的な方向を明らかにすることが本プロジェクトの研究課題である。

今回は、政府の公共的な組織でもなく民間企業でもなく、両者の間に存在する公的な領域にある訓練実施期間としての中間組織に注目しており、この点が本プロジェクトの最大の特徴である。

この報告書自体は、まだHPにアップされていないようですが、そのうち本体もアップされるでしょう。

2012年1月17日 (火)

厚生労働大臣vs労働基準監督官

9784575237542 昨日紹介した沢村凜『ディーセント・ワーク・ガーディアン』(双葉社)の第6話「明日への光景」は、時の厚生労働大臣が労働基準監督官分限審議会(労基法97条5項)を開いて、主人公の黒鹿労働基準監督署第2方面主任労働基準監督官三村全を罷免しようとするという、いささか非現実的なストーリーですが、近年の政治状況が巧みに織り込まれていたりするところが何とも・・・。

>「悪いが、良くないニュースだ」

職場でと同じ端的な物言いで、次長は早くも三村の希望を砕いた。

「本省に、お前を守る気はなさそうだ。周知のことだが、あの大臣は、就任直後からさまざまな分野で自己流を通そうとして、本省の幹部連中とバトルになっている。立場上の問題だけでなく、長い期間を費やしてきた重要な政策や施策が危うくなっている状態で、今度のことは・・・彼らにとっては些末な問題なんだ。監督官の首一つで大臣に貸しを作って、ほかで譲歩を引き出せるなら、利用させて貰おうというのが、大筋の方針のようだ」

「そうですか」

その方針を責める気にはなれなかった。客観的に考えれば、妥当なものだろう。

「こうなると、うちの労働局だけでどれだけ抵抗できるか。局長はともかく、総務課長や監督課長は闘う姿勢を見せているんだが」

その心情的な援軍は、この事態の前で大きな意味はなさないだろうと思った。・・・

このあたりは、やや刑事ものドラマっぽいですが。

2012年1月16日 (月)

労働法の判例

労働法の判例としてはおおむね妥当なラインというところでしょう。個々のケースの当てはめには議論はあるでしょうが、総体としての枠組みとしては。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120116162214.pdf

>・・・以上によれば,本件職務命令の違反を理由として,第1審原告らのうち過去に同種の行為による懲戒処分等の処分歴のない者に対し戒告処分をした都教委の判断は,社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,上記戒告処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものとして違法であるとはいえないと解するのが相当である。

>・・・そうすると,上記のように過去に入学式の際の服装等に係る職務命令違反による戒告1回の処分歴があることのみを理由に同第1審原告に対する懲戒処分として減給処分を選択した都教委の判断は,減給の期間の長短及び割合の多寡にかかわらず,処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠き,上記減給処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法の評価を免れないと解するのが相当である。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120116143405.pdf

>・・・そうすると,上記のように過去2年度の3回の卒業式等における不起立行為による懲戒処分を受けていることのみを理由に同上告人に対する懲戒処分として停職処分を選択した都教委の判断は,停職期間の長短にかかわらず,処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠き,上記停職処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法の評価を免れないと解するのが相当である。

>・・・そうすると,上記のように同種の問題に関して規律や秩序を害する程度の大きい積極的な妨害行為を非違行為とする複数の懲戒処分を含む懲戒処分5回及び上記内容の文書の配布等を非違行為とする文書訓告2回を受けていたことを踏まえて同上告人に対する懲戒処分において停職処分を選択した都教委の判断は,停職期間(3月)の点を含め,処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,上記停職処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものとして違法であるとはいえないと解するのが相当である。

労働法の判例としては、というのは、もちろん教育公務員といえどもれっきとした労働者であり、上司の業務命令に従う義務はあるとともに、均衡を失した過重な懲戒処分を受けるべきではない、という意味で民間労働者と同じ権利があるという意味です。

会社の従業員が会社の儀式で命じられたのに起立しなかったとしたらどうか、という話なわけで。

ところが、この事件に強い関心を持つような人々であればあるほど、この事件をそういう民間企業労働者と同じ労働者の権利と義務の問題として捉えることに忌避感を持つようなのですね。ある種の人々からすると、この原告たちは天地共に許さざる非国民なのでしょうし、別の種の人々からすると、彼らは悪の帝国と闘う偉大なる英雄なのでしょう。

世の中にはそういう観点からこの問題を捉える視座というものがあり、そういう(対極的ではあるが良く似通った)視座が大好きな方々からすると、教師は聖職であって労働者ではないんでしょうね。

本邦初の労基小説! 沢村凜『ディーセント・ワーク・ガーディアン』

9784575237542 最近は、労働基準監督官を主人公にした漫画もけっこう出てきてますから、労働基準監督官を主人公にした小説があっても不思議ではありません。

「働く人を守るために、必死で働く人間がいる」

という帯の文句通り、「労働基準監督署を舞台に描く熱血エンターテインメント」です。本邦初の労基小説。猟奇小説ではありません。

>「人は、生きるために働いている。だから、仕事で死んではいけないんだ」労働基準監督官である三村は、〈普通に働いて、普通に暮らせる〉社会をめざして、日々奮闘している。行政官としてだけでなく、時に特別司法警察職員として、時に職務を越えた〈謎解き〉に挑みつつ。

小説でありながら、労基署の現場感覚に近いリアルさを感じさせるのは、一つには安全衛生が鍵になるストーリーが多いからかも知れません。中小の建設現場や工場への臨検監督は大部分安全衛生問題なのですから。巻末の参考文献を見ると、けっこうその筋の専門文献を読み込んで書かれているようです。

その参考文献欄の最後に、こういう一文がさりげに・・・。

>このほか、事業仕分けにより平成23年3月末に閉鎖された「あんぜんミュージアム(産業安全技術館)」のビデオコーナーにもお世話になりました

2012年1月15日 (日)

政権交代後の雇用政策@『DIO』

連合総研の機関誌『DIO』2012年1月1日号(267号)の特集「就業を通じた参加型社会をめざして」に、「政権交代後の雇用政策」という小論を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/dio267.html(連合総研のHPになかなかアップされないようなので、わたくしのHPに原稿をアップしておきます)

>2009年8月の総選挙で民主党は空前絶後の大勝利を収め、社会民主党、国民新党とともに連立政権を形成した。民主党は総選挙に「マニフェスト」を提示し、政権交代後はこれに基づいて政策を実行していくと明言していた。
 それから2年半近くが過ぎ、民主党政権は既に内政外交ともに多くの失敗を繰り広げた。ある点ではマニフェスト通りに実行したゆえをもって、ある点ではマニフェスト通り実行しなかったゆえをもって批判されている。それらにはもっともな批判もあればこじつけ気味の批判もある。民主党政権2年半の政治的総括は、しかしながらここでの課題ではない。
 本稿は民主党政権がマニフェストで提示し、その後実現に向けて努力してきた雇用政策上の諸課題について、現在の時点から振り返りつつ、暫定的な認識と評価、そして今後への展望と提言を行おうとするものである。

内容は以下の通りです。

1 労働市場のセーフティネット
2 誰も理解していなかった子ども手当
3 職業訓練への重視と軽視
4 派遣法改正の迷走と非正規労働改革への一歩
5 三者構成原則の動揺と堅持

だから、「サヨクやリベラル」じゃなく、「ソーシャル」の理想なの

一知半解よりももっとずっとよく分かっている、九知八解くらいのレベルの認識なんですが、それを全体の認識枠組みにどう位置づけるかというところで、「イカニモ日本」的な「サヨクやリベラル」認識がデフォルトになってしまっているために、いささか残念な結論めいたものになってしまっているというところでしょうか。

http://ameblo.jp/englandyy/entry-11125681070.html(スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?)

>・・・そして、高負担だが高福祉のスウェーデンを見習えと言う声が強くなっている。まあ、いつの時代もスウェーデンというのはサヨクにとっては憧れの国らしい。では、本当にスウェーデンは安心・安全、人に優しい国なのだろうか?

