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2011年7月

2011年7月31日 (日)

僻目で見れば全てが陰謀論・・・

その名も「僻目評論」といういかにも僻みっぽそうなHALTAN氏のブログに、これ以上ない僻目による陰謀論の典型例が載っていました。

こういうのをちゃんと拾い集めてくるのが、いかにもHALTAN氏なのですが、

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20110731/p1([アホ文化人を退場させられない理由]「御用一般人」)

>@hasegawa24長谷川幸洋
古賀さんの自宅だけ、突然、停電になったという情報がある。未確認。

>@hasegawa24長谷川幸洋
私は第一報を聞いて、すぐ「東電のテロか?」と思った。

>、、、こういう妄想を真顔で書く「基地外」さんがいわゆる「リフレ派」周辺にこれまた野放しでウロチョロしていたり、
、、、「ネットリフレ」のみなさんが明らかに自分たちの信用性を毀損するような事ばかりなさっているのは何故なのでしょうかねえ?
いやホント、こういう人たちを放置しておいても「ネットリフレ」の得になる事は絶対に有りませんから、
こうした申し上げ方も甚だ僭越で恐縮至極では御座いますが、
今さらですが直ぐに何とかなさった方が良いと思いますが、、、。

もちろん、どこかの国と違って、この日本国では、

@kogashigeaki古賀茂明
お騒がせしました。やっと
東電が来てくれて復旧しました。漏電の可能性ありだが後は工事業者で、大変お待たせしましたとのこと。まだ他にも待ってる家はあるんですかと聞いたら、ええまあ、という返事でした。みなさんご心配いただきありがとうございました。

と、ご本人はツイッタしておられるのですが、いったん火のついた陰謀論はとどまるところを知らないようで、

@hasegawa24長谷川幸洋
いましがたの古賀さんとの電話。「漏電の可能性がある」といわれた1回線の
ブレーカーを落とした状態で復旧。漏電なら東電の責任にならない点に留意。2時間45分停電状態だった。オペレータは1時間で復旧すると言っていたのに、異様に長い(怖がらせた?)。

@hasegawa24長谷川幸洋
続き。「横浜の電話」に自分でかけ直したら、高津営業所が出た。「まだ修理があるのか」と聞いたら、言葉を濁していた(ない?あるいは一番最後にした?)。相手はとても恐縮していた(来た業者は関係ない?)。疲れた。しばらく休養する(私はぜひ、そうしてと言った)。

hasegawa24 長谷川幸洋
これは私の観察。古賀さんはこの数カ月、ずっと身辺に注意していた。電車のホームや階段、背中のリュックに何か入れられたりしないか。近くに女性がいないか。ある
議員 は私と古賀さんの前で「電車に乗るな」と忠告してくれた。ストレスは大変なもの。やせてしまうのは当たり前です。それが一番、心配。

@hasegawa24 こんばんは。ご存じかと思いますが内情を知るためのシカケは外部の人間の侵入時に仕込まれるケースが最も多いそうです。特に電気通信関係は要注意だとか。これは身分のはっきりした人物が要請に応じて訪問してくる場合も例外ではないそうです

という調子。

これに対しては、僻目のHALTAN氏の、次の評語が、その語り口のいささか上品ならざるを差し引いても、まことに適切なるものがあると申せましょう。

>、、、はいはい、
高橋洋一さんと共に霞が関と闘う長谷川幸洋さんも「権力」の「謀略」には気を付けてね( ̄ー ̄)ニヤリ
、、、しかし、
土曜の夜に停電してその晩のうちに来てくれて(しかも既にほぼ深夜なのに)電気を直していってくれた、、、。ここで、東電(とその協力業者)の迅速な対応を褒めずに陰謀論を展開する「東京新聞論説副主幹」ってすげ~www
、、、ぶっちゃけこんな「馬鹿」の居る新聞をカネ払って買う人の気が知れんわwww

(念のため)

上記論説副主幹の書かれる代物はともかくとして、わたくしは東京新聞自体は結構愛読してますよ。時々いい特集を組んでます。一応、HALTAN氏の毒ガス攻撃の対象を限定しておかないとね・・・。

(ついでにいうと)

http://twitter.com/#!/hasegawa24/status/98189944379539456

>日本の記者はマンデル=フレミング・モデルも理解していないんじゃないかと疑ってます

マンデル・フレミングとやらを知っているとうそぶくが、深夜に停電を直しに来た東電職員を国家的陰謀と疑う記者と、マンデルフレミングとやらは知らないが、世の中の常識に沿った判断ができる記者の二人の、どちらが新聞記者として信用するに足るか、という究極の選択でしょうか(後者であれば、知らない経済用語は経済学者のところに聞きに行くでしょうけど)。

どういう意味で「独立」と言ってるのかわかりませんが・・・

まあ、現政権も「地域主権」などと国家主権をどう考えているのかよく分からない政策を打ち出したりしているわけですから、単なる言葉の綾とうち捨てておけばいいのかも知れませんが、

http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819499E1E3E2E3E08DE1E3E2E5E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2関西・中京「国から独立目指すべき」 橋下知事ら

>府県と政令市の二重行政解消による地域活性化を目指す「都構想」を提唱する2府県3政令市が31日、名古屋市内で推進策を探る会合を開いた。橋下徹大阪府知事と大村秀章愛知県知事は、関西や中京地域がアジア地域間の経済競争で生き残るため、将来は国からの「独立」を目指すべきだとの考えを示した。

 橋下氏は「アジアの大都市に勝つため、まず『大阪都』を実現した上で、韓国の国内総生産にもう少しで追い付く、(人口)2200万人の『関西州』の単位で独立していくべきだ」と述べた。

 大村氏も「国に要請しないとものが動かないようなことをやっていては、日本はたそがれる」と指摘。「投資減税で企業を誘致するため、愛知県と名古屋市で独立していくのが目標」とした。

少なくとも、台湾独立論が中華人民共和国及び中華民国との関係で有しているセンシティブさを少しでも理解している人であれば、口にしないような軽々しい言葉がへろへろとよくもまあ流れ出てくるものです

念のため申し上げれば、日本国もれっきとした独立主権国家ですから、

第七十七条  国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。

 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
 謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は三年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事した者は一年以上十年以下の禁錮に処する。
 付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、三年以下の禁錮に処する。

 前項の罪の未遂は、罰する。ただし、同項第三号に規定する者については、この限りでない。

(予備及び陰謀)

第七十八条  内乱の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の禁錮に処する。

それにしても不思議なのは、日本国から独立しようという反逆者が、なぜか日本国の制定法に基づき国旗国歌とされた(すなわち独立すべき「自国」からすれば外国のはずの)日の丸と君が代に起立させようとしていることであります。まあ、そういう論理関係自体頭の中にはないのかも知れませんが。

(追記)

なんだか無性にデジャビュがしたので、昔のエントリをみたら、やっぱり・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-b8e9.html(司法に地方主権はない)

ブクログでAk_nさんの拙著書評

書評サイトのブクログに、拙著『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』(岩波新書)への書評がアップされました。

拙著刊行から2年、一時に比べると新たな書評はかなり数少なくなってきておりますが、それでもこうして丁寧に拙著を読んでいただける方が絶えることなく現れるのは、著者としても大変嬉しく思います。

http://booklog.jp/users/ak-ne-s17/archives/4004311942

>雇用と労働の社会システムを法学・政策学的視点から詳細に論じた上で、産業民主主義の再構築へと架橋する、骨太の労働論。

ここ最近読んだ数冊の中ではダントツで面白かった。
まず、いわゆる「労働問題」についての解説が的確である。さらに、法学や政策学に基づく決してブレることのない視点が、筆者の論の強度を生んでいる。
そして何よりも、全体を貫く主張がある。個々の問題の解説とそれに対する解決策が必ずセットになっており、しかも提示されている解決策はたいへん現実味がある。また、最終章において「産業民主主義の再構築」を掲げ、それらの解決策実現の土台となる包括的枠組みの提案を行うことで、個々の論点の補完を行うとともに、全体をまとめあげる役割も果たしている。これらの論点はすぐにでも議論の起点となっておかしくないだろう。

最終章で論じられる「産業民主主義の再構築」が、わたしとしては非常に魅力的である。
筆者の提案の要旨は、既存の労働組合を正社員・非正規労働者すべての利害代表組織として再構成し、使用者側からの独立を徹底すること、そして労使協議制の確立と労使双方の政策決定参加の推進を行うべきだ、という点にある。
ここで、「労使双方の政策決定参加」に関し、コーポラティズムが言及されていることに注目したい。コーポラティズムとは、「集団」がそこに属する人々の利害を代表する形で政治運営に関わっていく、といった考え方である。
コーポラティズムに関して個人的に良いなと思う点は、「利害」・「集団」の2つのキーワードが入っていること。
労働は、ときにわたしたちの生死に直結する問題となるため、自己と他者の利害が顕著に現れるところである。さらに「労働組合」という「集団」は、比較的互いの顔が見えやすく、熟議・熟慮が成り立つ範囲としてもかろうじて成立しうる。ゆえに、政治を「利害の調整」という観点から考えると、このような集団単位(立派な共同体だよね、きっと)を基盤にした政治というのは、どんな個人・集団を基盤とした政治よりも、きわめて現実的に考えられるものだと思う。

これまで2年間に書かれた拙著書評の数々は、下記にリンクをまとめてあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html

2011年7月30日 (土)

クォリフィケーションとスキルとのギャップ

先日アップした広田科研研究会の(未修正ゆえ若干問題あるかも知れない)発言録の中で、わたくしがこう申し上げたことを覚えておいでかと思いますが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-73bf.html(広田科研研究会での発言録)

>実は、どういうジョブをどういうスキルを持ってやるかで世の中を成り立たせる社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に入り、その組織の一員であることを前提に働いていく在り方のどちらかが先天的に正しいとか、間違っているという話はないと思います。
 もっと言うと、ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団を成して生きることができません。
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、その人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間をこう処遇し、ほったらかしてこういうふうに処遇していくというものをかたち作っていくのは、いわば、お互いに納得し合えるための非常にいいよりどころです。
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろそれで、そこから見ると、日本のように妙なよりどころはなく、密接につながっている同じ職場の人間たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見ます。その中で、おのずから、「この人はこういうことができる」というかたちでやっていくことは、ある意味では実にすばらしい社会です。

ここで、日本型と対比してヨーロッパ型と述べたあらかじめ有していると認められたジョブごとのスキルで具体的な職務に割り当てていく方式を、公的に義務づけているがゆえに、ここでいう「ずれ」「悩み」が生じた典型的な実例が、本日の新聞に載っていました。

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E0EBE2E09B8DE1E2E2E5E0E2E3E39191E2E2E2E2「東大理学部卒」 横浜の高校副校長が学歴詐称

>横浜市教育委員会は29日、市立横浜サイエンスフロンティア高校(同市鶴見区)の川井幸男副校長(54)が採用時に自身の卒業証明書を偽造した上、免許がないのに数学の授業をしていたとして、停職6カ月の懲戒処分にした。川井副校長は同日付で依願退職した。

 同校は2009年開校で、理数系に力を入れている。市教委によると、川井副校長は前任の神奈川県立高校で「数学の指導力が優れている」と評判で、今年4月、2代目の副校長に就任。3年生の数学を教えていた。

 市などによると、副校長採用時に、実際は横浜市立大商学部卒なのに、東大理学部を卒業し東大大学院などに在籍したよう偽造した証明書を市に提出した。市は県教委や東大に照会せず、偽造を見抜けなかった。

経歴詐称はもちろん許されるべきではありませんが(とはいえ、日本の判例法理ではまた別の考え方もあるのですが、それは後ほど)、商学部卒で理科系の正当なクォリフィケーションはないにもかかわらず、まさに学校というコミュニティの中で事実上のOJTを通じてなのでしょうか、「数学の指導力が優れている」と評判」になっていたわけです。

これこそ、まさに日本型雇用システムのすばらしさであり、公的なクォリフィケーションにこだわる硬直的なヨーロッパ社会では出来ない技ではないか!と労働経済学方面からは思わず言いたくなるところです。

どんな教科を教えるか、いや教えるか何をするかも含めて、特段何も決めずにとにかく学校のメンバーとして採用し、あとはOJTでスキルを積み上げていきながら、その能力を睨んで適当な仕事を与えるというやり方が採られていたならば、この副校長はこんな事態に追いやられなくてもよかったはずです。

しかしながら、言うまでもなく教育界がそのような素晴らしい仕組みを採っていないのは単に愚かであるからと言うわけではありません。

このあたり、とりわけ教育なる現象を研究対象にしている方々のご見解を伺いたいところではあります。

ここでは、やや斜め方面から、学歴詐称についての労働法学的なコメントを。

> 採用に当たり学歴詐称が問題になることは洋の東西を問いません。ただし、欧米のジョブ型社会で学歴詐称といえば、低学歴者が高学歴を詐称することに決まっています。学歴とは高い資格を要するジョブに採用されるのに必要な職業能力を示すものとみなされているからです。日本でもそういう学歴詐称は少なくありません。しかしこれとは逆に、高学歴者が低学歴を詐称して採用されたことが問題になった事案というのは欧米ではあまり聞いたことがありません。

 新左翼運動で大学を中退した者が高卒と称してプレス工に応募し採用され、その後経歴詐称を理由に懲戒解雇された炭研精工事件(最一小判平3.9.19労判615-16)の原審(東京高判平3.2.20労判592-77)では、「雇用関係は労働力の給付を中核としながらも、労働者と使用者との相互の信頼関係に基礎を置く継続的な契約関係」であるから、使用者が「その労働力評価に直接関わる事項ばかりでなく、当該企業あるいは職場への適応性、貢献意欲、企業の信用の保持等企業秩序の維持に関係する事項についても必要かつ合理的な範囲で申告を求めた場合には、労働者は、信義則上、真実を告知する義務を負」い、「最終学歴は、・・・単に労働力評価に関わるだけではなく、被控訴会社の企業秩序の維持にも関係する事項」であるとして、懲戒解雇を認めています。大学中退は企業メンバーとしての資質を疑わせる重要な情報だということなのでしょう。

 これに対して中部共石油送事件(名古屋地決平5.5.20労経速1514-3)では、税理士資格や中央大学商学部卒業を詐称して採用された者の雇止めに対して、それによって「担当していた債務者の事務遂行に重大な障害を与えたことを認めるに足りる疎明資料がない」ので、「自己の経歴について虚偽を述べた事実があるとしても、それが解雇事由に該当するほど重大なものとは未だいえない」としています。低学歴を詐称することは懲戒解雇に値するが、高学歴を詐称することは雇止めにも値しないという発想は、欧米では理解しにくいでしょう。

少なくとも、日本の民間企業を前提とすると、「数学の指導力が優れている」と評判」の副校長の学歴詐称は、さほど重大なものではないことになるはずです。

2011年7月29日 (金)

ノンエリート大学生をめぐる認識ギャップ

“ワカモノ”じゃない『若者の労働運動』や『働くときの完全装備』の橋口昌治から、雑誌『職場の人権』71号をお送りいただきました。

これには、居神浩さんの「最低の就職内定率の中で、ノンエリート大学生問題を考える」という報告と、それに対する橋口さんのコメント、そして会場との質疑応答が収録されています。

居神さんの報告は、本ブログでも過去何回か取り上げてきた論文などとかなり重なりますので、ここでは、後ろの方の質疑応答から、これだけ居神さんが口を酸っぱくして語っても、その「ノンエリート」ぶりが理解されていない認識ギャップが浮き彫りになっているやりとりを・・・。

>質問4 ・・・先生が勤めておられる神戸国際大学で、経済学部の学生さんだったら日経新聞を読むとか、あるいはその経済原論で、具体的に誰のどんな教材を使っているのか、教えていただければと思います。

>居神さん ・・・まずは新聞のことですが、学生に「家で新聞を取っている?」と聞くと、「とっていない」と答える学生がすごく多いですよね。・・・まずは図書館に連れて行って、新聞というのはこういうのがあるんだと。これが朝日新聞、これが毎日新聞、これが読売新聞、そしてちょっと難しい日経新聞というのがあるよと。まずここからスタートなんです。

本でもそうです。新書と文庫の区別がついていませんから、新潮文庫、岩波文庫といわれてもなかなか分からないので、とりあえず文庫本のコーナーに連れて行く。・・・

そうすると、経済原論がどのような形になるかはかなり察しがつくかと思いますけど、ちょっと前は「経済学入門」というふうに言っていました。もう「学」はとりました。体系的なマクロ・ミクロなんていうのは外して、まさに新聞に出てくる経済用語を理解したらいいねということです。マクロ経済学、ミクロ経済学という講義は当然あるんです。経済学部ですから。今年、私もミクロ経済学を担当しました。いかに数学を使わないでミクロ経済学をやるか、足し算、引き算、かけ算、割り算でできるミクロ経済学をやる。これはなかなかしんどいんですけれども、需要曲線、供給曲線が出てこないミクロ経済学をやるという、これはまさに大学教員のスキルが問われるところです。・・・

そして、このコピペ問題のギャップ

>質問5 ・・・例えば、学生がウェブサイトの文章をコピーアンドペーストして書いた論文を見抜けない教員がいると言った話を聞いたことがあります。・・・

> それからコピペ問題。これはおそらく、大学の偏差値を問わず、コピペ問題はすべての大学で直面している問題かと思います。いかにコピペをさせないかというふうなところでの教育力が問われているんですが、我々の大学で問題になっているのは、コピペができない。レポートを書かせた場合、どこをコピペしていいかよく分からないということですね。コピペすらできないというレベルに達していますので、・・・

こういう認識があって初めて、

>その中であえて優先順位をつけるとすると、「職場の人権」研究会でこういうことを言うのも何ですが、労働法と社会保障は、優先順位が今のところは落ちてしまう。まず基礎学力からやっていかないと、なかなか労働法のところまで到達しないということなんです。

という言葉の重みが沁みてきます。

あと、居神さんの大学から殿堂入りブラック企業に就職する学生がたくさんいたこととの対比で、

>実はこのパチンコ店の従業員のキャリアというのは、高卒、あるいは大学中退でフリーターになった学生にとっては決して悪くない、つまり、決してブラックではなくて比較的良好な、グッドジョブなんですね。

という認識も、言われてみないとなかなか分からないところです。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-a5af.html(「マージナル大学」の社会的意義)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-9581.html(「大学がマージナルを抱えている」のが「マージナル大学」となる理由)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-587d.html(金子良事さんの理解と誤解)

2011年7月28日 (木)

結婚を諦めている原発作業員

ニフティニュースから、もとは英紙インデペンデントの記事のようです。

http://news.nifty.com/cs/headline/detail/yucasee-20110728-8413/1.htm(福島第一の20代作業員「彼女に仕事は内緒」)

>英高級紙インディペンデントに、東京電力福島第一原発で作業員として働く20代の男性「ワタナベ・アツシさん」(仮名)がインタビューに応じ「結婚はあきらめている」と命がけの作業に従事する心境を生々しく語っている。

 ワタナベさんは下請企業の正社員として働いており、月給は18万円。現在は昼飯手当として1日1000円が支給されるようになったそうだ。命がけの過酷な作業に従事しているにしては、あまりにも薄給といざるを得ないか。・・・

>そうした作業は終わりが見えず、「結婚はあきらめている。もしも彼女に仕事のことを話したら、将来の健康、子どものこと、色々と心配をかけるだろうから」と語ったそうだ。
 
 また、辞任した清水正孝社長について「現場の経験もないし逃げると思う。追いつめたら自殺するかもしれない」と同情していた。きっと、恨んでいる暇などないのだろう。そのくらいの過酷さが、ユーモアある文面ながらも、その行間から伝わってくる

もとのインデペンデント紙を見ると、当然ですが、もっと詳しい記事が載っています。

http://www.independent.co.uk/news/world/asia/a-young-man-sacrificing-his-future-to-shut-down-fukushima-2325952.html(A young man sacrificing his future to shut down Fukushima)

「フクシマを収束させるために自らの未来を犠牲にする青年」というタイトルが泣かせます。

さらに泣ける台詞。

>But he accepts that price. "There are only some of us who can do this job," he says. "I'm single and young and I feel it's my duty to help settle this problem."

「この作業ができるのは僕たちだけだ」「僕は独身で若いし、この問題を解決するのは自分の義務だと感じている」

> "I thought we were on a mission to provide safe power for Japan, for Tokyo. I was proud of that."

「僕たちは日本に、東京に、安全な電力を供給する任務があると思っていた。それを誇りに思っていた」

東電幹部に対する記者の辛辣な表現は、日本の新聞ではあまりお目にかからない種類のものでしょう。

>As subcontractors to the plant's operator, Tokyo Electric Power (Tepco), he and his colleagues are well down the plant's employment food chain. Full-time Tepco employees are at the top, mostly white-collar university graduates with better pay and conditions. Tepco managers, including its president, Masataka Shimizu, who disappeared and became a national laughing stock during the nuclear crisis, are considered desk-bound eggheads; too much head and no heart, unlike the blue-collar workers who kept the plant running.

「national laughing stock」とか「desk-bound eggheads」とか「too much head and no heart」とか、いやあ、英語って実に表現が豊かなのですね。なかなか日本語に訳しにくい。

日雇労働者が1日100ミリシーベルトで働いているというこの一節も背筋が寒くなります。白血病やがんになっても金を払って黙らせている云々。

>Initially, he says, some day labourers got big money for braving the lethally poisoned air at the plant. "At 100 millisieverts a day you could only work for a few days, so if you didn't get a month's pay a day, it wasn't worth your while. The companies paid enough to shut them up, in case they got leukaemia or other cancers later down the line. But I have health insurance because I'm not a contract worker, I'm an employee."

結婚できないと語っている一節はこれです。

>"I could never ask a woman to spend her life with me," he says. "If I told her about my work, of course she will worry about my future health or what might happen to our children. And I couldn't hide what I do."

そして、彼が自らを戦争中の神風特攻隊になぞらえているこの一節は、上記邦語記事にはありませんが、是非多くの日本人に読まれるべきです。

>Why do people do dangerous, potentially fatal jobs? Some, as Mr Watanabe does, might consider it a duty to "nation" or "society". No doubt there is an element of bravado too – he compares himself to the young wartime kamikaze pilots who saw themselves as the last line of defence against invasion and disaster.

なぜ人々は危険で、潜在的には致命的な仕事をするのだろうか。ワタナベ氏のように、それを「国家」「社会」への義務だと考えているのかも知れない。間違いなくそこには虚勢の要素もあるけれど、彼は自らを、侵略と災害から防衛する最前線に立つ戦争中の若き神風特攻隊のパイロットになぞらえる。

そして、またまた記者の辛辣な筆致が躍ります。

>Whatever his reasons, Mr Watanabe displays infinitely more humility, concern for humanity and humour than the men who run his industry. For roughly the same take-home pay as a young office clerk, he and his workmates have sacrificed any hope of normal lives. He has never met the Prime Minister, the local prefecture Governor or even the boss of Tepco. He will never have children and may die young. In another world, he might be paid as much as a Wall Street trader, an idea that makes him laugh.

理由は何であれ、ワタナベ氏は、その業界を運営している人々よりもずっと謙虚で、人間的で、ユーモアがある。若いOL程度の手取り給与で、彼と同僚たちは普通の生活の望みを犠牲に供しているのだ。彼は一度も、首相にも、知事にも、東電の会長にも会ったことはない。彼は決して子供を持たないまま若くして死ぬだろう。もう一つの世界では、彼はウォールストリートの投機家並みに稼げたかも知れないのに。

「某米系投資銀行勤務」の方に読ませたい記事ですね。

しかし、この青年はもっとはるかに謙虚です。

最後に泣かせる台詞。

>"I'll probably get a pen and a towel when I retire," he says. "That's the price of my job."

