フォト
2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ

« 仕事漬け「社長 島耕作」のホンネ | トップページ | ボランティアの業務命令 »

2011年11月 8日 (火)

辞める新人教員、10年間で8.7倍 「心の病」急増

朝日の記事で、

http://www.asahi.com/national/update/1108/TKY201111080209.html

>全国の公立学校に勤める新人教員のうち、1年以内に依願退職した人の数が2010年度までの10年間で8.7倍に増えたことがわかった。特に心の病による退職が急増している。団塊世代の大量退職による負担の増加や、保護者や先輩教員らとの人間関係から来る悩みを原因に挙げる声がある。

Book なぜそういうことになっているのか、詳しく知りたい人は

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-b495.html(今こそ、教師だって労働者)

で紹介した、朝日新聞教育チーム『いま、先生は』(岩波書店)を是非読みいただきたいと思います。

>気力を失い早期退職を選ぶベテラン,力尽きて倒れる者,過労死する者,心を病む者,迷いながら教師らしくなっていく新人,非正規雇用でも教えることに情熱をもつ若者…….教師という,過酷でありながらなお人を惹きつける仕事の現在に迫り,大反響をよんだ朝日新聞の連載に,新原稿と読者からの「反響編」を加えて単行本化.

« 仕事漬け「社長 島耕作」のホンネ | トップページ | ボランティアの業務命令 »

コメント

どういう人が辞めてるのか分からないと、何ともいえないのではないでしょうか。無能教師や問題教師が居座りつづけられなくなってきたと言うことであれば、望ましいことですし。

>無能教師や問題教師が居座りつづけられなくなってきたと言うことであれば、望ましいことですし。


たとえ無能教師や問題教師が辞めていってるのだと仮定しても、心を病んだ末にそうなることが「望ましい」ですか?
あなたはサディストですか?

 記事見出しにある「離職する新人教師「数」が8.6倍である」ことだけを強調するのはミスリーディングの可能性があります。

 まず10年前と比べて団塊世代退職に合わせて新人教師採用は2倍以上になっています。実際朝日の記事本文にも離職「率」は3.6倍とあります。
 次に10年前の22歳人口は現在の2倍近いということにも注目すべきでしょう。つまり10年前と比べて単純比較すると4倍近く教師になりやすくなっているわけです。
 教員試験が教師の適性を測るのに一定の役割を果たしているのであると仮定すれば、10年前比で4倍門を広げれば不適性新人教員の割合は10年前と同じではないでしょう。それは海老原嗣生さんの指摘「18歳人口が減っているのに大学生の数を増やせば大卒就職内定率が下がる」と似たメカニズムです。

 さらに注目するべきは10年前の経済状況と現在の経済状況です。
 10年前に転職を考えた新人教師と現在転職を考えている新人教師のどちらが転職しやすいかを考えればわかります。10年前と違い現在が就職氷河期でないことは海老原さんが繰り返し書いているとおりです。

 それらを踏まえてもなお新人教師には重荷があるのでしょう。
 その重荷の原因は、濱口先生が指摘する教育における消費者主権のためだけでなく、教師集団の互助活動が団塊世代の退場とともに消えて教師間が個人主義化していることや、教育現場に過剰なコンプライアンスが持ち込まれていることにも求められるでしょう。

公立学校の教師の場合、ブラック企業のように厳しいノルマやハラスメントがあるわけでもないのに、働きすぎて潰れてしまう人が仮にいたとしても、それはもはや自己責任の問題ではないでしょうか。

数年前に、九州のある県で教師が自分の子どもを不正な手段で教師として採用しようとして、摘発された事件がありましたよね。
もし、教師が過酷で割に合わない職業であるのなら、現実をよく知っている教師が、不正な手段を使ってまで自分の子どもを教師にしようとするはずがないではないですか。
いい商売だからこそ、自分の子供を押し込もうとするわけで。

おそらく第一の論点は、
>公立学校の教師の場合、ブラック企業のように厳しいノルマやハラスメントがあるわけでもない
という事実認識の問題でしょう。

例えば、クラブ活動一つとっても事実上ボランティアとして行っているような状況で、公立学校の教師とひとくくりにして、厳しいノルマやハラスメントがない、というのはすこし言い過ぎではないでしょうか。

ブラック企業のノルマはもっと厳しいというのであれば、ブラック企業はより一層是正が必要だというだけの話で、わざわざ引き合いにだすものでもないでしょう。

第二に、
>いい商売だからこそ、自分の子供を押し込もうとするわけで。
というのも、事実を単純化しすぎではないかと思います。ほんとうにその佐賀県の事例の動機が「いい商売だから」なのでしょうか。

