dongfang99さんのポピュリズム論
鋭い切れ味でファンの多いdongfang99さんですが、1ヶ月以上間をおいてようやく更新です。
http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20111205(「ポピュリズム」とは何を指すのか)
まずは、民主主義の二つの類型の解説から、
>民主主義の考え方は、大きく二つに分けることができる。一つは、様々な利害や価値観をもった個人や集団の間の対立や話し合い妥協のプロセスであると考えるものと、もう一つは住民や国民全体が共有すると想定できる利害や価値観を可能な限り実現していくものであると考えるものである。前者における政治家の役割が、個別の理念や利害を組織化して議会において代表していくことにあるのに対して、後者における政治家は「国益」などの全体的な利害の観点から、それに反する価値観や勢力の存在を取り除いていくことが重要な役割になる。つまり、前者における「民意」があくまで多様な価値・利害の交渉と妥協の結果であるのに対して、後者は全体としての「民意」の存在をあらかじめ前提とし、その「民意」の名の下に個別の利害や価値観を偏ったものとして否定あるいは軽視するものである。前者を「多元主義」的な民主主義、後者を「一元主義」的な民主主義と呼ぶことができるが、「ポピュリズム」は言うまでもなく後者の一元主義的な民主主義に属するものである。
多元主義と一元主義は、言い方を変えれば「利害調整の民主主義」と「正義の民主主義」と言い換えられるでしょう。
そして、戦後日本においては、保守勢力がもっぱら前者の利害調整の民主主義を体現し、革新側や「市民」勢力が、利害調整の「汚さ」を糾弾し、まさに一元主義的な「正義」を振り回していました。
そういう一元主義的な「正義」派の議論においては、だいたいにおいて官僚が悪役として登場していたことも、当時の「進歩的」な評論を一瞥するとよく分かります。
もちろん、表舞台では「正義」を振りかざす勢力も、その形而下的な部分においてはまさに利害調整の世界で生きていたわけですが、そこはそれ、かっこつける世界とかっこつけない世界では使い分けをしていたのでしょう。
そういう「お約束」の猿芝居が続けられている間は、その限りで問題はなかったのかも知れません。
しかし、1990年代以来、日本社会の布置構造は大きく転換し、かつて「正義」を振りかざしていた勢力の下部構造の利害調整のあり方が、さらにいっそう磨きをかけた空疎な「正義」を振りかざす新興勢力によってめったやたらに攻撃されるようになります。
もちろん、その攻撃が空疎であるのは、かつての「正義」派の空疎に輪をかけた空疎さであることはいうまでもありませんが、
>当然ながら今の日本には、こうした一元的な民主主義が当てはまる現実的な条件は存在しない。・・・
問題は、それにも関わらず、2000年代以降になって「国益」「民意」の名の下に官僚・公務員の些細な「特権」「既得権」が攻撃されるという一元主義的な形の民主主義が、ますます強まっていることであろう。官僚・公務員に関する問題の一つ一つは確かに不愉快なものであるが、たとえば「天下り」を全廃したところで、デフレ脱却や社会保障の再建・強化、過労・貧困問題の解消にとって一体何が前進するのかを真面目に考えはじめると、今の官僚批判の盛り上がりはやはり何かを間違えているとしか言いようがない 。それは、護送船団方式や財政投融資の仕組みが強固に生き残っていた90年代までならともかく、それらが明らかに解体もしくは弱体化している現在になって、そうした官僚批判がかえってエスカレートし、しかもその批判の焦点も給与水準や年金格差といった(つまり解決したところで効果も薄い)小さな問題に当てられていることにも象徴されている*4。おそらく「ポピュリズム」という言い方が登場するようになるのは、こうした政治が盛り上がるような局面である。つまり、一義的な「民意」の存在を事前に想定する形の民主主義が、現実には不可能あるいは困難になっているはずなのにも関わらず、軍事・外交あるいは財政上における「国家的危機」が過剰に喧伝されたり、あるいは一部の特権勢力とそれに抑圧される国民という対立図式で政治問題が語られたりして、それがなぜか世論の広範な支持を得てしまうような現象が、「ポピュリズム」と呼ばれているのだろうと思う。