「退職するときにはペンとタオルをもらえるでしょう」「それが僕の仕事の値段なんです」

だからこそ、先日の毎日新聞の記事から引用した髙﨑計画課長の台詞を、もう一度復唱しなければなりません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-2ecb.html(労働者は使い捨ての機械ではない)

>事故収束を優先させたい原子力安全・保安院に対し、厚労省の高崎真一計画課長は「労働者は使い捨ての機械ではない。死にに行け、とは言えない」との思いで臨んだ。

最低賃金ちょびっと引き上げ

既に新聞等で報じられている旧聞ですが、厚労省HPに資料がアップされましたので、

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001kh45-att/2r9852000001khl8.pdf(中央最低賃金審議会目安に関する小委員会報告)

これ、日付が平成23年7月25日になっているんですね。25日から夜通しやって、暦日では26日の午前中に決着したのですが、公式的には25日の34時とかということになっているのでしょうか。

さて、連合事務局長談話も出ていますし、

http://www.jtuc-rengo.or.jp/news/danwa/2011/20110726_1311659012.html

労務屋さんの談話も出ていますので、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20110728#p1(最賃引き上げ、今年は減速)

まともな議論はそちらで見ていただくとして、私は労務屋さんが引用している日経記事の川口さんのコメントにからんで、

>一橋大・川口大司准教授 最低賃金の引き上げを小幅にとどめ、被災地は地域の実情で柔軟に決めるという判断は現実的で評価できる。労働市場を踏まえない最低賃金の引き上げは雇用を減らす可能性がある。

 たとえば北海道は4年間で654円から704円に50円上がることになるが、これほど急激に上げては主婦らの働く場が失われる可能性がある

昨年のエントリでも述べましたが、北海道の労働市場についてはやはり相当に危惧されます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8c21.html(北海道はホントに最賃ギリギリが一番多い)

>特に北海道。昨年の最頻値は昨年の最賃額の枠、今年の最頻値は今年の最賃額の枠。つまり、最賃ギリギリにべったりと張り付いている労働者があらゆる賃金階層の中で一番多いということですね。

>これを見ると、沖縄やとりわけ北海道で最賃を上げるということがこの一番多い固まりをどうするかという大問題であるという実態が目の当たりによく分かります。

これで、資料1の生活保護と最賃の乖離額を見ると気を失いそうになります。

>北海道はまだあと50円も上げないと生活保護にすら追いつかないのですよ。

最賃問題の本丸は北海道にあるわけです。

2011年7月26日 (火)

清水耕一『労働時間の政治経済学』書評@大原社研雑誌

『大原社会問題研究所雑誌』8月号(634号)は、ベーシックインカムが特集で、こちらは後でじっくり楽しみたいと思いますが、

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/634/index.html

【特集】ベーシック・インカム    
ベーシック・インカムの魅惑と当惑 成瀬 龍夫 
ベーシック・インカムの理論と実践-日本の社会政策の場合 武川 正吾 
東日本大震災と所得保障の必要性-ベーシック・インカム要求が提起するもの 山森 亮 
ベーシック・インカムというラディカリズム 新川 敏光 

■証言:日本の社会運動   
全日化の結成と産別会議の運動-亀田東伍氏に聞く(上) 吉田 健二 

■書評と紹介   
清水 耕一著『労働時間の政治経済学-フランスにおけるワークシェアリングの試み』 濱口 桂一郎 
河合 克義著『大都市のひとり暮らし高齢者と社会的孤立』 鄧 俊 
竹田 有著『アメリカ労働民衆の世界』 南 修平

ここでは、わたくしが書いた書評を紹介しておきます。

652 それは、清水耕一さんの大著『労働時間の政治経済学 フランスにおけるワークシェアリングの試み』(名古屋大学出版会)です。

>ヨーロッパの先進的な労働時間短縮の試みは、失業問題・ワークシェアリング政策と不可分である。フランスの週35時間労働制が雇用創出と労使関係に与えた効果について、1980年代から現在までの制度の追跡と、ルノーやトヨタ・フランスなどの実態調査によって、マクロとミクロ両面より分析する

http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0652-1.html

この本の内容を目次で示すと、

序 章 労働時間短縮をめぐる諸問題
  1 フランスにおける失業問題
  2 ワークシェアリングの経済学
  3 労働時間と雇用の政治学
  補論1 ワークシェアリングの経済学への補論
  補論2 フランスにおける派遣労働者
  補論3 フランスの「代表的」労働組合
     コラム1 カードル(基幹職)とは

   第Ⅰ部 週35時間労働法の成立と運命

第1章 35時間労働法への歩み
  1 労働時間短縮の歴史
  2 39時間労働制と労働のフレキシブル化
  3 ロビアン法 : 雇用創出のための労働時間短縮
     コラム2 労働時間のモジュール化

第2章 2つのオブリー法
  1 35時間労働法の舞台裏
  2 オブリー法Ⅰ
  3 オブリー法Ⅱ
  4 労使関係に関するイノベーション

第3章 オブリー法の効果と社会的アクターの反応
  1 2001年末における35時間労働法の効果
  2 経営者のオブリー法に対する態度
  3 労働組合の姿勢
  4 労働者の反応
  5 多数派の支持、しかし……

第4章 時間戦争 : 35時間労働の終焉?
  1 35時間労働法批判のイデオロギー
  2 フィヨン法によるオブリー法Ⅱの修正
  3 2005年3月31日の法 : 35時間労働の終焉?
  4 長時間労働促進法としての2007年8月21日の法(TEPA法)
  5 右派政権による労働法の修正はなぜ効力を持たなかったのか
  補論4 政府の財政負担
     コラム3 CFDT、CFE-CGC及びCGTの共同声明(2007年6月7日)

   第Ⅱ部 法定週35時間労働制で働く

第5章 35時間労働制への移行方法と実態
  1 一般的傾向
  2 自動車メーカーにおける35時間労働制と労使関係

第6章 金属産業の部門協定
  1 1998年7月28日の部門協定の問題
  2 2000年1月29日の修正部門協定
  3 基幹職(カードル)層の拡大問題
  4 法と金属産業の労使間協定
  補論5 金属産業におけるパートタイム労働
     コラム4 新学位(LMD)制度

第7章 ルノーにおける35時間労働
  1 1980・1990年代におけるルノーの再建と労使関係
  2 35時間労働制のための企業協定
  3 危機への対応
     コラム5 ルノーCGTはなぜ署名を拒否したのか

第8章 PSAプジョー・シトロエンにおける35時間労働
  1 1980・1990年代におけるPSAグループの再建と労働政策
  2 35時間労働制のための企業協定
  3 労働時間管理のフレキシブル化と危機への対応

第9章 トヨタ・フランスと35時間労働法
  1 トヨタ・モーター・マニュファクチャリング・フランス (TMMF)
  2 TMMFの雇用・労働関係
  3 2001年労使間協定における労働時間管理
  4 2009年4月のストライキと労働時間の年間管理
     コラム6 トヨタ生産システム(TPS)用語

終 章 不可逆的な進化
  1 35時間労働法が生み出した労働世界
  2 制度経済学への理論的インプリケーション
  3 日本の労働時間問題を考える

となっています。

この本は既に2010年の社会政策学会賞の学術賞を受賞していますが、

http://wwwsoc.nii.ac.jp/sssp/2011gakkaisho.html

わたくしは正直言って、「本書が注目に値するのは、賃金に比べてあまり注目されてこなかった労働時間の持つ重要性を浮き彫りにしたことである」という学会賞選考理由はあまり同感しないのですが、

また、毎日新聞の書評も、

http://www.unp.or.jp/syohyo2010#110213

「ワークシェアリングは成功したのか」という帯の宣伝文句に真っ正直に反応していますが、

この本の値打ちは少し違うところにあるのではないかと感じ、その旨書評で書かせていただきました。

まだ大原社研のサイトにアップされていませんので、最初のリードの部分だけ・・・

>本書は『労働時間の政治経済学 フランスにおけるワークシェアリングの試み』と題されている。実際、本書の帯には大きな字で「ワークシェアリングは成功したのか」と書かれているので、本書が雇用創出政策としてのワークシェアリングに焦点を当てた研究書であると受け取る人がほとんどであろう。確かに、読み始めはそういう雰囲気が濃厚である。

 ところが、400ページ近い本書を読み進めていくうちに、そのような問題意識はどんどん薄れていくのに気がつく。そして読み終えた頃、この本にふさわしいタイトルを聴かれたら、『労使関係の政治経済学 フランスにおけるフレクシビリティの試み』と答えたくなっている。

 そう、本書は、ワークシェアリングを目指したつもりが(それはどこかに行ってしまい)フレクシビリティの促進策になった政策、労働時間の在り方を変える政策を遂行したつもりが(それを超えて)労使関係の在り方を変える政策としてフランスの労働社会に影響を及ぼした政策の、その政治的アイロニーまで含めて詳細に分析した作品となっている。それがどこまで著者の意図したものであるかは別として

宮島英昭編『日本の企業統治』

9784492532898 経済産業研究所(RIETI)より、RIETIの研究プロジェクトの研究成果である『日本の企業統治-その再設計と競争力の回復に向けて』(東洋経済)をお送りいただきました。

http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/11070003.html

この本の内容は以下の通りですが、

序章 日本の企業統治の進化をいかにとらえるか
第I部 日本企業の外部ガバナンスはどう変化したか
 第1章 「メイン寄せ」による規律付けと実証分析
 第2章 株式所有構造の多様化とその帰結
 第3章 日本における経営権市場の形成
第II部 内部ガバナンスと組織アーキテクチャ
 第4章 日本企業による社外取締役の導入の決定要因とその効果
 第5章 何が成果主義賃金制度の導入を決めるか
 第6章 多角化・グローバル化・グループ化の進展と事業組織のガバナンス
 第7章 親子上場の経済分析
第III部 企業統治の変化と企業行動への影響
 第8章 R&D投資と資金調達・所有構造
 第9章 日本の大企業の資金調達
 第10章 配当政策と雇用調整

労働政策面からも興味深い第5章(成果主義)は、齋藤隆志、菊池達也、野田知彦さんらが、また第10章(配当と雇用調整)は、久保克行さんが書かれています。

成果主義についての知見は、

>分析の結果、労働組合の存在が成果主義に対して負の影響を与えること、しかし労使協議制度が存在することでこの効果が緩和されることが分かった。また、負債比率が高い企業においては、負債の規律付け効果を通じて成果主義の導入が促されること、アウトサイダー株主の保有比率が高い企業でも、同様に成果主義の導入に積極的であることが示された。さらに、企業内で従業員の高齢化が進む場合、そして企業成長性が低い場合にも、成果主義の導入が促進される一方、非正規従業員比率が高い企業では、成果主義が導入されにくいことも示された。・・・

>以上の結果が示唆することは、まず、企業は従業員のモチベーションを高めるために成果主義を導入した可能性は否定できないとしても、より直接的には、近い将来における賃金負担の削減を意図したものであるといえることである。・・・

>この研究の限界としては、・・・・・・従業員の平均年齢が高く、企業の成長性が低く、負債比率が高いから成果主義を導入しなければならないのか、逆に成果主義を導入しないから平均年齢が高いまま、成長性も上がらず、負債比率も高くならざるを得なかったのか、という問題である。

とまとめられていますが、最後のところの趣旨がよく理解できませんでした。「逆に成果主義を導入しても・・・」ではないかとも感じられたのですが。

2011年7月25日 (月)

労働者は使い捨ての機械ではない

本日の毎日新聞が、原発作業員の被爆問題について、1面トップと14/15面全面をあてて、総力を挙げた大特集を組んでいます。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110725ddm001040055000c.html

http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/verification/news/20110725ddm010040007000c.html

まず1面トップですが、

>検証・大震災:作業員、被ばく上限 首相「500ミリシーベルトにできぬか

>第1原発は爆発が続き、高線量の中での作業が必要だった。作業員の安全を守る立場の厚生労働省にすれば250ミリシーベルトが「ぎりぎりのライン」。しかし、細野豪志首相補佐官(当時、現原発事故担当相)から「250では仕事にならない。役所をまとめてほしい」と要請を受けた長島昭久前防衛政務官は関係省庁にその意向を事前に口頭で伝えていた。

 15日には第1原発から約50人を除いて「撤退」が始まっていた。菅直人首相は東電の撤退に怒りを募らせ、東電幹部に「決死隊になるんだ」と活を入れた。その後、周辺には「撤退すれば、アメリカが(事故収束のために)占領しに来るぞ」と漏らした。

>17日午後6時半すぎ、官邸に菅首相、北沢防衛相、海江田万里経産相、細川律夫厚労相、細野補佐官らが顔をそろえた。「500ミリシーベルトに上げられないか」と菅首相。北沢防衛相が「性急に上げるのは良くない」と述べた。

 ICRP基準の「500ミリシーベルト」は人命救助が必要なほどの緊急時を想定している。「今後、巨大な爆発が起きてそのような事態が考えられるようなら国民に説明すべきだし、そうでないのなら引き上げる必要はないのではないか」。防衛省の総意が官邸に伝えられた。

500ミリシーベルトを阻止したのは防衛省だったというのです。

14面には、事故直後に250ミリシーベルトに引き上げたときのやりとりが、生々しく描き出されています。

>労働者は使い捨ての機械ではない

>そのころ東京・霞が関では、緊急作業時の被ばく線量の上限値(当時100ミリシーベルト)引き上げを巡り、関係法令を所管する経済産業省原子力安全・保安院と厚生労働省の間で激しいやりとりがあった。

 14日午後、厚労省の金子順一労働基準局長に官邸から電話が入った。

 「福島第1原発の状況が厳しい。今の緊急作業の現場からすると、100ミリシーベルトでは(作業が)難しいという話がある。関係省庁で話をして急いで結論を出してほしい」。加えて「国際放射線防護委員会(ICRP)の国際基準では、緊急作業の場合には条件付きながら500ミリシーベルトまでは許容される」とも伝えられた。

 事故収束を優先させたい原子力安全・保安院に対し、厚労省の高崎真一計画課長は「労働者は使い捨ての機械ではない。死にに行け、とは言えない」との思いで臨んだ。そのさなか、金子局長の元へ1人の女性課長が訪れ、こう報告した。「小さな子を抱えた人たちが東京駅から西の方へ続々と出発しています」。事故対応は急を要していた。

 医師でもある厚労省の鈴木幸雄労働衛生課長が文献を調べると、年間100ミリシーベルトを超えると慢性的影響は否定できないが、250ミリシーベルトまでなら急性症状の報告はなかった。

 金子局長は大臣室に何度も出入りし苦悩した。「こんな形で基準を見直していいのか。しかし原発への対応を誤れば……」。35年間、労働行政に携わってきた官僚として、あまりに厳しい判断を迫られた。

 最後は細川律夫厚労相が250ミリシーベルトへの上限値引き上げを決断した。「長期的な話ではなく、この日をどう乗り切るか、だ」

>金子局長は当時の判断をこう振り返る。「評価は甘んじて受ける」

15面の下の方に出てくる下請け会社の男性の言葉が痛烈であり、痛切です。

>乾パン、食べてみろ

 労働環境が一向に改善されない中、海江田万里経産相が4月9日、第1原発視察に訪れた。免震重要棟で作業員を激励し、雨の中、バスから1~4号機を見て回った。滞在時間約40分。下請け会社の工事課長で福島県富岡町出身の男性(41)は怒りを押し殺した。

 「何で現場をきちんと見ないのか。視察に来たら、同じ装備で動いてみろ。味のしない乾パンをぼりぼり食べてみろ」

 自宅は津波に流され、避難先には妻と4歳、1歳の息子がいる。自身が宿泊するいわき市の宿は、同じように家族を残した作業員ら約150人で満杯だ。怖さもあるが、生まれ育った町だ。「地元だし、19歳からこの仕事だし。行かなきゃどうにもなんねえだろう」。そんな気持ちで作業に臨んでいる。

 仕事はタービン建屋の汚染水を移送するホースの設置。全面マスクに軍手を2枚重ね、さらにゴム手袋を2枚。防護服は熱がこもり、まるでサウナスーツだ。マスクの曇りで視界は悪く、恐怖心からか動悸(どうき)もする。一緒に作業する東電社員は「この装備じゃ夏は無理だね」と嘆く。

 「安全神話」には裏切られた思いだが、地元の発展は原発のおかげだとも思う。復旧に汗をかく東電社員の姿も見ている。「東電を責めることはできない」。怒りの矛先は政府に向く。

 「国民のために覚悟を、と菅首相は言ったようだが、作業員だって国民。みんな被災者なんですよ。だけど、国はうちらを国民と思っていないですよ、絶対に」

 4月末までに、自分の周囲にいた100人のうち4割が辞めた

コメントは不要でしょう。

原発の「協力会社」と偽装請負

『労基旬報』7月25日号に掲載した「原発の「協力会社」と偽装請負」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo110725.html

>去る3月11日に、東北地方太平洋沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、これが作り出した数十メートルの高さに達する大津波が三陸海岸から福島浜通りに至る太平洋岸を次々と襲い、沿岸諸地域に壊滅的な打撃を与えた。この津波により福島第一原子力発電所では炉心溶融を来たし、周辺への放射能汚染や電力不足による計画停電など大きな影響を与えた。

 それ以来、東京電力とその協力会社の労働者たちが、高い放射線量の中で必死に事態の解決に邁進していることは報道されているとおりである。しかし、その多くを占める協力会社の労働者たちは、労働法上実に奇妙な立場におかれているのだ。

 職業安定法や労働者派遣法といった労働市場法制では、請負と労働者派遣(労働者供給)は峻別されている。正しい請負であるためには、元請側は下請会社の労働者に対して指揮監督をしてはならず、もし指揮監督をすればもはや請負ではなく労働者派遣(労働者供給)とみなされることになっている。数年前に一部マスコミが火を付けて大騒ぎになったいわゆる「偽装請負」とは、詰まるところこの点に集約される。工場の中で構内請負をしていると称していながら、工場側の指揮監督を受けているではないか、というのがその非難の根拠であった。

 ところが、労働基準法や労働安全衛生法といった労働条件法制では、戦前から全く異なる発想の政策が行われてきている。建設業のように伝統的に重層請負で作業が行われる業種では、元請会社が下請以下の会社の安全衛生には責任を持って管理することが義務づけられるとともに、労災補償も元請の責任とされている。その理由は労働省自身の解説によれば「実際には元請負業者が下請負業者の労働者に指揮監督を行うのが普通」だからである。労働市場法制では「偽装請負」とされる状況を「普通」として施策を講じてきたのである。

 原発も建設現場と同様、重層請負で特徴づけられる職場である。報道では「協力会社」と呼んでいるが、実体はまさに労働市場法制のいう「偽装請負」に他ならない。しかしながら、電離放射線が飛び交う危険きわまりない福島原発において、「偽装請負はけしからんから、正しい請負にせよ」というような命令が降りてきたらどういうことになるであろうか。正しい請負とは、東電は関電工の労働者に指示ができず、関電工はその下請の労働者に指示ができず・・・ということを意味する。安全衛生法上からすれば、とんでもない危険な事態を招くことになろう。しかし、数年前の「偽装請負」叩きのロジックからすれば、それこそが正義なのである。

 現時点では、まだおおっぴらに原発構内の偽装請負を糾弾する声は上がっていない。しかし、それはいつでも火が付けられる状態にあるのである

個別労働紛争の背景と解決システム@JIL雑誌

New 『日本労働研究雑誌』8月号の特集は、じゃじゃーん、「個別労働紛争の背景と解決システム」です。

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2011/08/

論文は以下の通りですが、

提言 個別労働紛争とは何か 野田 進(九州大学大学院法学研究院教授)

解題 個別労働紛争の背景と解決システム 編集委員会

個別労働紛争解決の経済学 石田 潤一郎(大阪大学社会経済研究所教授)

個別労働紛争における労働組合の役割 久本 憲夫(京都大学大学院経済学研究科教授)

個別労働紛争解決促進制度に見る労使紛争の一断面――都道府県労働局におけるあっせん事案を中心に 細川 良(拓殖大学非常勤講師)

個別労働紛争と人事管理・労働組合――都道府県労働局のあっせん事案に基づく分析 鈴木 誠(JILPTアシスタント・フェロー)

わが国の個別労働紛争調整システムの課題――イギリスとの比較を中心に 野瀬 正治(関西学院大学社会学部・大学院社会学研究科教授)

今回、わたくしたちJILPTの労使関係・労使コミュニケーション部門において研究に励んでいる若手二人、細川良さんと鈴木誠さんが登場しております。是非、じっくりお読みいただければと思います。

また、久本先生の論文は幅広くいろいろなことを指摘していますが、その中で当部門の呉学殊研究員の研究成果が使われていることも、ここでアピールしておきます。

石田さんの論文はゲーム理論を駆使したもので、まだ読めていませんが、来週あたりじっくり解読してみたいと思っています(それで理解できるかどうかは定かではありませんが)。

あと、今号では菅山真次『就社社会の誕生』の書評を大湾秀雄さんが書いています。

2011年7月24日 (日)

「線量計つけず作業、日本人の誇り」 海江田氏が称賛

朝日の記事ですが、

http://www.asahi.com/national/update/0723/TKY201107230699.html

>海江田万里経済産業相は23日のテレビ東京の番組で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業に関連し、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」と明らかにした。「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛する美談として述べた。

 番組終了後、記者団に対し、線量計なしで作業した日時は確かでないとしたうえで、「勇気のある人たちという話として聞いた。今はそんなことやっていない。決して勧められることではない」と語った。

 労働安全衛生法では、原発で働く作業員らの健康管理に関連し、緊急作業時に作業員は被曝(ひばく)線量の測定装置を身につけて線量を計るよう義務づけられている。作業員らが被曝線量の測定装置をつけずに作業をしていたのなら、法違反にあたる。厚生労働省は、多くの作業員に線量計を持たせずに作業をさせたとして5月30日付で東電に対し、労働安全衛生法違反だとして是正勧告している。

大臣の発言をその役所の見解だなどと思われては大変迷惑であるというような実例は、近年身近に見てきておりますので、これを見て直ちに「経産省はけしからん」と叫ぶつもりはまだありませんが、とはいえ、3月11日の事故から4ヶ月以上が過ぎ、この間本ブログでも何回も取り上げてきた原発作業員の労働環境の問題について、「業界所管官庁」のトップがこのような発言をされることについて、新聞報道等によれば他の政治家の方々に比べて当該官庁の人々の意見をよく取り入れているという評判の大臣の発言であるだけに、当該業界所管官庁の人々の雰囲気をはしなくも示している面もあるのではないか、と想像されるところがあります。

いうまでもなく、線量計をつけずに作業をするのが労働者の誇りなのではなく、線量計をつけずに作業させるのが事業者の恥なのですが。

2011年7月23日 (土)

医師も大変、看護師も大変

『看護崩壊』の小林美希さんが、こんなことをつぶやいているのを見つけ、

http://twitter.com/#!/mickeykobayashi/status/94729748298731520

>看護師の労働問題を言うと、必ず医師のほうが大変、という言葉を耳にする。が、問題を比べることはいけない。正社員か非正社員かと同じ議論に。医師も自身の環境についてもっと声を挙げればいいのに、よくも悪くも言わないケースが多い。それぞれの職種の問題は比べるものではない。

http://twitter.com/#!/mickeykobayashi/status/94730002523897856

>なかなか医師で看護師の問題に理解ある人は少ないが、心あるある医師から「われわれの仲間である看護師の問題について取り組んでくれてありがとう」と言われた。ちょっと感動した

一昨日、看護協会でお話しした際のやりとりを思い出しました。

看護協会が夜勤や長時間労働問題を取り上げようとすると、医師会が「余計なことをするな」と足を引っ張りたがるというのですね。

わたしは、医師でも若い医師などは長時間労働でへとへとになっているので、ほんとうは共闘できるはずだが、医師会の幹部ともなると、一つにはセンセイと呼ばれる偉い身分だから労働者などではない、労基法など振りかざすのはもってのほか、といった発想が牢固としてあり、また「儂も昔は苦労した」といっても昔の患者はモンスターじゃなかったという落差もあり、若い医師たちが置かれている悲惨な状況がなかなか理解できないのでしょう、と言うようなことを喋ったような気がします。

ちなみに、小林美希さんのつぶやきを遡ると、こんなのも出てきました。

http://twitter.com/#!/mickeykobayashi/status/89666910874120192

>そういえば、旧労働省と旧厚生省の役人では体質が違うなと改めて実感。以前より旧労働省とのやりとりであまり怒ったことはあまりないが、医療関係で旧厚生省に取材するようになって怒ることばかり。失礼ながら小役人が多い気が・・・。取材に応じないという態度は痛いところを突かれたくない証拠か。

http://twitter.com/#!/mickeykobayashi/status/89712916919631874

>看護師の労働問題について、いろいろあるにしろ、労働局まわりのほうが積極性があった。看護課はこの期におよんでも、上がやれといったから仕方なくやっているのではないかと疑う場面あり。いち役所の部門や政治家に期待するより、世論を作ったほうが早い。が、大臣にはやる気があるような気配あり

まあ、業界所管官庁はどうしても労働者保護よりは業者保護に傾きますからね。

ただ、わりと最近になるまで、労働行政が業所管官庁に遠慮がちであったことも確かですが。

広田科研研究会での発言録

去る7月3日、下高井戸の日大で開かれた広田照幸先生の科研研究会で喋ってきたことは本ブログで報告したとおりですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-b8cc.html(広田科研で報告)

その時の速記録がきましたので、これから修正を入れて、日本語らしくして送り返さなければならないのですが、とりあえずわたくしの報告と発言部分だけをアップしておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hirota.html

こちらには、そのうち報告部分をアップしておきます。

>第1報告:濱口桂一郎「労働市場の変容と教育システム」

はじめに
 濱口です。圧倒的大部分の皆さんとは今日初めてお目にかかります。若干、よその家に初めてお邪魔したような感じですが、せっかくの広田(照幸)先生のお招きなので、できるだけ皆さんの議論の役に立てるように、歯に衣着せぬ話をします。
 今日のためのレジュメというか、特に****作っていて、今までに話したり、書いたりしたものを三つお配りしていますが、必ずしもこれに沿うかたちではなく話をします。
 たぶん、私と小玉先生をかみ合わせようというのが広田先生の趣向なので、あえてそれをはずすというのも戦略ですが、せっかくなので、言われたとおりかみ付くかたちの展開をしたほうがドラマとしても面白いでしょうし、そのようにやらせていただきます。
 最初に演じるところから始めるのは若干つらいですが、そこから始めないと話が始まらないので、初めのところは昨年6月に日本社会教育学会で話したメモに沿うかたちで話をします。
 普通の人にとって、若い頃は、ものを学ぶのが主な時間の過ごし方で、それを過ぎた大人の時期には、労働が主な時間の過ごし方です。そういう意味で、人間は、引退後はともかく、おおむね教育と労働が一番なじみのあるところです。
 教育が人生の前のほうに置かれていて、労働がそのあとに置かれていることからすると、通常、教育は労働の準備であり、労働は教育の成果であるというのが一般的な考え方です。そうすると、教育と労働は、本来、密接な関係にあるはずです。
 しかし、現実の日本社会では、少なくとも教育にかかわる政策や学問は、労働の中身にあまり関心がなかったように見えます。逆に、労働にかかわる政策や学問は、教育の外形には非常に関心を持っていますが、教育の中身にはあまり関心を持ってこなかったように見えます。
 より正確に言うと、高度成長期が始まった頃までは、まだそれなりの関心・関与がありました。そのあと、政府の政策レベル、あるいは社会的なアクターがいろいろ語る中にもそういうことがあったように見えますが、むしろ、それはだんだん失われていったように見えます。
 この段階でそれがいいか悪いかを言う必要はなく、その必要がなくなってきたからそうなっただけです。しかし、とりわけ、ここ数年来、再びその辺が議論されるようになってきました。
 その理由として、若者の非正規問題が一番大きなきっかけであったことは間違いありません。それだけなら、その問題だけを解決すればいいという議論はあり得ます。しかし、それをきっかけにして、今まであまり議論されなかったもろもろの問題が、いわば一連のかたちで議論されるようになってきました。

1 「教育」と「労働」の密接な無関係
 教育と労働がお互いの中身に関心を持たなかったといっても、もちろん、お互いに無関係だったわけではありません。これは、ややひねった言い方ですが、私は、「教育と労働の密接な無関係」と言っています。「密接な無関係」というのは意味不明ですが、当然のことながら教育の世界と労働の世界は非常に密接な関係があります。学校で受けた教育が、卒業後にどういう職業キャリアをたどっていくかに大きな影響を与えるのは事実で、だからこそ「学歴社会だとか何だ」と山のように言われるわけです。
 皆さんは、本田由紀さんが本(『若者と仕事』東京大学出版会)を出してから初めて、学校で受けた教育の中身そのものがどれだけつながっているかという議論が始まったと考えているかもしれません。当時、世間的にはあまり問題意識を持たれていませんでしたが、実は、まだJILPT(労働政策研究・研修機構)に「PT」が付く前のJILで、そういう問題意識がありました。ただ、ざっくり言うと、そんなことを議論しなくてもいい仕組みになってきたから、世間は関心を払ってこなかったんだと思います。
 実は、ここは話が二重になっていて、企業や職場レベルでそうなってきた話だけでも、たっぷりと時間を使って議論ができます。とりあえず、そこは置いておいて、政策のレベルで言うと、意外に多くの人に認識されておらず、また、多くの人が、日本政府の政策は同じ方向を向いてずっとやってきていると当然のように思っている傾向があります。
 実は、そうではなく、私の認識では、政策の主体もさまざまあります。私の土俵である労働政策の観点からすると、むしろ、教育と労働を中身でつなげるような方向を施行する政策の考え方が中心的でした。
 所得倍増計画は高校の教科書にも太字で出てきますが、読んだ人はほとんどいないと思います。これを読むと、まさに近代化論に満ちています。近代化論とは、日本は、まだ前近代的な社会で、近代化しなければいけないということで、近代的な社会とは、労働市場がもっと流動化し、職種と職業能力に基づいた社会が作られなければいけないということです。所得倍増計画には、このようなことが延々と書いてあります。実は、経済政策も労働政策も基本的にはそういう方向を向いていました。
 もっと意外なのは、日本の経営団体も、ある時期まではそういうことを一生懸命言っていました。労働関係の人にとっては、ある意味で常識的な話ですが、たぶん、そこをはずれるとあまり知られていないと思います。
 日経連が、ある種の近代化論から身を離すのは、むしろ1960年代末期以降です。政府はもう少し遅れて1970年代半ばです。一番大きな契機は石油ショックで、日本的な長期雇用や年功的な賃金制度を前提にして、それを称揚する方向の政策が進んでいきます。
 そうすると、教育と労働の関係も、必ずしも教育課程の中身そのものが労働に直接リンクするものである必要はありません。いわば、私の言う「労働と教育の密接な無関係」ができてきたと思います。

