「若者が働いて親を支える」メタファーの射程距離
昨日のエントリへの楠木さんのついったコメントに、斜め方面からの突っ込み。
http://twitter.com/#!/masanork/status/113578452145287168
>親の甲斐性は選べないけど、子育ては努力しようがあるんだから、やっぱり若者が働いて親を支える方がフェアな社会だね / ワカモノの味方神聖同盟?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
http://twitter.com/#!/toshic2/status/113588236802207744
>親・親族を支えるのはいいが、知らない高齢者まで支えたくはないなぁ…… RT
斜め方面に見えて、実は大変本質的な突っ込みでもあります。
つまり、年金制度とは、ナショナルな共同性に立脚した現役世代から老齢世代への集団的「仕送り」ですから、どこまでが「親・親族」で、どこからが「知らない高齢者」(=あかの他人)なのかをあんまり厳密に議論すると、なかなか大変なのです。
(某ブログの※欄で騒いでいるような、この期に及んでなお年金とは昔々自分が払い込んだお金が戻ってきているだけと思いこんでいるようなただの莫迦はここでは無視して)
年金という共同性で支えることを拒否しても、憲法25条に基づいて生活保護という共同性で支えざるを得ませんから、結局どうあがいても、働かない老人の生活を支えるのは若者を含む現役世代と言うことにならざるを得ません。
「知らない高齢者」を「親・親族」みたいなものだと諦めて、支えるしかないのですが、せめてそういう支えられる人はできるだけ少なくして欲しい、というのが、現役世代としては当然の要求でしょう。「儂らの生活を支えるのはお前らの責任じゃ、とばかり云われたくない」はずです。
ところが、ここに急速な人口の高齢化という要素が入ると、「あれっ?養う親は二人だけのはずだったのに、いつの間にかあちこちからお前の大叔父じゃ、大叔母じゃというようなのがぞろぞろ出てきて、気がついたら5人も6人も老人を養わなくてはいけなくなっていた」というのが、今の日本の現状なわけです。
「若者が働いて親を支える」方がフェアな社会だと云われても、そんなたくさん養うべき「親・親族」が湧いてくるとは思ってなかったよ!というのが正直なところでしょう。
だから、「儂の昔払った年金じゃ、儂がもらうのは当然じゃ」と間違った思い込みを振りかざす老人たちをなだめすかしながら、老人たちにも働いてもらい、払う年金をできるだけ少なくしていくしか、このアポリアを解決する道はないのですよ。
もちろん、そういうマクロ社会的な道理だけで世の中が動いていくわけでもないので、ミクロな利害調整のあれこれがさまざまな箇所で必要になってくることは言うまでもありませんが、ものごとの本筋だけはきちんと見極めて進む必要がありましょう。
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現実的とは思えませんが、賦課方式でなく、仮に積立方式に移行したら“ナショナルな共同性”の問題は小さくなるのでしょうか?
小さな政府論者で賦課方式や、あるいは年金制度自体を好まない人がいるのは、そういうナショナルなところが嫌いというところも影響しているのかなと思いまして。
投稿: spec | 2011年9月14日 (水) 18時16分
>spec様
その場合は生活保護制度や失業給付制度が論争の的になるでしょうね。
いずれにせよ、制度の根幹を「国が保証する」形を取る以上、"nation"とは何なのか、なぜそれを保たねばならないのか、という議論は尽きないのかもしれません。
投稿: 鬼木 | 2011年9月14日 (水) 22時44分
カナダみたいな年金クローバック制をですね・・・
投稿: あ | 2011年9月15日 (木) 07時56分
ネーション・ステイトの一体性やネーションの同質性に疑義を呈する言説、あるいは、日本人は単一民族だというのは神話だという言説がありますけれども、そうした言説を巡る議論は延々続くでしょうね。
職業教育だとかホニャララ教育をやるにせよ、ステイト=国家と社会ー経済の関係性を説くことの方が重要なのかもしれませんね。
投稿: 小野山 | 2011年9月15日 (木) 08時25分