>・・・スウェーデンでは「働かざるもの食うべからず」の考え方が徹底されている。そして、企業の倒産も解雇も当然のように起こる社会である。ただし、働く意欲のある人(おそらく北欧の人は勤勉であるからそういう人が多いはずだろう)を助けるためには救いの手を惜しまない。そのために、失業したとしても職業訓練などの制度は非常に充実している。また、女性が働くための支援も充実している。

「貧困の罠」に陥ってしまうことや労働市場から阻害されて働くことができなくなることがないように政府は各種の制度を充実させているのである。

まったくその通り。それこそが今日の西欧の左派の考え方であり、「ソーシャル」であり、そういう意味のものとして「スウェーデンは本当に弱者に優しい国」なんです。

そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような人が「スウェーデンは本当に弱者に優しい国か?」などと反語めいた疑問形で問いを発するのでしょう。

この「wasting time?」さんは、一体どちらなのか、よく分からないところがあります。

>・・・サヨクやリベラルが理想として語るスウェーデンという国はどこにも存在しないのかもしれない。

そういうのを「本当に弱者に優しい国」と思えないような「サヨクやリベラル」をデフォルトに考えれば、この最後の捨て台詞めいた言葉は、まさしく「痛いところを突いた」痛烈な皮肉であり、いかにも気の利いた締め言葉ということになるのでしょうね。

「ソーシャル」を知らない「サヨクやリベラル」の小宇宙では、確かに通用する皮肉ではあります。

しかし、「サヨクやリベラル」への皮肉などという井の中の蛙を超えて、どこまで本気で上で自ら書かれた「ソーシャル」の理想を実現すべきと考えているのか、気の利いた皮肉の一つも言えればそれでいいというのでは、いささか残念なところではあります。

(つか、少なくとも近年出た本はどれも、スウェーデンを「サヨクやリベラル」的に褒め讃えているようなものはないように思いますが)

人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから

NEWSポストセブン掲載の作家石田衣良さんのインタビューに、大変いい噛みしめるべき(誰が?)言葉がありました。

http://www.news-postseven.com/archives/20120102_78599.html(石田衣良 日本人は東京電力と社員を憎むのを止めた方がいい)

>・・・現代人は常に不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる。外国ならそれが移民排斥などの民族問題になるんでしょうが、日本の場合は一部韓国や中国に向かっている以外は、今は東京電力や政府に向かっているんじゃないでしょうか。でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから。

正当な批判はすべきなんですが、「会社を潰してしまえ」とか「社員の給料をゼロにしろ」とか、無茶苦茶なことをいう人もいる。

でも簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから。

まことに、ネット上を見れば、「人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしま」ったと覚しき人々が、居丈高な「正論」を振り回す姿が・・・。

そして、その精神構造が政治に持ち込まれると、「憎悪感情を正論として振りかざす政治」が蔓延っていくわけです。

2012年1月14日 (土)

山川隆一『労働紛争処理法』

35521山川隆一著『労働紛争処理法』(弘文堂)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.koubundou.co.jp/books/pages/35521.html

>労働紛争処理システムの全体像をわかりやすく解説するとともに、労働法学において初めて要件事実論に基づく事件処理の手法を具体的に提示した、実務に役立つ基本書。
 労働紛争の解決をめぐる基礎的な視点を示したうえで、企業内の自主的な紛争解決も視野に入れながら労働紛争解決システム全体の現状と課題を指摘した第1部。
 労使トラブル解決のために用いられる主要な制度と手続を、行政上と司法上とに分けて紹介し、そこで生じている論点については、裁判例や学説をふまえ検討した第2部。
 労働紛争をめぐる主要な訴訟類型(解雇と雇止め、賃金・退職金、就業規則の不利益変更、配転・出向、労働時間、懲戒処分、男女雇用平等、労働災害、労働協約、不当労働行為)において問題となる要件事実について取り上げた第3部。
 労働審判法の制定や労働組合法の改正など、この分野における立法の基礎作業にも深くかかわった著者による決定版。

ということですが、全体としては労働問題の民事(行政)訴訟法の教科書という感じの一冊です。

第3部の要件事実論というのは、法曹の方々の議論にはよく出てくるので、こういう風にまとまった形で解説されると勉強になります。

第1部 総論
 第1章 労働紛争の意義と解決
  I 労働紛争の意義
  II 労働紛争の解決
 第2章 労働紛争解決システムの現状と課題
  I わが国における労働紛争解決システム
  II 諸外国における労働紛争解決システム
  III 労働紛争解決システムの課題

第2部 労働紛争の解決制度と解決手続
 第1章 行政による労働紛争の解決
  I 総説
  II 個別労働紛争解決促進制度
  III 労働委員会による紛争解決制度
 第2章 裁判所における労働紛争の解決
  I 総説
  II 通常訴訟手続
  III 労働審判手続
  IV 仮処分手続

第3部 労働法における要件事実
 第1章 労働紛争の解決と要件事実
  I 要件事実論の概要
  II 労働法における要件事実の意義と限界
  III 労働紛争解決システムと要件事実
 第2章 主要な訴訟類型における要件事実
  I 解雇・雇止めをめぐる訴訟
  II 賃金・退職金をめぐる訴訟
  III 就業規則の不利益変更をめぐる訴訟
  IV 配転・出向をめぐる訴訟
  V 労働時間をめぐる訴訟
  VI 懲戒処分をめぐる訴訟
  VII 男女雇用平等をめぐる訴訟
  VIII 労働災害をめぐる訴訟
  IX 労働協約をめぐる訴訟
  X 不当労働行為をめぐる争訟

「成長」は労組のスローガンなんだし

続きですが、欧州労連(ETUC)も、「持続可能な成長なき厳格な財政規律にノー」と言ってます。

http://www.etuc.org/a/9523(New treaty: no to rigid fiscal discipline without sustainable growth)

>The international agreement put in place at the European Council on 9 December 2011 is currently the subject of intense discussion. The objective seems to be to impose even stricter austerity measures without offering any prospects for growth. The European Trade Union Confederation (ETUC) condemns this approach. Fiscal discipline alone, in the absence of recovery and investment measures, is dragging countries into crisis. Employment and social justice are top priority today for millions of Europeans.

・・・その目的は成長へのいかなる見込みも与えずにさらに厳格な規律を課すように見える。欧州労連はこのアプローチを糾弾する。回復と投資の措置を欠いた財政規律のみでは各国を危機に引きずり込むだけである。雇用と社会正義が今日欧州人にとっての最優先課題である。

>The text currently being circulated does not address the challenges created by the crisis. There is a real risk that a new treaty may further strengthen the obligation of member states to adopt fiscal policies that will accentuate rigid economic rules. A fiscal compact must go hand in hand with a social contract for Europe. It must give priority to investments that promote a sustainable economy, quality jobs and social justice, while combating inequalities.

・・・財政協定は欧州のための社会契約とともに進められなければならない。それは持続可能な経済を促進する投資、質の高い仕事、社会正義、そして不平等との戦いに優先順位をおかなければならない

いや、あまりにも当たり前のことではあるのですが、極東に来ると、「成長」論者というのは「質の高い仕事、社会正義、そして不平等との戦い」を敵視する人々であるという社会認識(というか、自己認識)がけっこう広まっているので、頭を抱えたくなるわけです。

「成長」は左派のスローガンなんだが・・・

欧州社会党のメルケル・サルコジ路線に対する批判の文の中にも、

http://www.pes.org/en/politicalinitiative/economy/rescue-plan-for-eurozone(A rescue plan for the eurozone)

>The measures outlined so far in the economic governance package focus mostly on bringing national deficits down, with no regards to growth and jobs. While there is a need to keep national budgets under control, this cannot be the only objective of economic policy. Other than the fact that austerity measures tend to aggravate economic downturns, the EU cannot neglect the need to create jobs and spur growth to tackle the crisis. There should be a policy of investment in key sectors that can create new jobs and pave the way to a sustainable growth.

経済ガバナンスパッケージで示されている措置は、成長と雇用に何の配慮もなく、主に国の財政赤字を減らすことに焦点を当てている。国の財政をコントロールの下に置く必要はあるが、これは経済政策の唯一の目的ではあり得ない。緊縮措置が景気後退を悪化させるという事実だけではなく、EUは危機に取り組むために雇用を創出し成長を促進する必要があるということを無視している。新たな雇用を創出し持続可能な成長への道を切り開く鍵となる分野への投資の政策があるべきだ。

いうまでもなく、ヨーロッパでは、これが左派の代表的な発想なのであって、それがねじれている日本は、さて誰に責任があるのでしょうかね。

http://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/30072767.html(まあ賛成なんですよ )

>結局のところ、「経済成長」という言葉を出来る限り使わないで、みんな生活が今より楽になるという話を具体的にしてほしいわけです。そういう話をちゃんとすれば、反成長論なんて一部の文化左翼以外にきれいさっぱりいなくなると思いますけど、 「経済成長」をマジックワードで振り回している人が竹中氏や橋下市長に好意的なまなざしを向けているうちは、まあダメでしょうね。

http://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/30061056.html(さすがにもうやめないと )

>あの周辺の人たちは、それ自体根拠のありそうな「誤解」については大激怒するのに、リフレ政策に賛成していないあらゆる人を反成長論者呼ばわりという、誤解以前のレッテル張り。だから、「経済成長を語る人が割とろくでもない」ので、経済成長って言いたくないんですよ。

2012年1月13日 (金)

地方公務員労働関係法案の提出へ

毎日の記事ですが、

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20120112k0000m010097000c.html