2 システムの改変の必要性
 ここまでは、どちらかというと、「そう演じろ」と言われて演じているたぐいの議論です。本来ならば、広田先生の突っ込みがあったうえで、それに対するリプライとして言うべきことかもしれません。やや総論的ですが、先走って、なぜこういう議論をするかというよりも、文脈をもう少し広げたところでの話をします。
 実は、どういうジョブをどういうスキルを持ってやるかで世の中を成り立たせる社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に入り、その組織の一員であることを前提に働いていく在り方のどちらかが先天的に正しいとか、間違っているという話はないと思います。
 もっと言うと、ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団を成して生きることができません。
 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、その人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間をこう処遇し、ほったらかしてこういうふうに処遇していくというものをかたち作っていくのは、いわば、お互いに納得し合えるための非常にいいよりどころです。
 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。
 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろそれで、そこから見ると、日本のように妙なよりどころはなく、密接につながっている同じ職場の人間たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見ます。その中で、おのずから、「この人はこういうことができる」というかたちでやっていくことは、ある意味では実にすばらしい社会です。
 ただし、これも一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがない人間との間にそれがあるかというと、ありません。いきなり見知らぬ人間がやってきて、「私はできる」と言っても、誰も信用できるはずがありません。それを信用できる人間は、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うことは人類の歴史でわかっています。だからこそ、何らかのよりどころをやるしかありません。
 よりどころのやり方として、どちらが先験的に正しいというのは必ずしもないと思います。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、より公的なクオリフィケーションではない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力の把握、それに基づく人間の職ができていた面があります。
 それにしても、大きい組織になると、本当はどこまでがそうなのかというのがあり、議論をしだすと永遠の渦巻きみたいなものになるかもしれません。しかし、逆に言うと、同じ集団に属しているので、ある種のトレンディー的な感覚を共有する者の中でしか通用しない話です。その中に入れなかった人がふらっとやってきて、「俺は、実はこれだけの能力がある」と言ってみたところで、下手に信用したらどんなひどい目に遭うかわからないので、誰も信用できません。
 たぶん、ここ数年来、あるいは十数年来の日本で起こっている現象は、局部的には、公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりも、より最適な状況を作り得る仕組みがあちこちにできて、それが縮小しながら、なお起きています。
 ですから、中にいる人にとってはいいですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、「自分は、本当は中に入ったらちゃんと見てくれるはずだ。見てくれたら俺がどんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思い、門前で一生懸命「わーわー」わめいていても、誰も認めてくれません。恐らく、それが起こった状況です。
 これが、想定した、広田先生のコメントに対するリコメントに当たるものです。
 この段階で言うのがいいのかわかりませんが、教育は職業レリバンスのあるものにしなければいけません。ある程度は、私も思っています。もしかしたら、そうしたら本当にすばらしい社会になると思っていると考えているかもしれませんが、人間は、そもそもお互いに全く理解し合えないものだと思っています。お互いに全く理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。
 逆に言うと、ある意味で、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、がしゃがしゃとしたかたちをあえて作らなければ生きていくのが大変な人は、そうしたほうがいいという話をしていくつもりです。これが、全体の3分の2のお話しでした。

3 「抵抗」について
 残りの3分の1の時間では、想定される小玉先生の話に対するコメントにするつもりです。本田さんの言い方で言うと、「適応と抵抗」の「抵抗」になりますが、ちょうど「若者の何たらかんたら」という話がはやった頃に結構売れたのが、いまだにフリーターをしている赤木智弘が書いた本です。
 その中で、「今まで私は左翼だったけど、左翼なんかもう嫌だ」と言っています。彼がなぜ「左翼」と言っているかというと、「世界平和とか、男女平等とか、オウムの人たちの人権を守れとか、地球の向こう側の世界にはこんなにかわいそうな人たちがいるから、それをどうにかするとか、そんなことばかり言っていて、自分は左翼が大事だと思ったから一生懸命そういうことをやっていたけど、自分は全然よくならない。こんなのは嫌だ。こんなのはもう捨てて戦争を望むんだ」という、ある意味ではよくわかる話です。
 これが最初に載ったのは、もうなくなった朝日新聞が出している雑誌(『論座』)です。それに対して、いわゆる進歩的と言われる知識人たちが軒並み反論をしました。「だから左翼は嫌いだ」と言っている話をそのまま裏書きするようなことばかり書いていて、こういうことを反論されていたら、たぶん、赤木さんは絶対に納得しないと思いました。
 ところが、非常に不思議なのは、彼の左翼の概念の中に、自分の権利のために何かを戦おうということはかけらもないことです。
 もう一つ、私は、大学に呼ばれて時々話をしに行きます。オムニバス講義の中の1回ですが、某女子大に話をしに行ったことがあります。いろいろなことを話しましたが、人権擁護法案があり、「こうこうこういう中身だけど、いろいろとこういう反対運動があって、いまだに成されていない」という話を、全体の話のごく一部でしました。
 その講義のあとに、学生たちは、感想を書いた小さな紙を講師に見せます。それを見ていたら、いくつも、「人権擁護法案をほめるとはけしからん」という、ほかのことは全然聞いていなかったのかという感じのものがどっと来ました。
 要するに、人権を擁護しようというのはけしからんと思っているわけです。赤木さんと同じで、人権擁護法や人権運動と言っているときの人権は、自分とは関係ない、どこかよその、しかも大体において邪悪な人たちのことです。そういう邪悪な人間をたたき潰すべき者を守ろうというのが人権擁護なので、そんなものはけしからんと思い込んで書いてきています。
 私は、正直言って、なるほどと思いました。そこは、戻ってきたら1回きりで、問い返すことはできませんでした。もし、問い返すことができたら、「確かに、北朝鮮の何たらかんたらが人権や何とかという話もあるかもしれない。あなた自身がひどい目に遭ったときに、人権を武器に自分の身を守ることがあり得るとは思いませんか」と聞いてみたかったです。彼女らの頭の中には、たぶん、そういうことはなかったと思います。
 何が言いたいかというと、人権あるいは憲法がどうとか、戦後の進歩的な人たちが営々と築き上げてきた政治教育の一つの帰結がそこにあるのではないかということです。あえて毒のある言葉をまき散らしますけれど。
 少なくとも、戦後は、自分たちの権利を守ることが出発点だったはずです。私は、まだ生まれていないので本当かどうかわかりませんが、当時書かれたものを見ると、非常にそういう感じが満ち満ちています。気が付けば、人権は、自分の人権ではなく人の人権、しかも、多くの場合は敵の人権です。自分の権利をどう守るか、守るために何を武器として使うかという話は、実はすっぽりと抜けてしまっています。
 なぜ、延々とこのような話をしているかというと、結局、ここで言う集団的労使関係の問題や労働教育の問題は、たぶん、そこに至るのではないかということです。
 また歴史の話をすると、私が生まれたのは1958年です。この年に、労働省から労働教育課がなくなりました。それまでは、労働者あるいは国民一般に対して、労働組合や労働法を教えることが国の政策の一つの柱になっていました。しかし、もう十分にわかったからいいということで廃止されました。
 少なくとも職場で働いている人間が自分たちの権利をどう守るかということは、わかっているからもういいということで、それ以来、半世紀以上されていません。恐らく、その間にされてきた人権は、自分ではないどこか遠くの人の人権です。それが悪いと言っているわけではありませんが、そういうことだけがずっと教育されてきました。「人権は、そういうものだ」というかたちで返ってきた一つの帰結が赤木さんであり、名は知りませんが、私に猛烈な抗議を書いてきた大学生たちだと思います。
だとすると、今必要なのは、「権利や人権はあなたのことだ。あなたが今いるその場で、自分の権利をどう守るか。そのために、法律も含めたいろいろな仕組みをどう使うか」という話から進めないと、政治教育の義務は始まらない気がしています。
 最後に少し、また大風呂敷的な言い方をします。政治とは何かというと、多くの人は、政治とは永田町でやっていること、あるいは県庁所在地など、市の指揮管理でもいいですが、要は、政治という特別な世界でやっている話だと思っています。それは確かにそうで、日本の政治学者は、そういうところでやっているものをひたすら分析しているので、ある意味では当たり前です。また、そういうところでやっているものを追い掛けるのが新聞の政治部の記者なので、仕方がありません。
 しかし、機能的に考えると、社会のありとあらゆるところに政治があり、会社の中にも政治があります。企業小説を読むと、まさに政治のはらはらどきどきする世界がたくさん描かれているし、私はよく知りませんが、たぶん、大学の世界も非常に政治に満ち満ちていると思います。
 恐らく、人間が集団らしい組織を作れば、ありとあらゆる政治があるはずです。それは、ある意味、人が労働者として働いている小さな職場であっても、まさにそこの管理職や下っ端、そして、その間に挟まれた中間管理職の間には、実に手に汗を握るような政治が日々展開しているはずです。
 ある意味では、そういう政治に対してどう適応するか、それが自分に対して何らかの不利益を持ってくれば、それに対してきちんとどう対抗するかも含め、実は、それが政治を捉えることのはずです。また、政治にかかわる在り方、生き方を教えるというのは、永田町でやっている政治の話ではなく、むしろニュートラで、社会のありとあらゆるところで日々行われている政治に対する対し方だと思います。
 それを労働の話に引き付けると、自分が働いている場で起こるいろいろなトラブル、不満、問題をどううまく解決するかが政治の術です。政治は、古代ギリシャ以来、まさに人間社会の技術の方法で、それも含めてどうやっていくかが集団的労使関係であり、労働教育で問われている課題です。
 若干、散漫になり、かつ、本来であればコメントを受けたうえでのリコメントに入るべきことを先取り的に言いましたが、何か皆さんの考えの役に立てればと思います。以上です

2011年7月21日 (木)

個別労働紛争分析の英文版

『個別労働関係紛争処理事案の内容分析』の英文要約版が『Japan Labor Review』夏号に掲載されました。

http://www.jil.go.jp/english/JLR.htm

http://www.jil.go.jp/english/JLR/documents/2011/JLR31_hamaguchi.pdf

これは表なども入って読みやすくなっておりますので、お薦めです。

なお、同報告書の概要の英文版もアップされています。

http://www.jil.go.jp/english/reports/documents/jilpt-research/no.123.pdf

看護師の「雇用の質」

本日、表参道のセレブな街並みの中の日本看護協会でEUの労働時間指令をめぐってお話しをして参りました。現在、日本看護協会は看護職の夜勤・交替制勤務に関するガイドラインに向けていろいろと取り組みをされていて、その一環ということになります。

看護協会の取り組みの一端は

http://www.nurse.or.jp/nursing/practice/shuroanzen/jikan/index.html

にありますので、関心のある方々はどうぞ。

その場でも話題になったのですが、いままで労働基準行政は工場とか建設現場を主たる対象と考えて、医療の世界にはやや遠慮がちであった面もあるように思われますが、近年の医療界における労働条件のひどさの訴えや報道等もあり、かなり本腰を入れて取り組み始めた観があります。

たとえば、先月6月17日付で出されたこの通達なども、

http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T110628K0060.pdf(看護師等の「雇用の質」の向上のための取組について)

いままでの遠慮がちな労働行政の姿からするとかなり画期的です。まあ、受け取る側がどれだけ真剣に考えるのか、という問題はあるのでしょうが。

看護師の労働条件については、以前本ブログで小林美希さんの『看護崩壊』をご紹介したことがあります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-19db.html(小林美希『看護崩壊』)

震災復興@連合総研『DIO』

Rials 連合総研の『DIO』の7/8月合併号は、「震災復興の活路」が特集です。

マクロ経済への影響試算と今後の政策的課題  小黒 一正
東日本大震災による被災地の雇用・失業問題を考える   中村 二朗
中長期的に必要なボランティア活動について思うこと  金子 博

という3人のうち、やはりここでは労働経済学の中村二朗さんのを見ておきましょう。

ここで中村さんは、持ち株会社方式による復興策を提案しています。大変興味深い提案なので、やや長いですが、原文を引用します。

>筆者が考える一つの具体策は、地域別(県などの単位)あるいは業種別にいくつかの持ち株会社(中間持ち株会社の採用も含む)を設立することである。そこには、資金獲得部門、コンサルタント部門、そして、震災のために独自に経営できなくなった既存事業所による現業部門と各現業分門に労働者を派遣する派遣部門を設置する。就業希望の労働者は派遣部門に雇用され、持っている技能・技術を発揮できる現業部門に派遣される。給料は派遣部門からの一定額と派遣された現業部門の支払い能力によって上乗せされた額を受け取る。

資金獲得部門は政府、自治体、民間などから資金を調達し現業分門に配分する。配分や現業部門の経営についてはコンサルタント部門が支援する。現業部門において経営が順調になり独立できるようになれば派遣された社員とともに持ち株会社より独立する。

 このようなシステムのメリットをいくつか箇条書きにすれば以下のようになる。

●労働者
1) 失業者を社員として吸収することが可能である。
2) 失業給付ではなく、給料として生活費を支給することができるようになるとともに、相対的に長期にわたって一定額以上の収入が保証される。
3) 失業という形をとらないため、一定の仕事をこなすことが可能であり、これまでの技能・技術の陳腐化が起こりにくい。
4) 現業部門が独立すれば、継続的に仕事が保証される、給料が上がる、などの経済的インセンティブが存在し、復興のための活力となる。

●事業所
5) 既存事業所のノウハウやネットワークを活用することができる。
6) 資金力のない既存事業所にとって資金獲得が容易となる。
7) 持ち株会社の信用のもとで、銀行や震災前の取引会社等が資金を提供しやすくなる。

●政府・自治体
8) 持ち株会社にすることで、必要な資金の一部を民間から導入することができる。
9) 政府および自治体も株主になることにより一定の介入が可能となる。
10) 株式会社のため、経済原理をある程度導入することが可能となる。

むろんデメリットも存在する。例えば、民間から多くの資金が導入できなければ結局政府・自治体の支出が多額となってしまい、資金制約により持ち株会社の運営自体が成り立たなくなる可能性もある。しかしながら、このような持ち株会社を設立することにより全体の復興策と地域にとってきめ細かな政策を一定の経済合理性を機能させながら両立させることが可能となる。また、被災者の雇用の場をある期間確保でき、かつ、それまでに形成した技能や技術を継続的に役立てることができる。失業者として顕在化した場合には多額の失業給付を必要とするだけでなく、失業した中高年者の多くは新たな就業のために必要な技能訓練をしたとしても再就職できる可能性は低い。持ち株会社の導入によって中高年の長期失業者を生み出す危険性を相当程度排除することが可能となる。仮に、その数が60万人程度だとすれば、その人数に対応する失業給付や再教育のコストは膨大であり、政府・自治体はその部分を持ち株会社に資金供給することができる。

中村さんは、「ここで示した持ち株会社は、いわゆる「社会的企業」の概念と類似の性格を持つ」と述べていますが、そうであるかどうかも含めて、制度設計が議論になるところでしょう。

2011年7月20日 (水)

福島第一原発労働者の放射線被曝をめぐって

2011_07 ようやくまだ情報労連のHPにアップされました。ていないようですが

http://www.joho.or.jp/up_report/2011/07/

『情報労連REPORT』7月号に、「原発作業員の安全衛生は守られているのか」を書きました(今月号から電子ブック形式になったようです)。

>今回も前々回同様、世にはびこるトンデモ労働論を斬るのは抑えて、東日本大震災をめぐる労働問題のうち、東京電力福島第一原子力発電所における炉心溶融事故への対処のために奮闘している労働者たちの安全衛生問題を取り上げたい。

 福島第一原発の事故以来、東京電力とその協力企業の労働者が高い放射線量の中で必死に事態の解決に邁進している。その一方で、震災直後の3月14日に電離放射線障害防止規則の特例省令で、緊急作業時の被曝線量の上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げた。もともと通常時の上限は5年間で100ミリシーベルト、1年間で50ミリシーベルトである。今回のような緊急事態への特例がその作業中100ミリシーベルトとされていたのが、あっさり250ミリシーベルトとなった。その後も経済産業省サイドは、さらなる上限の引き上げを求めていると報じられている。もともと緊急事態を想定していたはずの上限が、現実に緊急事態が起きると次々に書き換えられていくというのは、「想定外」の一言で済まされる問題ではない。

 とりわけ懸念されるのは、これが事故を起こした東京電力や原子力関係者に対する「お前らが悪いからだ」「お前らが責任を取れ」という現在の日本社会を覆いつつある「空気」によって、無限定的に正当化されていってしまうのではないか、ということである。首相自ら東電本社に乗り込んで「撤退などありえない。覚悟を決めて下さい」と檄を飛ばし、誰も疑問を呈さない。原発作業員を診察した医師によれば、自ら被災し、肉親や友人を亡くした作業員たちが、劣悪な労働環境の中で、しかも「『加害会社に勤めている』との負い目を抱え、声を上げられていない」という。

 事故から3か月も経たないうちに、6月3日には、福島原発の作業員2人が引き上げられた被曝線量の上限をも遥かに超える650ミリシーベルト以上の被曝をしたと報じられ、同14日にはさらに6人が250ミリシーベルトを超えたと報じられた。さらにその後の情報によれば、100ミリシーベルトを超える被曝は124人、50ミリシーベルトを超える被曝は412人に達するという。また、いささか空恐ろしいことだが、東電が下請企業を通じて作業員の被曝線量を測定しようとしたところ、69人のほぼ半数については「該当者なし」と回答があり、氏名も連絡先も分からないという事態が明るみに出ている。被曝したまま闇に隠れている人々がかなりの数に上る可能性があるのだ。

 さらに、この250ミリシーベルトという特例はいうまでもなく、通常の上限である5年で100ミリシーベルトですら、そこまでは被曝しても安心という基準ではない。なぜなら、1976年の通達「電離放射線に係る疾病の業務上外の認定基準について」(基発第810号)によれば、白血病を業務上の疾病として労災認定する基準は、「0.5レム(=5ミリシーベルト)×(電離放射線被ばくを受ける業務に従事した年数)」とされている。

実際、今までも100ミリシーベルト前後の被曝量で労災認定された労働者が10人いるという。緊急時にリスクは取らなければならないが、リスクはある確率で現実化していく。その「覚悟」はあるのだろうか。

高齢者雇用について論ずべきたった二つのこと

日本経団連が「今後の高齢者雇用のあり方について」という意見書で厚労省の研究会報告を批判しているということで、各方面で話題になっているようですが、

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/080.html

この問題については、既に先月、労務屋さんのエントリにコメントする形で述べていて、それに付け加えるべきことは特にないのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-0f25.html(ワカモノは怒るべきか?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-2404.html(高年齢者雇用研究会報告の読み方)

例によって、一部で情緒的議論が吹き上がっているようでもあるので、細かいことは抜きにして、問題の本質だけ確認しておきますね。

単純化してしまえば、問題の本質はこうです。

問題その一、高齢者を働かせずに現役世代の稼いだ金で養うか、それとも自分たちでできるだけ長く働いてもらうか。

問題その二、正社員のポストを高齢者に維持するか、若年者に振り向けるか。

日本経団連にせよ、ネット上で吹き上がっているやに見えるワカモノ(?)にせよ、この第一の問題構造がきちんと理解されているのかどうかが問題です。高齢者を労働市場から追い出しても、自分の懐が痛まないなどと考えてはいけません。高齢者を引退させるということは、現役世代が養うということです。そういうマクロ社会感覚があるかどうかです。

雇用機会だけは絶対的に不足しているが、お金はなぜか絶対的に潤沢であるというような(ある種のベーシックインカム論者に見られるような)認識は、正しいものではありません。

一方、日本経団連が(期間の定めなき雇用で雇われている高齢者にそのまま65歳までの雇用を保障するという意味での)65歳定年に対して否定的であるのは、(厳密な法律上の議論はともかくとして)事実上限られた正社員のポストを高齢者が占め続けることで、若年者をそこから遠ざけ、非正規に追いやる危険性は間違いなくあることからすれば、もっともな理由があると思われます。

日本で65歳定年を議論するためには、正社員の賃金制度をどうするか、非正規労働者との待遇をどうしていくかといった大きな問題に取り組む必要があり、現時点でそのような準備が整っているとは思えません。

もっとも、すでに述べたように、厚労省の研究会も今すぐ65歳定年などと打ち出しているわけではありません(戦略上、あたかもそう読めるかに見える書き方をわざとしていますが)。

わたしはむしろ、日本経団連が指摘していることで重要な論点は、最後の方の「継続雇用における雇用確保先の対象の拡大」であろうと考えています。ここは、現実問題として企業にとって切実なものがかなりあるのではないでしょうか。

現行の対象者選定基準を廃止する代わりに、転籍による雇用確保措置を大幅に認めるというディールはありうるように思われます。

欧州労連の原子力エネルギー決議

欧州労連が「原子力エネルギー:安全、安定、民主的コントロール」という決議を公表しています。

http://www.etuc.org/a/8846

>Recognizing the scale of risks for the general public as well as the specific risks for nuclear industry workers, the ETUC demands that this industry be treated with the highest possible caution, transparency and democratic control and asks for several measures to be adopted. These relate inter alia to planned stress tests, audits and safety inspections, to safety standards, to subcontracting and agency work, to research, to the need for full transparency on the real costs, to the liabilities for the companies involved.

一般公衆へのリスクとともに原子力労働者の特別のリスクを認識し、欧州労連は原子力産業が最高度に可能な注意と透明性と民主的コントロールをもって取り扱われることを要求し、いくつもの措置がとられることを求める。とりわけ、計画されているストレステスト、監査、安全監督、安全基準、下請と派遣労働、研究、真のコストへの完全な透明性、関連企業の責任。

Fukushima has shown once again that this industry and its supply chain cannot be zero-risk”, stated Confederal Secretary Judith Kirton-Darling. “While some have chosen to move away from nuclear power, others continue to see it as part of their energy mix. Where it remains, we cannot accept anything but the highest safety and security standards for the workforce as well as the general public, and fundamentally transparent public control”.

「フクシマは再度原子力産業とその電力供給チェーンがゼロリスクではないことを示した。」「原子力からの脱却を選択する者もあれば、エネルギーミックスの一部として維持しようとする者もいる。原子力が維持される場合、我々は一般公衆とともに労働力への最高度の安全と安定、そして根本的に透明な講習によるコントロールなしには受け入れることはできない。」

決議の全文はこちらにあります。

http://www.etuc.org/IMG/pdf/Resolution-on-Nuclear-energyEN.pdf

いうまでもなく、労働組合は市民運動ではなく、働いて食わなければならない人々の運動ですから、緑の党みたいにただ原発反対といっているわけにはいかないわけですが、同時に労働者として生活者として被曝のリスクが明確に示されている中でただ結構といっているわけにもいかない立場にあります。

さらに、同じEUといっても、フランスのような原子力推進派からドイツのような懐疑派がいる中で、労働組合としての決議をまとめること自体大変だったであろうと、外からの感想ですが思います。

安全、安定、民主的コントロールというのは、そういう中で労働者の立場からの最大公約数としてよく理解できます。

日本の労働組合によく読んで欲しいところは、やはり原子力産業に働く労働者、とりわけ下請や派遣労働者について言及している部分でしょう。これを見ると、欧州の原発も労働力構成的にはいろいろと問題を孕んでいるようです。

4. Action is urgently needed to guarantee clear and coherent social and employment management in the sector and its supply chain. To reinforce security in the industry, the working conditions of all workers regardless of contract or task must be maintained at a high level. Subcontracting and agency work should be tightly limited and if used, workers must enjoy the same protection as regular employees, particularly in terms of training, health and safety protection, working conditions and pay. The ETUC calls on the EU to publish national and plant level data on subcontracting and agency work in the nuclear power sector. The ETUC is deeply concerned that work organisation in the nuclear industry in Europe is increasingly dominated by large-scale use of subcontracting, (in some cases) inadequate training, dangerous exposure levels for the workers concerned, and in all likelihood a consequent loss of reliable control over the most critical stages of processes. Moreover, ensuring the working conditions of those in the global supply chain, especially the extractive, mining and waste management industries, must be addressed by governments and the industry.