仮にそうだとしても、
・親として、(手段の正不正を無視するとして)子が望むところへなんとしても行かしてやりたい、ということと、
・一般的に見て、その労働の現場が心を病むほどの激務が課される現場だ、ということとは、
決して両立しないわけではありません。


第三に、そもそも、雇用されて労働している人が「働きすぎて潰れてしまう」状況自体、原則として防止すべきだからこそ労働法があるのであって、ノルマの有無とはさほど関係ないはずですし、自己責任であると決めてかかることはできないように思います。

ご冗談を。客観的にみて過酷で割が合わない職場に、わざわざ違法行為までして自分の子どもを押し込もうとする親なんていませんよ。教師が、わざわざ違法行為までして自分の子供を教師にしようとするのは、教師がいい商売だからであることを良く知っているからでしょう。

それに、「ボランティア」は労働ではありませんから労働法の対象にはなりませんよ。「ボランティア」が嫌だったら断ればいいだけのことです。教師みたいに、公務員として手厚く身分保障されていて、労働組合もしっかりある職場で、どうして「ボランティア」を断れないんでしょう。

どういう学校に勤務するかにもよりますが、公立学校教員の仕事は、十分にブラックですよ。生徒の学習指導以外の仕事・・警備員の仕事(授業のない時間帯に校内巡回)、校内の清掃(本来は生徒を指導してやらせるものですが、自分でやったほうが楽だからとやってしまう教員もあります)、様々な「校務分掌」の仕事、担任ならば問題を抱えた子供へのカウンセリング、さらに勤務時間外の度重なる家庭訪問、近隣の苦情処理、土日をつぶしての部活の引率etc・・その合間に、或いは勤務時間外に遅くまで居残って、授業の準備をしているのが現状でしょう。世間の人は、教育問題を「教員の質の問題」だと思っているみたいだし・・。

そりゃあ「子供をうまく指導できない人」とか、「たかが小中高の授業の準備に手間取る人」が教師をやっていたら、しんどいでしょう。でもそれは教師の職場がブラックかどうかとは関係なくて、教師になるべきではない人が間違って教師になってしまっているのです。そんな教師に教えられる子どもはたまったものではありません。
 根本的に向いてないのですから、そういう人には教師を辞めていただくのが一番いい解決法なのですが、いままでは無能教師・問題教師を辞めさせる方法がありませんでした。ですから、無能教師・問題教師を辞めさせる手続きを定めた大阪府の教育基本条例には期待しています。

それにしても、教師ぐらい労働組合活動を熱心にやっている職場で、「過酷」だとか「ブラック」だとかいう人が出てくるのはどうしたことでしょう。教師の労働組合は一体何をやっているのでしょうか?

ブログの本題と噛み合わないことをグダグダと何度も書き込む人だなあと思っていたら、「大阪府の教育基本条例」の支持者でしたか。

>たかが小中高の授業の準備に手間取る人
「たかが」という副詞に恐れ入りました。手抜きでよければ手間はいくらでも省けますが・・。私は授業の準備に費やす時間が楽しいし、一応「教」員なのだから、そのための時間は確保したいと思っているのですが。

それはそうと、「大阪府の教育基本条例」が通ったら、大阪府の教員試験の倍率は間違いなく急降下すると思いますよ。

結局、解決策は「教員を増やす」のか「仕事を減らす」のか「専門事務職を設ける」のかどれがいいんでしょうか?

学校のガバナンスを確立して、もっと効率的に学校経営を行うことが必要だと思いますね。なぜ、みんなわざわざ高い金を払って塾に子どもを行かせるのでしょうか? 塾に行かないとまともに勉強が出来ない状況になってしまっているからです。今では「勉強は塾でやるもの、学校はただの時間の無駄」になってしまっているのでは? この塾のノウハウを取り入れないのは愚かです。
 土日にクラブ活動をやって子どもたちを引き回す教師などがいますが、子どもは土日は塾に行かなければなりません。本人は熱心に教育しているつもりかもしれませんが、子どもにとっては迷惑以外の何物でもない。このように教師が勝手な思い込み・勘違いで子どもに迷惑をかけるのを止めさせ、全て校長が決めた方針に従って教育を行う。校長の方針に従わない教師は解雇する権限を校長に与える。もちろん校長は任期制にして、PTAの評価が悪かったり、成果が上がらなければすぐに交代させる。
 今の学校に必要なのは、教師の自分勝手を止めさせ、教師をしっかり管理して良い教育を行わせるシステムです。塾ではそれが出来ているのですから、それを学べばよい。