>政府は11日、地方公務員の給与を労使交渉で決められるようにする地方公務員制度改革関連法案を次期通常国会に提出する方針を固めた。国家公務員に関しても同様の法案を提出し継続審議となっているが、自民、公明両党の反対で成立のめどが立たず、地方公務員の法案を提出しても成立は難しい情勢だ。

 それでも政府が法案を提出するのは、11年度の国家公務員給与を平均0.23%削減する人事院勧告(人勧)実施に連合の理解を得るためだ。・・・

>連合傘下の自治労幹部は「地方公務員に労使交渉を認める法案の提出は高く評価するが、成立する保証はない。人勧実施を容認するのとは別の問題だ」と述べた。

政局の中で妙にねじれてしまった公務員労働法制の問題ですが、国がやるなら地方もやるのは当たり前ではあります。

先日も書いたように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-4120.html(コメント欄)

>わたし自身は、公共部門の労働組合運動に対しては、民間よりもメンバーシップ型の強い枠組みに安住しながら、(なまじ団交権や争議権を制約されているために)政治的に急進的な態度をとることが労働組合らしいと思いこんで、自分たちの成果につながらないような不毛な運動を繰り返してきた面があるとかなり低く評価しているのですが・・・

労働条件の交渉という労働組合の本来機能を縛り上げてできなくしてしまったために、却ってそれ以外の政治的行動に向かいがちだったとすれば、むしろ正しい意味での「民間ガー」に沿った方向に向かう一歩になるのかも知れません。

ネット上のヘイトスピーカー諸氏は別にして、橋下市長自身、こういう風に言われているようですし。

>純粋に労使交渉だけをやる組合であれば納得できるが、政治活動に公金を投入するのは市民が納得しない。公の施設から出て活動してほしい

現行法上、非現業公務員には「純粋に労使交渉だけをやる組合」を結成する権利はないということは、もちろん理解された上でしょうし。

このあたり、妙な政治がらみの思惑でなしに筋の通った議論を期待したいところです。

2012年1月12日 (木)

未来を創るのは若者たち@『情報労連REPORT』1・2月号

2012_0102『情報労連REPORT』1・2月号がアップされました。

http://www.joho.or.jp/up_report/2012/01/(電子ブックを開く仕様です)

「未来を創るのは若者たち」という特集の冒頭は、情報労連の加藤委員長と本田由紀さんの対談「未来を創る若者たちのために私たちが社会を変えていく」。

>本田 専門性の高い正社員のお話で言えば、情報産業は比較的ジョブを切り出しやすい分野だと思います。ですから、企業を超えて職務に応じた標準的な職務の処遇の目安を定めてもらいたい。

>加藤 情報産業の技術者の抱える問題は、労働の価値が質ではなく、何人でどれだけの時間が掛かったかという単純なものさしで判断されていることにあります。だから労働時間が延び、深夜労働も増えるのです。そんな職場に魅力があるでしょうか。

>本田 最近よく言われるブラック企業の代表がSE系の企業です。

特集記事は、アメリカの反格差デモから、雨宮処凜さんのインタビューなどいろいろ。

わたくしの連載は、「働く人のメンタルに企業はどこまで関与できるのか」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororen1201.html


人を呪わばアナ恐ろしや

内田樹氏が、現代は呪いの時代だと言っておられるようです。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694(内田樹「呪いの時代に」)

>現代日本社会は「呪い」の言葉が巷間に溢れ返っています。さまざまなメディアで、攻撃的な言葉が節度なく吐き散らされている。

いやまあ、わたくしもそう思いますよ。

変なイナゴさんにはひどい目にあったし。

最近も、お気に入りブログのコメ欄に、かなり逝ってる人々が出没して、呪いの言葉を吐き散らかしていますしね。

そういえば、内田氏自身も呪う方でした・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html(「就活に喝」という内田樹に喝)

>神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。

2012年1月11日 (水)

いくつかの拙著評

読書メーターとブクログで、拙著『日本の雇用と労働法』への短評がいくつかアップされています。

http://book.akahoshitakuya.com/b/4532112486

12/1/06:badtripping 入門書でありながら必要なことはかなり詳細に学べる良書。

12/1/09:かっちょ 「正社員となること=企業のメンバーシップとなること」、それゆえに長時間労働といった問題が生じるという著者の主著は明快さを覚えた。インフォーマル集団による労働組合が公然と存続してきた理由も推して知るべしだろう。雇用ポートフォリオによってメンバーシップとなる正社員は絞り込まれている今後の日本の労働はどのように変化していくのだろうか。企業からメンバーシップを付与されなくなった人々はどこにホームベースを据えるべきなのだろうか。

12/1/10:破れ奉行 今の雇用システムが作られてきた過程は、戦前と戦中にまでさかのぼることができる。

http://booklog.jp/asin/4532112486

kojionishi1 2012.01.07 労働系blogで集客1,2を争うhamachan先生の一般向け本。 労働社会のありかたをジョブ型、メンバーシップ型に分けた上で、労働法の歴史を開設するスタイルは、かなり珍しい。 実務上感じる労働法と実情の乖離の原因をうまく説明してくれてる感じです。

「経済学的に」しか正しくない議論

連続になりますが、被災地から発信されているマシナリさんのセルフコメントから、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-489.html#comment763(既得権益へのヘイトスピーチと陰謀論)

>「法律学的に正しい」とか「社会学的に正しい」と言い換えてみれば、それは現実問題とか実務とは別の話だというニュアンスになるのに、「経済学的に正しい」というときは経済学でしか反論が認められないというニュアンスになることが、特に「リフレ派」と呼ばれる方々の議論には多いように思います。そのこと自体が「リフレーション政策」単独では「経済学的に」しか正しくないということの裏返しでもあるのでしょうけれども

まあ、世の中には「法律学的にしか正しくない」議論を平然と展開する人に対しては「法匪!」という適切な言葉がありますし、「社会学的にしか正しくない」議論をやってる人は・・・誰も相手にしないでしょうね。

まあ、社会全体でみれば、「経済学的にしか正しくない」議論をする人だって、「経匪」(?)と哀れまれているのかもしれませんが、なぜかある種の言説空間の中では、ますます「経匪」になろうなろうとするドライブが掛かるのかも知れません。

非正規労働問題と集団的労使関係の再構築(下)

正月早々からお騒がせしてきた「非正規労働問題と集団的労使関係の再構築」ですが、ようやく最終回です。

http://www.advance-news.co.jp/interview/2012/01/post-98.html

2012年1月10日 (火)

土屋トカチ監督作品『フツーの仕事がしたい』

Futsushigo土屋トカチ監督作品『フツーの仕事がしたい』といえば、近年話題となった労働ドキュメンタリーの傑作として有名ですが、今回旬報社からDVD BOOKとして発売され、わたくしにもお送りいただきました。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/730

>皆倉信和さん(36歳)は根っからの車好き。高校卒業後、運送関連の仕事を転々とし、現在はセメント輸送運転手として働いている。しかし月552 時間にも及ぶ労働時間ゆえ、家に帰れない日々が続き、心身ともにボロボロな状態。「会社が赤字だから」と賃金も一方的に下がった。生活に限界を感じた皆倉さんは、“誰でも一人でもどんな職業でも加入できる”という文句を頼りにユニオン(労働組合)の扉を叩く。しかし、彼を待っていたのは、会社ぐるみのユニオン脱退工作だった。生き残るための闘いが、否が応でも始まった。

最初、ヤクザまがいのに脅されて組合脱退届を書いた弱々しい主人公が、母の葬儀にまで押しかけて暴行する連中にも屈せずに頑張っていく姿を描いた労働ビルドゥングスロマン・・・、というのもちょっと違うかな。

しかし、ほんとの現場でカメラをたたき落とされるような迫真のドキュメンタリーでありながら、登場人物(とりわけ相手側の悪役)が見事にキャラが立っているというのが、巧まざる按配というか何というか、凄いところですね。

>英国・第17回レインダンス映画祭、UAE・第6回ドバイ国際映画祭において、ベストドキュメンタリー賞を受賞。国内外の映画祭で評価された。

なにはともあれ、この予告編をご覧下さい。

その英語版もどうぞ。

ところで、このドキュメンタリーが撮られている時期は2006年。長期にわたる好景気が続いていた頃ですね。公開されたのは2008年秋の景気が急激に悪化しつつあった時期ですが。

なるほど、景気が良くなれば、労働問題なんか消え失せる、と。ふむふむ。

集団的労使関係の経験がマクロな合意形成の基盤

被災地から発信を続けておられるマシナリさんの新年初エントリは、武雄市長の成人式での発言「私ががれき受け入れの意向を表明した途端、多くの反対の声が届けられた。中には脅迫もあった。こんな大人に、君たちはなって欲しくない。」から話が展開して、マクロな合意形成の基盤を考えています。