・・・契約や職務にかかわらずすべての労働者の労働条件が最高度に維持されなければならない。下請や派遣労働は厳しく限定され、利用する場合には訓練、安全衛生、労働条件、賃金において常用労働者と同じ保護を享受しなければならない。・・・

2011年7月19日 (火)

東電、暴力団排除宣言 福島第一原発復旧作業から

http://www.asahi.com/national/update/0719/TKY201107190550.html

>東京電力は19日、福島第一原子力発電所の復旧作業から暴力団を排除すると宣言した。警察庁や元請け企業23社に参加してもらい、22日に協議会を立ち上げるという。警察との協議会は初めて。東電は「暴力団排除の姿勢を周知したい」としている。

 東電によると、発電所では復旧作業の本格化に伴い作業員が増えており、警察庁から6月に暴力団関係者が作業に入り込むことがないよう指導があった。協議会では警察と情報交換し金銭要求された時の対処方法を学ぶ。元請け企業に対して書面で暴力団を排除すると誓約してもらうという。

って、今までは排除していなかった、ということでしょうか。

あるいは、暴力団を排除して、労働力をちゃんと確保できるのかという問題があるのかも知れませんが。

要は、安全衛生管理を将来にわたってきちんとするとともに、何かあったときにはちゃんとした被曝記録に基づき労災補償がされるという安心が大事なわけですが。

職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ

先週7月11日に第1回が開かれた「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ」の資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ioii.html

参集者名簿はこちらですが、

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ioii-att/2r9852000001iojz.pdf

JILPTからも内藤忍研究員が参加しています。

「職場のいじめ・嫌がらせ問題について」というこの資料がよくまとまっていて役に立ちます。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ioii-att/2r9852000001ioo3.pdf

(参考)

なお、この資料にも載っている看護師いじめ自殺事件の判例評釈をかつて『ジュリスト』に書いたことがあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/kitamoto.html誠昇会北本共済病院事件

[事実]
Ⅰ 原告Xは自殺したAの父母である。Aは被告Yに勤務していた男性看護師であり、男性看護師5名の最後輩であった。1999年に高校を卒業し、看護助手としてYに就職、2001年4月准看護士となり、看護士資格を目指して看護学校に通学していた。外来部門で准看護士として勤務しつつ、Bの下で物品整備の仕事を手伝っていた。
 被告YはAが勤務していた病院である。ベッド数99床、女性看護師30数名、男性看護師5名であった。被告BはYに勤務する男性看護師であり、男性看護師5名の最先輩であった。1993年よりYに勤務し、1995年准看護士となったが、看護士資格はない。外来部門の准看護士として勤務しつつ、2001年5月より物品部門の責任者として管理課長となるも、部下はなく、Aを含む看護学生に手伝わせていた。
Ⅱ Yの男性看護師には男性のみの独自なつきあいがあり、体育会系の先輩後輩関係と同じく、最先輩のBが権力を握り、後輩を服従させる関係であった。
 BはAに対し以下のようないじめを行った。
・勤務時間終了後も遊びにつき合わせ、自分の仕事が終了するまで帰宅を許さず、病院が禁止していた残業や休日勤務の強制した(学校の試験前に朝まで飲み会につき合わせたりしている)。
・買い物や、肩もみ、家の掃除、車の洗車、長男の世話などの家事に使用。風俗店の送迎、パチンコ店の順番待ち、馬券購入などの私用に使った。ウーロン茶を1缶3、000円で買い取らせた。看護学校の女性を紹介するよう命じた。
・恋人Cとデート中であることを知りつつ、用事もないのに病院に呼び出した。
・職員旅行(2001年12月15日)の際、飲食代約9万円を負担させたほか、本人に好意を持っている事務職の女性と2人きりにさせ、性的行為をさせ、それを撮影しようと企てた。本人はこの際急性アルコール中毒となり入院した(両親は、先輩の企てを避けようとした行為であると主張)。本件は上司に報告されず。
・仕事中に、何かあると「死ねよ」と発言したり、「殺す」とメールしたりした。
・カラオケ店で、コロッケを口で受け止めるよう投げつけられた。
 Yの外来会議(2002年1月18日)で、Aの様子がおかしいことが話題となったが、Bはその席でAを非難。
 Aは、こうしたいじめのつらさを、友人に訴えるようになり、Cに対しては「もし、俺が死んだら、されていたことを全部話してくれよな。」と言っていた。
 2002年1月24日、Aが自宅で自殺した。
 Bは2002年11月まで心身症で休職した

また、EUのいじめ対策について紹介したものとして、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chikouijime.html(「EUにおける職場のいじめに対する立法の動き」 『地方公務員月報』2005年12月号 )

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roujunijime.html(「海外労働事情-EU職場のいじめ・暴力協約」 (『労働法律旬報』2010年3月下旬号))

などがありますので、ご参考までに。

2011年7月18日 (月)

どのような社会をめざすのか~ヨーロッパと日本(上)@『労働法律旬報』No.1748

『労働法律旬報』No.1748(7月下旬号)に、昨年わたくしが明治大学でお話ししたことの前半が載っております。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/697?osCsid=9a2c60ae561d38532c664523792e6982

この講座の全貌は、こちらにありますが、

http://www.kisc.meiji.ac.jp/~labored/kifukoza/rodokoza2010.html

このうち12月7日にわたくしが担当した「どのような社会をめざすのか~ヨーロッパと日本」の講演録が、今号と1750号の2回に分けて『労旬』に掲載されます。

なお、『労旬』の今号の特集は、「求職者支援制度に関する検討」です。また、緒方さんのドイツ派遣法改正の報告も興味深いです。

[巻頭]外国人技能実習制度の今後について=吉田美喜夫・・・04
[検討]求職者支援制度に関する検討
求職者支援法の検討=木下秀雄・・・06
求職者支援制度に関する提言の背景と今後の課題=河村直樹・・・18
[資料]職業訓練の実施等による特定求職者の就職の支援に関する法律(厚生労働省 2001.5.13)・・・59
求職者支援制度の創設に関する提言(全労働省労働組合求職者支援制度検討プロジェクト)・・・63
[紹介]海外労働事情105ドイツ/ドイツにおける労働者派遣をめぐる新たな動き=緒方桂子・・・22
[紹介]一橋大学フェアレイバー研究教育センター44どのような社会をめざすのか~ヨーロッパと日本(上)=濱口桂一郎・・・27
[解説]日本弁護士連合会「外国人技能実習制度の廃止に向けての提言」の意義=指宿昭一・・・36
[資料]外国人技能実習制度の廃止に向けての提言(日本弁護士連合会 2011.4.15)・・・38

節電の夏 しわ寄せ@朝日

本日の朝日新聞の6面に「大震災と経済 復興に向けて」の一環の記事として、「節電の夏 しわ寄せ」がかなり大きく載っています。

今のところ、HPには出ていませんが、派遣労働者が契約を打ち切られたり、複数の取引先の休日がバラバラなため中小企業がほとんど休めなくなっていることなどが報じられています。

そこに、わたくしのコメントも載っていますので、そこだけこちらに転載しておきます。

>独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の濱口桂一郎統括研究員は、「国は見切り発車で節電を進めるのでなく、弱い立場の人々に負担が集中しないよう警告すべきだった。震災が発端なだけに、節電をけしからんと言いにくい雰囲気も手伝い、声なき声が埋没している」と強調する。

>「節電の夏」は来年以降も続く可能性がある。濱口さんは「大企業の論理が増長しないよう、労働現場で何が起きているのか、社会的に確認する作業が不可欠だ」と指摘する

先日、武蔵嵐山で労働科学研究所のシンポジウムで質問いただいた問題ともつながります。

(追記)

記事の本文は次の通りです。

>「『節電の夏』の犠牲になりました・・・」と、東京都内の30代の独身女性は嘆く。6月末、派遣社員として5年間勤めた会社から契約を打ち切られた。休みを平日にずらし、土・日曜を出勤とする7月以降の勤務変更に従えないから、という理由だった。

女性は正社員に転身しようと、土日に英会話など三つの習い事をしていた。収入は月20万円足らず。一人暮らしで、蓄えもなく、生活に余裕はない。節電期間だけ平日3日の勤務を認めてもらえないか、会社に願い出たが、「特例はない」と突き放されたという。

退職後、腑(ふ)に落ちない話を聞いた。正社員は申請すれば従来通りの勤務も認められたというのだ。一方、同じように会社を追われた派遣社員は2ケタ。「節電を口実に派遣切りを進めたのでは」。疑念が消えないまま、次の職探しを続ける。

在宅勤務や勤務時間の前倒し(サマータイム)といった節電の取り組みが、大企業を中心に広がる。従来の働き方を見直す契機と評価する向きもあるが、その陰では立場の弱い労働者にしわ寄せが及んでいる・

関東のサービス業で契約社員として働く40代の女性は、「サマータイムと夏休みの長期化がうらめしい」。8月は始業時間が1時間半早まるが、長男を小学校に、次男を幼稚園に送ってから出社するため間に合わない。残業も禁止だ。夏休みも例年より5日延(の)びるが、正社員と違い、日給制の契約社員にとっては「無給の日が増えるだけ」。8月の収入は前年より15万円近く減りそうだ。

「土日出勤」の広がりで需要が増す保育士も振り回される。東海地方の自動車部品会社の託児所に努める30代女性は、4歳の男児を育てるシングルマザー。7月からキ木金に休み、土日の出勤を求められたが、自分の子供を預ける保育園が確保できず、日曜は欠勤せざるを得なくなった。収入減を避けようと、木曜は別の託児所で働き始めた。夏の間、休みは金・日曜になる。「子どもとゆっくり過ごせず、疲れも取れない。本当につらい」。

大企業の節電の「都合」に苦しむのは、下請け仕事が多い中小企業だ。日立製作所のグループ会社が集積する茨城県日立市。7月は3日。8月は2日。9月はゼロ。ある部品加工会社の社長はカレンダーに休日の印をつけながら、ため息をついた。日立は、事業部門ごとに休日を月曜から金曜に割り振り、土日に稼働する「輪番休業」の体制を9月末までとる。この加工会社はグループの5社前後と取引があるが、休日は各社でバラバラなため、それしか休めなくなりそうだという。売り上げ全体の8割を日立との取引に頼る。「もっと休ませて、とは口が裂けても言えない」。

別の部品加工会社は、従業員には交代で休みを取らせ、人手が足りない仕事には役員が入ることで「無休の夏」を乗り切る考えだ。「非常時体制が3カ月近く続く。体が持つかどうか」と役員はこぼす。

あえて休日を設けたところでは、別の不安も生じている。ある部品会社は取引の大きい日立グループの企業に合わせ、木金を休みとしたが、材料の仕入れ先は従来通り土日が休みだ。仮に、日立から土曜に仕事を受注しても、材料の調達は月曜以降。1週間以内に納品を迫られるような急ぎの仕事も少なくなく、そのロスが致命傷になりかねない。とはいえ、「下請けの立場で日立に発注を前倒ししてくれとも言えない」。

影響は、下請け以外にも広がる。ある弁当製造会社の社長は「輪番制は大打撃」と憤(いきどお)る。毎日どこかのグループ会社から注文が入るため休めないが、売り上げは伸びない。反面、人件費や光熱費のコストは1割以上かさむ見通しという。「日立は節電できても、割りを食う我々には『増電』の夏だ」。

浜松商工会議所が会員企業に夏季の休日変更の影響を聞いたら、下記の声が多かった。

1.    子育て中の従業員が多く、土日の出勤率の低下が予想される。
2.    共働きの社員が多く、土日の保育の対応に苦慮。
3.    複数の取引先を抱える加工会社は状況次第で休日がなくなる。
4.    輸送機器以外の業界とも取引があり、完全には休日変更できない。
5.    休日変更すると、原材料の納入に心配がある。
6.    結局、毎日どこかの部門が動いている状態で、経費節約にならない。

「負担増の現場 検証を」(=本田靖明、石山英明朝日新聞記者)

自動車と二輪車の関連企業が多い浜松市。浜松商工会議所が6月、会員企業に夏季の休日変更の有無を尋ねたところ、小規模な企業ほど実施できない傾向が分かった。大企業からの要請に振り回される中小企業の姿が浮かぶ。

2011年7月16日 (土)

派遣先たる国・地方自治体は労組法上の使用者となることについて

労働関係法律を(妙な行政法の古くさい教科書の偏見にとらわれずに)虚心坦懐に見ていけば、ごくごく当たり前のことなんですが、あまり当たり前に見えない方もいるのかも知れません。

例によって水谷研次さんの「シジフォス」から、

http://53317837.at.webry.info/201107/article_18.html(国交省公用車の運転手の「使用者」は? )

県労委命令は結構長いので、リンク先で見ていただきたいのですが、要するに、

>組合員らの雇用の確保に関し団体交渉の申入れがあった場合,国は,これに応じるべき労組法第7条第2号の使用者に当たると解するのが相当である。

といっているのですね。

なんで労組法の適用がないはずの国が労組法上の使用者になるんだ!と思わず口走ったあなた。大きな考え違いをしています。労組法が適用されないのは国家公務員であって国ではありません。あるいは、労組法が適用されないのは地方公務員であって地方自治体ではありません。派遣労働者はいかなる意味でも公務員ではありませんから、国や地方自治体に派遣されれば、派遣先たる国・地方自治体は当然派遣先責任を負いますし、その中には朝日放送事件最高裁判決で認められている労組法上の使用者責任も含まれることになります。

この点については、わたくしはすでに昨年、『地方公務員月報』2010年10月号に寄稿した「地方公務員と労働法」において、次のように明確に述べておいたところです。

国や地方自治体の人事担当者諸氏がどこまでまじめのこの論文を読んだのか読んでないのかつまびらかにはしませんが、労働関係法律を素直に読めば当然こういう結論になることは理解しておく必要があろうと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/chihoukoumuin.html

>4 地方公務員と労働市場法制
 
 しかしながら、多くの研究者や実務者の目からこぼれ落ちているのは、労使関係法制以外の労働法制である。前記判決からも、明示的に適用除外されない限り地方公共団体や地方公務員は労働法の適用範囲内にあるという当然の理が、行政担当者自身にも必ずしもきちんと理解されていないことが窺われる。ここでは、労働市場法制に属するいくつかの立法を例にとって、地方公共団体や地方公務員が決して労働法の外側にいるわけではないことを再確認しておきたい。

 まず、労働基準法と同じ1947年に制定された職業安定法は地方公共団体と地方公務員を適用除外していない。また、その特別法として1985年に制定された労働者派遣法も地方公共団体と地方公務員を適用除外していない。したがって、地方公共団体も労働者供給事業を行ってはならず、供給労働者を受け入れてはならない。また、法律に基づき地方公務員を派遣することもできるし、派遣労働者を受け入れることもできる。 ・・・

 しかし、大きな問題は地方公共団体が供給先、派遣先となるケースである。労働者派遣法は使用者責任を派遣元事業主と派遣先事業主に配分している。地方公共団体が派遣先になるということは、派遣先責任をフルに負うということである。派遣労働者は地方公務員ではないから地方公共団体は責任を負わなくてもいいというわけにはいかない。現行労働者派遣法は、いわゆる26業務以外について3年の上限を設け、これを超えて使用しようとするときは雇用契約の申込みをしなければならない(40条の4)。また26業務についても3年経過後同一業務に労働者を雇い入れようとするときは雇用契約の申込みをしなければならない(40条の5)。地方公共団体もこの義務を免れるわけではない。

 この問題が立法上大きくクローズアップされたのは、今年提出された労働者派遣法の改正案*9においてであった。そこでは、禁止業務への派遣受入、無許可・無届の派遣元からの派遣受入、期間制限を超えての派遣受入、偽装請負に該当する行為を行った場合について、「その時点において、当該労働者派遣の役務の提供を受ける者から当該労働者派遣に係る派遣労働者に対し、その時点における当該派遣労働者に係る労働条件と同一の労働条件を内容とする労働契約の申込みをしたものとみなす」と規定している(40条の6)。この申込みみなしは1年間有効で、その間に当該派遣労働者がそのみなされた申込みを承諾した途端に(派遣先が何もしないうちに)労働契約は自動的に成立することになる。ただし、改正案ではこの規定については国・地方公共団体等の特例を設け、「当該国又は地方公共団体の機関は、同項の規定の趣旨を踏まえ、当該派遣労働者の雇用の安定を図る観点から、・・・関係法令の規定に基づく採用その他の適切な措置を講じなければならない。」(40条の7)としている。この規定の是非はともかく*10、法律の明文でわざわざ適用除外しない限り普通の労働法がそのまま適用されるという理は明らかであろう。

 これよりもさらに深刻であり得る問題は、地方公共団体に派遣された派遣労働者の労働基本権である。派遣労働者は地方公務員ではないので団体交渉権も争議権も有している。法律上派遣労働者の団交応諾義務について規定した条文は存在しないが、最高裁の判例*11によれば、「雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて右事業主は同条の「使用者」に当たる」。従って、労働者派遣法に基づき派遣先に責任が分配されている事項については、地方公共団体は派遣労働者の加入する労働組合からの団体交渉に応じなければならず、拒否すれば不当労働行為になりうる。また、派遣労働者を大量に使用している職場で彼らが争議行為を行う可能性も考えておく必要がある

日本の雇用と労働法 (日経文庫)

amazonに出版予定が掲載されたようなので、一応こちらでも告知しておきます。

http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%81%A8%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95%EF%BC%88%E4%BB%AE%EF%BC%89-%EF%BC%88%E6%97%A5%E7%B5%8C%E6%96%87%E5%BA%AB%EF%BC%89-%E6%BF%B1%E5%8F%A3-%E6%A1%82%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4532112486

>>日本の雇用と労働法 (日経文庫) [新書]
濱口 桂一郎 (著)
価格: ¥ 1,050
新書
出版社: 日本経済新聞出版社 (2011/9/16)
ISBN-10: 4532112486
ISBN-13: 978-4532112486
発売日: 2011/9/16
Amazon ベストセラー商品ランキング: 本 - 145,549位

何で発売の2ヶ月前からベストセラーランキング14萬なんたら位がつくのかよく分かりませんが、まあそういうことです。

ちょうど2ヶ月先の9月16日の発売予定です。

9月下旬から法政大学社会学部で非常勤講師をすることになっておりますので、そのテキストということで執筆いたしました。

現時点での目次(予定)は次の通りです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/nikkeimokuji.html

濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』日経文庫(目次) 
 
第1章 日本型雇用システムと労働法制
 
Ⅰ 日本型雇用システムの本質とその形成
1 メンバーシップ契約としての雇用契約
(1) 職務の定めのない雇用契約
(2) 雇用管理システム-入口と出口とその間
(3) 報酬管理システム-賃金制度と労働条件
(4) 労使関係システム
(5) 陰画としての非正規労働者
2 日本型雇用システムの形成
(1) 親方システム
(2) 日本型雇用システムの原初的形成
(3) 戦時体制下の拡大と変容
(4) 戦後労働運動による再鋳造
(5) 経営主導による再構築
 
Ⅱ 日本型雇用システムの法的構成
1 ジョブ契約としての雇用契約
(1) 民法上の雇用契約
【コラム】労務賃貸借と「奉公」
(2) 法律上のメンバーシップ契約
(3) 古典的労働法における労働契約
2 メンバーシップ型に修正された労働法制
(1) メンバーシップ型に修正された判例法理
(2) メンバーシップ型を前提とする政策立法
3 就業規則優越システム
(1) 雇用契約の空洞化と就業規則の優越
(2) 就業規則の歴史
(3) 就業規則法理の確立
(4) 就業規則の不利益変更法理
(5) 企業秩序と懲戒処分
 
第2章 雇用管理システムと法制度
 
Ⅰ 入口-募集・採用
1 新規学卒者定期採用制の確立
(1) 確立以前
(2) 新規学卒者定期採用制の形成
(3) ホワイトカラー層の採用管理
(4) 戦時体制下における採用統制
(5) 新規中卒者の定期採用制度
(6) 新規高卒採用制度の確立
(7) 大卒者の増大と学卒労働市場の変容
2 日本型採用法理の確立
(1) 広範な採用(メンバーシップ付与)の自由
(2) 「内定は雇用契約」法理
【コラム】身元保証
 
Ⅱ 出口-退職・解雇
1 定年制の確立
(1) 確立以前
(2) 定年制の形成
(3) 戦後定年制の確立
(4) 60歳への定年延長
(5) 65歳までの継続雇用
2 日本型雇用維持法理の確立
(1) 1950年代の解雇紛争と解雇権濫用法理
(2) 1970年代の雇用調整と整理解雇法理
(3) 解雇規制の法制化
 
Ⅲ 人事異動
1 定期人事異動の確立
(1) 生産性運動と配置転換の確立
(2) 出向・転籍の出現と拡大
2 人事権法理の確立
(1) 配置転換(職種変更)法理の確立
(2) 配置転換(勤務地変更)法理の確立
(3) 出向と転籍の法理
(4) 企業組織変動
 
Ⅳ 教育訓練
1 企業内教育訓練の確立
(1) 養成工制度の形成と再建
(2) 技術革新と企業内教育訓練体制の確立
(3) 能力主義管理の形成と展開
【コラム】QCサークルと自主管理
(4) 教育訓練の義務と権利
2 公的教育訓練政策
(1) 公的職業教育
【コラム】学歴詐称
(2) 公共職業訓練
(3) 企業内訓練助成への転換
(4) 自己啓発からキャリア形成支援へ
 
第3章 報酬管理システムと法制度
 
Ⅰ 賃金制度と人事査定
1 年功賃金制度の確立
(1) 年功賃金制度の形成
(2) 生活給思想と賃金統制
(3) 電産型賃金体系
(4) 職務給の唱道
(5) 職能給の確立
【コラム】家族手当
2 人事査定制度
(1) 戦前の査定制度
(2) 電産型賃金体系
(3) 能力主義の確立
(4) 成果主義の登場と迷走
3 賃金処遇と判例法理
(1) 不当労働行為としての査定差別
(2) 職能資格制度における昇級・昇格と降級・降格
(3) 成果主義賃金における査定
 
Ⅱ 労働時間と生活・生命
1 労働時間規制の空洞化
(1) 工場法から労基法へ
(2) 労働時間規制の空洞化
(3) 年休制度の空洞化
(4) 「時短」から弾力化へ
(5) 長時間労働の雇用システム的要因
【コラム】月給制と時給制
2 仕事と生活の両立
(1) 女子保護規制とその廃止
(2) 育児休業と両立支援法政策
(3) ワークライフバランス政策の登場
3 過労死・過労自殺問題
(1) 労災補償制度と安全配慮義務
(2) 過労死・過労自殺問題
(3) 安全配慮義務とプライバシー
 
Ⅲ 福利厚生
(1) 共済組合
(2) 福利厚生の立法化
(3) 企業福祉体制の確立と変容
(4) 退職金制度の復活と企業年金の変貌
(5) 退職金・企業年金をめぐる判例法理
 
第4章 労使関係システムと法制度
 
Ⅰ 団体交渉・労働争議システム
1 労働運動の展開
(1) 労働運動の発生
(2) 労働運動の激発
(3) 戦間期の労働運動
(4) 終戦直後の労働運動
【コラム】工職身分差別撤廃闘争
(5) 急進的労働運動の挫折と協調的労働運動の制覇
(6) 春闘の展開
2 ジョブ型労使関係法制のメンバーシップ型運用
(1) 戦前の試み
(2) ジョブ型労使関係法制の形成
(3) 労働協約の役割
(4) メンバーシップ型に部分修正された労使関係法制
(5) メンバーシップ型の争議行為
【コラム】個別紛争解決システムとしてのコミュニティユニオン
 
Ⅱ 企業内労使協議システム
1 工場委員会から労使協議会へ
(1) 確立以前
(2) 工場委員会体制
(3) 産業報国会体制
(4) 経営協議会体制
(5) 労使協議会体制
【コラム】生産管理闘争と生産性運動
(6) 労使協議制の再確立と衰退
2 労使協議法制への試み
(1) 戦前の試み
(2) 戦後の試み
 
Ⅲ 管理職
(1) 親方から職長へ
(2) 労働組合と管理職
(3) 労働時間と管理職
(4) 日本型雇用システムにおける管理職
【コラム】人事部
 
第5章 日本型雇用システムの周辺と外部
 
Ⅰ 女性労働者と男女平等
1 女性労働の展開
(1) 女工哀史と温情主義
(2) 女事務員
(3) 戦時体制と女性の職場進出
(4) 戦後改革と女性労働
(5) OL型女性労働モデルの確立
【コラム】社内結婚の盛衰
(6) コース別雇用管理
2 男女平等法制への展開
(1) 男女同一賃金
(2) 女子結婚退職制と男女別定年制
(3) 男女雇用機会均等法
 
Ⅱ 非正規労働者
1 臨時工から主婦パート、フリーターへ
(1) 「非正規労働者」以前
(2) 臨時工の誕生
(3) 戦時体制の影響
(4) 臨時工問題の復活
(5) パートタイマー
(6) 派遣労働者等
(7) フリーター
(8) 契約社員
【コラム】嘱託
2 非正規労働法制の展開
(1) 臨時工対策
(2) 非正規労働者の雇用終了法理
(3) 非正規労働者の均等待遇
 
Ⅲ 中小企業労働者
(1) 二重構造の誕生
(2) 中小企業対策としての最低賃金制
(3) 中小企業と合同労組
(4) 中小企業労働者の性格
【コラム】社外工と構内請負
 
終章 日本型雇用システムの今後
 
Ⅰ 雇用管理システムの今後
1 日本型採用システムの動揺
(1) 年齢差別禁止政策の浮上
(2) 学校と職業の接続問題
(3) 採用システムの今後
2 継続雇用政策の動揺と雇用維持法理への疑問
(1) 継続雇用から年齢差別禁止へ?
(2) 雇用維持法理への疑問
3 配置転換法理(勤務地変更)の動揺
 
Ⅱ 報酬管理システムの今後
1 賃金制度の今後
(1) 同一労働同一賃金原則の浮上
(2) 迷走する成果主義を超えて
2 実労働時間規制の導入へ?
 
Ⅲ 労使関係システムの今後
(1) 労使委員会制度をめぐる動向
(2) 非正規労働者と集団的労使関係システム

2011年7月15日 (金)

雇用契約と業務委託契約の同時存在

水谷研次さんのシジフォスに、東陽ガスの二重契約の事案が取り上げられています。

http://53317837.at.webry.info/201107/article_16.html(働くと借金が膨らむ東陽ガスの蟻地獄労働)

>「雇用契約」と「業務委託契約」を同時に結ばせる「二重契約」によって、業務委託契約書」への「同意」に基づき、車輌のリース代やガソリン代、はては車輌に搭載するカーナビ代まで労働者負担とされ、労基法24条の「賃金全額支払い原則」を免れ、「経費」名目で収入からの控除を行っている。毎月の経費負担が配送の歩合収入を上回った場合、手取りが数万円、また、収入が「マイナス」となり、会社への「借金」となってしまう。月の収入が著しく低く、生活のできない状態の労働者は、会社と金銭貸借契約を結び、年金利6%で生活資金を借りるという有様であり、この借金は、退職した場合、一括して返済しなければならず、借金を返済できなければ、東陽ガスがどんなに劣悪な労働条件であっても次の職を探すために退職するということは困難になるという前時代的な蟻地獄システムが、巧妙に仕組まれている

改めて、『労旬』5月上旬号を読み直してみても、よく分からないところがあります。

一般論として言えば、ある人間が一方では雇用契約を結んだ労働者でありつつ、他方では業務委託契約を結んだ非労働者であることは十分あり得ます。

多くの大学の先生方は、大学との関係では(指揮命令もほとんど受けない裁量労働とはいえ)雇用契約を結んだ労働者であり、何か本を出すときは出版社との関係では非労働者でしょう。

では、同一の事業体との間で雇用契約と業務委託契約を別々に結ぶことは可能かというと、中身がまったく違えば否定する理由はないでしょう。

しかし、本事案の場合、配送については雇用契約で労働者、保安・点検と配管工事が業務委託契約で、実は全体で一体の業務のようですし、何より不思議なのは、雇用契約のはずの配送業務に使うトラックのリース代、ガソリン代、車検代、カーナビ代などが、業務委託契約の経費として差し引かれているという点で、仮に後者の業務が業務委託契約だとしても、既に自己矛盾を起こしているのではないかという点です。「二重契約で巧妙に労基法24条の賃金全額払いを回避」云々と書いてあるのですが、理屈上そうすらなっていないんじゃないか、と。

このあたり、誰か弁護士か誰かに相談して、法律上の問題点をきちんと明らかにした方がいいように思われます。

(追記)

こういう悪質なのとはいささか違いますが、EUの医療労働を調べていたらこんなのが出てきました。

Deloitte Study (December 2010) to support an Impact Assessment on Further action at European level regarding Directive 2003/88/EC and the evolution of working time organisation

>A tendency among doctors in teaching hospitals in some Member States to shift away from a fulltime salaried status (as hospital doctors with an employee contract) to becoming self-employed (BE, PL). Self-employed doctors are not subject to the provisions of the Working Time Directive.
According to HR directors, doctors choose themselves to change their status in order to be able to earn more money. However, we have indications that some of these cases could be considered as fake self-employment. Concrete examples are: doctors signing a contract as an employee and a second contract as ‘self-employed’ with the same hospital to do on-call work, or defining all doctors in the hospital as ‘independent managers’ irrespective of actual level or status. It should be noted that calling someone ‘self-employed’ is not a definitive solution: whether these persons fall within the scope of the Directive ultimately depends on the facts of the relationship between the contracting parties
.