>学校のガバナンスを確立して、もっと効率的に学校経営を行うことが必要だと思いますね。

例えば学習障害を抱えた児童や、家庭に問題があって生活態度が乱れている児童などへのケアはどうなさるのでしょうか?
学力テストへの対策だけならマニュアル的に効率化を図ることも(大多数の児童には)可能なのかもしれませんが、色々な児童(場合によっては保護者も)が集まってくる場においては個々別々への対応を迫られる事態がどうしても出来してくるわけで、それを「効率化」の一言で括ってしまう辺り、現場への無理解が如実に表れているように私には思われます。

>土日にクラブ活動をやって子どもたちを引き回す教師などがいますが、
普通、クラブ活動をどの曜日に行うかは、教師の独断で決められることではありませんよ。

>子どもは土日は塾に行かなければなりません。
クラブ活動より塾通いを重視するか否かは、その子(および親)の勝手でしょう。それに、クラブ活動よりも塾通いの方が、むしろ曜日や時間帯の融通が利くはずです。塾通いが無理なら通信添削だって構わないわけで。
なぜ「教師が児童の自由な選択を制限する」というアングルでしか物事を語れないのか、理解に苦しみます。

>今の学校に必要なのは、教師の自分勝手を止めさせ、教師をしっかり管理して良い教育を行わせるシステムです。塾ではそれが出来ているのですから、それを学べばよい。

でしたら、貴方が自分の子供を塾に通わせればよろしい。もしくは、今から貴方自身が教員免許を取得して、「現場からの改革」を目指すべきです。
学校教育に関しては、より良い学校への進学よりも、最低限の社会常識を身に着けさせてほしい、と考えている親御さんも世の中にはそれなりに多いものです。
貴方の主張は要するに、本来は貴方が自分の子供の教育のため御自分で支払うべきコストを、社会の問題に還元して他のみんなに肩代わりさせたいだけなんじゃありませんか? そんな虫の良い考えで、教育改革なんか無理ですよ。

学校は塾が果たしていない機能「も」担っているのでして(鬼木さんがその一端を挙げられてますね)、教員の責任もまたその分重いわけです。

…なんてことが、この本には最初から書いてあるんですけど。

>例えば学習障害を抱えた児童や、家庭に問題があって生活態度が乱れている児童などへのケアはどうなさるのでしょうか?

 まともな組織であれば困難な問題に対処するのはトップマネージメントの責任であって、ヒラ従業員の仕事ではありません。教師がこんなことを考えなければならないということ自体、今の学校がまともな組織の体をなしてない、ガバナンスが全くできていない証拠です。
 従来の学校職員の手に負えなければ、外部の専門家の力を借りるしかないでしょう。今後の校長は、必要な外部人材を調達してくる(当然、そのための予算も確保する)力量が求められるのです。
 「社内に適任者がいなければ外部専門家の力を借りる」というのは、民間企業ならごく当たり前のことです。これからは学校もそのような「実社会では当たり前のノウハウ」を取り入れなければなりません。しかし、おそらく「学校の常識=社会の非常識」が染み付いている現在の教育関係者にはそのような能力はなく、経営ノウハウを持った人材を外部から送り込む必要があるでしょう。
 だいたい、どんな塾でも学力別クラス編成をやっているのに、公立学校はその程度のことさえやってない。子どもも、保護者も学校に期待することは多様です。高レベルの進学指導を期待する子どももいれば、もっと基礎的な指導を期待する子どももいる。こういう多様な子ども達をごちゃまぜにしたら良い教育ができるわけがない。今の公立学校関係者にはその程度のことも分からないのですから、公立学校の教育が危機的になるのも当然でしょう。

>でしたら、貴方が自分の子供を塾に通わせればよろしい。

いかにも教師的な反応ですね。「もっともまともな教育をやってほしい」という子どもや保護者の願いに対して、「それなら塾に行きなさい」というのが、これまでの教師の対応だったと思います。まさにここに、現在の公立学校危機が現れています。
 とにかく、今の教育関係者には危機的状況を打開することは全く期待出来ません。マネジメントの経営にとんだ優秀な人材を外部から教育界に送り込み、その人に不良教師の解雇などの大きな権限をもたせることが、公立教育の再生には絶対に必要でしょう。

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1111130012/

まず、私は教職とは全く関わりのない仕事に就いているので、
>いかにも教師的な反応ですね。
「見えないものが見えてしまっている人」と議論を続ける異議は薄いよなあ、と思いつつ……

