『POSSE』11号への感想その2
高橋哲哉さんの「フクシマの犠牲と「人間の責任」」は、実は読みながらいささか皮肉な気持ちになりました。もちろん、幼い頃福島県で、とりわけ小学校時代富岡町で過ごし、人生の最初の記憶が残っている場所が今原発事故でゴーストタウンになっている高橋さんが、怒りを込めて「中心部が周辺部の犠牲をお金で片付けようとする構造」を糾弾する心持ちは痛いほどよく分かります。いや、高橋さん自身がこう言っています。
>わたし自身、高度経済成長期に、研究者になりたくて福島から東京に出てきた人間です。私が今回の原発事故で頭をがつんと殴られたようなショックを受けた理由は、そこにもありました。自分は単に福島原発からの電力を享受することだけによってではなく、東京の人間になること自体によって既に、故郷の放射能汚染に荷担してしまっていたのではないか。そう思ったのです。
この反省が真摯なものであることに疑いはありません。しかし、だから何をどうするのか、という問いに対する説得的な答は示されてはいないように思われます。電力会社や国の責任を追及すること、差別的構造に関心を持ち、声を上げること、そして原発という犠牲のシステムを終焉させること。具体的なものは各論であり、総論的なものは曖昧です。
いや、たとえば(それ自体長期的な課題ですが)原子力という発電システムから脱却して、たとえば太陽光とか風力といった再生可能なエネルギーにシフトしていくと決めたとしましょう。そういうエネルギーを生み出すための場所は、やはり再び(福島県を含む)田舎の地方になるはずです。世田谷区に太陽光パネルを敷き詰めるわけにはいかないし、風車を乱立させることもできません。ソフトバンクの孫社長が休耕田に太陽光パネルを敷き詰めると言ったそうですが、それ自体の現実性は措くとしても、それもやはり田舎の人間の資源を都会の人間のために使わせろという仕組みであることには変わりはないのではないでしょうか。原子力といういざというときのリスクがあまりにも大きすぎるシステムをどうするかという議論と、そもそも都会と田舎の分業体制をどう考えるかという議論とは、やはり腑分けして考えなければならないように思われます。
そして、高橋さん自身がはしなくも語っているように、まさにそういう都会のために資源を提供するしかない田舎から「夢と野望に満ちて」都会に出てきた若者たちの挙げ句の果てが近代化以来の都会人たちの大部分なのであってみれば、そしてそういう都会人の後ろめたさゆえに、自分がかつて捨ててきた田舎にせめてもの罪滅ぼしにさまざまな補助金を積み上げてきたのであってみれば、そしてそういう都会人の子どもや孫たち、もはや自分たちが資源を搾取している田舎への罪悪感すら感じなくなった生まれたときからアーバンなチルドレンたちが、こういう田舎のじじいどもへのわけのわからん補助金はつぶせ、なくせと喚いて、実際そのようにしてきたのがこの二十年間なのであってみれば、話はあまりにも入り組んでおり、そう簡単な断罪にはなかなかつながっていかないように思われるのです。
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