要は、病院勤務の医師が夜間待機の時には自営医師になるという話。日本みたいに無制限一本勝負が可能な国では必要ないけれど(笑)、物理的労働時間が規制されているEUで、待機時間も全部労働時間だという判例が確立すると、こういう抜け道を探そうとするということのようです。いうまでもなく、これも報告書が言うようにインチキ自営業ですが。

2011年7月14日 (木)

雇用形態による均等処遇についての研究会報告書

本日、「雇用形態による均等処遇についての研究会報告書」が公表されました。

http://www.jil.go.jp/press/documents/20110714_00.pdf

不肖わたくしも参加した研究会ですので、ご覧いただければ幸いです。

荒木尚志 東京大学大学院法学政治学研究科教授(座長)
有田謙司 西南学院大学法学部教授
奥田香子 近畿大学法科大学院教授
川口大司 一橋大学大学院経済学研究科准教授
濱口桂一郎 (独)労働政策研究・研修機構労使関係・労使コミュニケーション部門統括研究員
皆川宏之 千葉大学法経学部法学科准教授
守島基博 一橋大学大学院商学研究科教授
両角道代 明治学院大学法学部教授

<詳細リンク>
雇用形態による均等処遇についての研究会報告書の概要(PDF:37KB)

http://www.jil.go.jp/press/documents/20110714_01.pdf

雇用形態による均等処遇についての研究会報告書(PDF:1.1MB)
http://www.jil.go.jp/press/documents/20110714_02.pdf

○ 日本においては、正規・非正規労働者間の処遇格差是正の文脈で「同一(価値)労働同一賃金原則」に言及されることもあるが、EU諸国における同原則は、人権保障の観点から、性別など個人の意思や努力によって変えることのできない属性等を理由とする賃金差別を禁止する法原則として位置付けられていると理解することができる。

他方、当事者の合意により決定することが可能な雇用形態の違いを理由とする賃金の異別取扱いについては、上記の人権保障に係る差別禁止事由について認められる「同一(価値)労働同一賃金原則」は、(EUやイギリスにおいて、男性正規労働者と女性パートタイム労働者間の賃金格差につき、性別を理由とする間接差別禁止としては適用されることがあるものの)特段の立法がない限り、直ちに適用可能なものではないと解されている。

○ EU諸国では、正規・非正規労働者間の賃金を含む処遇格差の是正については、雇用形態に係る不利益取扱い禁止原則の枠組みの中で対処されている。

同原則は、非正規労働者の処遇改善の観点から、正規労働者と比べて、客観的(合理的)理由なく、非正規労働者を不利に取り扱うことを禁止し、かつ、非正規労働者を有利に取り扱うことも許容するものであり、有利にも不利にも両面的に異別取扱いを禁止するいわゆる均等待遇原則(差別的取扱い禁止原則)とは異なる類型に属するものである。

○ そして、雇用形態による異別取扱いが違法となるかどうかは、客観的(合理的)理由の有無により決せられるが、その判断は、人権保障に係る差別的取扱い禁止原則(特に直接差別)におけるよりも柔軟な解釈が行われている。

○ このような雇用形態に係る不利益取扱い禁止原則は、雇用形態の違いを理由とする異別取扱いについて、その客観的(合理的)理由につき使用者に説明責任を負わせることで、正規・非正規労働者間の処遇格差の是正を図るとともに、当該処遇の差が妥当公正なものであるのか否かの検証を迫る仕組みと解することができる。

このような仕組みは、正規・非正規労働者間の不合理な処遇格差の是正及び納得性の向上が課題とされている日本において、示唆に富むものと考えられる。

○ また、EUでは、差別禁止法一般について法違反による事後的救済のみでは十分に効果が上がらないことから、当事者自らによる改善に向けた取組を促すアプローチも導入されていることを参考に、日本においても、個別企業による正規・非正規労働者間の処遇の差の実態把握や、当該処遇格差が不合理な場合の是正に向けた労使の取組を進めることは、非正規労働者の処遇の改善及び納得性の向上に資すると考えられる。

非国民通信さんの冷静な議論

こういう時期だからこそ、こういう議論が必要だと思います。この間ずっと、流行的反原発論に疑義を呈し続けてきた非国民通信さんのエントリから、

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/(光は失われるばかりなのだろうか)

>節電に励むと言えば世間のウケは悪くないのかも知れませんが、そこで負担を負わされているのは従業員だということは、もうちょっと意識されて欲しいところです。

これは、先日の労働科学研究所のシンポジウムで五十嵐仁さんのご質問に答えた中で述べたことでもあり、また某新聞社の記者の方に申し上げたことでもありますが、節電で新しい働き方の機会が生まれるという風な美しい話の裏側で、より弱い立場の労働者にしわ寄せが行くという側面を忘れるべきではないでしょう。

>残念なことに福島の原発事故以降、かつて左派として振る舞っていた人の多くは労働者のことを考えるのを止めたかに見えます。それもまた流行というものなのでしょうけれど、反原発論の盛り上がりの中で、原発を罵り恐怖を煽り立てる姿勢の強弱が競われるような有様です。電力不足の煽りを受けて生活に不自由する弱者は元より(健常者には過剰に見える明るさや便利さも、障害を抱えている人にはどうでしょうか)、深夜や休日の労働に駆り立てられたり失業の危機にされされる労働者について、かつて左派として振る舞っていた人の大半は黙して語ろうとしません。経済的な苦境のために自ら死を選ぶ人が万を数えるにも関わらず、雇用=経済のことを慮るのは原発事故の被災者を軽視することであるかのごとく扱う人の声も日に日に猛々しさを増すばかりです。結局のところ一口に「左派」と言っても必ずしも労働の問題に関心が高いとは限らない、ただ左派コミュニティ内部での流行を追いかけているだけの人も多かったのでしょう

とりわけ、次の一節は、こういう時期であるからこそ読まれるべき内容でしょう。

>電力会社社員を犯罪者のごとく罵る人々もいます。まぁ、今までの公務員叩きと構造は一緒で橋下辺りの言う「公務員」「職員」を「電力会社社員」に置き換えただけみたいなところもあって進歩がないなと思ったりもしますけれど、公務員叩きの不合理を指摘する人に比べて電力会社社員への誹謗中傷を批判的に見る人がどれだけいるでしょうか。もしくは、犯罪加害者にも守られるべき人権はあると訴えてきた人の中で、いったいどれだけの人が電力会社社員にも労働者としての権利はあると語れるでしょうか。公務員なり犯罪加害者なりJAL社員なり「嫌われ者」に対するバッシングには異議を唱えてきた人でも、電力会社社員に関してはどうやら見捨てようとしているようです。安易に人員整理や労働条件の不利益変更、年金受給額の削減を認める前例を作ってしまうことは労働者全体にも大いなる不利益をもたらすこととなるわけですが、今や左派も労働者のことを考えるのを止めているとしたら救いはありません

ソ連にせよ中国にせよ、あるいは日本の局部的な世界にせよ、社会主義の歴史なんかを読んでいくと、どう見ても労働者に苦痛を与えるようなことどもが「左翼的」と称して振り回されているという現象が繰り返されていて、読んでいて嫌になりますが、まあ、そういうことなんでしょう。

労働者がまっとうに働き、まっとうに生活できることよりももっと大事なことがあるという信念を持つこと自体は否定しませんが、労働者がそのような意見に同調しなければならないいわれもないのでしょう。

このあたり、かつてわたくしが赤木智弘氏のいう「このような左派的なものに自分の主張をすりあわせてきました」というリストについて、「をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ」と評したことに通じるものがあるように思われます。

2011年7月12日 (火)

権丈節@朝日新聞

さて本日の朝日の「耕論」に権丈善一先生が大きく載っています。

題して「「永遠のウソ」つき続けたまま」。

権丈節を読み慣れた人には、これだけで大体分かりますが(笑)、念のために最後の一節を。

>少子化も北欧より急速に進んでいる。北欧のような「高負担・高福祉」は望めず、次世代には高負担・中福祉、中負担・低福祉という未来しか残せない。「増税しつつ、社会保障費は抑制せざるを得ない」という悲しい未来は遠くない。だが、負担増の合意ができれば、社会保障のほころびを修復しつつ、財政を再建できる可能性はある。もっとも、「増税しなくてもやっていける」と主張する政治家はまだ居る。彼らにもう一度、国政を握らせ、それが失敗して初めて、国民は現実を直視できるのかも知れない。かつて福沢諭吉が言ったように、「この人民ありてこの政治あるなり」なのだろう。

この憂国の叫びがポチの吠える声に聞こえるようでは・・・。

ちなみに、インタビューのたぐいは全部断り続けてきたはずなのになぜ今朝日にでたのかについては、ご本人の弁明が、

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

>先日、運転中に電話がかかってきて、はやく電話を切るために、「あぁ、分かった分かった」と、電話の内容もあんまり確認せずに引き受けてしまった次第。。。

読んでて元気がでないんだよな

わたくしへの評語です。

http://twitter.com/#!/togatogaunion/status/90452529892175872

>一方、柄谷行人、内田樹をしきりに批判するのは濱口圭一郎さん。国家=テクノクラート出身としてはいいかげんな言説を垂れ流しているように見えるんだろうが、彼の言説は読んでて元気がでないんだよな。下から積み上げるより上から網を被せりゃ上手くいくってのは官僚的思考で元気、でないよ

もとより、読者の元気を出させることをもっぱら主たる目的とし、その他の目的を従たるものとするまで悟りきってはいない未熟者ですから、こういう評語は甘んじて受けるべきでありましょう。

小説にも実用小説があるように、思想にも実用思想があり、実用といっても現実世界では全然使いものにはならないのですが、少なくとも読んでて気持ちが良くなるという意味での実用効果は抜群であるわけで、そういう実用性が欠如していると、実用性を求める人々に売れないという形で出版社に迷惑をかけることになります。

そういう実用性に冷水を引っかけたくなるのが、わたくしの悪い癖なんですが・・・。

橋口昌治さんの労働経済白書評とその関連ついーと

橋口昌治さんがついった上で労働経済白書についてやや手厳しい評を書いています。

http://twitter.com/#!/rodokoyo

>遅ればせながら『労働経済白書』を読んだ。自分は『若者の労働運動』で若者の問題を社会に認知させた「運動」として、「若者の労働運動」と日本労働研究機構(現在の労働政策研究・研修機構)を中心とした研究者グループや官僚を主体とするものとを挙げた。

>そして正社員にも見られる過酷な労働条件より雇用形態に着目する前者の問題認識と対策の枠組を「若年者雇用問題」と呼び、そこでは「若年非正規労働者(フリーター)を正規労働者へと移行させること,あるいは非労働力化した若者(ニート)を労働市場へと参入させること」が重視されてきたと指摘した。

>白書もその枠組で書かれており、非正規の問題を性別ではなく世代の問題(男性の変化)として捉えている点に「雇用社会」の規範の根強さを感じる(p.154の図は象徴的)。また「ポスト団塊ジュニア世代、正社員へ転換進まず」といった報道のように「ロスジェネ」という問題意識も社会に残っている。

>自分にとって興味深かったのは、成果主義の退潮や職務遂行能力の評価の重要性が強調されるなど日本的雇用の「復活」が言祝がれる一方で、企業内での長期的な能力育成の「復活」と、ジョブカード導入などによる労働市場横断的な技能形成が両立できるものなのか、十分な説明がない点である。

>まぁ筆者の本音は「1990 年代は、厳しい経営環境のもとで、人件費の抑制が求められることとなったが、そこでは、同時に、社会横断的な技能形成がもてはやされ、長期勤続を前提とするような賃金・処遇制度に批判的な論調が強まった。」(p.214)の「もてはやされ」に表れているのではないか。

>つまり、若年男性に非正規労働者が増えていることへの危機感は維持されながらも、その解決をあくまでも(大)企業の長期的な人材育成意欲の復活に求め、労働市場横断的な技能形成、企業外の職業訓練の充実には消極的で、とにかく人間力をつけて(大企業の)正社員になれというのが『白書』の特徴では。

>職務遂行能力、コミュニケーション能力重視という路線は普通教育偏重の追認であり、そうした現状(認識)からどのように職業教育の充実を導いていくのか。また「日本的雇用の解体」「新しい福祉国家」への展望が開けるのか。「ロスジェネ」世代の自分にとっては暗くなるおっさん好みの白書でした(笑)

>あと、文系学科中心の高学歴化が就職に結びつかなかったことを指摘し大学の教育内容の変化を促す一方で、企業内で様々な部署を経験させながらじっくり職務遂行能力を育成していくことの「復活」も喜ぶというのは、矛盾しているのではないかと感じる。

>「賃金制度として広がった業績・成果主義も、分野ごとの業績管理と連動していた面がある。/しかし、こうした一連の動きは、今、見直されつつある。」(260-1)業績管理については不可逆的な変化もあるから以前のものに戻るわけではないだろう。見直しの結果、実態はどうなっているのだろうか。

これに「Uちゃんねる」さんが応える形で、こういう連続ツイートを、

http://twitter.com/#!/U26ajlc

>新卒採用の日本的雇用の復活と、それに乗れなかった人向けのジョブカード型労働市場の整備という、労働市場の「二重化」を目指しているのでは。

>従来型正規雇用とジョブカード型正規雇用は、多分、違うものにならざるを得ない。そうすると、結局、悪名高き日経連「新時代の日本的経営」の描いたポートフォリオに限りなく近づく。

>(1/6) 従来型雇用では、A社の社員として新卒採用されると、A社の社員としての教育を受け、A社内であれば、人事でも経理でも現場管理でも何でも通用する(させる)が、その社員が他のB社に移るとそれが通用するとは限らないというイメージです。

>(2/6) それに対して、ジョブカード型は明文化できる職業技能を積み重ねていくので、例えば、経理技能を身につけると、経理職であれば、A社でもB社でも通用するというイメージです。

>(3/6) 従来型雇用は新卒から定年までの長期雇用を前提とした雇用であり、日経連「新時代の日本的経営」が構想した「長期蓄積能力活用型」に近いのではないかと思われます。

>(4/6) ジョブカード型は、なんだかんだ言っても証明しやすいのは具体的な専門職業能力でしょうから、旧日経連構想の「高度専門能力活用型」に近づいていくと思います。

>(5/6) こう考えていくと、旧日経連の術中にはまっていく感じがしますが、必ずしもそれが悪いこととは限らず、上手くいけば、現状の正規と非正規の雇用格差の縮小に役立つと思います。

>(6/6) ただし、従来型、ジョブカード型、どちらのタイプからもドロップアウトさせられる人たちが出てきて、旧日経連構想でいう「雇用柔軟型」として低賃金で雇用される懸念が残ります

それにさらに橋口さんがコメントする形で、

>お邪魔します。しかし90年代後半以降「高度専門能力活用型」は増えず、2002年に日経連が提示したのが正社員を「定型的職務従事群」「非定型的職務従事群」に分け複数の賃金体系(前者は職務給、後者に職能給→成果給)を導入することでした

> 「定型的職務従事群」がジョブカードの対象の1つになり、正規と非正規の橋渡し役、あるいは多様な正社員の形成を促進するのかなと思っていたところ、旧来の日本的雇用復活とあり、え?と思ったわけです。勝手な思い込みだったのかもしれませんが

>いわゆる「メンバーシップ」型の日本では、「内」と「外」の関係が難しいと思います。ドイツの抱えている問題については知らないので、教えていただけると助かります。あと話し相手になっていただき、勉強になりますm(_ _)m

これへの「Uちゃんねる」さんのリプライ、

>「定型的職務従事群」をジョブカードの対象にしようとした節は確かにありますが、最近では、キャリア段位制度にジョブカードを活用しようという動きにシフトしているように思えます。新たな専門職労働市場を創ることが目指されています。

>恐らくメンバーシップとジョブ型の混合が目指されているのですが、難しそうですね。ドイツは基幹学校、実科学校、ギムナジウムの複線型教育が特徴ですが、大卒の職が足りなくなると、実科卒の職を奪い、実科卒が基幹卒の職を奪い、資格があっても職にありつけない。ましてや(続)

>(続)ドロップアウトした無資格者は、低賃金労働またはニートにならざるを得ない。といったような問題を抱えているようです。もちろん、いろいろと対策も取られているようではありますが。

>要するに、ドイツも複線型といいつつ、結局は縦の序列になってしまっているということです

なかなか興味深いやりとりでしたので、そのままになるのがもったいないこともあり、関心のある人が読めるよう拾っておきました。

かもちゃんの拙著書評

古賀茂明氏の話題の本を読んで、なぜか同じところに疑問を持った同志(?)のかもちゃん(hamachanに「さん」や「氏」をつけないように、かもちゃんもそのままにしておきます)が、拙著を読んで書評をアップされています。

http://pu-u-san.at.webry.info/201107/article_30.html

>目次を見てもわかるとおり、労働をめぐる諸問題を取り上げているのだけれど、あまりに項目が多すぎて、正直言って、消化不良に陥った。一つ一つの中身も、かなり濃いというか深いというか、とにかく簡単に消化できないのです。
(新書といっても、岩波だからなぁ・・・・などと書くと、「属性攻撃」と批判されるかもしれないのだけれど。)


それはどちらに対する属性攻撃になるのかよく分かりません(笑)が、いくつかつきあった印象からすると、ある種の人々が目の色変えて崇拝したり糾弾したりするほど変わった会社でもないと思いますけど。

>前者の「メンバーシップ型」であるという点は、日本の「就職」は「就職」ではなく「就社」であるという言い方で昔から言われていたことのように思われ、「メンバーシップ型」という用語はともかくその主張内容は特に新しくはないと思う

そのとおりで、実は前に本ブログにも書きましたが、当初の企画案ではこの序章は入っていなかったのです。もっぱら現代日本の労働問題をいくつかの切り口から論ずるという本の予定だったのですが、岩波書店の編集者が是非これを入れるべきだというので、当初は最後に回そうかという案もあったのですが、冒頭に持ってきたのです。正直言うと、序章は内容的には新しいことは何も言っていないので、玄人が読むと「ああ、あれね」と思われてしまうのでは、という心配もあったのですが、むしろ多くの人がこの部分を目新しく読んでいただいたことが分かり、かえってびっくりしました(まあ、それにしても、池田信夫氏が「メンバーシップ論はオレ様が発見したのだ!」と主張するとは思いませんでした。閑話休題)。

>一方の、組合の機能の議論については、少なくとも自分にとっては新しい話である

それはそうでしょう。第4章はあちこちから批判されているように論理的に破綻しており、ああいう議論を展開している人は私以外には見当たらないはずです。それでもなお、今日の何層にも絡まり合った問題を解きほぐすためには、こういう議論が必要だと思ってあえて打ち出しています。ここで広島電鉄の例を出すか出さないか、最後まで迷ったところでした。

なお、最後の

>本書で若干言及されている労働政策の「三者構成原則」なるものについては、国民主権ないし民主主義との関係をどう考えるべきなのかをかねてから疑問に思っているのです

については、別途いろいろ論じてみていますので、ご参照いただければ、と。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/juristtripartism.html(「労働立法と三者構成原則」)

2011年7月11日 (月)

筒井美紀「ジョブ・カード制度の「通説」再考」@『現代の理論』夏号

『現代の理論』夏号をお送りいただきました。特集は「3・11は何を問うか」で、脱原発が主たる議論の軸になっているようですが、正直言って、原発の安全性と環境問題ばかりが議論の中心になり、食わなきゃいけない生活という観点が希薄になっている感じがします。そういう緑っぽい議論の上にやや空中楼閣的な文明論が聳え立つ姿は、議論としてはまことに美しいのですが、働く者の実感にどこまで迫っているのか、いささか疑問なしとしません。

それはともかく、今号で労働問題を取り上げているのは(原発関係の中に一つもないだけに)筒井美紀さんの「ジョブ・カード制度の「通説」再考」と、シジフォスの水谷研次さんの「労組法上の労働者性を判断した最高裁」の二つです。

ここでは前者について紹介しておきます。はじめのところで、私も何回か書いてきた話ですが

>思うに日本では、公共的な職業訓練への信頼と不信が結合した奇妙な信念が存在しており、それがこの国・この社会の衰退を水面下で進行させている。学卒後間断なく入社し、企業内のOJTを核に自分は一人前になってきたと実感と誇りが、職業訓練への信頼を担保すると同時に、国や自治体が音頭をとる類の職業訓練は、「落ちこぼれ」への「お役所仕事」の非効率性・非有効性に彩られた救済措置なのだという不信が存在する。年長世代の多くが旧来的なシステムの下で「成功」し、公共的な職業訓練の経験者は少ないことを考えれば、さもありなんである。だが、こうした奇妙な信念がある限り、「マスコミ・コーディング」の下にある実像と進むべき方向は見えない。これではダメなのだ。良質の雇用のパイがここまで減少し、今後も増加が見込めない構造の下では、手厚いOJTのチャンスにたどり着けない老若男女は増加し続ける。だから「よい介入」が必要なのだ。それがうまくいくためには、公共的な職業訓練への理解と信頼が広く社会に浸透していかなければならない。そうでないと、筋違いの政府批判、官僚制批判が繰り返されるだけである。・・・

まことに、日本型雇用を賞賛する人はそれゆえ論理整合的に公共職業訓練を低く評価し、一方日本型雇用を批判する人も(自らの論理的整合性はどこへやら)ひたすら政府批判、官僚批判をすることが自らの知的誠実性と心得てか、公共職業訓練を誹謗中傷し続け、かくして、筒井さんも嘆くような事態が進行する仕儀と相成るわけです。

メシの旨い不味いと民族・宗教

これは欧州在住日本人の間で常に論争になる点ですが、

http://twitter.com/#!/sankakutyuu/status/90178091594420224

>ドイツ語、英語圏の旅行ってメシが困るんですよね。旨かったのってベルギーくらいだけどフランス語圏だしなぁ。

http://twitter.com/#!/sankakutyuu/status/90178950956990464

>政治的透明度とメシのまずさは逆相関するってのは斎藤淳先生が疑似科学だと言いたげなツイートを昨日にしていたけど、プロテスタンティズムを噛ませたらあながちウソではない気もするんだよなぁ。

ベルギーに住んでいると、経験科学的な決着を付けることが可能です。

南はフランス語圏、北はオランダ語圏。

しかし、両方とも宗教はカトリック圏。国境をまたいでオランダにはいると、言葉は同じだけれどもプロテスタントになる。

よって、ベルギー北部のゲルマン系カトリックのメシの旨さによって、いずれが決定要因であるかが判別できます。

たっぷり判別してきました。

文句なく旨い。

国境を越えると文句なく不味い。

オランダで食えるのは旧植民地系のインドネシア料理だけというのが通説です。

私はベルギーでも旧植民地系のコンゴ料理(当時はザイール料理)もよく食べましたが、ほとんど奇人と見られてましたけど。

だからって理屈はねえ

もちろんわたくしは以前からヨーロッパ出羽の守よろしく「ったく日本のリベサヨは・・・」とケチをつけてきているわけですが、

だからといって、こういう理屈で正当化できるものでもないでしょう。

http://twitter.com/#!/shinichiroinaba/status/89679563172487168

>hamachan先生のいう「なんで日本のリフレ派はネオリベ臭くて社民よりじゃねえんだ?」問題は「なんで日本のリベラル左派は成長嫌いの引き締め論者ばっかりなんだ?」問題の裏返し

裏返しだから何なの?

日本のリベサヨが成長嫌いのバカサヨだから、おれたちリフレ派がネオリベ臭くて社民よりじゃねえのは当然だと?竹中平蔵の味方でどこが悪いと?

そうやって本来味方になったかも知れないまじめな人々を蹴散らして何か楽しいのかしらね?

そうやって、まっとうな西欧型社民派が頼れるのは与謝野馨氏しか居ないような状態にしたてあげた訳で。

まさにこの辺がHALTAN式僻目評論に一定の正当性を付与している訳なんだが。

(追記)

暴言日記さんによるコメント

http://blogs.yahoo.co.jp/zhang_r/29035287.html(日本のリベラル左派は成長嫌い?? )

>そうなんですか?濱口先生、権丈先生、宮本先生を「リベラル左派」とするなら、みんな「成長」は否定していないどころか、どなたも「成長は必要」とまで明確に言っていますが・・・。

>むしろ「成長」を否定しているのは、90年代の「現代思想」から現在の「思想地図」の流れにある、「文化左翼」の方々でしょう。

>そもそも、政策論的なリベラル左派を代表する人たちが、少なくとも言説上は成長否定・引き締めの立場には明らかに立っていないのに対して、リフレ派を代表する人たちは普段の言説においても「ネオリベ臭」を全く隠そうともしていません。この二者を並べて「裏返し」とされるのは、「リベラル左派」の末席にいるつもりの自分としても心外なところです

言葉の問題かも知れませんが、わたくしは自分で「リベラル左派」などと名乗ったこともないし、「リベサヨ」と紛らわしいし、だいたい「りべらる」というのは蔑称だと思っているくらいだし、ある側面ではネーション的な利益を擁護するという意味での「右翼」でもあるくらいなので、こういう整理には若干違和感はありますが、みどりっぽくない西欧型社民派という意味では、まあ大体そういうことでしょう。

(余計な追記)

ちなみに、こういうつぶやきもあったようですが

http://twitter.com/#!/WlknWtr/status/90644645847113728

>要するにこの人は大東亜共栄圏を目指しておるのかいね。/だからって理屈はねえ: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

どうして成長する福祉国家を目指す西欧型社民派が大東亜共栄圏になるのか、良く理解できないところもありますが、おそらくある種の日本型りべさよとねおりべに共通するりべらる感覚では、そういうふうにつながっているのでしょう。

実を言えば、だから、「リベラル左派」とか言われるのが嫌なんですよね。そういう特殊戦後日本的りべらる感覚のしっぽがくっついているような感じがして。

玄関口からは入れないのに勝手口はOK?