>従来の学校職員の手に負えなければ、外部の専門家の力を借りるしかないでしょう。今後の校長は、必要な外部人材を調達してくる(当然、そのための予算も確保する)力量が求められるのです。
つまりADHDの児童には専門のカウンセラーが、いわゆる「モンスター・ペアレント」には弁護士や警官が対応すればいい、そのための予算は校長が「自らの経営ノウハウ」でもって確保せよ、ということですね。
でも公立学校の場合、その予算をどこから引っ張ってこれるんですか? 公共の予算から分けてもらうのは無理なので(=特定の学校にだけそんな予算を付与するわけにはいかない)、スポンサーでも見つけてこい、ということでしょうか。それは最早「公立」ではありませんけどね。
加えて言えば、専門のカウンセラーや弁護士を動員する形での対応は、高額の学費や寄付金を積まないと通えないようなエリート私学でないと無理でしょう。その理由をご一考されるとよろしいかと存じます。

>経営ノウハウを持った人材を外部から送り込む必要があるでしょう。
「経営ノウハウ」に基づく判断なら、「学習障害児はさっさと退学させる」のが恐らく妥当な対応でしょう。しかし、それは公立学校としての責務を放棄するのと同義です。

>「もっともまともな教育をやってほしい」という子どもや保護者の願いに対して、
例えば、
・毎朝きちんと国歌斉唱と国旗拝謁を行う
・勉強は読み書き程度で十分なので、日本代表クラスを狙えるよう、1日6時間はサッカーの練習に充ててほしい
・国公立医学部を狙わせたいので体育の授業なんか不要
……等々、どれも各々の児童にとっては「まともな教育」「あるべき課程」になり得ます。そのために国士舘とか帝京とか灘・開成とかいった名門私立学校もある。上記のような細分化されたニーズに公立学校が対応するのは、教育資源の配分の観点からはむしろ不適切なので、公立学校で不満ならそれぞれの親御さんが塾なりサッカークラブなりに通わせることになるんじゃありませんか?

鬼木さんの考え方は実に「教師的」ですね。教師でないというのなら、なぜそれほど必死になって教師を擁護するのか分かりませんが。

どんな塾でも学力別のクラス編成をやっています。それは、その方が良い教育ができるからです。では、なぜ公立学校では学力別クラス編成をやらないのか?
 学力別クラス編成をして良い教育をしようと努力するのではなく、良い教育をしない言い訳を探すのに力を入れる。こういうところが公立学校の改革しなければいけないところだと思うんですが。
 もっとも、学力別クラス編成をするかどうかは、教師ごときが考える必要はありません。そういう学校経営の基本方針は校長が決めるべきです。校長にはそのような決定が出来る独裁的権限を与えないといけません。もちろん、校長の指示に従わない教師や、教育成果を上げられない校長はクビにすべきです。今の公立学校には、こういう権限と責任に基づいたガバナンスが決定的に抜けています。

Toさん
 そのページに書いてある事件は不可解ですね。それほど一人の人に仕事が集中しているのに、他の教師は何をやってたんでしょうか? 教師の労働組合は何にためにあるのでしょうか? 校長は仕事の割り振りをしてなかったんでしょうか? 不可解ですね。

学力別クラス編成・・「習熟度別少人数指導」と呼ばれて公立学校で普通に行われていますが?
CramClamさんのお書きになっていることで、ご自身の実体験に基づいたことは、何パーセントあるんでしょうね? ステレオタイプな思い込みのオンパレードという感じです。「大阪府の教育基本条例案」を支持する人の標本として興味深く拝読させて頂いております。こういう人のお相手をするのも教員の職務の一環のようですが、本当に心身ともに消耗させられます。

>どんな塾でも学力別のクラス編成をやっています。それは、その方が良い教育ができるからです


それは効率がいいから=コスト削減

ただそれだけの話。

習熟度別クラス編成の弊害は、どっかで指摘されていたと思う。(絶対だめとは思わないが)


そもそも塾と学校は全く違う存在。

塾は生徒を選べるが、学校は生徒を選べない。

>教師でないというのなら、なぜそれほど必死になって教師を擁護するのか分かりませんが。

私からすると、なぜ貴兄がそこまでムキになって「教師」を(正確に言えば、「教師」と貴兄がお呼びの藁人形を)disり続けているのか、さっぱり理解できません。貴兄が自分から見た「ムカツク教師」に対し、私怨を募らせているだけではありませんか?

>では、なぜ公立学校では学力別クラス編成をやらないのか?

K.M.さんもご指摘の通り、実質的な学力別編成を採用している公立校は既に存在します。それ以前に、高校レベルなら学力によるランク分けが厳然となされていますね(東大志望の中学生が定員割れするような工業高校には通わないでしょう?)。
加えて言うなら、より細分化された、あるいは厳しい学力別指導がお望みであれば、そういう方針の私立校や塾に通わせれば済む話です。成績優秀なら授業料を免除してくれる所だって珍しくない。かように実行可能な手段など既に幾らでもあるのに、なぜ「公立学校の自己改革」などという迂遠な可能性に固執なさっておられるのですか?

