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2011年9月 4日 (日)

「ダークサイド」戦略

「brighthelmer」さんのつぶやきから、

http://twitter.com/#!/brighthelmer/status/109284856395087873

>突然にすいません。私がリフレ派に嫌気が差したのは、日銀批判の際に極めて単純な「公共選択理論」を繰り出すようになったからです。要は、「自分たちの給料は安定していてデフレだと得だ」とかそういう説明です。それは一歩間違えると下衆の勘ぐりにしかならないわけで。

http://twitter.com/#!/brighthelmer/status/109286935163445248

>経済学素人の私としては、当初のリフレ派の魅力は構造改革派の官僚バッシングとは一線を画したところにあったのですが、それが次第に財務省&日銀批判一色になってしまい、官僚機構の分析としても平板で面白みがなくなってしまったということがあります。

というか、むしろ悪い意味での「コーゾーカイカク」論そのものになってしまい、官僚さえ叩きのめせば世の中は全てうまくいくといったような三流戯画の世界に陥ったわけですが、その辺の理由についても論じられています。

http://twitter.com/#!/brighthelmer/status/109294482247258112

>アカデミックな議論と政策論争は違う。アカデミックな議論では「仮想敵」はあったとしても、「敵」の言うことをきちんと理解したうえで批判する必要がある。政策論争の場合、シュミット的な友敵の論理からは逃れられないので、敵の矮小化・卑小化は避けられないということか。

http://twitter.com/#!/brighthelmer/status/109295430822670337

>学者が(戦闘的に)政策論争にコミットしようとすると難しいのはその線引きで、学者として発言しているのか、それとも政治的アクターとして発言しているのかが外野からは見えにくくなる。とりわけ後者の場合には、学者としての発言を期待していると、失望させられてしまう。

まさに。実例はいちいち挙げる必要はありませんが。

これに対する、これまた絶妙な応答。

http://twitter.com/#!/umedam/status/110269792140791808

>想定している相手が代わると発言の仕方が変わると思います.学者として他の学者ないし相応の知識を持つ相手に発言しているのか,一般人を相手にしているのか.

http://twitter.com/#!/umedam/status/110270529042268160

>それに一般人を相手にしているときには,学者的な発言は支持者を獲得しにくい(ように思われる)ということもあるので.イケノブ氏や城氏があんなふうに信者を獲得しているのを見ると.だからといってダークサイドに落ちるのがいいとは必ずしも思いませんが(暗黒卿!)

この「ダークサイド」という表現が絶妙で、思わず手を叩いてしまいました。

「brighthelmer」さんも、

http://twitter.com/#!/brighthelmer/status/110298153584046080

>確かにそうですね。インターネットの場合、読者には緻密な議論を好む人もいるのですが、多くの人は単純な友敵関係を好むので、どうしても後者に流れてしまうのかもしれません。「ダークサイド」とは言い得て妙ですね。

ネット上で「信者」(=イナゴ)を惹き付け、一旦緩急あれば「敵」の陣地に襲撃をかけるような忠実な信者を増やす上では、この「ダークサイド」戦略は、まことに効果的と言うべきなのでしょう。

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コメント

http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20110830/1314703644">http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20110830/1314703644
>文筆家の「嘘」を見極めるためのいくつかのポイント
(略)
>3.政治的(パフォーマティヴ)な言説と学問的(コンスタティヴ)な言説の違いに注意する。政治的な言説は、人間の感情に訴えることで、学問的な反論を許さないことがある。

ダークサイドに落ちることを正当化する心理として、結果的に社会に害を与えることになろうとも功成り名遂げたいという欲や、愚民には俺様の高邁な理論を理解できないから方便を使うことも正当化されるという思い上がりがあるのではないかと思います。
でも、想定している相手が変わることを言い訳にして、感情に訴える言説や嘘をつくことを正当化できる人間に、学問上の誠実さが期待できるとは思いません。当然、データの恣意的な取捨選択や強引な解釈といった、みたいものしかみようとしない「論」しか生まれないでしょう。
ただ、短期的には世間の支持を得ても、長期的には政策の失敗という形で歴史によって淘汰されるのかもしれません。それまでに犠牲になるものの大きさを考えると、あまりに大きな代償ですが。


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