その空疎さを生み出したのが、下半身では利害調整の政治をしているくせに、それを正面から認めようとせず、上っ面では利害調整をなにやら汚らしいものであるかのように描き出し、空疎な「正義」に浸っていたかつての「進歩的」な人々であったこともまた確かであるように思うのです。
まことに、
>その意味で失望したのが、山口氏ら「反橋下」派の知識人たちが、生活関心の組織化という地道で泥臭い課題に取り組むのとは全く逆に、愚にもつかない頭でっかちの「独裁」「ハシズム」批判に堕して、真面目な有権者をかえって遠ざけてしまったことである。橋下を「ポピュリズム」と批判する側こそが、それに輪をかけたポピュリズムに陥っていたとしか言いようがない。
政治を損得の言葉で語ることから逃げ回っていて、いまの惨状をどうにかできるのだろうか、というところから出発しなければならないのでしょう。
わたくしが『新しい労働社会』の最後のところで述べたステークホルダー民主主義とは、何よりも、空疎な正義の民主主義ではなく、生々しい利害の対立、調整、交渉、その上での合意といった「泥臭い」民主主義を志向するものです。
綺麗事で政治を語る人々に、独裁を批判する資格はないのです。
>大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。
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問題は、「利害調整の民主主義」をやるには1億3000万人どころか大阪市240万人ですらステークホルダーが多すぎる、大きすぎるから分権なんかじゃ足りず最低でも道州制、場合によっちゃ「分国」が必要なんじゃないか、という話ですね。http://bit.ly/amtZUGとかhttp://bit.ly/ac0zCGで言われているように。
投稿: koge | 2011年12月 6日 (火) 08時09分
いや、だから、利害を団体に集約して、団体間のゲームにすることで、それを可能にするのがステークホルダー民主主義。
むしろ、これを個人ベースで最初に理解されてしまうというところに、今日の問題が凝縮しているのかも知れません。
投稿: hamachan | 2011年12月 6日 (火) 09時10分
>kogeさん
仮に大阪市240万人が大きいなら、別に都構想など不要で分市すればいいだけです。それなら法改正もいらないし。
むしろ都構想というのは、財源も権限も市から府に集積させることにあるので、「分国」になってないでしょう。地方「分権」になっていないわけです。府から各市に権限も財源も移譲するなら理解できるんですが。
この地方「集権」の橋下を、みんなの党が支持したのもガッカリでした。立場は違えど、分権を目ざしていると思っていましたから。
それと8か9の特別区に分割するなら、それぞれ区議会や議員が必要なので公務員数は増えるでしょうが、橋下やみんなの党はそれでいいんでしょうか。
権限も財源も一部にせよ奪われる大阪市民が、なぜ都構想を支持するのが多数なのか理解不能です。そんなに大阪は閉塞感がただよっているのでしょうか。
投稿: spec | 2011年12月 6日 (火) 10時09分
どうでしょう、利害を団体に集約する「共同体主義」ではそこからこぼれ落ちてしまう人、その共同体に押し潰されてしまう人々がいる、というのが「市民」勢力の言い分で、それには決して理がない訳じゃないとも思うんですが、実際にはそれは口だけで保守勢力に比べてすらそういう人達を一顧だにして来なかった革新勢力ばっかりで…
投稿: koge | 2011年12月 6日 (火) 12時23分
今の時代には、「団体を通じた利害調整」はうまく機能しないでしょう。女性団体とか障害者団体とか外国人団体(朝鮮総連や民団など)はあっても、若い健常な日本人男性のための団体はありませんからね。農村だと農協やいろいろな地域団体がありますけど、都市部では仮にそういう団体があっても若い人が参加するものではないですし。以前は、若い健常な日本人男性は企業の正社員になって、企業や労働組合を通じて社会的利害調整に参加できたのでしょうけど、非正規では企業や労働組合にも実質的な参加はできない。そもそも、本人がずっと非正規をやっているつもりがなく、なるべく早く正社員になりたいと思っているのなら、非正規の待遇改善・地位向上などという課題に関心は持てないでしょう。
