キミたちの将来の何のための学問なのか
先日本ブログで取り上げた『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』の沢田健太さんが、日経ビジネスオンラインで、同書にも増して超辛口の批判をぶちまけています。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-631d.html
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20111026/223438/(これからは大学中退者が激増する!4分類した学生像にみる、あの子が辞める理由)
なかなか皮肉な話はこれでしょう。キャリア教育で目覚めてしまった「学習意欲が高くて、対人関係能力も高い」「文句なし」タイプの学生が、これではいけないと中退してしまう。
>ただし、時代の気分がどうであれ、彼や彼女らも1度はすべり止め大学への入学を決めた人々ではあります。入学当初は「この大学でやっていこう」と自分に言い聞かせたはずです。それがどこで「再受験しよう」に変わるのか。
>いろいろなきっかけがありますが、そのなかで私が皮肉だなと感じているのは、キャリア教育の授業が再受験の思いに火をつけた、というケースです。「将来のことを考えていたら、ここにいてはいけないと気づいた」なんて話を、ちょくちょく耳にします。
>キャリア教育に携わる者としては、皮肉な話だと感じながら、同時に「自校内で成長する」という枠を飛び越えて、自力でキャリア形成を試みようとする学生たちを興味深く見ています。そして、彼ら彼女らに何か支援ができないものか、アイデアをめぐらせているところです。
途中を抜かして、「学習意欲が低く、対人関係能力も低い」悲惨な学生はどうか。
>あまり報道されないだけで、下位校において「学級崩壊」状態になっている授業はいくらでもあります。
というのは、現に経験されておられる大学教員の諸氏は多いと思いますが、もちろん、そうしてきたのは大学側であるわけです。
>過剰な広報と、ゆるゆるの入試制度によって、この層を積極的に受け入れたのは大学側なのです。例えば、「本当の自分に出会える!」などと大々的にうたったりして。
しかし、問題はむしろ、大学教育の中身にあります。
>ウソつき大学の学生の素行が悪くたって、彼らだけを責めることはできませんよね。私が指摘したいのは、そのように以前とは明らかに質の異なる学生を受け入れるようになった大学において、肝心の中身である大学教育に変化が見られないことです。
>もはや「大学生」と呼べる状態にない、なぜ自分が高等教育を受けているのか理解できないコドモたちは、旧態依然とした大学内で放置されているのです。
そう。この点にこそ最大の問題があることは見え見えなのに、未だに学校教育法の「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し」云々という虚構にしがみついているわけですね。自分たちのメシの種のために。
そして、この矛盾をこういうやりかたで「解決」しようという卑劣な手法も編み出されてくる、と。
>本人にその気が無いのなら、大学側としても無理してまで大学に通わせる必要はない。そのような合理的判断にもとづく「退学のススメ」を口にする大学人は、すでに出始めてきています。ゆるゆるの入試で合格させた結果なのに!
そこで、沢田さんが問うのは、もちろん、心ある人々が口を揃えていっていることですが、
>無理をして志望者を募るのであれば、大学はこれまで以上に中身の拡充と、企業社会とのつながりを再構築し、学生たちに学ぶ意義を教えていく必要があります。キミたちの将来の何のための学問なのか。
文系学部においてことさら、これまであやふやにしてきた部分です。いま、まさにそれが社会から問われているといえます。
キミたちの将来の何のための学問なのか?
この問いにまともに答えられない大学という看板を掛けた「こども園」に、もはや存在意義などかけらもないというべきなのでしょう。
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