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-493.htmlなってほしくない大人

>・・・反原発運動の盛り上がりとかそれに荷担する形でまき散らされるヘイトスピーチは後を絶たないものの、かといってそれが必ずしも悪意によって引き起こされているわけではないことは、拙ブログでも指摘してきたところです。つまり、それぞれの立場で利害関係がある(と思い込んでいる)方々がいらっしゃり、それを表現する方法がヘイトスピーチだったりボランティアだったり反原発運動だったりするわけで、人によってその表現に巧拙があること自体は当然のことでしょう。・・・一方では実務上どんなに無理筋であっても「既得権益を打破する」とか「権力者の陰謀を暴く」という威勢のいいカイカク派への郷愁が途絶えることはありません。

>拙ブログではこれまで集団的労使関係の再構築の重要性を飽きもしないで指摘し続けているわけですが、その理由は、少なくとも職場内の日常生活の中で立場の異なる方々と連帯しながら、同時に立場の異なる方々と利害調整するというプロセスを各個人が直接経験するということで、こうしたカイカク派への郷愁を断ち切るよすがとすることができるのではないかと考えているからです。・・・対立する主張を持つ相手とであっても、話し合いを尽くすことによって自分の境遇を自らが変えることが可能であるという経験がなければ、自らが稼得した所得を他人へ配分するという公的な所得再分配政策についての合意を得て、その結果として各家計の所得が公的セクターを通じて消費や投資に回されて流動性供給が増加し、マクロの経済成長がもたらされるという事態にいたることはないだろうと考えます。

>いうまでもないことですが、公的セクターを通じた所得の再分配という難儀な作業とそれによる経済成長は、職場レベルから一国レベルまでの利害調整の先にしか達成されません。そうである以上、いきなり政府レベルの利害調整に委ねるよりは、自らが直接関係する労使関係においてどうやって生活保障を確保するかということについて立場の違いを乗り越えて議論しながら地道に合意を取り付けていくことが、遠回りであっても着実な方法だと思います。その点こそが、省庁代表制によって利害関係が表に出てこない日本と、労使関係において取り決められた事項が政策に直接反映される(ネオ・)コーポラティズムが定着している北欧との違いであり、それが結果として社会保障の財源調達についての社会的合意の違いとなって現れているものと思われます

利害関係を利害関係として認め合い、率直に利害調整することによって合意を形成するというミクロの経験の欠如したところでは、自分の利害関係を利害敵対者へのヘイトスピーチという形で表現して騒ぎ立てることによってしかその実現の道はないように見えるのでしょう。

まことに悲しいかな、そういうヘイトスピーチ型政論を煽り立てるせいじ屋やひょーろん家どもが、マスコミでは有卦にいるわけですが。

ほんとうの日本問題とは人口問題なんだよ@クルーグマン

信頼するに足る数少ない経済学者として、その著書は必ず読むことにしているクルーグマン。

昨日のニューヨークタイムズ紙に「Japan, Reconsidered」(日本再考)というエッセイを寄稿。

http://krugman.blogs.nytimes.com/2012/01/09/japan-reconsidered-2/

邦訳はこちら(訳は一部修正)

http://econdays.net/?p=5678

その中で、

>The real Japan issue is that a lot of its slow growth has to do with demography. 

ほんとうの日本問題とは,その低調な経済成長の多くが人口動態に関連してるってことだ。

とさらりと言っています。

2012年1月 9日 (月)

OL型女性労働モデルの形成と衰退@『季刊労働法』234号

昨年12月に『季刊労働法』235号が刊行されていますので、その前の号に乗せた「OL型女性労働モデルの形成と衰退」を、わたくしのホームページにアップしました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/olgata.html

女性労働問題を正面から扱った論文って、実はわたくしはあんまり書いていないのですね。別にジェンダーバイアスがあるからでも何でもなく、あんまりそういう注文がなかっただけなんですけど・・・。

小見出しは次の通りです。面白そうだな、と思われたら、是非ご一読を。

1 女工哀史
2 女事務員
3 戦時体制と女性の職場進出
4 戦後改革と女性労働
5 男女同一賃金
6 OL型女性労働モデルの確立
7 社内結婚の盛衰
8 女子結婚退職制
9 男女別定年制
10 男女雇用機会均等法とコース別雇用管理
11 ハケンの品格

読みどころはなんといっても、女子結婚退職制と男女別定年制のところでかなり長めに引用している、当時の会社の展開したロジック。

なんちゅう差別じゃケシカラン、と、怒りをぶちまけるのではなく、ある前提の下では、これがまことに理路整然と筋の通った議論であったという点にこそ、注目していただきたいところです。

労働問題を考えるというのはどういうことであるかという一つのいい実践問題といえましょう。

2012年1月 8日 (日)

法社会学における「労働」というテーマ

たまたま日本法社会学会というホームページを見つけて、その中の「法社会学会学術大会の歩み」というのをみていくと、法社会学で「労働」というテーマが結構論じられていた時代もあったことが分かります。

まず、1947年~1964年

http://wwwsoc.nii.ac.jp/hosha/tabidati/tabidati_04.html

>一九四八(昭和二三)年度一二月一一日 東京大学 [研究報告]
土建労働の構造 川島 武宜
日本における労働関係の特質 磯田  進

コシキ島の家族関係 舟橋 諄一
家父長権の成立過程と神授的権威 戒能 通孝

4つの報告のうち、2つが労働問題です。

磯田報告は、以前本ブログで紹介したこれですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-b8cd.html(磯田進「日本の労働関係の特質-法社会学的研究」@『東洋文化』)

>一九五〇(昭和二五)年度秋季一〇月三一日 大阪大学 [研究報告]
モンテスキューの法社会学について 長谷川正安
改正労組法とその施行の実態 野村 平爾
犯罪社会学の問題 平野 龍一
中国法史学の構想~~「封建」とフューダリズム 仁井田 陞
裁判の法社会学的考察 戒能 通孝

野村氏はれっきとした労働法学者ですが、改正労組法の施行実態というのが立派に法社会学のテーマになっていたのですね。

>一九五一(昭和二六)年度春季四月三〇日 慶應義塾大学 [研究報告]
明治末期の二、三の立法と裁判 中村吉三郎
漁業労働関係の法社会学的考察 川島 武宜=潮見 俊隆=渡辺 洋三
ソヴィエト社会における都市と農村~~婚姻と家産の問題に関連して 福島 正夫

漁業労働というのは、これはどうも直接雇用労働関係ではなさそうですが。

>一九五二(昭和二七)年度春季四月二五日 日本大学 [研究報告]
戸籍法の前近代的形態 山主 政幸
労働ボスの法社会学的考察 内山 尚三
[討論]
学問の自由と大学の自治 上原 専禄、尾高 朝雄
裁判 平野義太郎、戒能 通孝

労働ボスというのは、まさに労務供給請負業者のことで、こういう世界もちゃんと法社会学の研究対象であったわけです。

>一九五三(昭和二八)年度春季四月三〇日 中央大学 [研究報告]
造船業における臨時工 後藤  清
積雪山村の民主化 新田 隆信
[シンポジウム]
調査の目的と方法 戒能 通孝、磯野 誠一

これも、ガチに労働法の中心テーマをガチに労働法学者が報告してます。

>一九五三(昭和二八)年度秋季一一月一日 京都大学 [研究報告]
山林労働における庄屋制について~~特に村落構造と関連して 神谷  力
学生の住所に関する自治庁通達について 唄  孝一
[シンポジウム]
立法(その一)
民主立法の要件と諸問題 小林 直樹、千葉 正士

山林労働と庄屋制・・・。ううむ。

このあと、こういう実態を明らかにするような労働の法社会学的研究てのは見えなくなりますね。

このあたり、いろいろと考えるところです。

新書あれこれ

奈津さんの「TWOPENCE」が、新書のレーベルについてあれこれ語っておられまして、その中に拙著も顔を出しているもので、サーチに引っかかりましたが、各レーベルについてのコメントや奈津さんのお気に入りのラインナップがなかなか興味深く、ちょいと紹介いたします。

http://twopence.blog84.fc2.com/blog-entry-391.html(光文社新書のタイトルはなぜ命令形なのか)

>御三家:岩波、中公、講談社現代
中堅:ちくま、PHP、集英社、平凡社、角川、光文社、新潮
新興:幻冬舎、小学館、アスキー、ソフトバンク、メディアファクトリーなど

>以下、私が勝手に抱いている各レーベルのイメージを書いてみます。順序は前出の序列(?)に合わせました。

ということで、

>【岩波新書】
イメージ:元祖。アカデミック。教養。青版や黄版には古典と化している名著も。
個人的お気に入り:「日本語の起源」(大野晋)、「日本人の英語」(マーク・ピーターセン)、「雇用劣化不況」(竹信三恵子)、
新しい労働社会」(濱口桂一郎)