もちろん、若い健常な日本人男性で非正規社員をやっている人は、「はやく正社員になりたい」という要求を強く持っているでしょうが、何らかの団体を通じてその要求を実現するということは期待しにくいんじゃないでしょうか。
既存の団体が新しく発生した問題に対して調整能力・解決能力を失っており、そのため特に若者を中心にして団体離れ・団体不信が広がっている。その結果として、かつては各種の団体は若者に政治的指導をする場(たとえば選挙では誰に投票しなさいとか)でもあったのですが、今の若者はそういう政治指導も受けられなくなっており、政治的に大変未熟な状態になっているのではないでしょうか。
投稿: CramClam | 2011年12月 7日 (水) 06時08分
>様々な利害や価値観をもった個人や集団の間の対立や話し合い妥協のプロセスであると考える・・・多元主義的民主主義
>全体としての「民意」の存在をあらかじめ前提とし、その「民意」の名の下に個別の利害や価値観を偏ったものとして否定あるいは軽視する・・・一元主義的な民主主義
>ポピュリズムは言うまでもなく後者の一元主義的な民主主義に属するものである。
多様な価値観をもった個人や集団が生成される過程で、政治的なムーブメントとしてのポピュリズムは不可避的に発生するでしょう。ここで問題なのは、多様な価値観を伝えるメディアの役割でしょう。また、メディアの報道を受取る市民のメディアリテラシーの問題もあるでしょう。
日本では、メディア(TV、ラジオ、新聞)が少数の系列会社によって独占されています。報道を少数に集中させることによって、政府を含む身内の論理で報道内容を規制しています。メディアの独占により多様な人達、多様な価値観から報道が阻害されます。多様性の中からポピュリズムの弊害が希釈れるものと期待しています。
メディアリテラシーの問題もあると思います。自分自身の利害あるいは自分が属するグループの利害にとって、それぞれの政治がどのような意味を持つのかを考える能力の育成が必要でしょう。
>利害を団体に集約して、団体間のゲームにすることで、それを可能にするのがステークホルダー民主主義
誰がどのような団体に利害を集約させようというのでしょう。労働組合法のユニオンショップ制は、労働者に選択の余地を与えず1つの産業別組合に帰属させようという法律です。
電波法は、少数の系列会社を選んで報道を独占させようという法律です。もちろん、電波は希少資源であるから少数者による保有はやむを得ないのですが、電波を通して配信する報道内容の編集権もこれらの系列会社に支配させているところに問題があるのです。
少数の団体に利害を集約させることによって、政府がコントロールしやすいという仕組みもあるのです。そこでは、多様性が犠牲にされます。本来、団体は自発発生的なものであり、個人に対して自分が所属する団体を選択する自由を保障しなければなりません。
投稿: hiro | 2011年12月 7日 (水) 11時57分
http://shinsho.shueisha.co.jp/kotoba/1206tachimi/03.html#8
中野剛志氏@KOTOBA (集英社)より
「柴山 その専制をさせないためには、国家と個人の間に幾層もの中間団体というフィルターをつくって、一時的な世論が直接政治に反映されることを防ぐ必要がある。これが彼の強調したことですよね。
中野 裸の民意が直接反映されると、多数派が少数派を無視する形で弾圧して全体主義になるぞと彼は警告した。
恐ろしいことに、日本はこの二〇年の間に、そのフィルターの役目をしていた中間団体をぶっ壊しまくっているんですよ。小泉政権のときの郵政民営化で特定郵便局を破壊したのもそう。郵便局は地方のネットワークである中間団体だったんです。今回のTPP問題で言えば農協もそうです。そういうコミュニティを破壊して、トクヴィルから見たら頭を抱えたくなるような自爆テロを日本人はやり続けてきているんですよ。」
投稿: しゃくち | 2012年6月11日 (月) 21時49分