『連続討論 『国家』は、いま』
杉田敦編『連続討論 『国家』は、いま』(岩波書店)は、福祉の話も金融の話も、教育の話もそれなりに面白いのですが、やっぱり一番面白いのは、萱野稔人さんが炸裂している「暴力」編ですね。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0229090/top.html
>〈暴力〉 国家を国家たらしめているものは何か
──国家の起源とその役割──
萱野稔人(問題提起)・住吉雅美(まとめ)
石川健治・市野川容孝・杉田 敦(司会)
トピック 1 「戦争の民営化」が意味するもの
2 刀狩りと帯刀禁止令における暴力の形
3 国家を廃棄することはできるのか
帯刀の権利と武器使用の権利を分けるもの/戦争の民営化は国家の進化?/国家の存立理由/国家の本質としての徴税/国家固有のサービスはあるのか/徴兵制による軍のコントロール/戦争行為の違法性/国家の守備範囲とアイデンティティ/アナルコ・キャピタリズムにおける暴力/土地所有と結びついた暴力/国家と家のせめぎ合い/暴力論と権力論のあいだ
まとめ 神輿は勝手に歩けるか?──国家と暴力との腐れ縁
住吉雅美さんという法哲学者がアナルコ・キャピタリストで、暴力国家論者の萱野さんと、大変面白い掛け合いを演じています。
以前、本ブログで アナルコキャピタリストな方々とやりとりしたことを思い出しました。
住吉 アナルコ・キャピタリズムは戦争の正当性を極めて限定的にしか認めませんが、戦争が必要な場合はその民営化を肯定しています。つまり無辜の人々を大量に殺戮する国家間戦争や核兵器の使用を拒絶し、あくまでも個々の侵略者そのものだけを対象とする戦闘行為しか認められないと主張します。しかしその戦闘のための兵員を調達する場合には強制的な徴兵制を否定するので、自発的に発足した義勇軍や地域的防衛組織、そして民間軍事企業に依頼することになります。その限りでアナルコ・キャピタリズムは戦争の民営化を肯定します。・・・
萱野 ・・・ただし、国家による合法的な暴力の独占が崩れることはあると思います。例えば、さまざまな民間警備会社が市場の中に分散して、自らの実力や市場でのマーケティングの力などを背景に互いに争い合うという状況ですね。ただそれも、いずれ大きな機構へ統合されていくでしょう。というのも、民間警備会社同士が何らかの事情でぶつかり合うことになった時、そこでは吸収合併か、共通のより大きな機構の設立という動きに必然的になるからです。そうなると、結局は、いくつもの武力組織が分散している近代以前の状態から国家が形成されてきたのと、まったく同じプロセスが生まれるだけです。
・・・・・・・
住吉 論者たちは利己心に基づく市場の原理に対して楽観的で、例えば悪質な企業が参入してアンフェアな行動をとり、一時的に市場を牛耳ることが起こるとしても、そういう企業は次第に契約者を失い、やがて破綻するだろう、長期的に見ればフェアで良質なサービスを提供する企業だけが顧客を獲得し生き残ると考えています。・・・
萱野 シュミットが『政治的なものの概念』のなかで、アナーキストを批判しています。政治を考えるときは性悪説でなければならないのに、アナーキストは性善説で考えている、と。暴力なんていつでも起こるし、誰でもチャンスがあれば悪いことをする以上、性善説に立つことは政治議論を歪めてしまう、ということですね。歴史的に見ても、人間は暴力を行使しない状態が普通なのではなく、暴力をいつでも行使しうるというのが普通の状態だと考えなければいけない。・・・
これって、デジャビュを感じませんか?
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-143d.html(警察を民営化したらやくざである)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-2b5c.html(それは「やくざ」の定義次第)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-037c.html(アナルコキャピタリズムへの道は善意で敷き詰められている?)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-48c2.html(人間という生き物から脅迫の契機をなくせるか?)
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