さて、時ならぬキキ祭りはそれとして、一昨日の研究会で論じられた労組法上の労働者性の問題について、なかなかすっと通らない点は、労働者性を問題にすることで何を解決しようとしているのかという点なのです。

労使関係法研究会の先生方は大体菅野理論の流れにあり、この東大学派は集団的労使関係法制を団体交渉による集団的ルール設定を中心において理解します。そして、その観点から、労組法上の労働者性は団体交渉を通じてルール作りをさせることが適当かどうかという観点から判断すべきという立場をとられるわけです。

わたくしは、この考え方は筋の通った一つの考え方であるとは思うのですが、現実の労働組合法の使われ方は、そういう集団的ルール設定というだけでなく、むしろ個別労使紛争の個別的解決のための手段として用いられる傾向があり、その場合、使う武器がたまたま労働基準法や労働契約法であると「お前は労働者じゃない!」と言われるのに、労働組合法を武器に使ったら「お前は労働者だ」となるのが本当にいいのだろうか?と言う疑問がぬぐえないのです。

今回の2判決で言えば、INAXの方は集団的な労働条件をめぐる紛争なのですが、新国立劇場の方は原告のオペラ歌手がオーディションで不合格になったというまさに個別的な紛争で、その不合格になったこと自体が不当労働行為(7条1号)だというのと次期シーズンの契約に応じないのが不当労働行為(7条2号)だという訴えなので、結局全部実態は個別紛争なのですね。

そして、この事件の原告女性は、別に民事訴訟でも訴えを起こしていて、そっちでは「お前は労働者じゃない」と言われて最高裁まで行って確定してしまっているのです。

個別の契約の存否については労働者性がないとして退けられても、集団的なルール設定の面では労働者性があるとして団体交渉させていいじゃないか、という論理は、私は理解できるのです。

しかし、実のところ個別的契約の存否を争っているだけの事案を、玄関口から「私は労基法、労契法上の労働者よ」といって入ろうとしたら、「お前は労働者じゃない」と追い出されるのに、まったく同じ案件を勝手口から労働組合のお面を被って入ろうとしたら入れてくれるというのは、それでいいのだろうか、という疑問が拭えないのですね。

それなら最初から労基法上の労働者性を認めてもいいじゃないか、という気もするし(もっともその場合でも、本件のような芸術労働者の技倆評価に関わる問題について裁判所が判断しうるのかという問題はありますが)、あるいは労働者性概念の相対性というのであれば、労基法・労契法と労組法という風にざっくりわけるのではなく、それぞれの中身を細かく判断して、個別紛争事項と集団的ルール設定事項に分けるべきではないか、とか、考えるわけです。

2011年7月10日 (日)

キキの民法と労働法

さて、セクハラだパワハラだと訴えられないような13歳の少女労働者を雇うのが大好きな某金融関係者はともかくとして、キキについては個人事業主ではないかという指摘が。

http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-b9d7.html

Gelsy キキは個人事業主だろ。

さらに、

haruhiwai18 →その前に、いくらフィクションとはいえ13歳の少女が個人事業主として労働するのはいか(ry

という声もありますが、13歳でも親権者の許可があれば個人事業主になることは可能です。

第八百二十三条  子は、親権を行う者の許可を得なければ、職業を営むことができない。

 親権を行う者は、第六条第二項の場合には、前項の許可を取り消し、又はこれを制限することができる。

六条  一種又は数種の営業を許された未成年者は、その営業に関しては、成年者と同一の行為能力を有する。

 前項の場合において、未成年者がその営業に堪えることができない事由があるときは、その法定代理人は、第四編(親族)の規定に従い、その許可を取り消し、又はこれを制限することができる

この点、雇用される労働者については労働基準法により13歳では(一部事業を除き)原則として許されません。

第五十六条  使用者は、児童が満十五歳に達した日以後の最初の三月三十一日が終了するまで、これを使用してはならない。

○2  前項の規定にかかわらず、別表第一第一号から第五号までに掲げる事業以外の事業に係る職業で、児童の健康及び福祉に有害でなく、かつ、その労働が軽易なものについては、行政官庁の許可を受けて、満十三歳以上の児童をその者の修学時間外に使用することができる。映画の製作又は演劇の事業については、満十三歳に満たない児童についても、同様とする

ですから、藤沢氏が勘違いしたようにキキが雇用労働者であるとすると違法ですが、映画の中で描かれているように個人事業主であるとすれば十分合法でありえます。

ただし、形式的には個人事業主であることになっていても、就労の実態によれば労働者と判断されることがあり得ることはご案内の通りですが、まあ、映画のシナリオからすれば大丈夫でしょう。

2011年7月 9日 (土)

労組法上の労働者性

本日、都内某所で某研究会。

テーマは新国立劇場とINAX。

そして行く途中で立ち寄った本屋で見つけた『ジュリスト』最新号が、まさにこのテーマ。

本日の研究会には、例の労使関係法研究会の委員もいたりして。

でも、未だによく分からない。

分からないというより、ほんとにこれでいいの?という疑いが晴れない。

今は、そのあと呑んだワインの影響で脳細胞が働かなくなっているのですが、もう一度じっくり考えてみたいです。

キキを見てこういう感想を持つたぐいの人々

某米系投資銀行勤務の藤沢数希氏の感想:

http://twitter.com/#!/kazu_fujisawa/status/39215977468145664

>魔女の宅急便のキキは、労働組合も作らないし、首になっても割増退職金も要求しない。セクハラだパワハラだと訴えない。今の労働者も見習うべき。

藤沢氏やその周辺のあごらな方々の理想とする労働者像がどのようなものであるかがよく窺われる大変正直なつぶやきです。

2011年7月 8日 (金)

「法と配慮板挟み」って、誰に対する配慮?

読売の記事ですが、

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110708-OYT1T00145.htm(残業代カット相次ぐ被災自治体…法と配慮板挟み)

>東日本大震災の被災自治体で、復旧の最前線で働く職員の超過勤務手当の減額や支給見合わせが相次いでいる。

 打ち切りにしたり、休日に振り替えたりして額を抑える。被災住民への配慮が背景にあるが、職員組合から反発も。総務省は「被災した市町村も勤務実態にのっとった支給を」とし、識者は「未曽有の震災で手当のあり方の検討が必要」と指摘している。

 岩手県釜石市は職員340人の3月の超勤手当が1億4000万円に上る。昨年同月の25倍で、野田武則市長は「被災者に配慮すると全額支給は難しい」と判断。1日の上限が4200円の「宿日直手当」に置き換えて支給した。額は10分の1になり、職員組合は「家族も捜さずに働いた職員もいるのに、一方的でおかしい」と反発。労使が交渉を続ける事態となっている。

 同県大船渡市は手当が1億円を超え、職員組合と協議し、額に応じて休日を与えることにした。「過酷な勤務で休暇が必要」と職員側も了承。ある職員は「法律上の問題は承知しているが、手当をすべてもらうことはできない」と話した

いうまでもなく、地方公務員にも労働基準法は(36協定など一部を除き)そのまま適用されていますから、「法と配慮板挟み」といっても、労働基準法違反であることが治癒されるわけではありません。

というか、ここでいう「配慮」って、誰に対する配慮なんでしょうか。

住民を公務サービスの顧客と考えれば、民間企業がお客様への配慮から労働基準法に違反いたします、といって許されるかというと、許されないでしょうし、

住民を公務サービスの出資者たる納税者と考えれば、民間企業が株主様への配慮から労働基準法に違反いたしますというのはますます許されないでしょう。

まあしかし、そういうのは現代日本の常識でもなさそうです。

このあたりが、まさに被災地で地方公務員をされているマシナリさんが、

http://sonicbrew.blog55.fc2.com/blog-entry-365.html

>コームインが働く役所は「ブラック企業」である

といわれる所以なのでありましょうか。

労働経済白書2011

今年度の労働経済白書が公表されました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001i3eg.html

石水さんの白書執筆はついにこれで6回目となります。最近ではぶっちぎりの最長不倒です。

今回の白書は、第2章で「世代ごとの働き方」を取り上げており、いわゆるロスジェネも含めて、1960年代前半生まれ世代から、2000年代後半生まれまで、大体5年ごとの世代に輪切りして、いろいろと分析しているところが世間的には読みどころといえましょう。

Sedai

>バブルが崩壊した時、まだ就職する前だったか、もうすでに仕事に就いていたか、あるいは、それは若手だったのか中堅だったのか、また、高齢期から引退過程にかかっていたのか。職業人生には、それぞれの局面があり、バブルの崩壊後の時代を、どの年齢で迎えたかは、その後の職業生活に拭うことのできない重大な痕跡を残した。働く人達は、それぞれの時代状況を背負って生きているのであり、現代の労働問題は世代ごとの問題として立ち現れている。

それが一番よく現れているのは、この世代別に見た非正規雇用割合でしょう。上が男性、下が女性、それぞれのカーブのシフトの姿が、まことに雄弁にいろいろなことを物語っているようです。

Hiseiki

あと、教育と労働に関心をお持ちの方々には、その直前の「学卒者の職業選択」の節が、「他の学科に比べ就職状況の厳しい普通科の高校生」とか「人文科学や社会科学の進路は相対的に不安定」といったトピックを示しています。

とりわけ、大学院進学の意味が文系と理系で違うという話は、よく読んでおいた方がいいでしょう。

>就職も進学もしていない者の割合を大学院と学部の間で比較すると、理学、工学等では、大学院卒の方が学部卒に比べ就職も進学もしない者の割合が低くなっている一方、人文科学、社会科学、家政、芸術、教育では、大学院卒の方が学部卒よりも就職も進学もしない者の割合が高くなっている。
主に、文系学科では、大学院に進学したとしても、卒業後に就職先や進路が決まらない割合が高く、大学院で身につけた専門的な知識が、必ずしも社会的なニーズが高くない可能性がある。大学院進学率の上昇については、今までのように教育水準の向上の観点から評価するだけではなく、社会のニーズを踏まえて再検討される必要がある。
なお、学部時代にやりたいことが見つからなかったり、職業選択を先送りするなどの理由で大学院に進学している状況について指摘もあるが、このような学生に対しては、勤労、職業観の形成や、労働に必要な能力の獲得に向けた目的意識の醸成などのための教育プログラムの提供が求められるように思われる

第3章は例によって日本型雇用のあり方についていろいろと分析していますが、第2章の世代分析の手法がここでも何回か使われていて、こういう興味深いグラフもあります。

Curve

>男性について、世代別に年収カーブをみると、1968〜72 年生まれと1973〜77 年生まれの世代において、年収カーブが低くなっている。1970 年代生まれ(先にみた「団塊ジュニア」と「ポスト団塊ジュニア」)は、他の世代に比べ、所得の伸びが停滞する傾向がみられる

ほかにも興味深い事実がいろいろと書かれていますので、今日ダウンロードして、明日明後日にじっくりお読みになることをお薦めします。

2011年7月 7日 (木)

ふつう、そんなやり方はしません

4062170744 先日コメントした古賀茂明氏の著書ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-916a.html(古賀茂明氏の偉大なる「実績」)

大内伸哉先生が読まれたようで、その感想を「アモーレ」に書かれているのですが、

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-bccc.html(日本中枢の崩壊)

ちょっと気になるコメントがありました。

>この本で個人的に関心をもったのは,持株会社解禁のときの公正取引委員会との戦いやクレジットカード偽造の刑法犯化のときの法務省との戦いのように,古賀氏が具体的に扱った問題についてのことが書かれている部分です。なるほど,こういうようにして法律ができていくのかと勉強になりました。

いや、私も霞ヶ関で何回か法案作業やりましたけど、反対している官庁に次官級ポストをつけてやって黙らせるなんて話は聴いたことがありません。「なるほど、こういうようにして法律ができていくのか」と思われると、心外な方々が数多くおられると思いますよ。

『希望のもてる社会づくりへ 社会不安の正体と未来への展望』~2011東京シンポジウム報告書~

Zenrosai 今年3月に行われた全労済協会のシンポジウムの報告書が刊行されました。

http://www.zenrosaikyoukai.or.jp/thinktank/library/lib-sym/pdf/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9D%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf

1.プログラム
2.プロフィール
3.基調講演
    第1講演「自壊社会は幼児化社会」
      浜  矩子  氏(同志社大学大学院ビジネス研究科教授)
    第2講演「生活保障の再構築 不安と自壊の社会を超えて」
      宮本 太郎 氏(北海道大学大学院法学研究科教授)
4.パネルディスカッション
  <パネリスト>
      浜  矩子  氏
     辻元 清美  氏(衆議院議員)
     湯浅  誠  氏(内閣府参与、反貧困ネットワーク事務局長)
     濱口 桂一郎 氏((独)労働政策研究・研修機構統括研究員)
  <コーディネーター>
     宮本 太郎 氏

と、浜矩子、宮本太郎両氏の講演のあとのパネルディスカッションに、辻元清美、湯浅誠両氏とともにわたくしも加わっております。

残念ながら、ここには表紙と目次しかアップされていませんが、わたくしの発言部分だけここに引用しておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/zenrosaipanel.html

1.社会不安の現状認識
 
濱口  はい。社会不安というのはもちろん非常に広い概念ですが、ここでは今の日本でなぜこのように社会不安が大きくなっているのかということについて述べたいと思います。

市場経済というのはもともと不安定で、不安をかき立てるものですが、しかし、だから今社会不安が起こっているのかというと必ずしもそうではない。同じようにリーマン・ショックでひどい目に遭ったヨーロッパでは、もちろんいろいろと問題は発生していますが、不安から守る社会的な仕組みがあって、日本のような社会不安には陥っていない。

この点、「日本はむき出しの資本主義だからいけないのだ」と言う人もいますが、私はそうは思いません。日本は日本なりに、ヨーロッパとは違う形で、資本主義の不安から守る仕組みをつくってきました。今から20年ぐらい前までは、それが非常にいい仕組みだと言われていたのです。むしろ、そこにあったさまざまな問題が矛盾として露呈してきたために、現在の社会不安のが生じているのだろうと思います。

もう少し具体的に言いますと、ヨーロッパでは労働者を資本主義の不安から守るために、産業別の労働組合や国家レベルの福祉国家がきちんと役割を果たし、現役世代に対する子育てや、教育や、住宅といったいろいろな生活保障を充実するという形で包摂してきました。これに対して、日本もむき出しの資本主義ではなく、労働者の生活保障の仕組みを創ってきたのですが、それを専ら企業レベルでのみやってきました。企業だけが、労働者の生活をその奥さんや子どもまで含めて保障するのです。

その仕組みがうまく回っていたときは良いのですが、うまく回らなくなると、いったんそこからこぼれ落ちてしまうと保障してくれる存在がなくなってしまいます。つまり、日本は「むき出しの資本主義」ではなくなっていたはずなのに、こぼれ落ちた人から見ると「むき出しの資本主義」が再現したように見えるのだろうと思います。

今回岩波書店から刊行された本とは別の本の中で、私はこの日本的な仕組みを「正社員体制」と呼びました。「正社員体制」とは何か。「企業は正社員をきちんと守る。終身雇用と年功賃金で守る。女房、子どもまで含めて守る。そのかわりきちんと会社に尽くせ。」という仕組みです。この取引がうまくいっている限りは労働者にとっても非常によい仕組みでした。ところが、今から16年前に当時の日経連(日本経営者団体連盟)が「新時代の『日本的経営』」というものを出しまして、コアの正社員は縮小して、少数精鋭にすることを打ち出します。そうすると、「正社員体制」からこぼれ落ちる人が当然出てきます。ところが、こぼれ落ちる人を企業の外で守ってくれる存在があるのでしょうか。日本では企業が全部やってきてくれたから、ヨーロッパのような仕組みをつくる必要がなかったのですが、結果的にこぼれ落ちる人に対してはどこからも手がさしのべられないということになりました。

こうして「正社員体制」からこぼれ落ちた人が不安に駆られます。それでは、「正社員体制」の中にいる人はいいのでしょうか。「中にいる人は既得権を持っているのでけしからん」と言う人がいますが、そう単純ではありません。なぜかといえば、コアの正社員はどんどん縮小していくわけですから、中にいる人もいつこぼれ落ちるかわかりません。少数精鋭でやるという以上、今までこぼれ落ちなかった人もいつ自分がこぼれ落ちるかもしれないとおびえます。そうすると、「正社員体制の中も不安、外も不安」ということになり、社会全体が不安に満ち満ちてしまうという事態になるわけです。

最後に1点だけつけ加えますと、最近「ブラック企業」がよく話題になります。「ブラック企業」とは何でしょうか。これは、昔イギリスでエンゲルス(F.Engels)が描いたような、あるいは日本の細井和喜蔵が『女工哀史』で描いたような原生的労働関係の世界では決してありません。日本は決してそういう時代ではなくて、きちんと労働基準法など労働者の権利を守るための法制があります。

それなのになぜ「ブラック企業」が横行するのでしょうか。それは皮肉なことに、日本的な正社員体制で「企業が全部守ってくれる」という仕組みが確立し、それを前提として「会社に一生懸命尽くします」という働くモデルが確立したということが原因なのです。その正社員体制がどんどん収縮していくと、いつ自分もこぼれ落ちるかもわからない、という不安に駆られます。そうすると本当に守ってくれるかどうかわからないのだけれども、とにかく一生懸命尽くそうとします。普通、人間というのは一方的に持ち出しになるかも知れないような取引はしないものですが、こういう不安に駆られると一生懸命会社のために尽くすことでその安心感を得ようとします。これだけ会社のために尽くしているんだから、会社は自分を守ってくれるに違いない、と。その意味ではこれは「不安を悪用した」ビジネスモデルといえるでしょうが、そういうものがはびこってしまうわけです。これを根本的に直すためには、会社の中でも外でも不安をかき立てている、この基本的な枠組み自体を根本から見直していく必要があると思っています。
 
濱口 あえて一言つけ加えれば、やや一般論的ですが、「人間は安心感があってこそ、安心して競争ができる」ということです。十数年ぐらい前に、ある方が「安心感を与えたら人間は競争しない、護送船団になる」と言っていましたけれども、その方がいた組織はそうだったのかもしれないのですが、普通はある程度安心感があるからこそ思い切ったことができる。安心感が失われると、むしろしがみつくのですね。冒険をしない。現在起きていることはそのようなことであって、不安があるが故に、中にいる人はしがみつこうとし、外にいる人は「あいつらが悪い」と言って引きずり出そうとする。決していい事態ではないと思います。
 
2.「希望のもてる社会」への処方箋
 
濱口  壇上で若干議論をしたほうが聴いている皆さんは面白いと思うので、私は「成長戦略すべし」という立場で論じます。「成長」といいますと、今から半世紀前、当時の池田勇人内閣がつくった国民所得倍増計画を思い出しますが、結構分厚いものです。私は今もそれをよく読むのですが。そこで書かれていたことが「希望のもてる社会」への処方箋になります。3つあります。

1つは「生活保障」、というと宮本先生の本のタイトルですが。日本で「生活保障」というと、引退した方の年金、病気になったときの医療保障、高齢者の介護、雇用保険、労災保険を「5つの社会保険」と言っています。ところが実は昔、「第5の社会保険」というふれ込みでつくられたものがありました。1971年の児童手当です。児童手当については国民所得倍増計画で、「日本の終身雇用制や年功序列制を変えていくためには、児童手当をきちんと公的につくっていく必要がある。そうでないとみんな安心して労働力が流動化していかないのだ」と論じられていました。

ところが、制度ができた頃には「会社が正社員に家族手当を払っているのに何でこんな余計なものをつくるのだ」と批判を受け、どんどん縮小していって、遂にあるかないかわからないものになってしまいました。揚げ句の果てに、厚生省は、介護保険をつくるときにやはり「第5の社会保険」と言ったのですね。いつの間にか児童手当は「第5の社会保険」から失脚していたのです。まるで惑星から外された冥王星のようにです。その失脚していた児童手当が先日、「子ども手当」になりました。英語で言うとどちらもチャイルド・アロワンス(child allowance)です。

ところが、ここ1~2年の政治的な動きで、この「子ども手当」を掲げた方々は、50年前の国民所得倍増計画に書かれているような意気込みでやったわけではなかったということが明らかになってしまいました。現役世代の生活保障、つまり、子育て、教育、住宅をきちんと保障することが、社会の安心、安定のために必要だという問題意識が、その政治的動機ではなかったようです。

2つ目は教育訓練です。これも先ほど宮本先生が言われたのですが、日本では、「学校でやってきたことは全部忘れろ。会社が全部教えてやる」と上司や先輩がビシビシ鍛えます。今、日本の社会で偉くなっている方々はみんなそのように育てられてきたのです。だから、そのような方々になればなるほど「公的職業訓練などというのは無駄の極みだ。金がないのだからやめてしまえ」と言いがちです。これは政治勢力のいかんを問いません。リーマン・ショックが起きた後で、どんどん失業者が出ている、まさにその最中に当時の自公政権は職業訓練施設を運営する雇用・能力開発機構の廃止を決めました。

それでは、それに代わった民主党政権はどうしたのかというと、鳴り物入りの事業仕分けで「ジョブ・カード制度」(職歴開発の相談や職業訓練を組み合わせて就職活動等に役立てようとする制度)は無駄だから廃止にすると言ったのです。つまり日本のエリートの方々はみんな、「自分は全部会社の中で育てられてきた。教育訓練というのは会社がやるものだ。だから公的な教育訓練などはいらない。やっているのは無駄だ」という発想でずっとやってきています。リーマン・ショック後も、政権交代後もそうです。これを変えないと、本当の「希望のもてる社会」には向かわないと思います。

3つ目は働き方です。「正社員体制」というのは決してぬるま湯ではありません。確かに終身雇用と年功賃金で安定していますが、そのかわりものすごい競争社会です。だからこそ、日本は経済成長をしてきたのですが、それを見直していかなければいけない。正社員同士の出世競争が働きすぎ、ひいては過労死、過労自殺といったことをもたらしていますし、あるいはそこからこぼれ落ちてしまった人たちが何とかそこに潜り込もうと思って、「ブラック企業」に入ってしまうという事態ももたらしている。そういう意味では、正社員のあり方を変えていく必要もあります。私はこれを「メンバーシップ型の正社員からジョブ型正社員に」と言っているのですが、正社員保護の水準を一定程度少なくすることを含んでいるので、とりわけ労働組合の方々にとってはいろいろ意見のあるところだと思います。しかし社会全体のシステムをどのようにいい方向に変えていくのかということを考えると、先ほど言った生活保障と教育訓練、そして働き方を見直していくという、この3つに同時に取り組んでいく必要があると思っています。以上です。
 
3.「希望のもてる社会」へ何をなすべきか
 
濱口 はい。ミクロとマクロの2つのお話をしたいと思います。
ミクロは労働組合です。職場についてです。実は今朝の朝日新聞でパートの組織化の記事が載っていました。その中で「パートを組織化しても、いざというとき守りきれないではないか、そんなもの大丈夫か」というようなことを某組合の人が言っているという記事がありまして、実はここに問題があるのだなと感じました。本当は「守りきれるのか」ではないのです。資本主義社会、市場経済ですから、絶対不変に守りきれるなどということはありえない。本当は正社員だってそうなのですね。

しかし、「守りきれないから入れない、包摂しない」ということは排除する。排除するということは何も守らない。守れるときでも守らない。つまり、そこに線を引いてしまうという話です。まさに日本の正社員体制というのはそういうものです。守りきれる人だけ守る。守りきれない人は守れるときだって守らない。それでやってきたために実は今のような状態になってしまったのだとすると、守りきれないからという発想をやはり変えていく必要がある。包摂にはいろいろなレベルがあるのですが、労働組合が何をすべきかという観点からすると、足元の職場できちんと包摂をしていく、非正規の人も守れる限りは守るという形で、長期にインクルード(包摂)していくことを第一に申し上げたいと思います。

2番目は、ぐっと大きくなってマクロな政治の話です。政治の話は先ほど来、いろいろ機微に触れる話が出ているのですが、ややスローガン的に言うと「総論とねたみのポピュリズム政治から、利害の認め合いに基づくステークホルダーの民主主義へ」変わっていく必要があるのではないかと思います。この10数年の日本の政治は、総論とねたみで特徴づけられるのではないかと私は思います。

総論とは何か。政治主導、官から民へ、中央から地方へ、ある面ではいいことです。確かにそれが必要な側面もあります。しかし、それがとんでもない弊害をもたらす側面もあります。大事なのは各論のはずです。しかし、各論が論じられることはありません。とりわけ国民を熱狂させるような人は各論を論じません。総論だけで進めます。

そして、その総論に国民を巻き込むために使われるのがねたみの政治です。「あいつらが得をしている」「こいつらだけがいい目を見てる」「だから、あいつらの足を引っ張れ」「こいつらをたたきつぶせ」。そのような総論とねたみでずっとこの10数年来政治をやってきた結果が、今の事態なのではないか。これは、どの政党の立場からどの政党を批判しているというような話ではないことはよくおわかりだと思います。この総論とねたみのDNAがあらゆる政党の中にしみ込んでしまって、どの政党にも、総論ではなく各論を議論しなければいけないではないか、ねたみで人を引っ張るのはおかしいではないかと思うまともな政治家もいれば、総論とねたみのポピュリズムでやっているほうがビジネスモデルとしてうまみがあると思う人たちもいる。ねじれているというよりも、まだらな状態になっている。これを真っ当な政治に持っていく必要があるだろうと思います。

真っ当な政治とは何か。昔読んだ政治学の教科書に、「政治とは資源の権威的配分の技である」と書いてありました。市場を通した資源の配分ではなくて、それを権威的に配分する。しかし、それを王様の権威でやるのではなくて、国民の民主主義的な議論に基づいてお互いの利害を認め合って、このようなことをやったら我々はこのように得をする、ここはこのように損をする、ここはこうなる、しかしそれらをいろいろ組み合わせることで、このような利害の構造が全体としてはより望ましい方向に行くではないかという議論を尽くしてやっていく。それが「資源の権威的配分の技」としての政治なのだろうと思います。

ところがこの十数年間、そのような資源の配分が政治の目的だという発想はけしからん、そのような政治は利権だ既得権だと言って、ひたすら叩いてきたのではないでしょうか。そして、その代わりにはびこってきたのが「総論とねたみのポピュリズムの政治」だったのではないかと思います。

先ほどの宮本先生の言い方をすると、政治のビジネスモデルを転換していく必要があるのではないかと思っています。以上です。

総理大臣のリコール制度はありますが・・・

これは法学部卒業生だけの知識ではないはずですが、

http://twitter.com/#!/HeizoTakenaka/status/88597074291073026

>今日も国会で菅総理が「刃折れ矢尽きるまでやる」と述べた。こういう姿を見ていると、総理(および国会議員)にリコールの制度がないのは制度的不備に思える。国益を考えたら、リコール制度は必要ではないか

日本国憲法第69条:

>内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない

国益を考えてリコールの制度がちゃんとあります。使い方を失敗した方々がおられたようですが。

ついでに国会議員については、まさに衆議院の解散がリコールでしょう。ただし、竹中氏自身が属していた参議院議員にリコールがないのは議論の余地があるかも知れません。

まあしかし、そんなことよりも、こういう憲法の初歩的常識の欠如した方が、日本国の総務大臣をされていたということに、某ドラゴン大臣以上にもろもろの感想を抱かざるを得ませんが。

2011年7月 6日 (水)

労使関係から見た労働者の力量形成の課題@『日本社会教育学会紀要No.47』

昨年6月に社会教育学会に呼ばれて報告した中身が、その紀要に掲載されました。

先日、広田照幸さんの理論科研に呼ばれてお話ししたときに資料としてお配りしましたが、その時の話はやや違う方向に流れていって、あんまりこれに沿っては喋っていません。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/empower.html

