フォト
2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 先進国なのに…24時間働かせても合法 | トップページ | 経済財政諮問会議を復活するのなら・・・ »

2011年8月13日 (土)

『再検討 教育機会の平等』

0225870_2広田照幸さんより宮寺晃夫編『再検討 教育機会の平等』(岩波書店)をお送りいただきました。ありがとうございます。

この本は、先日広田さんにお招きいただいた研究会でお会いした森直人さんや稲葉振一郎さんも論文を寄せており、いずれも興味深く読ませていただきました。

>経済格差と貧困の拡大に伴い,教育機会の格差・不平等も深刻になっている.しかし,そもそもなぜ平等であることが望ましいのだろう.そしてどのようにそれを実現するか.教育の費用,自由な選択,個性の尊重,能力や差別,多様性と人権等の難問に向き合い,「平等の理由」と「平等の条件」を理論・実践の両面から追究する.

目次は以下の通りです。

序論    なぜ「教育機会の平等」の再検討なのか――市場社会と教育機会 宮寺晃夫
第一章   「奪われなさ」と平等原理――社会からみた機会の不平等 佐藤俊樹
第二章   教育費のエコノミックスとポリティックス――人的資本・ネットワーク外部性・信用取引 稲葉振一郎
第三章   学校から仕事への移行期変容――新たな不平等構造の出現と「移行期」の学習保障 乾彰夫
第四章   「共生・共育」のなかで「教育機会の平等」を考える 篠原睦治
第五章   個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から 森直人
第六章   教育機会の平等――中国教育改革の挑戦 労凱声
第七章   在日外国人の子どもの教育機会――日系ブラジル人を中心に 小内透
第八章   人種格差社会アメリカにおける教育機会の平等――ポスト公民権運動期の黒人の教育権 中村雅子
第九章   「熟議民主主義」は何をもたらすか――多様性と統合の綱引き 平井悠介
第一〇章 能力にもとづく選抜のあいまいさと恣意性――メリトクラシーは到来していない 広田照幸
第一一章 「教育機会の平等」の復権――子どもの学校を親が決めてよいのか 宮寺晃夫

わたくしは、教育論をまっとうに論ずるにはあまりにも雑駁な心性の持ち主なのですが、碌でもない因縁だと含んでいただいた上で、いくつかコメントを。

まず、読んで大変面白かったのが、森直人さんの個性化教育批判の反批判のようなものです。

森さん自身による要約を引用すれば、

http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20110808/p1

>東浦町の「個別化・個性化教育」の歴史的な展開=転回過程を政策動向との関連のもとで素描し、2005年に新たな小学校(のちに具体的に論じる)へと継承される経緯を紹介し(1節)、

その小学校に導入された「個別化・個性化教育」の具体的な実践について、学校経営上の教育課題と柱となる教育方法の面から言及し(2節)、

そのような「子ども中心主義」的教育実践は階層間格差の拡大をもたらす元凶だとして厳しい批判を浴びせた教育社会学の言説構造を苅谷剛彦先生の所論に沿いながら記述し対比させたうえで(3節)、

実際にその小学校で行われている教育実践を「教育可能性に向けたテクノロジー」としていくつかの論点に分節化したうえで、その具体相に即して実践理論と教育社会学言説との対立点=争点を浮き彫りにすることで(4節)、

結論として、教育社会学言説の一面性を批判し、「個別化・個性化教育」の実践がもちうる可能性の余地を確保する、というような構成になっています。

であり、「「個性の尊重」を謳った教育実践の側と、そんなものは教育の格差を拡大することにしかつながらないという批判を浴びせた教育社会学言説との対立の構図」がはたから見ている野次馬にとっては、大変面白い読み物でした、というのがまず最初の感想でした。

で、これって、要するにどことどこを比べるかって話なんですよね。

高邁な個性化教育論というのは、きちっとやらせなくてもできる上位の子を念頭に置いている。

それに対して、きちっとやらせなくてはできない中くらいの子をどうしてくれるんだ、っていうのが教育社会学言説ってヤツ。

ところが、きちっとやらせなくてはできないってのは、きちっとやらせればできるっていう前提なんだけど、きちっとやらせてもできないもっと下の子はどうしてくれるんだ、そういう子にはこうするんじゃってのが、その石浜西小の高邁じゃない方の個性化教育、ってストーリー。

それはすごくよく分かるけど、それって苅谷批判になっているのかな、という気もしました。

お送りいただいた広田さんのは、マイケル・ヤングのメリトクラシーってのはどつぼなディストピア小説なんだよってところから始まって、もう今から34年前に駒場のゼミでこの本を読んだことを思い出しながら、読んでいくと、現実社会の能力主義って、実はメリトクラシーと比べたら、すっごく曖昧で恣意的でいい加減じゃん、という話。

わたくしのような労働畑の者がこれを読むと、どうしても、企業の人事査定の恣意性という話が脳裏から離れないのですが、でも、曖昧じゃなく恣意的じゃないような「正しい」査定で人事が決められてしまったら、それこそ恐ろしいというのが多くのふつうの労働者の感覚でもあるわけで、その辺、教育論とどうつながるのかつながらないのか、という風なことをぼんやりおもいながら読んでいました。

最後に、稲葉さんの論文は、正直言って、法律学の議論をもっと徹底的にやるなら、それだけの覚悟を決めてとことんやって欲しいし、そうでないなら、ペダンチック風味の法律論はやや浮いているというのが正直な感想でした。少なくとも、「古代ローマも中世ヨーロッパもいっしょくたにする雑駁な議論になって恐縮」というなら、恐縮しないところまできっちり検討した上で論じて欲しいところです。

この章についても、いやこの章については特に、「人的資本」という概念を中心に据えて論じているのであれば、雇用関係の法的とらえ方という視角が、読みながら脳裏をちらちらするのですが、それが正面から出てこないのでやや欲求不満気味になります。

あと、佐藤俊樹さんって、どうしてこの人はこんなに素直な文章を書けるのだろうか、といつも感嘆してしまいます。

« 先進国なのに…24時間働かせても合法 | トップページ | 経済財政諮問会議を復活するのなら・・・ »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『再検討 教育機会の平等』:

« 先進国なのに…24時間働かせても合法 | トップページ | 経済財政諮問会議を復活するのなら・・・ »