竹信さんのとならんで、岩波のお気に入りに入れていただいたようです。

>【ちくま新書】
イメージ:視点がユニーク。面白い。良書が多い。身近な話題を扱う。
思い浮かぶヒット作:特になし
個人的お気に入り:「35歳までに読むキャリアの教科書」(渡邉正裕)、「つっこみ力」(パオロ・マッツァリーノ)、「地域再生の罠」(久繁哲之介)、「煩悩の文法」(定延利之)、「教育の職業的意義」(本田由紀)

こちらでは本田由紀さんが挙がってます。

>【PHP新書】
イメージ:読みやすい。分野は多岐にわたる。自己啓発系のヒットが目立つ。
思い浮かぶヒット作:「女性の品格」(坂東真理子)、「頭がいい人、悪い人の話し方」(樋口裕一)
個人的お気に入り:「7割は課長にさえなれません」(城繁幸)、「世代間格差ってなんだ」(城繁幸・小黒一正・高橋亮平)

と思うと、こっちでは城繁幸氏が2冊もエントリ。そして、こちらでも。

>【光文社新書】
イメージ:経済や社会問題の本が多い。タイトルが長く、なぜか疑問形や命令形。
思い浮かぶヒット作:「下流社会」(三浦展)、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」(山田真哉)、「お金は銀行に預けるな」(勝間和代)
個人的お気に入り:「若者はなぜ3年で辞めるのか」(城繁幸)、「できそこないの男たち」(福岡伸一)、「金融広告を読め」(吉本佳生)

まあ、結論としては、

>個人的には、奇をてらうこともなく真面目路線を行く岩波やちくま新書が好きです。「とにかく量産」路線のところは、ヒットが出た著者に類似作を書かせたりすることが多く、あまり好きになれません。著者もそうそう新作を書けないから、本を出すたびに字が大きく、行間が広くなっていったりして、しまいには口述筆記だったりするんですが…香山リカさんとか。やはり本好きとしては、「本への愛情」で作られている本が好き

とのことで、実際に岩波新書で出した経験からしても、作り方の丁寧さは確かですね。

ところで、日経文庫って、判型は新書版なんですが、扱いは文庫本なんでしょうか。

2012年1月 7日 (土)

「まったく理解していないのに自分は理解した上で意見を述べているのだという態度」の典型

一昨日の「労働組合兼従業員代表機関の逆説」というエントリが、いろいろと楽しいおもちゃになっているようです(笑)。

http://otsu.cocolog-nifty.com/tameiki/2012/01/post-07ad.html(「竜頭蛇尾」としない2012年へ)

この「公務員のため息」さんのエントリのコメント欄の書き込みについての解説が、「市役所職員の生活と意見」さんのこれです。

http://manmark.blog34.fc2.com/blog-entry-592.html(独りよがりな理解は自爆するか。)

こういう風に、素直に読めば誤解の余地のないくらい丁寧に説明しても、わざと曲解したがる人がいるわけですから、この手の話題でマスコミの取材になど応じたくない気持ちはおわかりいただけますよね?

「絶対反対」主義の蔓延

finalventさんが、「「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな」と首をかしげています。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/01/post-3ba2.html(「○○○は絶対反対」主義の蔓延をどうしたものかな)

>TTP絶対反対。原発絶対反対。消費税アップ絶対反対。八ッ場ダム再開絶対反対。女性天皇絶対反対。歴史修正主義絶対反対。偽科学絶対反対。社会格差絶対反対。米国覇権主義絶対反対。中国覇権主義絶対反対。などなど。

 思うのは、それらは、絶対反対な「私」というのを各人が主張したいのだろうということ。いや主張というより、昆虫が特定の状況で仲間や異性を呼ぶために独自の臭いを発するように、仲間がここにいるというシグナルを発するという機能が「絶対反対」なのではないか。ツイッターとか見ていると特に昆虫の世界みたいだし。

 「絶対反対主義」になると言説というか言葉というものが、「オマエも絶対反対なんだろうな?」という審問にしかならなくなる。言葉が相手に「踏み絵」として提出され「さあ、踏むや否や」というキリシタン狩りという江戸時代の状況になっていく。踏んだら、あるいは「絶対反対主義」の絶対に抵触しそうな意見を言おうものなら、罵倒・中傷の嵐になってくる。

 もう言葉が内容伝達や議論として機能しないのだからそうなると黙るしかない。それだけの覚悟をしても発言するのが言論の自由なんだというのもあるかもしれないが、まあ、私のような小心者には無理。

>この「絶対反対主義」という、率直に言うと一種の精神病理がどうして蔓延してしまったのか。先にシグナルと書いたけど、基本的にシグナルとしてしか機能しないし、そのシグナルの機能は昆虫みたいに「群れること」。人が基本的な社会連帯を失って孤独になっているということの裏返しなのだろう。

 人間なんて誰しも突き詰めれば孤独なものだし、その上で「人はみな一人では生きていけないものだから♪」みたいなところで妥協する。妥協が社会制度でもあるわけで、その妥協で「自分の孤独も腹八部」みたいに我慢するものだが、そういうのが難しくなってしまった。

 もう一つはルサンチマンだろう。怨恨。嫉妬と言ってもいいのかもしれない。自分と同じような能力のある人間が偶然ラッキーなポジションにいると、それを見て、社会は間違っていると思うのもしかたない。それも一定の条件で諦める類のもののようには思われる。諦められないというのは、その相手への憎悪(ルサンチマン)があり、連帯の欠落というのも、やはり孤独や連帯の欠如ということだろうか

いかにもfinalventさんらしい人間学的な深みのある分析ですが、わたくしはもう少し表層的なレベルから。

かつて、保守勢力が巨人大鵬卵焼き的に厳然と屹立していた頃は、なまじ「是々非々」などというまっとうなことを言ってると、民社党みたいになかなか票が取れずに伸び悩むので、ホンネは「そんな極端なことできるわけねえじゃん」と思っていても、「○○○は絶対反対」みたいに言っておいた方がよかったのでしょう。

聞く方も、「○○○は絶対反対」という言葉を聞いても、5割引くらいに聞き取って対応していたので、それなりにうまく回っていた、ということではないかと思います。

その証拠に、日米安保絶対反対と言っていた日本社会党が、政権の座に就いたとたんに断固堅持になったわけですから。

もちろん、そういうのを本気にして街頭で騒いだりするのも居たわけですが、まっとうな「大人」は、ニヤニヤ笑いながら、「ケツの青い連中が・・・」と思っていたのではないかと。

こういうのは、与党と野党が未来永劫変わることがないという前提の上での相互了解の上の演技としては、それなりに様式美を持った政治芸術の姿であったのでしょうが、90年代に、それまでの「革新」の代わりに「改革」というアンチ・イデオロギーが登場し、その宣伝文句を売り物にするようになると、この「5割引でちょうどいい」玄人の様式美感覚が受け継がれず、本気で「○○○は絶対反対」と喚き散らす野暮天感覚が広まっていったのではないかと。

そして、恐るべきことには、その精神状態がかつての未来永劫野党であることを前提とした人々だけではなく、本気で与党になって政権を担うつもりの人々にまで、挙げ句の果てには、現に政権を取って権力の座にある人々の精神にまで及び、与党も野党もみんな揃って「○○○は絶対反対」と本気で喚くというガキ根性丸出しの未熟な政治を産み出してしまったのではないかと。

(追記)

なんだかとんでもない誤解をされてる気配・・・

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-6f43.html

>「絶対反対」は"敢えて"であっても政治を貧しくする、という話かと思ったら違った/むしろ「「5割引でちょうどいい」玄人の様式美感覚」に眩暈が。そういうポーズを決めて遠い目をするのが玄人だとしたらお気楽杉

皮肉な書き方をすると、往々にして皮肉を真に受けた反応が返ってくるものですが、これはなんとも・・・

どうも、「玄人の様式美感覚」という皮肉を効かせたつもりの表現が、単純な褒め言葉と受け取られてしまったようですね。

いうまでもなく、「与党と野党が未来永劫変わることがないという前提の上での相互了解の上の演技として」の様式美など、それ自体愚劣以外の何ものでもない、という基本的価値判断の上での皮肉だということは当然理解されるものだと思っていたわたくしが莫迦だったのでしょう。

また、「なまじ「是々非々」などというまっとうなことを言ってると、民社党みたいになかなか票が取れずに伸び悩むので」という言い方が、わたくしの「本来それが正しかったのに・・・」という趣旨通りに受け取られておらず、かえって単なる皮肉ととられているらしいことも、こういうコミュニケーションの難しさを露呈しているようです。

