年功賃金を生産性で正当化した議論の心外な帰結
高齢者雇用をめぐる錯綜を解きほぐすためのごく雑駁な議論として。
もともと、年功賃金が労働者の(女房子どもを含めた生活を支えるための)生活給であることは当然の了解でした。
30代くらいまでは一般的に技能があがっていくとしても、40代、50代になっても生産性が上がっていく「から」それにともなって賃金も上げろ!などと現実離れしたことを労働組合側は主張していたわけではないのです。
それに対して、かつての経営側は、そんな生産性も上がらない中高年に高い給料を払うのはおかしい。賃金は職務給にすべきだと言っていたのですね。60年代半ばくらいまでは。
ところが、ジョブ型では人事異動はじめ企業運営がうまく回らないのに気づき、職能給の年功的運用に舵を切った、とここまではよく知られていることです。
問題はここで、なんでそれまで批判していた年功制にするかを「経済学的に」正当化するもっともらしい理屈が必要になったということです。
私の見るところ、その需要に的確に応えたのが、小池和男理論だったのでしょう。
そして、それゆえに、小池理論は始めから高齢者雇用の部分がアキレス腱だったのだと思います。よく指摘されるように、高齢者になるほど知的熟練が上がるなら、何で企業は高齢者を排出したがるのか、説明がつかない。それを非合理だと批判してしまうことは、それ以外の合理性を褒めていることと整合性がつかない、ということです。
高齢者雇用問題は、定年までなんとか噴き出さないようにこらえてきた矛盾を、さらに先に延ばそうとすることなので、本質論をすると、40代、50代の年功賃金が本当に生産性に見合っているのか、という50年前の議論に戻らざるを得ないし、それをしないで進めようとすると、いったんそこでチャラにして、というやり方をとらざるを得ない、という運命があるわけです。
もっとも、本音としての生活給の論理からしても、子どもが独立してしまえばもはや女房子ども込みの生活給の必要性はなくなるので、実は下がっても構わないわけです。
ただ、それは残念ながら、なまじ年功賃金を知的熟練で「経済学的に」うまく説明し切れてしまった理屈とは矛盾してしまうのですね。儂ら高齢者は、若いもんよりずっと知的熟練があるはずなのに、なんでこんな低賃金にするんや?という問いかけに対しては、逆に絶句せざるを得ないからです。その意味ではこれはなかなか皮肉なことであると言うしかありません。
« 「若者が働いて親を支える」メタファーの射程距離 | トップページ | 『季刊労働法』234号 »
コメント