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2011年10月14日 (金)

金子良事さんの拙著評

金子良事さんが、「濱ちゃんの新書二冊と労働法政策を含めた感想も書きたいのだが、体力がもたん」(http://twitter.com/#!/ryojikaneko/status/123679238011355136)はずなのに、それを圧してわざわざ長い書評を書いていただきました。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-217.html

高熱のさなかに拙著を読んで感想を書いていただいたマシナリさんもそうですが、私のようなものが書いた小著にこうして書評をいただけるというのは、まことに有り難いことだと思っております。

まずはなにより、書評いただいたことへの感謝の気持ちを表しておきたいと思います。

その上で、いくつか。

金子さんは今回の拙著の記述のスタイル自体にかなりの違和感を覚えられたようです。

>濱口さんの『日本の雇用と労働法』日経文庫を何度かざっと読みながら、何ともいいようのない違和感があったので、・・・

>結局、何が違和感を覚えるかといえば、私は徹頭徹尾チャート式が嫌い、テストもテスト勉強も嫌いということに行きつくことが分かりました。

チャート式というのは、先日マシナリさんの書評に対してわたし自身が使った言葉ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-a5df.html

>はぁ、金属のオブジェ・・・。自分としては、あまり重量感のないチャート式に頭を整理できる本にしたかったつもりなんですが。

チャート式という言葉にはいくつもの含意がありますので、腑分けすると、そもそも教科書ってのはすべて何らかの意味でチャート式なので、法学部入りたての人にいきなり我妻栄「近代法に於ける債権の優越的地位」やら川島武宜「所有権法の理論」を読ませたりしないわけです。学問のひだをぬぐい去って、のっぺりとしたチャート式にすることで、普通の人が読めるものになる。それに嫌悪感を抱くことはまことに正当であるけれども、それに嫌悪感を抱くようになれるためには、何らかのチャート式というのは必要なのですね。

拙著の歴史部分は、マムチロさんが的確に評しているように、

http://www1.seaple.icc.ne.jp/mamchiro/book/book2011.10.htm

>えーと、だいたいのことは、昔、社会政策の教科書で勉強しました

程度のことですが、さはさりながら、そういう社会政策のチャート式に当たる部分というのが、法律学でも経済学でもいいけど、労働に関わる人々にとって必須の基礎知識になっているかというかというと、まことに心許ないわけです(某3法則氏の失策は、決して彼固有の問題ではなく、経済学徒一般にこの領域の知識がかなり欠乏気味であるということをいみじくも露呈しているわけで)。多くの読者にとっては、実はそれらの知識は「昔社会政策の教科書で勉強し」てはいないので、目新しいものだったのです。金子さんがやや苛立ち気味に「皆さんの好意的な反応」に疑義を呈しておられるのは、言うまでもなく社会政策学徒としては当然の反応であると同時に、現代社会において社会政策学的認識が希薄であることを裏面から実証しているようにも思われます。

さて、中身です。金子さんのいう

>実は日本的雇用には何重にも捻じれがあるんです。

には、実はものすごく深い含意があります。

そもそも日本の話以前に、労働社会のありよう、雇用関係のありようについて、近代化論としての「身分から契約へ」、現代化論としての「契約から身分へ」、現代論としての「も一度身分から契約へ」という3フェーズが重なり合う形で存在している上に、後発国日本の知的ファッションのサイクルとして、慕華主義→独自主義→自華主義→再び慕華主義というぐるぐるまわりがねじれた形でからんでいるため、きちんと腑分けしないとわけわかめになるのですね。

その一つの帰結が、中小企業における「生ける労働法」の存立構造の二重性です。一方では伝統的な法社会学的認識や金子さんが例に出す中小企業の親父さんの「人情話」のような、古典的近代法と対比される伝統的前近代的共同体的縁故的「メンバーシップ」感覚によって特徴づけられるとともに、他方ではむしろ(ポスト近代的な)現代化の一環である大企業の人事管理や裁判所の判例法理とは対照的な近代的民法的取引関係的な(欧米的な「ジョブ」型ではないけれども)メンバーシップ性の希薄な職場感覚で特徴づけられるのですね。大企業よりメンバーシップな面とメンバーシップじゃない面の両面があるわけです。

ブラック企業現象とは、この近代と脱近代のバラドクシカルなねじれ関係をうまい工合に搾取する仕組みであるというのが、私の議論の一つのポイントなのですが、それは初心者用の本書では触れていません。説明するのに大変汗を掻きますし。

どこまでこうした「ねじれ」を腑分けして解説するかというのは難しい問題です。本書では、学部学生用の教科書という性格を私なりに理解して設定したレベルに留めていますが、それが専門家の目から見て違和感を醸し出すものであろうこともまた当然だと考えています。

それでも、自分でも若干の違和感は残るわけで、そこのところのヒントをさりげにコラムで書いておいたら、「このコラム、本文よりも難しいし、身分法で押して行くと、本文のロジックと齟齬が出かねない」とお叱りを受けるわけです。なかなか難しい。

ついでにいうと、

>濱口さんは実在論の立場じゃないんですね。哲学的に。

というのは先日直接お話ししたスキルの社会的構築性からのご指摘だと思いますが、ある種の社会的構築主義者とは違い、社会的構築物であるがゆえに重要なのだという発想である原因は、法哲学がベースにあるからだと自分では思っています。

いずれにしても、学部生向けの本書の書評でありながら、社会政策の専門家でないと何を批判しているのかよく分からないくらい高度な書評をいただいたことに、感謝申し上げたいと思います。

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