とはいえ、皮肉系の文章というのは、そこに「いうまでもなくこれは皮肉でありまして、これを心底正しいと述べている趣旨ではありませんので宜しく」などとそれこそ野暮な注釈をつけて提示する性質のものでもありませんしねえ。

なかなか難しいものですわ。

(再追記)

上の素直系の誤解とはまただいぶ趣が違いますが、「思いこみ」系とでもいいますか、こういう読み方もされているようです。

http://d.hatena.ne.jp/ecopolis/20120109/1309310294(濱口桂一郎さんのブログより)

>・・・問題は、岩波新書から労働関係の本を出しており、良心的知識人の一人と目されている濱口さんが、このような文章に共感していることです。ということは、濱口さん自身も「原発絶対反対」や「米国覇権主義絶対反対」という主張は、賛同できないどころか病理と思っているわけです。・・・・心の中では、原発絶対反対や、米軍基地絶対反対を唱える運動を冷やかに見ているわけですね。

「良心的」という言葉の意味が判然としませんが、(いや、使われている主観的な意味はある意味でよく分かりますが、それは要するに「自分の政治的立場の側」というだけのように思われるので、)わたくし自身の考え方は本ブログの過去の記述等をご覧になれば分かるように、「絶対反対」が「良心的」というような物の見方からすれば到底「良心的」ではないでしょうね。

言うまでもなくある新書のレーベルから本を出しているからといって、他のあらゆる領域で特定の政治的立場をとっているかの如く思われるのは他の多くの著者の方々にとっても同様に不本意なのではないかと思われますが。

>とにかく、濱口さんの率直さは称賛しておきたいと思います。

一番違和感のあるのは、実はこの褒め言葉(もしかして皮肉?)で、わたくしとしては今までと同様のことを若干皮肉めかして述べてみただけに過ぎず、どうしてそれが賞賛されるほどの率直さになるのかがよく分からないのです。

与謝野節全開

新年早々、権丈節の元気を分けてもらおうかと(笑)、権丈ホームページを訪れてみたら、権丈節も全開ですが、それ以上にそこにアップされていた与謝野馨氏のインタビューが全開で、思わず読みふけってしまいましたがな。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/yosanosaninterview.pdf(持続可能な社会保障制度には消費税率10%の実現が不可欠)

ということで、与謝野節全開インタビューの中からもさらに「全開」の部分を、いくつか引用。

>・・・自民党政権で社会保障改革や財政再建にリーダーシップを発揮されてきた先生が、なぜ民主党政権で大臣をお引き受けになったのですか。

>・・・第三は、平成2‐年6月に安心社会実現会議(座長=成田豊氏)がまとめた報告書です。これは極めて重要な報告書で、戦後の長い間続いた自民党政治の社会保障に関する政策は、アメリカ型ではなくてヨーロッパ型だと再認識をしました。

つまり、竹中平蔵氏たちが主張していた新自由主義経済を全面的に否定したわけです。自己責任を非常に強調するのが新自由主義ですが、世の中には自分の責任でなく苦しい立場になっている方がいます。自民党の政策を社民主義的な思想にはっきりと切り換える契機となった報告書といえます。

>第四は、自民党が政権を失い、民主党政権になった平成22年12月、民主党の税と社会保障の抜本改革調査会(会長=藤井裕久氏)がまとめた報告書です。安心社会実現会議の報告書と同一の内容であり、自民党と民主党の考え方が理論面では平仄が揃ったことになります。

この点は、本ブログでもかつて、与謝野氏の著書を紹介する形で指摘したことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-caec.html(与謝野馨『民主党が日本経済を破壊する』文春新書)

>大変皮肉なことですが、同じ自民党政権の中で、ネオリベラルな構造改革路線から福祉国家をめざす路線への転換があり、それが政権交代で再び「事業仕分け」に熱狂するある意味でネオリベラル感覚全開の時代に逆戻りし、そして今ようやく再び、かつて与謝野さんが目指そうとした福祉国家再建の政策に再転換しようとしている、と、評することも出来るのかも知れません。

まことに、自由民主党政権が社会民主的な社会保障政策を進めようとしたのに、労働組合が一生懸命支援した民主党政権が一時はそれを捨てようとしたというあたりのねじれ感覚が、何ともたまりませんね。

続いて、

>・・・民主党はマニフェストに新年金制度の構築を謳っていましたが、成案にはその具体像がほとんど示されていません。年金制度の将来像についてどのようにお考えですか。

>日本の年金制度をいじくり回せば、もっとよい制度ができるというのは嘘です。民主党がマニフェストに掲げた案はおそらく使いものにならないでしょう。成案では、 一応看板だけ残していますが、あれは墓碑銘ですω。

墓碑銘・・・。

>成案には、短時間労働者に対する健康保険、厚生年金への保険適用の検討が挙げられています。この点についてはいかがですか。

>マルクスによれば資本主義の基本は、同一労働・同一賃金なのです。だから、私は非正規雇用という一雇用形態は好きではありません。経営者がリストラと称して人数を必要最小限にして、給料も格差をつける。社会保険料の負担もしない。これは、人を使い捨てにするというモラルとして最低のことです。そこで、成案では非正規労働者を厚生年金や健康保険に入れようという方向を示しています。反対意見もありますが、実現すべきです。

これはちょっと・・・。いや、結論はまったく正しいのですが、同一労働同一賃金原則は別にマルクスの主張でも何でもなく、むしろ市場経済における一物一価の大原則なのですが・・・。

これは、いささか「社会民主主義者」与謝野馨氏の勇み足?

最後は、ヨーロッパであれば当然経済左派と経済右派を分けるメルクマールである増税問題。

>次に、社会保障の財源確保に向けた税制の改革について伺います。・・・民主党内からは反発の声も聞かれます。実現に向けてのお考えを聞かせて下さい。

>ヨーロッパの絶対王政の下での王様も税金を上げるのをいやがりました。そこで、借金をして踏み倒したのです。借りてきた相手を捕まえて処刑したり、国外追放して財産を没収したり、とそういう例がたくさんあります。王様ですらいやがったのですから、選挙を受ける国会議員がいやがるのは無理もないということはわかります。

しかし、アガリスクが癌に効くという程度の嘘の話をしていてはいけません。その一つが、経済が成長すれば解決するという話です。日本にはたくさんの社長がおり、みな必死に頑張っていますが、ご覧の現状です。ほかにも、日銀に国債を引き受けさせろ、インフレを起こせ等の主張があります。

これらは、昔からあつた話ですでに自民党の財政改革研究会で議論じ尽くしています。消費税増税に反対する国会議員はいろいろと理屈を捏ねていますが、「選挙が怖い」というのが本音です。

いやいや、「アガリスクが癌に効くという程度の嘘の話」。与謝野節はますます全開です。

フランスのインターンシップ規制

久しぶりにヨーロッパの話題。

昨年、フランスで「シェルピオン法」というインターンシップを規制する法律が施行されたようです。EIROから。

http://www.eurofound.europa.eu/eiro/2011/11/articles/fr1111011i.htm(Strengthened regulation of internships)

>The recent ‘Cherpion’ Law strengthens existing measures and introduces requirements that offer more protection for French interns. The law necessitates the signing of a tripartite contract (between employer, intern and their educational establishment), limits the duration of internships, insists on a break between two interns in the same role, stipulates a monthly payment, increases the involvement of works councils and sets rules on probationary periods for subsequent employment.

最近の「シェルピオン」法はフランスのインターンにより保護を与える措置を強化した。同法により、インターンに関係する三者(使用者、インターン及びその教育機関)の間で契約を締結すること、インターンシップの期間を原則6ヶ月に限定すること、同一の役割の2つのインターンシップの間に直前インターンシップの3分の1の期間のクーリングオフ期間を期間をおくこと、報酬は三者間の契約で定めること、企業委員会の関与、インターンを採用する場合はインターン期間を試用期間から差し引くこと等が規定されているということです。

昨年末に邦訳を刊行したOECDの『世界の若者と雇用』でも、インターンシップは若者雇用に役立つと期待されており、特にフランスでは力が入れられていますが、一方で企業側からすると安価な労働力を使えるというわけで濫用の危険も指摘されており、こういう風にいろいろ規制を加える必要も出てくるということなのでしょう。

最後のコメントのところで、こういうやや皮肉な記述があります。

> The reluctance of the government to further tighten the regulation of internships arises partly from the fact that the youth unemployment rate in France is particularly high and therefore every individual intern represents one less unemployed person.