それともう一点、生徒をクラス分けする基準として貴兄が殊更「学力」だけを例示するのは何故ですか? 例えば芸術活動への適性や運動能力を尺度として採用するのは、何か問題があるのでしょうか。

CramClamさんの意見に賛成。
教育は教職員が勝手にやるんじゃなくて、国民があーだこーだと議論して作り上げ改革していくものだと思う。

今の教育を受けた若い人たちが新しい日本を作っていくのだから、教育問題に無関心な人は選挙権を放棄してるようなもの。

CramClamさんは教師を擁護してるのでもなく、私怨をぶつけてるのでなく、現状の教育環境を良くしようと考えてるのは明らか。

だって、日本の教育が間違ってるから、国際競争力が落ちて、雇用は減り、税収は減り、膨大な財政赤字を国が抱えるに至ったんじゃないの?

CramClamさんの言ってることがわからない人はそのあたりから勉強してみるといいと思います。

>Jerry様
>教育は教職員が勝手にやるんじゃなくて、国民があーだこーだと議論して作り上げ改革していくものだと思う。

仰る通りですね。子供たちにより良い教育環境を提供するためにも、教職員に一定水準の労働環境を保障することは不可欠です。教職員の「質」「量」ともに充実させる方向で改革が行われることを、切に望みます。

>だって、日本の教育が間違ってるから、国際競争力が落ちて、雇用は減り、税収は減り、膨大な財政赤字を国が抱えるに至ったんじゃないの?

そうした間違いの原因は「国策」であって、教育ではありません。なぜなら、教育もまた「国策」によって方向性が定まるものだからです。

中曽根政権において「ゆとり教育」の方針策定が推進された経緯、そしてなぜ「脱ゆとり」という方針転換を余儀なくされたのか、というあたりから勉強してみるといいと思います。

その手の論議では過去の成功事績か、現在上手く行っている諸外国の事績を参考にするわけで、日本の過去の成功事績というと明治と高度経済成長期ということになります。

国際的な比較という面でPISAの結果をみると、ゆとり教育の失敗は明らかですね。もともと大変な好成績だったので上に行く余地は少なかったのですが、アドバンテージをだいぶ失ってしまいました。一方橋下流の元祖であるブッシュ教育改革を経た合衆国の成績は僅かに上がり、漸くOECD平均に届きました。しかしそれ以上に参考にすべきなのは上海やシンガポールっていうことになりますね。

OECDのサイトでデータベースに対し直接様々なクエリが行えます。ググってすぐ見つかるサイトだと、下記にまとまっています。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3940.html

//そんなにPISAが良かった過去の日本が、何故失われた20年に嵌まり込んだかは考えないことにしますw

以上から思い付く素朴な感想としては、教師の質云々より、単純に詰め込み教育で猛勉強させるのがやはり良いのではないかと思うのです。その点では柔道必修にする暇があったら土曜日も授業しろよと(塾に行けなくなる、という苦情が出るかな)。

>通行人貮號様
>教師の質云々より、単純に詰め込み教育で猛勉強させるのがやはり良いのではないか

最近ではフィンランドの教育政策が注目されていますね。PISAのスコアはトップクラスながら、「詰め込み教育」とは程遠いスタイルらしいですが。
「詰め込み教育」を目指すにせよ、教師の質(=具体的には児童・生徒に学習させる能力)が低いと詰め込みの能率が落ちますし、「落ちこぼれ」に対する手当ても今以上に必要になりますから、かえって「教師の質」を云々しなければならなくなるのでは?

付言すれば、「詰め込み」だけなら何も学校でやらせる必要はなく、家庭学習や塾・予備校でも可能なことです。
義務教育の場において全員への知識の詰め込みに主眼を置くべきか、それとも人間性の涵養をもっと図るべきか、については議論が必要でしょう。
もっとも、「詰め込み」という発想自体、「みんながエリート」主義の表れなのかもしれません。

私は、労働組合があるのにブラックなのは不思議であるというCramClamさんの指摘が気になりました。民間企業ならば労働組合があるのは一部上場企業ぐらいですから、一部上場企業程度の労働環境であってもおかしくないと思います。実際、どの程度ブラックなんでしょうね。

教師自身の資質の問題というのも大きいと思います。フィンランドは詰め込み教育でないのに高成績です。ゆとり教育というのはそのフィンランドのやりかたを志向したものだと思われますが日本では失敗しました。私は、現場の教師がその理想についてこれなかったのが、失敗の原因だと思ってます。フィンランドでは教師はエリートですから、現場の教師に強い権限を与えても成り立つのであり、それをそのまま日本に持ち込んでもうまくいかないのは当然かもしれません。フィンランド的なやり方はそういった高水準な教師を揃えられる私立でやるべきであり、公立ではトップダウン式の詰め込み教育というやり方が現時点でのベターかもしれません。残念ですが。