>はじめに
 
 多くの人は「教育」を受け、「労働」をして人生を送る。「教育」と「労働」は他の何よりも人々にとってなじみある活動である。そして、「教育」が「労働」の準備であり、「労働」が「教育」の成果である以上、「教育」と「労働」は密接な関係にあるはずである。しかしながら、現実の日本社会では、「教育」に関わる政策や学問は「労働」(の中身)にあまり関心がなく、「労働」に関わる政策や学問は「教育」(の中身)を敬遠してきたように見える。正確に言えば、高度成長開始期までは相互にそれなりの関心と関与があったが、その後双方からその契機が失われていったように見える。
 今改めて「教育」と「労働」の関係に社会の関心が向けられつつある発端の一つは、1990年代のいわゆる就職氷河期に、それまで学卒一括採用制度のもとで正社員として就職できていたはずの若者たちがそこから排除され、非正規労働者として不安定で、低労働条件で、将来展望の乏しい職業生活を送らざるを得なかったことである。その大きな原因として現代日本社会における教育の職業的意義(レリバンス)の欠如を指摘し、「教育」と「労働」を一体的に議論する必要性を説いたのが、本田由紀の『若者と仕事』(東大出版会)であった。
 彼女の近著『教育の職業的意義』(ちくま新書)は、もちろんこれまで見失われてきた教育の職業的意義の回復を訴えているが、それとともにそれが「適応」と「抵抗」の両側面をもつべきことを主張している。労働者の「エンパワメント」「力量形成」とは、この両側面にわたるものとして論じられる必要がある。「適応の力量」があってこそ「抵抗」が可能となり、「抵抗の力量」があってこそ「適応」は単なる「服従」に堕すことがない。
 
1 経緯と現状
 
(1) 「教育」と「労働」の密接な無関係
 
 現代日本社会における「教育」と「労働」の関係は、「密接な無関係」と呼ぶことができる。受けた学校教育が卒業後の職業キャリアに大きな影響を与えるという意味では、両者は密接である。しかしながら、学校で受けた教育の中身と卒業後に実際に従事する労働の中身とは、多くの場合あまり(普通科高校や文科系大学の場合、ほとんど)関係がない。これを本田は「赤ちゃん受け渡しモデル」と呼んでいるが、職業能力は未熟でも(学力等で示される)潜在能力の保証に基づき学卒一括採用された若者を企業が企業に合う形に(とりわけ職場のOJTを通じて)教育訓練していくという回路が回転している限り、極めて効率的なシステムであった。
 これは、発生的には20世紀初頭の大企業における子飼い労働者養成から始まったものであるが、公共政策は必ずしもそれを促進する方向であったわけではない。特に終戦直後には、「技能者の養成は、職業教育の充実によって、相当その目的を達成することができると考えるが、義務教育以上に進学のできない者については、矢張り労働の過程で技能を習得させることが必要であ」るので、企業における技能者養成「を全面的に禁止することはわが国の現状に鑑み適当でない」(労働基準法制定時の質疑応答集)というのが政府の考え方であった。ところが肝心の教育界では普通科が偏重されて、本来の道とされたはずの職業教育は継子扱いされる傾向が続いた。
 高度成長期までのこの問題をめぐる政治的配置図は、産業界と労働行政が「教育」と「労働」を内容的に結びつける方向であったのに対し、教育界ととりわけ革新勢力がそれに否定的であったように見える。そこには、教育を高尚な人格形成のためのものと捉える理想主義的教育学と、産業に奉仕する教育を忌避するラディカル左翼思想の結合が透けて見える。しかし最大の皮肉は、それまで職務給を掲げていた日経連が高度成長末期にヒト本位の職能給に転換し、こうした「教育の職業的無意義」を容認、むしろ称揚する側に回ったことである。かくして、教育の職業的意義は誰からも支持されないものとなってしまった。
 労働行政の推移もこれに対応している。高度成長期までの労働行政は「職種と職業能力に基づく近代的労働市場の形成」を旗印にしていた。縦割り行政の中で学校における職業教育との連携は乏しかったが、公共職業訓練施設を中心とした企業横断的技能養成が政策の基軸をなしていた。ところが1970年代以降は企業内での雇用維持とともに、企業内教育訓練への援助助成が政策の中心となった。労働者の職業教育訓練は企業に任せるという社会のあり方が、名実ともに確立したことになる。筆者はこれを「企業主義の時代」と呼んでいる。「赤ちゃん受け渡しモデル」によるリアルな「教育と労働の密接な無関係」の掌の上で、観念的な「教育の職業的無意義」が夢想していた時期といえようか。
 ところが1990年代以降、市場主義的な政策が展開される中で、長期雇用と年功賃金と企業内訓練を保証される正社員の収縮が進行し、そこから排除された非正規労働者の存在がとりわけ2000年代以降社会問題となってきた。企業が人材育成に責任を負わないのであれば、公共政策が全面的に責任を負わなければならない。学校や職業訓練施設における職業教育訓練の確立が再び課題として意識される時代となったのである。
 
(2) 集団的労使関係の収縮と労使関係の個別化
 
 労働における「適応」のための教育すら不必要となるならば、労働における「抵抗」のための教育はますます無用の存在となる。終戦直後には労働省労政局に「労働教育課」という課が置かれ、労働行政の一つの柱でもあった「労働教育」という言葉は、1958年に同課が廃止されて半世紀以上が過ぎ、現在ではほぼ完全に死語となっている。
 もっとも、当時の「労働教育」とはかなりの程度労働組合教育であり、労働教育課の廃止は労使関係が安定化し国が積極的に行う必要が乏しくなったことが理由である。労働組合の健全な育成という目標は達成したという判断であったろう。ところが、その後進行したのは労働組合組織率の長期低落であった。また、非正規労働者が増加する中で、組合のある企業でもそこから排除される労働者が増大してきている。一言で言えば、集団的労使関係の収縮が着実に進行してきたのである。
 これを裏から言えば、労使関係が個別化してきたということになる。そして、かつては労働組合が主役だった労使間の紛争は、解雇やいじめ、労働条件切り下げをめぐる個別労働者の訴えが中心となった。こういった個別紛争事案からも浮かび上がってくるのは、労使関係が個別化したといいながら、その個別労働者に自分の身を守るための労働法、労働者の権利に関する知識がほとんど欠如しているという事態である。また、労働法を遵守すべき使用者にも、労働法の知識の欠如や労働法の意義を軽視する傾向がある。こうしてここ数年来、労働法教育の必要性を訴える声が徐々に高まってきて、昨年2月には厚生労働省の研究会が報告書を出すに至った。こうして、収縮した集団的労使関係の再構築と、個別労働者への労働法教育の確立という課題が意識されるようになってきた。
 
2 課題と政策
 
(1) 教育訓練システム・能力評価システム
 
・学校教育とりわけ中等教育・第三次教育における職業的レリバンスの向上
 戦後日本は、「就職組」の職業高校よりも「進学組」の普通科高校を尊重し、前者の縮小と後者の拡大を善と考えてきたように見える。しかし、時期の違いはあれ誰もが結局は「就職組」になる。「就職組」にならないと思いこんでなされた教育は、就職してからしっぺ返しを受ける。とりわけ現実に拡大してきた普通科就職組に矛盾が集中する。
 「普通科」という発想自体を見直し、すべての高校を一定の職業基礎教育を含んだ総合高校としていく必要があるのではないか。高校卒業時の「進学」「就職」よりも、その先の誰もに訪れる「就職」を前提にして、たとえば工業科→理工系大学、農業科→生命系大学、商業科→経済商学系大学といったコースを主流化することも考えるべきではないか。
 学校教育法上、短期大学、高等専門学校、そして専門職大学院にすら「職業」という言葉があるが、大学だけは「職業」という言葉がない。現実には卒業生の圧倒的大部分が「就職組」であるにもかかわらず、職業に背を向けた「学術の中心」のふりをしているこの矛盾を直視すべきである。その際、既存の大学をそのままにして、その外側に新たに「職業大学」を作るなどという欺瞞はすべきではない。既存の大学の大部分が、実態に即して「職業大学」としての職業的レリバンスの向上に取り組むべきである。
 
・生涯学習の内容を職業能力向上を目指したものとすること
 今日の「生涯学習」は未だに教養文化中心の、生涯職業能力開発こそ生涯学習の中心とした臨教審第2次答申以前的段階にとどまっているのではないか。労働者が自らの職業能力の開発向上を企業の人事管理に委ねるのではなく、主体的にキャリア形成を図っていくことができるようにするためには、企業外部における教育訓練機関の充実が不可欠である。
 生涯学習の最大の受け皿となるべきは、教育内容の職業レリバンスを高めた大学や大学院であろう。今日の大学の市民講座等も依然として教養文化系が大半だが、そのような有閑階級向け消費財としての生涯学習からの脱却を考えるべきではないか。むしろ、1年程度の短期課程による社会人教育を中心に考えるべきではないか。
 
・教育界と産業界の連携による本来のデュアルシステムの構築
 今日「日本型デュアルシステム」と称しているものは、学校教育に毛が生えた程度の文科省版デュアルシステムと委託訓練に毛が生えた程度の厚労省版デュアルシステムの併存に過ぎない。ドイツやその周辺諸国におけるデュアルシステムとは、パートタイム学習とパートタイム労働を週数日ずつ有機的に組み合わせたシステムであって、これからすれば日本型デュアルシステムはそもそも「デュアル」の名に値しない。
 本来のデュアルシステムを実施するためには、教育界と産業界が地域レベルでしっかりと連携し、地域企業に就職し、地域の将来を担う人材を、地域の教育界と産業界が連携協力して育成するという本来の産学協同への共通認識が不可欠である。
 
・企業を超えた能力評価システム(日本版NVQ)をできるところから構築
 民主党政権の新成長戦略は、「非正規労働者を含めた、社会全体に通ずる職業能力開発・評価制度を構築するため、現在のジョブ・カード制度を日本版NVQへと発展させていく」と述べている。NVQとはイギリスで導入されている国民共通の職業能力評価制度であり、再就職やキャリアアップに活用されている。
 職業能力の開発と評価が企業別に分権化されている日本の現状では、これは容易なことではない。紙の上で作ってみたところで、企業が「そんなものは使えない」と無視すればそれまでである。とはいえ、できるところから少しずつでも取り組んでいくしかない。
 その際、前提条件は膨大ではあるが、大学や大学院がその課程の修了を証した資格をその専門分野におけるNVQの出発点として考えてみる値打ちはある(言葉の真の意味での「学歴社会」)。
 
(2) 労働教育の課題
 
・学校教育とりわけ中等教育・第三次教育における労働教育
 社会科の授業で「労働三権」を勉強しても、自分の権利とは思わない。すべての生徒や学生が自分自身の(就職してからだけではなく、現にアルバイトとして就労しているときの)権利として労働法の知識をきちんと学ぶことができるよう、共通の職業基礎教育の一環として労働教育を明確に位置づけ、十分な時間をとって実施されることが必要である。
 とりわけ教職課程においては、全員「就職組」である生徒を教える立場になるということを考えれば、憲法と並んで労働法の受講を必須とすべきであろう。
 
・生涯学習の中に労働教育を大幅に取り入れること
 労働者の権利に関する知識の欠如した労働者や使用者、労働法の意義を軽視する使用者に対して、きちんと労働教育を実施していくことはなかなか難しい。知識の欠如や軽視自体が、そのような知識の付与を目的とした講習や研修への参加を妨げるからである。このため、労働教育としての労働教育は、結局分かっている人に分かっていることを教えることになりがちである。
 この壁を超えるには、職業能力向上や経営指導など、さまざまな生涯学習の機会をとらえ、その中に有機的に労働教育を組み込んでいくことが有効であろう。生涯学習がそのような実務的な方向に転換する前からでも、現行のさまざまな生涯教育機会の中に、積極的に労働教育を取り入れるべきである。かつて文部省と労働省が社会教育と労働教育の所管を争った時代ではない。労働教育と消費者教育は、今日における市民教育の最も重要な基軸と考えるべきではないか。

ニュースと労働時間の深い関係

なるほど、この半世紀にわたる正社員層の1日の労働時間の着実な延長を見事に示しているわけですな。

http://twitter.com/#!/kumakuma1967_o/status/88553635407085568

>おいらが子供の頃、ニュースって言えばNHKの7時のニュースで、その時間には一番遅く帰宅するサラリーマンが家に居るって生活時間調査に基づいた番組だった。

http://twitter.com/#!/kumakuma1967_o/status/88554257879535617

>帰宅がどんどん遅くなって、1974年に登場したのがニュースセンター9時

http://twitter.com/#!/kumakuma1967_o/status/88554898249093121

>さらに帰宅時間が遅くなって、1980年代後半からNHK,民放ともにメインのニュース番組は22時以降に編制されるようになった。

『新しい労働社会』第6刷

4311940一昨年7月に発行された拙著『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』(岩波新書)につき、このたび版元の岩波書店より第6刷の連絡を頂きました。

本書が引き続き多くの皆さまに読まれ続けていることに心より感謝申し上げます。

これからもロングセラーとして少しずつでも読まれ続けることを希望しております。

なお、新聞・雑誌、ネット上の記事やブログ、さらにはtwitter上でのものも含めた拙著の書評は以下にまとめております。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/bookreviewlist.html

絶望的人間モデルとげらげら笑う権丈先生

権丈先生のところの学生のレポートの一節だそうです。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/

>『社会保障の政策転換』を読んでずっしりと心に残っている部分がある。それは、メディアも、政治家も、研究者も、投票者に代表される国民の幸せには関心はなく、国民が完全情報をもたない合理的無知な状態であることにつけこんで、自らの目的関数を極大化させるために、情報戦略を展開するという「絶望的人間モデル」である。投票者の目の前においしそうな餌(感情に訴えた人気とりの政策)をぶらさげて注目を集め、その政策が制度の崩壊を招くという事実を隠そうとする政治家や、二極対立というわかりやすい構図をあおり、販売数を伸ばそうとするメディアが不幸な国民を作り出していることを知り、とても暗い気持ちになった。また、そんな絶望的な見解をげらげら笑いながら私たち学生に語ってくださる先生をみて「どんだけ気が長いんだ!」とますます焦りを感じたこともあった。しかしそんなとき先生の講義を聞く学生が同じ教室におり、真剣に向き合おうとする仲間の存在を思い出すことでとても心強く感じた。

メディアも政治家も研究者も、自らの目的関数を極大化することにしか関心がないというかくも絶望的な姿をげらげら笑う姿を見て、学生たちはたくましく育っていくのでしょうね。

労使関係法研究会報告書案

昨日の第7回労使関係法研究会に出された報告書案がアップされています。ほぼこれでまとまったのだと思いますが、正式に公表されるのはもう少し後になるのでしょうか。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001hrd8-att/2r9852000001hrwe.pdf

はじめの方は、

>中世の職人のギルドが労働組合の原型

とか、

>自営業者ではないかと考えられる者が労働組合を結成し、使用者との間で団体交渉等を行ってきた、という歴史的経緯がある

と、労使関係史の勉強に役立つ記述もありますが、なおいろいろと検討の余地のあるのは、労組法と独占禁止法との関係でしょうね。ここは、まじめに経済法を勉強しないといけません。

研究会の途中で例の国立劇場とINAXの最高裁判決が出たのでその分析も書かれていますが、労組法上の労働者性についての研究会としての結論はこういうことのようです。

基本的判断要素
①事業組織への組み入れ
②契約内容の一方的・定型的決定
③報酬の労務対価性

補充的判断要素
④業務の依頼に応ずべき関係
⑤広い意味での指揮監督下の労務提供、一定の時間的場所的拘束

阻害的判断要素
⑥事業者性

ソクハイ中労委命令の考え方をより明確に定式化したという感じでしょうか。

わたくし自身は、正直まだよく分からないところがいっぱいあって、意見をまとめきれません。

2011年7月 5日 (火)

平成23年度厚生労働省第二次補正予算(案)

平成23年度厚生労働省第二次補正予算(案)がアップされておりますが、

http://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/11hosei/dl/hosei02.pdf

本ブログの関心事項からすると、

>3 東京電力福島第一原子力発電所の緊急作業従事者の被ばく管理データベースの構築
89百万円

〔労働保険特別会計〕
東京電力福島第一原子力発電所において、緊急作業に従事した労働者の作業内容、被ばく線量等を管理するためのデータベースを作成する。

これは何としても実現しなければなりませんから、顔を見たいか見たくないとかもろもろのことは抜きにして、早く成立させていただきたいものです。

財務省ランチミーティング

本日、財務総合研究所にお招きをいただき、財務省ランチミーティングでお話しをしてきました。

お話しした中身は「雇用システムの再構築」ということで、毎度おなじみのテーマではありますが、さすがに財務省のみなさんからの質問は、公務員制度の在り方との関連の突っ込んだご質問もありました。

私は公務員問題には余り専門的知見はないので、と言い訳しつつ、地方公務員や国でも出先機関の公務員などは、現実に窓口業務のかなりが非正規化しており、ジョブ型正社員モデルの方が適合する場合が多いのではないでしょうか、というようなことを申し上げ、ついでに余計なことながら、公務員制度改革を論ずるならまず何よりそういう現場の公務員のあり方こそが論じられるべきなのに、逆にジョブディスクリプションのしにくいある意味で政治的判断を要するトップマネジメント層のことばかり熱心に議論されるのはいかがなものか・・・というようなことをぼそりと呟いてきました。

これはブラック企業ですらなくただの詐欺

経済産業省肝いりのドリームマッチプロジェクトで就職した若者が体験したトンデモな世界が放送されたようですが、

http://www.mbs.jp/voice/special/201106/30_630.shtml「国のイベントで やっと就職…なぜ、この仕事?」

>特集は、国が行った就職イベントである企業に採用されたひとりの青年が主人公です。

 就職直後から不本意な仕事をさせられた上、給与を払ってくれないという訴え。

 現実に起こっている雇用の現場の実態です。

何が起こったかは、リンク先の記事をどうぞ、ですが、これを見る限り、この会社をブラック企業と呼ぶのは褒めすぎでしょう。

http://twitter.com/#!/sgrtrk/status/87892474659471360

>経産省の雇用マッチング政策によって入社した先がブラック企業だったという話。

立派なブラック企業(?)は、確かにその雇用労働者に対しては無慈悲なまでに残忍であっても、お客様により良いサービスを提供していることは確かだし、ある意味で「お客様は神様」という国民感覚に寄り添ってブラック化している面があるわけですが、この会社はそもそも事業内容が空っぽで、「バイオエネルギーやレアメタルを扱う営業職」のはずが、商店街の一角で喫茶店を始めて、しかも

>「どういう風に仕入れるのかと聞いたら、そこにある『イオン』で全部買ってこいと。喫茶店ですからコーヒーを出すんですけど、アイスコーヒーのペットボトルを紙コップに注いで電子レンジで温めろと。それをホットコーヒーとして出せと」

いうのでは、ただの詐欺企業にしか見えませんが、社長曰く、

> 「それとあなた(記者)に言っとくけど、そういうことをするから若い者がまじめに仕事をしなくなる。

となかなか猛々しいのですね。こういう人には、ブラック企業などといっても褒め言葉にしか聞こえないでしょうから、やはり詐欺だろ、と言わないといけないでしょう。

2011年7月 4日 (月)

ビジネス・レーバー・トレンド研究会 個別労働関係紛争処理事案の内容分析

昨年10月にビジネス・レーバー・トレンド研究会で報告した「個別労働関係紛争処理事案の内容分析」が、速記録と質疑応答とともに冊子になってJILPTのHPにアップされています。

http://www.jil.go.jp/kokunai/bls/houkoku/documents/20101013.pdf

ビジネス・レーバー・トレンド研究会とは、企業・事業主団体、および単組・産別労組に所属する労使関係の実務担当者を対象に実施されるものです。

わたくしからの報告は、昨年出した報告書の概要説明ですが、最後の「討議概要」というところの質問項目だけここに紹介しておきます。わたくしの答えが読みたい方はリンク先をどうぞ。

質問:斡旋に参加した場合には、会社側が解決金を支払い、合意を取り付けるケースが多いのか、それとも会社側は事実否認等で突っぱねるケースが多いのか、傾向的なところを伺いたい。
濱口:・・・

質問:個別労働紛争処理制度には、どのような課題が残されていると考えているか、示唆的なもので構わないので伺いたい。
濱口:・・・

質問:大企業で労働組合もあるようなところでは、斡旋事案はどのくらい発生しているのか。また、弊社はコンサルタント会社だが、斡旋に入ると労働問題があることを社会的に認めることにつながるので、そもそも入らないことが重要な選択肢であるとアドバイスすることもある。これは果たして正しいのか、立場的に回答しにくいだろうがヒントをいただきたい。
濱口:・・・

元電力社員の弁護士が緊急解説!

Tm_kgun0iljllqcpjbsjpayspaxisexnynk 峰隆之さんの『震災に伴う人事労務管理上の諸問題』(労働開発研究会)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.roudou-kk.co.jp/archives/2011/06/post_104.html

さて、帯にでかでかと「元電力社員の弁護士が緊急解説!」と書いてあるので奧付の略歴を確認してみますと;

>1965年東京都生まれ、昭和62年東京大学法学部卒業後、東京電力に入社、在職中司法試験に合格し、平成4年弁護士登録、企業側で人事・労務問題を扱う第一協同法律事務所に入所し、現在に至る。・・・経営法曹会議所属

とあり、かつて東京電力にお勤めであったようです。ひょっとしたことで歴史の流れが分岐した異次元空間ではもしかしたら今頃原発対策に大汗をかいておられたかも知れませんね。

>●地震・計画停電時における賃金の支払い、休業や解雇、業務上災害・通勤災害の取扱い等について最新情報を分かりやすくコンパクトに収録!

●節電対応、勤務体制見直しなど、電力会社での勤務歴に基づいた筆者の実践的な解説を掲載!

正直言うと、「電力会社での勤務歴」よりは経営法曹としてのキャリアに基づいた著書でして、帯の文句といい、やや版元の商売気が出過ぎている感もなきにしもあらずですが、それはともかく、厚生労働省の公表したQ&Aなどに対してもかなり厳しい批判的なコメントをされていて、昨日紹介した野川先生の著書などとも読み比べてみると面白いと思います。

雇用構築学研究所ニューズレター36号

石橋はるかさんから雇用構築学研究所ニューズレター36号をお送りいただきました。

編集後記を書いているのは、弘前大学を卒業して陸奥新報で新聞記者をしている弘前の石橋はるかさんで、もう一人の研究員の野添幸輔さんは鹿児島大学の学生さんでと、日本を縦断する研究チームですね。

そこにわたくしも「新規学卒者定期採用制の歴史と法理とその動揺」を寄せております。昨日の理論科研でお配りした資料の一つでもあります。中身はたいして目新しいことは書いておりません。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/aomori36.html

これと並んで、前号に引き続き岩手県庁の金戸伸幸さんが「学校教育とキャリア教育または職業教育との「間」」という力作を書かれています。これは読まれる値打ちのある文章なので、もし本誌が近くにあれば是非お読み下さい。

2011年7月 3日 (日)

広田科研で報告

本日、広田照幸先生の理論科研にお招きを頂き、若干生意気な意見を言わせていただきました。

大御所の潮木先生や、厨先生こと稲葉振一郎氏もいる前で、いろいろとご託を並べた感じもしますが、そのあとの酒で記憶が失われておりますので、どういうやりとりがあったかは覚えておりません。

酒の席で何を喋ったかも記憶の外にありますので、あとからあそこでこういっとったやないか、というのはなしですよ。

『ワーキングプアに関する連合・連合総研共同調査研究報告書Ⅱ―分析編―』

連合総研と連合が総力を結集して行ったワーキングプアの実態調査研究の分析編がまとまりました。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/file/1309224085_a.pdf

昨年のケースレポート編も膨大なケースの一つ一つに人々の人生の苦闘がにじみ出ていて、大変興味深かったのですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a040.html(これでもかこれでもか ワーキングプア120連発)

今回はそれを下記の研究者や組合実務家が丹念に分析しています。

1.委    員 
  (主 査)
    福原 宏幸  大阪市立大学経済学部・教授     総 論
  (委 員)
    西田 芳正  大阪府立大学人間社会学部・准教授  第4章
    樋口 明彦  法政大学社会学部・准教授      第2章
    村上 英吾  日本大学経済学部・准教授      第3章
    吉中 季子  大阪体育大学健康福祉学部・講師   第5章
 2.オブザーバー
    西村 博史  労働調査協議会・主幹研究員     第1章
 3.事  務  局
  (連合非正規労働センター)
    山根木晴久  総合局長              第7章
  (連合総合政策局・生活福祉局)
    小島 茂   総合政策局総合局長         第6章

ここでは、福原さんの書かれた総論から、「調査からみえてきた日本の雇用制度、生活保障システムの問題点」という一節を引用しておきます。

> 本報告書では、7人の調査研究委員会メンバーが調査データの詳細な分析を行っているが、これらの論文において多くの興味深い示唆が示された。これらの点を踏まえて、ワーキングプアを取り巻く社会経済システムの問題点を整理しておきたい。

 第1の問題は、子どもの頃からの生育歴が、ワーキングプアの今日の状況に強く影響しているケースが多くみられたことである。子どもの頃の家庭の経済的環境は学費問題と絡んで低学歴を余儀なくし、親の離婚・再婚といった家庭状況の変化が当事者の精神的な不安定さをもたらし、学業の未修了(中退)や低学歴につながっている。この低学歴は、さらに若者が他者との社交性を身につけたり、豊かな人間関係(=個人が獲得すべき社会関係資本)を構築する場(学校)を奪うこととなる(学校教育における排除)。こうして、彼らは、社会に出る準備ができないまま学校生活を中断・終了(不十分な「社会化」)し、労働の世界へ参入することを余儀なくされている。

 このように、いくつかの要因が複合的に作用して、その後の不安定な初職に影響を及ぼしている。いわば、労働の世界に入る以前の段階で多くの不利をこうむり、この不利を是正する制度がないことから、学校という世界から排除されていたとみることができる。その結果としての不十分な「社会化」が、その後の不安定な雇用の繰り返し(=社会への中途半端な接合)、低所得と社会とのつながりの希薄さに影を落としている。これらは、「子どもの貧困」「学校教育における排除」についてのさらなる検討の重要性を示唆している。

 第2は、初職に就いて以降の仕事をめぐる問題である。初職が正社員であれ非正社員であれ、その後転職を繰り返すという「雇用の不安定さ」がみてとれる。しかも、非正社員はもちろん、ほとんどが「非定着型正社員」(樋口論文)である正社員も、この不安定さによって技能を身につけたり就労経験を蓄積することができずに終わり、この結果として「労働における周縁性」、すなわち単純労働や企業内での低い評価、低賃金をもたらすことになる。また、このことは、彼らを「雇用の不安定さ」の状況に固定していく悪循環をつくりだしている(樋口論文では、これらを合わせて「労働の不安定性」として論じている)。このようにして、彼らはワーキングプアという状況からの脱出の糸口を見い出せず、職業生活やその後の人生の将来像も思い描くことができない状況に追いやられ、将来に強い不安を抱いている。すなわち、「安定した職業生活からの排除」「貧困の持続」という問題がそこにはある。