フランス政府がインターンシップをこれ以上規制することに消極的なのは、フランスの若者失業率が特に高く、インターンが一人増えれば失業者が一人減るからだ。

2012年1月 6日 (金)

非正規労働問題と集団的労使関係の再構築(中)

2日に公開された(上)に引き続き、アドバンスニュースの<新春特別寄稿>「非正規労働問題と集団的労使関係の再構築」の(中)です。

http://www.advance-news.co.jp/interview/2012/01/post-97.html

労使関係のコペルニクス的転換を求めて@呉学殊

Coverpic 労調協の『労働調査』2012年1月号は、「これからの労使関係」を特集しています。

http://www.rochokyo.gr.jp/html/2012bn.html

特集 これからの労使関係

1.引き潮のなかの労使関係 稲上 毅(東京大学・名誉教授)

2.労使関係のコペルニクス的転換を求めて 呉 学殊(労働政策研究・研修機構・主任研究員)

3.高齢化社会と労使関係 戎野 淑子(立正大学・教授)

4.コーポレート・ガバナンスへの従業員の関与-連合が提案する「従業員選出監査役」制度を中心に-逢見 直人(UIゼンセン同盟・副会長(会長付))

このうち、HP上で読めるのは稲上前JILPT理事長のエッセイだけですが、その次の呉さんの文章は、今月24日に予定されている労働政策フォーラムで語られるであろう呉さんの論調がよく出ていますので、図書館等で読める方は是非ご一読を。

以下若干引用しておきますと:

>・・・今は、労働組合員といえば、大企業か公務部門で勤めている「恵まれた人」と言える。労働組合が、恵まれた人の処遇をもっと上げようとしても動員力は働かない。・・・

>労働組合は、そのような実態を見通し、組合員のためにも連帯の輪を広げなければ運動のエネルギーは出てこない。・・・

>・・・いずれの組合も、恵まれた本社・親会社の正社員だけを組合員とした組織範囲を、子会社や非正規労働者にまで連帯の輪を広げたのである。会社経営のマイナスの影響は、弱い立場に置かれる子会社や非正規労働者につけ回り、そこに集約されがちである。労働組合が、会社の問題を探し、問題解決による更なる発展を促すためにも、問題が集約されているところの労働者を組織化していく必要があり、その問題解決を目指すときに、組合のエネルギーが湧いてくる。会社が組合のエネルギーを活用し、また、組合がこの社会をより良い方向に導くためには、どのような社会的責任を果たさなければならないのか。

>労働組合が、上記のように「恵まれた人」のために活動しても動員力が出ず、また中長期的に組合員の生活の維持・向上もできない。そういう意味で、労働組合は、まず、社会の中にある組織であって、社会に影響を及ぼし、また影響される「社会的公器」であるという認識を持つべきである。・・・

>労働組合は、組織率が低下し、その存在意義が弱まってきているものの、日本社会の中で今でも最大の社会団体である。・・・労働組合がこの社会の最大勢力としての自負と責任意識を持ち、USRを着実に実現していけば、エネルギー抑制から活用に変えていく労使関係のコペルニクス的転換の実現可能性を高めていくと期待できる。

今月24日の労働政策フォーラムについては、こちらの案内をご覧下さい。

http://www.jil.go.jp/event/ro_forum/20120124/info/

2012年1月 5日 (木)

労働組合兼従業員代表機関の逆説

関西方面のマスコミから、某地方自治体の職員団体問題について意見を聴きたいと、ある方を介して依頼があったのですが、お断りしました。それは、問題構造があまりにも複雑であって、それをきちんと理解して貰うことは絶望的に難しく、政治部的感覚で記事にまとめられたらどんな代物になるかわからないからなのです。

そもそもからいえば、ジョブ型労働社会の常識からすれば、企業の外側の存在であるはずの労働組合の事務所が企業の中にあること自体がおかしな話であり、その便宜を図ることは許されないことであり、現にジョブ型社会を前提とする日本国の労働組合法も、「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合じゃない(第2条)とか、「労働組合の運営のための経費の支払いにつき経理上の援助を与えること」は不当労働行為である(第7条)と明記しています。

労働組合とは企業とは関係なく、労働者が企業の外側で勝手に団結して作る団体である(ことになっている)のですから、これは当然です。賃上げ要求などの組合活動は企業の外側で、従業員がやるなら勤務時間外に、というのは当然です。

ところが、一方で西欧諸国にはいずれも労働組合とは別に企業別の従業員代表機関というのがあって(ドイツの経営協議会、フランスの企業委員会など)、こちらは企業内部の問題を解決するために企業内部に、企業の負担で作られるものです。企業のリストラの際の労働者間の調整や、いろいろな苦情処理などは、本来企業内部の問題ですから、職場選挙で選ばれた企業の従業員代表が、勤務時間内に、企業の費用負担でやるのが当然です。いわば、人事部が会社側からやることを、裏側で労働者側からやるのが従業員代表機関です。ですから、従業員代表機関には団体交渉権もスト権もありません。これまた当然です。

まず、ここまでの西欧型労働社会の常識が、日本ではほとんど認識されていません。この認識の欠如が、その後の全ての議論の歪みを生んでいきます。

日本では、法律上は企業外部の存在と位置づけられている労働組合が、単に賃上げ闘争などをやるだけではなく、それよりむしろ主として、西欧であれば従業員代表機関がやるような仕事をやっているところに最大の特徴があります。

法律上は「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」は労働組合じゃないと言っていて、それはまったくその通りではあるのですが、しかしその労働組合が現実にこなしている大部分の仕事に着目すれば、その経費の支出につき使用者が援助するのが当然、というまことに逆説的な状況にあるわけです。

これが逆説的であるのは、日本の企業別組合が事実上従業員代表機関の仕事をしているから経費援助が当然だというと、それ自体はまことにもっともなのですが、では春闘で団体交渉やストライキやるのも企業が賄わなきゃいけないのか、という変な話になるからです。本来異なる機能を一つの組織が両方兼ねていることから来る逆説なのです。

このあたりは、拙著『日本の雇用と労働法』でも、次のように解説しています。

> 上述のように、日本の集団的労使関係法制は基本的にジョブ型の性格を維持していますが、局部的に現実のメンバーシップ型労使関係に合うように修正されています。

>・・・大変皮肉なのは便宜供与です。労働組合法は企業から独立した労働組合を前提に、「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助を受けるもの」を労組法上の労働組合として認めず(第2条第2号)、その行為を不当労働行為としています(第7条第3号)が、従業員代表機関であればむしろ企業からの便宜供与が不可欠です。そのため、上記2条とも、「労働者が労働時間中に時間又は賃金を失うことなく使用者と協議し、又は交渉することを使用者が許すこと」や「厚生資金又は経済上の不幸若しくは災厄を防止し、若しくは救済するための支出に実際に用いられる福利その他の基金に対する使用者の寄附及び最小限の広さの事務所の供与」を除外しています。現実には、これら規定が意味を持つのは不当労働行為をめぐって労使が対立する場面なので、協調的組合への便宜供与への制約としてはあまり意味がなく、むしろ対決的組合に便宜を供与しないことが問題となります。日産自動車事件(最二小判昭62.5.8労判496-6)は、「組合事務所等が組合にとってその活動上重要な意味を持つことからすると、使用者が、一方の組合に組合事務所等を貸与しておきながら、他方の組合に対して一切貸与を拒否することは、・・・不当労働行為に該当する」と述べています。対決的組合も企業別組合なので、便宜供与を絶たれると苦しいのです。

少なくともこれだけの頭の準備をした上でないと、労働組合事務所問題をうかつに論じると、トンデモ的議論に飛び跳ねてしまうということがおわかりでしょう。

ところが、以上はあくまでも民間企業の労働法であって、公共部門はまた異なる側面があります。なぜなら、公共部門(いわゆる非現業)には労働組合というものは存在せず、職員団体というのがあるだけで、職員団体には団体交渉権もなければいわんやスト権もないからです。法律上(だけ)からすれば、労働組合法の想定する労働組合よりも遥かに従業員代表機関としての性格が強いのです。

ところがこれまたまことに逆説的なことに、民間企業の労働組合(の大部分)が自らに適用される法律の前提に反して従業員代表機関的性格を強く有しているのに対して、公共部門の職員団体はむしろ法律の前提にそぐわないほど(実際には行使できない)労働組合的行動をやりたがる傾向が強いのですね。実際には行使できないがゆえに、口先だけ急進的になるという面もあるように思われますが、その口先の言葉だけに着目すると(往々にしてインテリにはその傾向がありますが)その実態を見誤ることになりがちです。

はい、ここまでが本論を始めるまでに頭に入れておかなければならないことのごく簡単な要約です。ここまでがちゃんと分かっていないと、議論があらぬ方向に逝ってしまうというのはよくおわかりになるでしょう。そして、そんなことが、新聞の取材でちゃんと伝わると信ずることがほとんどあり得ないとわたくしが考える所以も。

(追記)