教師の資質を考えずに制度を弄ぶというと、中学校の柔道の必修化なんかもそうですね。本日の毎日新聞のコラムでは、数回講習を受けただけの教師に黒帯を出していたという話が取り上げられていました。柔道は格闘技ですから、やり方を間違えると人が死にます。やるんだったら数年がかりで準備をすすめる必要があったと思われます。

ゆとり教育が失敗したのかどうかはわからない。
ただ、今は教員に求められている資質が明治や高度成長期とは違うと思う。

なので、その資質を満たさなかった教員が人間として無能なわけではない。
現代の教育のニーズにマッチしなくなったというだけなので、そのような人は過労死したりノイローゼになる前に別の仕事を探した方が本人のためでもある。

教師としての適性に見切りをつけて自分で退職できる人はいいが、そのような自己コントロールできない人は校長などに人事権を持たせて「切り落とす」というショック療法しかないだろう。

暗記中心の詰め込み教育ってのは、受ける側からすると単純な戦略で対応できる分、比較的出自によらないフラットな性格を持っていると考えます。そういう点も含めて鬼木さんのおっしゃる通り「みんながエリート」主義の遺物ではあるのでしょう。

もう一つ、その場が学校でなくても構わないのではないか、とのご指摘もその通りで、原理的には塾と全国一律の試験で事足りるのです。社会生活の訓練や人間性の涵養といった機能は失われますが、悲しいことに人間性があってもメシのタネにはならないので、教育機関の目的の中で捨てるとしたらそちらでしょう。必要があれば学校の外に青年団でもピオネールでも作るしかないのではないかと。

道徳も愛国心も教えた上にPISAでトップを目指し健全かつ従順な市民を育てると同時にジョブスを量産せよなんて無理ゲーは望みませんよ(最後の二つは明らかに矛盾してますし)。

くまさん、それは若干誤解を含んでいると思います。確か苅谷さんがお書きになっていたと記憶しますが、もともとは丸暗記からの脱却や児童生徒のやる気を引き出すことを目指す筈だったのが、公教育縮小ないし授業時間削減の道具にされてしまい、おまけにろくな準備もしないで総合なんて導入したものだから…

>Jerry様
>ただ、今は教員に求められている資質が明治や高度成長期とは違うと思う。
>現代の教育のニーズにマッチしなくなったというだけなので

「現代の教育のニーズ」が何なのかを示すことこそ「国策」に他ならず、教育政策とは国策を踏まえて初めて方向性が定まるものではありませんか?

>校長などに人事権を持たせて「切り落とす」というショック療法

それも一つの方策かもしれませんが、校長に人事を含め多大な裁量権を負わせる場合、
(1)「校長としての適格性」は誰がどのように判断するのか
(2)校長と教職員、また児童生徒(およびその保護者)との利害が対立した場合、誰がどのように仲裁するのか
……といった問題が付いて回ります。「公教育」の「公」としての水準をいかに担保するか、と言い換えても良いでしょう。その辺りの理念を抜きに制度設計を夢想するのは、宙に梯子を架けるのも同然かと存じます。

>通行人貮號様
>悲しいことに人間性があってもメシのタネにはならないので、教育機関の目的の中で捨てるとしたらそちらでしょう。

私の考えは正反対です。「人間性」とまでは申しませんが、人々は社会の一員としてどのような権利を有するのか、それに基づいてどう行動すべきかを義務教育の場できちんと教え込むべきですし、その優先順位は「知識の詰め込み」よりも高いと考えます。
歴代天皇の名前を全て暗記していようが英単語を何万語覚えていようが、「民主主義」「法治国家」「社会保障」に関して根本的な知識を欠いたままで社会に送り出されてしまえば、彼らは「衆愚」と化すでしょう。そうした「衆愚」が空虚な「改革」あるいは「保守」を口にしつつも現実には何も為し得ていない、というのが日本のここ10年の姿ではありませんか?

NCLBでは、児童生徒に統一テストを受けさせ、その成績次第で公立学校にペナルティ(民間企業の授業へのコミット、教員の入れ替え、民間への払い下げなど)が課せられるようになっています。つまり校長を含んだ教員の適格性については、試験の成績という「結果」で評価されることになります。

どこかの自治体が行おうとしているように、唇の動きを観察して特定の歌を歌っているか検査するよりは、ずっと公正で合理的でしょう。

鬼木さん、ゆとり教育は国民教育の刷新を図ったものでしたが、結局の所、公教育の民間へのアウトソーシングになってしまいました。こちらの側面を回復することは比較的に容易で(一番簡単には昔のやり方==詰め込みに戻せばいい)、しかも結果を数値化しやすいので攻撃されにくいという利点があります。

