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2011年11月20日 (日)

健全と脆弱の拗れた関係

熊沢誠さんがホームページで新たなエッセイを公開されています。

http://www.kumazawamakoto.com/essay/2011_november.html(新入社員の健全で脆弱なノンエリート意識)

「健全」で「脆弱」とはどういうことか。熊沢さんの言葉をいくつか引用しましょう。

>たとえば新入社員は、処遇方式について、能力・成果主義的な処遇と年功序列のどちらが望ましいと考えているのか。・・・年功序列の会社で働きたいという若者が50.4%で前年度より8.6ポイント多く、01年以降でやはり最高という・・・

>会社への定着志向についてはどうか。産業能率大学(11年度)調査によれば、「終身雇用」を望む新人は74.5%。前年の71.1%を超え、これまた過去最高である。・・・それに対して「起業して独立」派は過去最低の12.8%。転職など「しないにこしたことはない」と言う若者も過去最高で34.2%である・・・最近の傾向として、新入社員では管理職志向(部下を動かし、部門の業績向上の指揮を執る)が専門職志向(役職には就かず担当業務のエキスパートとして成果を上げる)を凌ぐ傾向にあるという。 

>上の諸結果では、現時点の新入社員たちが、「時代の合意」であるはずの能力・成果主義に疑惑と怖れを感じていることは明らかである。この選好は、2000年の頃から急速に高まり、「過去最高」というタームの頻出が示すようにますます強まっていることもわかる。新自由主義志向の財界人や知識人が「それがなければ日本は沈む」と主張する、終身雇用なぞに恋々とせず能力主義的競争に打って出よという期待は、いわば聞き流されている。回答者の多くはしかも、前向きのがんばり主義を鼓吹される「新入社員研修」を受けた者なのだ。若年労働者一般の間では、こうしたノンエリート主義はいっそう兆しているだろう。

ここまでが「健全」。少なくとも熊沢さんの考え方では「健全」なノンエリート主義と称揚されるべきものです。

ところが、それが実は脆弱だというのがそれに続くパラグラフで嘆かれることになります。

>現実には、少なからぬ若手正社員が、ほどなく「即戦力」のノルマ達成競争に巻き込まれ、超長時間労働を余儀なくされ、ハラスメントとの境界も曖昧な上司の指導・督励に心身を疲弊させて辞めてゆく。あるいは従業員よりも早く終身雇用に固執しなくなっていた経営側によって選別排除されてゆく。その実質上の解雇を「自己都合退職」と言いくるめられたりもする。上のようなノンエリート主義は、こうした状況に抗いうるほど強靱ではないのだ。

>もう少し穏やかな例をあげる。「デートの約束の日に残業を命じられたらどちらを選ぶか」という周知の意識調査がある。・・・09年の新入社員3172人の場合、残業を選ぶという人は83%、調査開始の72年以来の最高に達した。17%のデート派は91年の37%をピークに減少を続けている。

>たかがデート、されどデートというべきか。残業派の圧倒性と増加傾向は、私が兆しを見いだした若者のノンエリート主義が、働きかたについてはなお脆弱であることを示している。

この文章の中では、前半の「健全」と後半の「脆弱」は、ほんとうは対立するものであるはずなのに、現実の社会では同居せざるを得ない状況に追われている、という風に読めます。

タイトルの「新入社員の健全で脆弱なノンエリート意識」も、本来「健全で脆弱」というのは矛盾しているはずなのに、という気持ちがにじみ出ています。

でも、この「健全」と「脆弱」は、ほんとうに対立関係にあるのでしょうか。

あるいは、熊沢さんの言い方を使えば、前半の「健全」な傾向は、ほんとうにノンエリート主義と言えるのでしょうか。

年功序列で昇進して、やがては管理職になるコースが当たり前というのは、少なくとも、欧米労働者的な意味でのノンエリート主義ではありませんよね。

ただ、ではそれはエリート主義かというと、少なくとも男性正社員である以上それが当たり前という意味では、日本社会で白い目で見られるような意味でのエリート主義ではありえない。

そういう、いわば日本的な「みんながエリート」主義的なあり方は、熊沢さんが説き続けてきたノンエリート主義とはまったく異なるものでしょう。

そして、上の文章との関連で重要なのは、そういう「みんながエリート」主義の「健全」さが、後半で熊沢さんが嘆く「脆弱」さの直接の原因であるということではないでしょうか。

「みんながエリート」である職場社会では、人よりも出世するためではなく、人よりも遅れをとらないために、デートよりも残業を選ぶというのは、ある時期まで繰り返し指摘されてきたことでもあるわけです。

そして、後半の「脆弱」さをうまく利用しつつ、前半の「健全」さに対する報酬を払わないことで一種の差益をエクスプロイットするのがブラック企業であると考えるならば、前半の意味での「健全」さこそがブラック企業の培養土であるという言い方もできるのかも知れません。

もちろん、問題の原因は、この文章で引用されているさまざまな意識調査が、年功序列vs能力・成果主義という、まことにミスリーディングな、というよりむしろ、明白に誤った認識枠組みを無批判に前提していることにあるわけですし、熊沢さんもその問題点は重々承知の上で、あえてわかりやすい枠組みに乗った説明をされているのだろうと思うのですが、このわかりやすさは、結論を誤らせる恐れの高いわかりやすさであるように思われます。

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