なんだか、また某テレビから取材の依頼がきましたが、スタンスは上に書いたとおりですので、片言隻句をつまみ食いされる危険性の高いマスコミへの対応は丁重にお断りさせていただいておりますので悪しからず。

2012年1月 4日 (水)

まさか裸の王様が「みんな服は着とこうよ」と言い出すとは思いもしなかったよねみたいな

日経の趣旨不明瞭なリーク記事(?)に狂喜する人事コンサルタント氏と、それを苦々しげに窘める元人事担当者氏という対照も興味深いものですが、

http://jyoshige.livedoor.biz/archives/5018564.html

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20120104#p2

ここはやはり、元労組役員氏の皮肉に充ち満ちた箴言を熟読すべき時期かと・・・。

http://h.hatena.ne.jp/yellowbell/243586370633253978

>まあでも面白いよね。定昇無くして組織への帰属から役職への帰属にモチベーションを振り替えて、なおそれで企業としてのガバナンスをちゃんとしようとしたら、日本型組織がもっとも苦手なコンプライアンスをベースにするしかなくなるよ。

コンプライアンスベースの労使関係って、今ただちによーいどんしたら、困るのは労働側じゃなくて使用側だからね。

サービス残業とかサブロク協定とかみなし残業とか裁量労働とか週40時間とか男女雇機均とか、コンプラベースに乗っけたらどれも真っ黒クロスケ出ておいでだ。それを組織へのお義理でグレーに薄めてるだけ。組織潰れたら困るだろ?いまさら新しいとこ行くのアレだろ?じゃあちょっとくらいは目をつむれやと、そんなヤクザな諒解の上に乗ってる裸の王様なわけでしょ。

まさか裸の王様が「みんな服は着とこうよ」と言い出すとは思いもしなかったよねみたいな

何という見事な比喩。これをぐだぐだとわかりにくく書くと、拙著『日本の雇用と労働法』になるわけですが。

ちなみに、yellowbellさん自身による要約:

>働いた分しか金やらねって考え方は結構なんですけど、
金くれた分しか働かねって考え方とコインの裏表だって、わかってますかー?

まあ、それが民法の雇用契約の発想なんですが。

出たがり・トンデモ・陰謀論の聖三位一体

新春早々、権丈節を一節。『年金時代』2012年1月号のインタビューだそうです。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/nenkinjidai120101.pdf

>天動説を言う人たちは、出たがりさんなんですね。おそらく、出たがり屋という要因とトンデモ論を言える才能、それと僕が学生に小さなウソの陰謀論と話している、何でも厚労省のせいにする厚労省陰謀論を信じる資質は密接な関係があるのではないかという仮説を立てているのですけど、どう思いますか?

なるほど、出たがり屋、トンデモ論、陰謀論信者という三つのメルクマールは、まさに聖なる三位一体なのですね。

まことにこの三位一体が受肉したとしか思えない方々がいらっしゃいますねえ・・・。

求職者支援制度と雇用保険の実態批判

毎月送られてきている『マスコミ市民』というミニコミ誌は、題名通り「市民」臭がかなり強いのですが、1月号に載っている田中尚輝さんの「民主党政権の福祉、社会保障政策の問題点」というエッセイは、求職者支援制度や雇用保険の実態について、かなり鋭い批判をしていて、読まれる値打ちがあると思われ、幾つか引用しておきます。

ただ、このエッセイの最初の方で、民主党政権への幻滅をいうために、長妻前厚労相やはては古賀茂明氏まで引いて、官僚主導がどうたらこうたらと、いかにも「市民派」的なスタンスを鮮明にしていて、いやあそれならさぞかし橋下新市長には期待しているんでしょうねえ、と嫌みの一つ二ついいたくなるところもあるのですが、そこはそれとして、制度の批判の部分は、大変重要なポイントを突いているように思われます。

>数ヶ月前に「求職者支援法」が制定され、失業給付を貰っていない人を支援するため職業訓練中の受講者に月額の10万円程度の生活費を支援する制度が出来ました。生活保護に落ちないために、もう一本「網を張る」政策です。これはヨーロッパでもよく見られる、いい政策だと思います。

>しかし、大きな予算が付いたために問題も大きいのです。私は、昨年全国22コースほどを自分たちで実施しました。私どもNPOは全コースからいうとほんの僅かで、実際には学生の数が少なくなって倒産しかかった専門学校が、この制度に乗り出して荒らしています。・・・さらに、ほとんど勉強しない受講生も多くいるのが実態です。実のところ、一つの教室のうち半分くらいの人は精神的に不安定な人で、病院で診察して貰わなければならない人さえ居ます。仕事が出来ない人が滞留し、月10万円を稼ぐための場になっているのです。・・・

このあたりは、わたくしも「トリレンマ」等として論じてきたところと重なりますね。

>私は1週間に2回ほど東北の被災地へ通っていますが、そこでも明らかに制度の歪みがあります。被災地では、雇用保険の受給期間を全て一律3か月延ばしましたので、今年の12月から来年の1月くらいまで、皆何もしないで家にいるかパチンコ屋に行っている人がたくさんいるのです。

>再就職をして貰うために雇用保険を支給しているはずなのに、給付を受け取っている間は仕事したくないと、職場が復旧しても仕事に戻ってこない人がたくさんいるのです。私は介護保険の事業所をやっていますので、その事実を目の当たりにします。デイサービスもボランティアの人の力を借りて動き出せたのですが、職員20人全員が雇用保険を受け取っていて、戻ってきた人は2~3人です。本来の趣旨が生かされていないので、国の予算が本当にもったいないのです。

このあたり、CFWの永松伸吾さんも指摘しておられた点ですね。

こういういい指摘をしたエッセイの最後で、

>その昔、日本社会党には「社会主義協会」という「素晴らしい」党内党がありましたが、官僚に取り込まれていく議員が多い民主党の中で、1割でもいいので、党内で旗を掲げて欲しいと思っています

といういささか意味不明の締めくくりを読むと、なんだか頭が混乱しますけれども。

2012年1月 3日 (火)

「ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる」社会こそ「無理せずに誰でも働ける社会」

先日のエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-1605.html(無理せずに働ける社会という理想へ)

に、そこで取り上げた「人は働く機械ではない」のskicco2さんから反論(?)をいただきました。

http://d.hatena.ne.jp/skicco2/20120103/p1(憲法18条vs憲法27条)

「(?)」をつけたのは、内容的にまったく私と同じ意見なので反論ではないからなのですが。

>「無理せずに誰でも働ける社会」を実現するためには、ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる状態が必要であり、そのための「失業しても生活に困らない制度」なのだが。

「働かなくても生きていける社会」が実現すれば、無理のない仕事を選ぶことが可能になる。

「この仕事やりたいけど、給料安くて食えないから諦めざるを得ない」とか「この仕事嫌だけど金のためにしょうがない」とか言わなくてよくなる。

それはすなわち「無理せずに誰でも働ける社会」ではないのだろうか

いや、私もまったく同じ考えです。「ふざけた職場にいつでもノーを突きつけられる」社会でなければ、「無理せずに誰でも働ける社会」は実現できないでしょう。

どうして、まったく同じ考え方なのに、こういう反論し合っているようにみえるようになるのかといえば、やはり、skicco2さんの最初の

http://d.hatena.ne.jp/skicco2/20111227/p1「無職は悪」という考え方が、働く人を死に追いやる

>「無職の何が悪い」と堂々と言える世の中にすることが、人の命を救うことにつながる

が、働かないことの礼讃という誤解を招きかねない表現になっているからだと思われます。

自分が無理なく働けるまっとうな職場であればいつで働く気持ちはあるが、ふざけた職場では働くつもりはない!という趣旨には、なかなか理解されにくいように思われますし、何よりも私が懸念するのは、最近の風潮では、

>そうだ、そうだ、無職の何が悪い!生産性の低い、能力の低い人間は、なまじ職場にしゃしゃり出て有能な人間の邪魔をするぐらいなら、引っ込んでた方がいいんだ。無職の何が悪いんだ?

というたぐいの議論の一派とみなされかねない恐れがありますので。

2012年1月 2日 (月)

非正規労働問題と集団的労使関係の再構築(上)

アドバンスニュースの「新春特別寄稿」ということで、本日から3回連載で「非正規労働問題と集団的労使関係の再構築」というエッセイを寄せております。

リンク先には、いろいろと面白い記事も多くありますので、是非下のリンク先へどうぞ。

http://www.advance-news.co.jp/interview/2012/01/post-96.html

>国会で再び動き出した労働者派遣法の改正問題、また労働政策審議会での有期契約労働を巡る議論など、正社員ではない形態で働く労働者の保護をめぐる動きが加速している。果たして、これらに“死角”はないのか。労働法制の第一人者である労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員の寄稿を3回にわたって掲載する。(報道局)

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