一方、公民教育には何かと横槍が入り、しかも彼らが卒業して出て行く社会はサービス残業とブラック企業が全盛で、それどころか日本人は要らないから移民を増やせと。そこで権利や法制度を教えるのは、かなり虚しい感じがします。それなら英単語の一つも覚えた方がいい。読もうと思えば青空文庫で大杉栄でも幸徳秋水でも読めるのですから。

>通行人貮號様
>校長を含んだ教員の適格性については、試験の成績という「結果」で評価されることになります。

それは確かに「公正で合理的」な基準ではあるのでしょうが、半面で、学習障害を抱えていたり、家庭に問題があって勉学に専念できない児童・生徒へのフォローがなおざりにされがちになるという問題があります。「公」教育である以上、「落ちこぼれ」は誰かが引き受けなければならないという点に関しては、どうお考えでしょうか。

>こちらの側面を回復することは比較的に容易で、しかも結果を数値化しやすい

教育現場の人的リソースが乏しいので過重労働になっている、というのがこのエントリの趣旨ですから、いずれにせよ教職員の頭数を増やす必要がある点に関しては同意して頂けるかと思います。
ところで「ゆとり教育」とは、「詰め込み教育」では「生きる力」を涵養できない、という発想が基になっていたはずです。ならば、単に「詰め込み教育」のみを復活させるのではなく、「生きる力」に関しても数値評価、即ち「公正な基準」を導入する必要が出てくるのでは?

>公民教育には何かと横槍が入り、しかも彼らが卒業して出て行く社会はサービス残業とブラック企業が全盛で、

これを敷衍すると、「現状においては公教育も職業訓練も不要」という結論に至るのでは? 結果、落ちこぼれが食い詰めた末に社会不安の元凶になるのは「自己責任」ゆえ致し方ない、と。
むしろ英単語の方こそ、個々の必要に応じて学ぶべきでしょう。それよりも、申請すれば生活保護を受けられるはずの者が、制度自体を知らずに罪を犯したり、引き籠もったまま餓死したりするような社会であってほしくはない、と私などは思うのですが。

過重労働になっているのならワークシェアリングすればよい。

だがそれができない理由が「教員間における相互不干渉」という慣例にある。
私も教育実習を受けたことがあるが、ある先生が他の先生の指導方法に口出しするのは越権行為でありタブーであった。

そのようなしきたりがあるので、
Toさん記載のURLにあるような熱血先生が過労死寸前になっても、校長含め周りの人は、その先生の自主性を尊重するあまり、異議を唱えることができなかったに違いない。

だから、単純に人手を増やせばいいという問題ではないのである。
個々の意見を尊重しつつも、職員間のベクトルを調整し、その決定に責任を持つ立場の人が不在だからそういうことが起こる。

かなり昔のことで恐縮だが、神戸高塚高校校門圧死事件という痛ましい事件があった。
これも教育現場における不揃いのベクトルが起こした典型例と考える。

鬼木さん、いつもながら真摯な御発言、感服します。私はひねた奴なので…

>「公」教育である以上、「落ちこぼれ」は誰かが引き受けなければならないという点に関しては、どうお考えでしょうか。

本質的な点ですね。まさに「国策」「民意」で決めなければならない点です。NCLBでも問題になっていると確か朝日新聞が報道しています。この点については、私は自分が相当冷淡な方だという自覚があります(古い奴なんです。二宮尊徳並に)。そういえばLDやADDの人たちへの教育支援に関する報道が随分減りましたね。

>教育現場の人的リソースが乏しいので過重労働になっている、というのがこのエントリの趣旨ですから、いずれにせよ教職員の頭数を増やす必要がある点に関しては同意して頂けるかと思います。

昨今の「民意」をみるに、公務員としての教職員の頭数を増やすことについての合意は間違いなく得られないでしょう。人的リソースの増加が期待できない、むしろ時間とともに単調減少するとなると、公立学校の現場の業務を減らす—しかも可及的小範囲の失地に止めかつ非難を浴びないように減らす—しかないでしょう。部活はもちろん、各種行事をはじめとして音楽や美術や体育や道徳や最悪の場合中学校の定期試験とその採点もですね(どのみち最終的には、学校外で行われる入試の成績で教育の成果が評価されるので)。そのままずるずると公教育廃止になるかもしれませんが、それは「民意」次第。

>「生きる力」に関しても数値評価、即ち「公正な基準」を導入する必要が出てくるのでは?