 第3に、社会的なつながりが希薄であり、場合によってはそれが切断されるという特徴も見逃せない。「労働における周縁性」と「雇用の不安定さ」は貧困をもたらすだけでなく、家族、友人・知人、企業組織、地域社会とのつながりの弱体化をもたらす。このようなつながりの弱さは、今度は逆に、「労働における周縁性」、「雇用の不安定さ」そして貧困を常態化させることに作用する。場合によっては、当事者たちの社会からの孤立、そして精神的な不健康をもたらし、なかには深刻な抑うつ状態やさまざまな精神疾患を患う者もみられた(「社会関係からの排除」「自分自身からの排除」)。

 第4は、「セーフティネットからの排除」「政治からの排除」という問題である。雇用保険の加入状況が示しているように、既存の社会保険制度がワーキングプアの人々の困難を前にして機能不全に陥っている。いわば、雇用継続の正社員を前提としたセーフティネットが、彼らを社会から排除しているとみることができる(「セーフティネットからの排除」)。

また、このようななかで、たとえば派遣労働者が派遣会社によって一方的に雇い止めされるといった困難な状況に陥っても、これらに対する自らの思いを発言する機会や場そのものが奪われている。ワーキングプア当事者が「声」をあげる社会的装置が欠如している(「政治からの排除」)。もちろん、今回の聞き取り調査に協力してくれた個人加盟型労働組合やNPOなどが、それを代弁する機能を持ったことは重要であるが、全体としてみた場合、これらの事例は決して多くない。

 以上、4つの問題を指摘した。それらは、教育、労働市場、社会的つながり、セーフティネットをめぐるものであった。これらのうち第1の問題は、教育のあり方と子どもの貧困をめぐるものであるが、これについては、本報告書の西田論文において詳細に論じられていることから、そちらに譲りたい。後者の3つの問題について、それぞれの論点と関連性、そしてこれらに関わる政策提言を以下で示しておこう。

 上記の第2の問題は、内部労働市場・外部労働市場から構成された労働市場二重構造をめぐるものである。第3と第4の問題は、政府のセーフティネットだけでなく、家族や企業社会さらには地域における相互の生活支援にかかわるものであり、いわば生活保障システムとして議論すべき課題であるだろう。しかも、ワーキングプアが抱える雇用の不安定さは、仕事の周縁性と職場人間関係の希薄さをもたらし、職場仲間、企業社会そして地域社会への接合それ自体を不確かなままにしている。すなわち、ワーキングプアが外部労市場から脱却することの困難は、日本社会のメインストリームを形成している企業社会、その規範にもとづいて形成された雇用保護制度や生活保障システムと深く関連した社会
排除の結果とみるべきだろう。

 以下では、これら3つの問題について、あらためてその議論を整理するとともに、新たなセーフティネットの構築に向けていくつかの提言を行っていきたい*2。

こうして、

3.ワーキングプア問題と雇用制度改革
 
(1) 労働市場二重構造とワーキングプア

(2) 安定した雇用への道をどう拓くか

4.ワーキングプア問題と日本の生活保障システム改革

(1) 日本の生活保障システムとその限界

(2) 生活保障の再構築

5.社会的排除とワーキングプア

(1) ワーキングプアの社会的排除と多元的問題

(2) ワーキングプアとパーソナル・サポート

と、各論点ごとに論じた上で、最後のまとめで

>ワーキングプア支援に向けた政策は、ワーキングプアに陥ることを予防する施策、当事者の困難を解決し一時的に生活の安定をはかる支援策、そして将来において安定した職業生活をいとなめるようにする支援策と3つに区分することができる。また、それらの実施は、個別的、継続的、包括的であることが求められるが、内閣府が推進するパーソナル・サポート・モデル事業はこれに沿ったものとして期待される。

 2008年の金融危機により多くのワーキングプアが失業状態に追いやられた現実に対して、期限付きとはいえ緊急雇用対策によって最低所得保障プラス職業訓練の提供による新たなセーフティネットがつくられ実施された。このことの意義は、重要である。しかし、それを今後「求職者支援法」として恒久化するにあたっては、いくつか検討すべき点があるだろう。たとえば、職業訓練を義務付けるとしたままでよいのかという点が議論の対象となるだろう。また、この訓練によって獲得された職業能力を生かす就職先企業の確保については、あまり議論されずにいる。この点もまた、検討する必要があるだろう。そして、より安定した仕事への道筋をつけるにあたって、ジョブ・カード利用の拡大とキャリアラダーの構築が急がれなければならない。

 他方、日本におけるワーキングプア問題が、労働市場の二重構造と深く関わって発生しているのであれば、なによりも労働市場の構造改革、すなわち正社員と非正社員の2つの領域を統合した雇用政策が求められる。ここでは、非正規雇用に対する規制強化と労働条件の引き上げだけでなく、新たな正社員像の創造(多様な正社員像、ジョブ型継続雇用など)、非正規職から正規職への移行を押し進める新たな雇用ルールの構築が求められている。

 また、生活保障システムの改革においては、すべての市民を対象とした普遍的支援策と困難な状況にある人々に対するターゲット型の支援策をうまく組み合わせることが必要である。とはいえ、現在の生活保障システムが、企業社会を社会のメインストリームとして位置付けている社会像を前提に成り立っていることを考えれば、この改革は、今後日本においてどのような新しい社会像を構想するのかという課題、すなわち社会モデルの再構築をいま一度問うという課題に行きつく。その意味で、ワーキングプア問題は、当事者の課題であるだけでなく、日本の経済と社会のあり方を問う課題でもあるといえよう。

 本報告書は、筆者を含め8人の執筆者によって書かれた論文によって構成されている。それぞれの論文の分析内容やその結果は、もちろん著者の責任に帰すものである。とは
え、私たち執筆者を突き動かしたものは、調査に協力していただいたワーキングプア一人ひとりの言葉や思いであったと思う。この報告書が当事者のそうした思いに応えることができたかどうかはいささか心もとないが、本報告書が新たな問題提起になることを願っている。

と述べています。

拙著『新しい労働社会』の問題意識と非常に響き合う報告書だと感じました。

業務限定方式の問題点

人材ビジネスコンプライアンス推進協議会のメールマガジン「コンプライアンスニュース」掲載のコラムの第2回目です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/compliance02.html

>前回末尾で触れた業務限定方式の問題点について、派遣法ができたときの経緯に遡って述べてみたい。現在なお審議もあまりされないまま国会に係属された状態にある派遣法改正案は、製造業派遣や登録型派遣の原則禁止を唱っているが、その規制は26業務かどうかというところで線引きしているし、昨年2月にQ&Aなる通達が出されて以来行われている行政指導も、26業務に当たるか当たらないかという点を最重要事項として遂行されている。まことに日本の労働者派遣法制は、その制定以来業務限定方式を金科玉条として4半世紀を閲してきた。

 ところで、諸外国にそのような国が一つでもあるだろうか。まったく存在しない。むしろ、EUが2008年に制定した労働者派遣指令は、派遣労働者保護の規定とともに、労働者保護以外の理由で派遣事業を制限してはならないとも規定している。これが世界の常識であり、日本の派遣法はまことに万邦無比の制度といえよう。

 実は、今から30年前に当時の労働省が派遣法を検討したとき、最初の案は業務を限定せず、常用型に限定するというものであった。これは当時のドイツのやり方である。ところが、関係者を入れて議論する中で、既に業務処理請負業として行われているものは認め、そうでないものは認めないという妥協案に落ち着いた。この妥協案は、しかしながらそのままでは法制局を通らない。職業選択の自由は憲法の定める原則である以上、ある業務は認めて他の業務を認めない根拠がないからだ。そこで、専門技術的な業務と特別の雇用管理を要する業務は派遣を認め、そうでない業務は認めないという理屈を作った。この理屈が現実と異なることは、当事者が一番良く分かっていたはずである。なぜなら、そもそも派遣を認めようとする初めの理由が、結婚退職後の女性などにかつてのような事務職の仕事を派遣でできるようにすることであったからだ。「ファイリング」などという公式の職業分類表には載っていない「業務」を「一般事務」とは異なるものとして政令で定めたのも、そのためであった。

 以来4半世紀、派遣業界はこの虚構を分かった上で事実であるかのように奉じてきた。はだかの王様の世界である。その間、ILO181号条約が成立し(筆者はILO総会でその一部始終に立ち会った)、それを受けてポジティブリスト方式がネガティブリスト方式に変わった、と言われた。しかし、実は1階部分は旧来の26業務のままで、その上に拡大業務を2階部分として載せただけであった。そのため、「ファイリング」は専門業務であるから無制限に派遣してもよいが、「一般事務」はそうでないから3年で終わりだなどという奇妙な使い分けが依然として続けられた。そして、昨年2月、労働問題に極めて高い識見があるはずの大臣の指示により、はだかの王様がはだかなのはけしからんから直せという(それ自体は極めて正当な)行政指導が全国で展開されるに至ったわけである。

 既にドイツもハルツ改革により常用型限定を止め、EU指令に沿った形で派遣労働者の均等待遇を中心とした保護型の法制に移行している。欧米のいずれの国に行っても、日本の派遣法制をまともに説明できる人はいないであろう。派遣は悪いものだが、専門業務であれば大丈夫だから認めているのだ。その専門業務とは何か。ファイリングや事務用機器操作だ。なんだ、それは一般事務ではないか。それとも日本の普通のOLはファイルもパソコンも扱えないのか。それでは世界中どこへ行っても専門業務と認められる医師や看護師や弁護士などの士業は当然派遣ができるのだろうな。いや、そういう本当に専門的な業務はよりによって禁止されているのだ。クレイジー!

 そもそも、日本の職場に職務記述書などは存在しない。一人一人の職務が明確に規定されておらず、職場の上司や同僚との間で濃淡を付けながらぼんやりと共有されているのが普通だろう。私はこれをジョブ型ではなくメンバーシップ型の労働社会と呼んでいるが、ジョブ型の欧米社会ですら業務限定などやっていないのに、ジョブ概念のない日本でだけ業務限定方式が存在するというパラドックスはもはや言葉を絶する。昨年のQ&Aは、ジョブなき労働社会にジョブのみで規律する建前を振りかざすとどういうことが起きるかの人類学的な絶好の素材といえよう。 

なお、第1回目の「震災復興と人材ビジネス」はこちらです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/compliance01.html

非解雇型雇用終了事案@JILPTコラム

JILPTのHP上のコラムに「非解雇型雇用終了事案」を書きました。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0177.htm

>JILPTの労使関係・労使コミュニケーション部門では、昨年に引き続き去る3月に『個別労働関係紛争処理事案の内容分析II―非解雇型雇用終了、メンタルヘルス、配置転換・在籍出向、試用期間及び労働者に対する損害賠償請求事案(労働政策研究報告書No.133)を発行した。今回はその中から非解雇型雇用終了事案について紹介する。これは、あっせん申請書上では雇用終了を争っていなくても、使用者側の一定の行為が原因となって労働者が不本意な退職に追い込まれたような場合が91件とかなり多く見られるため、これらを退職勧奨事案(38件)や自己都合退職事案(46件)と併せて「非解雇型雇用終了事案」として分析したものである。これに対し、雇止め等を含め解雇型雇用終了事案は599件である。

さて、非解雇型に属する175件を大きく分けると全体の3分の1が労働条件引下げや配置転換・出向などが原因となっている労働条件型であり、3分の2がいじめ・嫌がらせや暴力、職場トラブルなどが原因となっている職場環境型である。これらは、裁判のように権利義務関係を確定するための判定的な解決システムでは難しい事案をそれなりに解決できるという意味で、あっせんのような調整的事案のメリットを示している面もある。

例えば労働条件型の場合、労働条件の引下げや配置転換・出向そのものを裁判で争うとなると、あくまでも自分からは辞めずに頑張って労働条件の回復や原職復帰を求めることが必要となるが、追い込まれたとはいえ自分から辞めている場合にはそれは困難である。他方、それらが原因となって辞めざるを得なかったこと自体を裁判上損害賠償請求として訴えることができるかというと、日本ではイギリスのような準解雇という概念が確立していないこともあり、そのような道はほとんど存在しない。解雇事案そのものに損害賠償請求が認められにくく地位確認訴訟しかない中では、こういった事案の解決はあっせんのような調整型システム以外では難しいだろう。

これに対して、いじめ・嫌がらせのような職場環境型の場合、準解雇としての訴えは同様に困難だが、いじめ・嫌がらせ行為自体を損害賠償請求として訴えることは十分可能である。ではこちらの類型ではあっせんの意味が少ないかというと、逆にもっと大きいように思われる。それは、これらが判定の難しい行為であるということからくる。

具体的に労働局事案でみると、いじめ・嫌がらせを受けたという労働者の訴え88件に対する使用者側の主張を見ると、労働者の主張を全面的に肯定するのは4件、部分的に肯定するのは3件に過ぎず、一定の行為があったことは認めるがそれがいじめ・嫌がらせであったことを否定するものが39件、事実そのものを否定するものが25件、無視が17件と、圧倒的にその存在を否定しているのである。これは、いじめ・嫌がらせに主観的な面があり、客観的にその存在を立証することがかなり難しいことを考えると、裁判で争うことに対して大きな障壁になる。

ところがあっせん事案では、事実を否定している使用者も「事実関係の真偽を問わず」とか「嫌な思いをしたことは否定できないので」等といった理由で一定の解決金を支払っていることが多い。これは、まさに判定的ではなく調整的な解決システムであるから可能なことであろう

野川忍『Q&A 震災と雇用問題』

4785718855 野川忍先生より、『Q&A 震災と雇用問題』(商事法務)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://bizlawbook.shojihomu.co.jp/cgi-bin/menu.cgi?CID=&ISBN=4-7857-1885-5

>労働者と企業のそれぞれが震災時に直面する雇用上の問題の解決策を検討し、中・長期的に行われる雇用条件変更・新制度導入等に必要な法的知識についても、明解にわかりやすく紹介

ですので、まさにもっとも役に立つ実用書ではありますが、最後の「あとがきに代えて――大震災後の雇用政策」には、野川先生流の政策論もちらりとかいま見せていますので、目次を紹介した上で、そのあとがきの一節を引用しておきたいと思います。

第1章 今回の震災と各種給付等の特例
Q1-1 東日本大震災と雇用保険
Q1-2 東日本大震災と労災保険
Q1-3 東日本大震災と未払賃金の立替払い
Q1-4 東日本大震災と雇用調整助成金
Q1-5 東日本大震災と生活保護
第2章 今回の震災で直面した問題
Q2-1 従業員の行方不明
Q2-2 震災直後避難中の勤怠関係
Q2-3 社屋の倒壊とケガ
Q2-4 社宅の倒壊と居住不能
Q2-5 タクシー帰宅・ホテル宿泊と費用請求
第3章 給料と休業手当
Q3-1 震災の直接的被害による休業と休業手当
Q3-2 液状化による操業不能と休業手当
Q3-3 原材料の供給途絶による休業と休業手当
Q3-4 避難勧告・避難指示による休業と休業手当
Q3-5 大型商業施設の休業とテナントの休業
Q3-6 計画停電による休業と休業手当
Q3-7 休業とその間のアルバイト
第4章 従業員の解雇
Q4-1 予告手当の支払い
Q4-2 遠方に避難した従業員の解雇
Q4-3 精神的疾患を受けた従業員の解雇
Q4-4 震災によるケガの治療と欠勤
Q4-5 産前休業中の従業員の解雇
Q4-6 帰国した外国人従業員への対応
Q4-7 震災と退職勧奨
第5章 従業員の震災対応と不利益処分
Q5-1 安全性確認未了のオフィスと就労拒否
Q5-2 自宅液状化始末のための欠勤と懲戒処分
Q5-3 深夜の社内待機命令拒否と懲戒処分
第6章 事業継続とリストラ
Q6-1 有期雇用の雇い止め
Q6-2 有期雇用への切替え
Q6-3 震災後のリストラの一環としての整理解雇
Q6-4 転勤命令の有効性
Q6-5 出向先の被災と出向元の責任
Q6-6 出向元の被災と出向従業員
第7章 時間外労働と休日労働
Q7-1 残業・休日労働を命じたい
Q7-2 子会社被災の応援と事業外労働
Q7-3 三六協定のない職場での時間外労働
Q7-4 休日労働の連続とその問題点
Q7-5 深夜割増手当の不払い
Q7-6 自主的な残業と残業代
Q7-7 労働時間の自己申告制
第8章 自宅待機命令
Q8-1 自宅勤務命令と給料
Q8-2 自宅待機命令と給料
Q8-3 会社で仕事がしたい
第9章 有給休暇取得の問題
Q9-1 被災地でのボランティアと有休取得
Q9-2 時季変更権の行使の可否
Q9-3 業務命令の錯綜と有休取得
Q9-4 会社による有休消化の要請
Q9-5 休業日決定後になされた有休取得
Q9-6 有休取得後の兼職
Q9-7 兼職を予定した有休取得
第10章 採用と内定,試用期間
Q10-1 被災地の雇用① 企業への支援
Q10-2 被災地の雇用② 求職者への支援
Q10-3 採用時の風評問題
Q10-4 震災による採用内定の取消し
Q10-5 震災と内定者の入社日の変更
Q10-6 震災による内定取消しへの対応
Q10-7 学生からの内定辞退
Q10-8 子会社への内定先切替えの可否
Q10-9 業況悪化と試用期間中の解雇
Q10-10 実家が被害を受けた従業員の試用期間中の解雇
Q10-11 試用期間満了後の本採用拒否
Q10-12 「不公平を避けるため」の本採用拒否
第11章 労働災害 139
Q11-1 仕事中の避難によるケガと労災
Q11-2 出張中のケガと労災
Q11-3 休憩中のケガと労災
Q11-4 外回り営業中の死亡と労災
Q11-5 従業員の行方不明と労災
Q11-6 船員の死亡と労災
Q11-7 理容店でのケガと通勤災害
Q11-8 通勤途上か明らかでない場合
Q11-9 通勤途上の避難と通勤災害
Q11-10 時間的余裕をみた通勤と通勤災害
Q11-11 通常と異なる方法による通勤と通勤災害
Q11-12 震災当日の帰宅困難と通勤災害
Q11-13 避難所からの通勤と通勤災害
Q11-14 ホテルから出社した場合とケガ
Q11-15 妻の入院先からの通勤と通勤災害
第12章 派遣社員が遭遇する問題
Q12-1 震災と派遣先からの中途解約
Q12-2 震災と派遣元の責任
Q12-3 震災と派遣社員の業務内容変更
Q12-4 災害対策マニュアルの策定と派遣社員の個人情報の収集
第13章 震災時の労働組合と会社
Q13-1 緊急共同体制と情宣活動の継続
Q13-2 震災による団体交渉打ち切り
Q13-3 事情変更の原則による労働協約の一方的解約
Q13-4 不利益変更された労働協約の反対者への適用
第14章 震災後の事業継続と制度導入・変更
Q14-1 災害時の業務命令の内容と幅の拡大
Q14-2 緊急時にいつでも出社させる義務
Q14-3 始終業時刻の変更と給料の減額
Q14-4 計画停電予定と出社時間の変更
Q14-5 震災と輪番休業の実施
Q14-6 震災と休憩時間の短縮
Q14-7 震災と交代制の導入
Q14-8 震災と裁量労働制の導入
Q14-9 震災と変形労働時間制の変更
Q14-10 震災とフレックスタイム制の導入
Q14-11 震災と三六協定の改定
Q14-12 震災と育児介護休業復帰後制度の変更
Q14-13 震災と再雇用制度の見直し
Q14-14 震災と残業命令可能時間の上限引上げ
Q14-15 震災と英会話学校の授業料の自己負担化
あとがきに代えて――大震災後の雇用政策

この最後の「あとがきに代えて」から、

>・・・今回の大震災のように無視できない大きな外的要因によって瞬時に雇用システムが大打撃を受けるという状況を考えると、そうした突発的事態にも一定の耐性を持った雇用システムが必要となることはいうまでもありません。

>それでは、どのような雇用労働政策が考えられるべきなのか。まず前提となるのは、大規模な不測の事態への対応は二重三重のショックアブソーバー、つまりは衝撃の緩衝装置が不可欠だということです。たとえば、それぞれの企業において可能な限り雇用を維持することを促す長期雇用保護システムは、企業活動それ自体が極めて短期のうちに連鎖的に崩壊してしまうような場合には機能しません。一挙に放り出された大量の失業者の多くが、それまで就労していた企業固有のキャリアしか身につけていなければ、就業転換をスムーズに進めることが出来ないのは明らかだからです。

>このような場合に必要なのは、労働者が速やかに転職先を見つけることが出来るような普遍的職業能力を普段から身につけることを促進・助成すること、及び転職市場の拡充、そして不安定雇用に定着してしまわないように常にキャリアアップの道を開いておくこと、さらにはNPOや労働者協同組合、マイクロビジネス組織など、多彩な就労機会を助成したり、独立自営業者による協同組合など非雇用就労機会をも拡充することなどでしょう。・・・

>そして、こうした環境整備が整えば、解雇の金銭解決制度や兼職の原則的自由化なども射程に入ってくるでしょう。・・・

>新しい雇用社会の法制度が具体的にどのように展開されるべきか、それはまた次の機会に詳述したいと思います

うむむ、「次の機会」なのだそうです。おそらく、商事法務の次の出版計画に載っているのではないでしょうか。期待して待ちましょう。

2011年7月 2日 (土)

『生活経済政策』7月号から

Img_month 生活経済政策研究所より『生活経済政策』7月号をお送りいただきました。

http://www.seikatsuken.or.jp/monthly/

特集は「主婦再考」。

特集 「主婦」再考-家族形成と就労の現在

•戦後史のなかの主婦—特権から清貧へ/橋本健二
•主婦の就労—パートタイマーの基幹労働力化時代の仕事と家庭/本田一成
•主婦をめぐる思想遺産—戦後日本の主婦論争/妙木 忍

橋本さんの「特権から清貧へ」というのは、かつての専業主婦というのは、

>雇用が比較的安定していて、収入も少なくない近代的な雇用者世帯に許された、相対的な特権だった。・・・世帯主の収入が高いほど他の世帯員、特に妻の就業率が低くなるというダグラス=有沢の法則が広く説得力を持ち得たのはこうした時代で・・・

あったのが、高学歴の高所得カップルが増加したり、階級的な内婚化傾向が強まったこともあり、ダグラス=有沢の法則が成立しなくなって、

>新中間階級世帯をみると、共働きでは富裕層が3割近くに達するが、パート主婦ではなかなか富裕層に手が届かず、専業主婦ではかなり難しい。妻の収入の差がそのまま、世帯の経済的豊かさを決定しているのである。・・・新中間階級共働きは高学歴カップルの特権である

となり、

>専業主婦の生活はつましい。・・・これはまさに、清貧とも呼ぶべき女性の生き方である

という評価につながっていくのですね、

「労働組合を作りますよ!」と社員に脅かされました

J-CASTの昨日の記事ですが、なによりもまずこのタイトルですね(笑)。いや、笑ってる場合ではない。これが今の人事担当者の普通の感覚なんでしょうか。

http://www.j-cast.com/kaisha/2011/07/01100135.html?p=1

>――中堅システム開発会社の人事担当です。・・・

>経営陣からはさらなるリストラに向けて、ベテラン社員を中心とした退職勧奨を検討するよう指示を受けています。

   そんな雰囲気を察知したのか、営業部の40代Aさんが社内の有志を集め、労働条件の見直しを含む会社への要求事項をまとめている、という噂を聞きました。

>「賛同者を募って労働組合を作ろうという話も出ている。どうしてもリストラが必要なら手続きは公平にしなければならないし、条件面でも注文を出したい。そんなことになる前に、会社は社員が納得できる経営改革案を出すべきじゃないですか?」

>人事部長に報告したところ、飛び上がって驚き、「組合なんか作らせたら、お前も俺も即クビ決定だよ」と嘆き、会社批判をして集まる人たちへの懲戒処分を検討しようとしています。これから、どうやって対応していったらいいのでしょうか――

「どうやって対応していったらいいのでしょうか」じゃなくって、人事部長以下人事担当者一同で、労働法の勉強をし(直し)た方がいいんでないかい、という感じですな。

ここに書かれていることからすると、きわめてまっとうな、まっとうすぎる労働組合への動きにしか見えませんが、しかしそれで「俺もお前も即クビ決定」とは、「中堅システム開発会社」の人事センスの高邁さが窺われて、思わず笑みがこぼれます。

2011年7月 1日 (金)

東電作業員 1295人所在不明

さて、福島原発で働く作業員の状況は、生やさしいものではなさそうです。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011070102000020.html(東電作業員 1295人所在不明)

>東京電力は三十日、福島第一原発で四月から働く作業員四千三百二十五人のうち、千二百九十五人と連絡が取れず、被ばく検査を行っていないことを明らかにした。ほぼ三人に一人で、厚生労働省は十三日までに被ばく状況を報告するよう東電に指導を行った。

 東電によると、六月二十五日までに放射線量を測定したのは二千二百四十二人と、ほぼ半数にとどまった。残る半数が被ばく検査を済ませておらず、連絡が取れない千二百九十五人はすべて東電の協力会社の作業員。東電や厚労省は、会社を退職して所在がつかめなかったり、氏名が分からないケースなどがあるためとしている。

 一方、被ばく検査した作業員で、通常時の年間限度にあたる五〇ミリシーベルトを超えたのは十人。最高は一一一ミリシーベルトで、協力会社の社員。厚労省の担当者は「四月になってもこれだけ高い数字が出るのは異常だ」と話している。

いやまあ、被曝線量も問題ですが、まあそんなもんだろうなといささかこちらも感覚が鈍磨しつつありますが、それにしても作業員の3人に1人が連絡も取れない状況というのは、シュールすぎて絶句するレベルですね。

4月から働いた作業員で6月に連絡がとれないのが3分の1というのですから、くらくらしてきます。

労働科学研究所創立90周年シンポジウム「働き方の近未来」

先日ここでもご案内した財団法人労働科学研究所の創立90周年記念特別企画のシンポジウム「働き方の近未来―何が問われているのか」に出席してきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-0fbe.html

いやあ、しかし、武蔵嵐山って遠いですね。森林公園のさらに向こうで、しかも会場のヌエックこと国立女性教育会館というのがまた駅からかなりの距離。

シンポでは先日朝日新聞を辞めて和光大学に行かれた竹信三恵子さん、元ILO労働者保護局長の井谷徹さんとわたくしの3人で、わたくしはできるだけ竹信さんの議論に絡むようにしました(笑)。

会場には大原社研の五十嵐仁さんがでんと座っておられて、お約束通り(笑)わたくしに質問を戴きました。

節電と労働時間の話は、先月記者の方にお話ししたことはありますが、人前ではたぶん初めてです。

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