それってとても危険ですよ。お気づきですか? 今の評価基準にすでに「授業への参加態度や関心・意欲」が入っているだけでも怖いのに(私なんか授業中にしょっちゅう窓の外の煙突見たりノートに陽炎型駆逐艦の落書きしたりしてたから、一発落第ですね。某自治体だったらそのまま何年小学校留年することになるやらw)。

>申請すれば生活保護を受けられるはずの者が、制度自体を知らずに罪を犯したり、引き籠もったまま餓死したりするような社会であってほしくはない、と私などは思うのですが。

その種の権利や法関係を教える「成功例」があまり思い浮かばないのです。たとえば鬼木さんが満足する状態というのが具体的にどのようなものかという。うーん、どうやっても「偏向教育」と叩かれるだけではないかなあ。それで効果が上がるのだろうか。

「テレビ漬け高齢者のポピュリズム政治」のエントリで触れられている「高齢者」やその下の世代って、ネトウヨ諸氏が言う「日教組の左巻き教育」を受けていて、中には「都市の論理」や吉本隆明を読みあさった人たちや、岡林信康歌いながらピケを張った人たちや、新谷のり子聞きながら三里塚に行った人たちもいることでしょう。彼らが「成功例」にならないとしたら、どうすれば「成功」するのでしょうか。法律の条文自体は「詰め込み教育」でも扱えるのですから、それ以上は多喜二や啄木に任せた方が…

もしかするとhamachan先生は、「職能教育」として、旋盤の回し方やコンパイラの使い方に加えて労働基準法や労働安全衛生法や労働組合法なんかも踏み込んで教えたらどうかとお考えなのかな。だとすると攻撃をかわすためにはなかなかクレバーなやり方かも。

>Jerry様
>過重労働になっているのならワークシェアリングすればよい。
>だがそれができない理由が「教員間における相互不干渉」という慣例にある。

だから「教員」だけでなく「職員」を増やしてほしい、という声も上がっていますね。
教員が煩雑な事務処理やクラブ活動の管理なども担当するため、本来業務である「教育」に専念できないことが「ブラック化」の一因である、というのはつとに指摘されています。臨時職員の雇用やボランティアの活用など、「単純に人手を増やせば」解決できる問題は、間違いなく存在すると思いますよ(それが全てだと主張するつもりは毛頭ありませんが)。

>通行人貮號様

>>「生きる力」に関しても数値評価を導入する必要が出てくるのでは?
>それってとても危険ですよ。お気づきですか?
うまく伝わらなかったようですね。もともと貴方は、「詰め込み教育」の達成度を評価するなら全国統一テストの点数などで「数値化」しやすい、というご趣旨だったのではありませんか?(ここが誤解でしたら申し訳ありません)
対して私は、「ゆとり」から「詰め込み」に戻すだけなら、「生きる力」はどうするの?と言いたかったのです。

「政策的に失敗だった、そんなものは教えられない」と撤回するのは簡単ですが、それにしては真摯な検討が足らないように思います。もともと一人の人間が義務教育を修了するのに9年間、4年制大学まで出れば16年かかるわけで、「生きる力」がどれほど涵養されたか?なんて簡単に評価できるわけがありません。
それに対して、比較的に短期間で達成できて成果も数値化しやすい「詰め込み教育」が再評価されるのは当然の流れでしょうが、それは易きに流れているだけではないのか、と私は思うのです。

>その種の権利や法関係を教える「成功例」があまり思い浮かばないのです。

とはいえ、年金政策の破綻や、「労働」の在り方の多様化などを踏まえると、国家や法、権利に関する教育を充実させないと、どうにもなりません。社会不安のリスクをわずかでも低減させる方策としては、「教育」はむしろコストが安く済む部類だと思うのですけどね。

アメリカの場合、軍隊が受け皿というか雇用の場になっているのでしょう。とはいえ、イラクやアフガンでの戦争のように、出世や進学を誘い文句にしてそれを活用するのにも限界が来つつある。

アメリカではもとから学校の統廃合がそれなりにあったとはいえ、落ちこぼれゼロ法で更に進めたことは逆効果だった可能性もある。現に、オバマ大統領は、教師を責めるのはやめにしようと言いました。

とはいえ、連邦政府や地方政府では、財政問題を理由に公務員が大幅に減らされたこともまた現実です。

翻って日本においても同様に、公務員たる教員を増やしやすい状況ではないでしょう。とはいえ、人々の間では、国家公務員の新規採用を大幅に削ることへの疑念が生じたのもまた確かでしょう。更に、昨今話題に上がりやすい大阪市では、一面では公務員が叩かれているようではあるものの、増員も図られていることから、マスコミの誘引する如く現実が動いているとは必ずしも言えないかもしれません。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 辞める新人教員、10年間で8.7倍 「心の病」急増:

« 仕事漬け「社長 島耕作」のホンネ | トップページ | ボランティアの業務命令 »