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2011年6月20日 (月)

菅首相ねばりの根拠@Economist

20110611_ldp004 日本の新聞だけ読んでいると、なんでここまで追い詰められたはずの首相が頑張れるのか不思議に思う人もいるかも知れませんが、実はイギリスの国際的週刊誌『The Economist』が、ここまで応援していたんですね。おそらく、気が滅入るとこれを繰り返し読んでは、「やっぱり、俺がやらなくては」と、元気を出しているんでしょうか。

http://www.economist.com/node/18805493

>Post-disaster politics

A grand stitch-up or an election?

The prime minister’s opponents want a grand coalition. That’s a terrible idea

とりわけ、最後から2番目のパラグラフでは、思い切って選挙をやれとけしかけていますね。

>In some ways, this is a dreadful time to hold an election. Nobody in an evacuation shelter would relish the distraction; indeed some towns probably lost their voting records in the tsunami. Yet an election need not be a huge burden, and it could have advantages. It would give the victims of the tsunami and the nuclear disaster a chance to make their voices heard. The public could debate energy policy and decentralisation. Voters could even decide whether to raise consumption taxes.

なお、和訳はこちらです。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/11341

>いろいろな意味で、今は選挙をするには最悪の時期だ。避難所で暮らす人たちの中に、このような余計な動きを歓迎する人はいないだろう。実際問題として、津波で選挙に関する書類を失った市町村も複数あるはずだ。それでも選挙は、大きな負担になるとは限らず、逆に利益をもたらす可能性もある。津波原発事故の被災者にとっては、選挙は自らの声を伝える機会となる。国民はエネルギー政策や地方分権について議論を交わすことができる。さらには消費税の引き上げについても、有権者が可否の判断を示せるだろう

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菅首相のどこが悪いのか

今回の国会会期の延長、5月末の不信任案否決、と菅首相は政権を延命した。退陣を匂わせつつも、退陣時期を明確にせず、自民党のみならず身内の民主党からも退陣を迫られながらも、政権を延命しようとするしたたかさは、市民運動家としての本領発揮というところなのか?

東北大震災の復興復旧が急がれる時に、このような政局に現を抜かし、けしからんではないかという意見が多い。NHKの世論調査(6月10~12日)によると、菅内閣の支持率は25%と前回調査より3%下がったものの、民主党の支持率は17.6%→20.4%と上がり、自民党は22.6%→21.1%と下げている。マスメディアの中にも、「菅おろし」に対して批判的な論調もある。「菅首相のどこが悪いのか、悪いのは政局ではないか」という問いかけである。

浜岡原発の停止、エコタウン構想、自然エネルギー20%構想、再生エネルギー法案、等々・・・場当たり的な政策を次から次へと繰り出し、政権の延命を図ろうとする独善的な政治手法が問題なのである。浜岡原発の停止にしろ、再生エネルギー買取法案、にしろ個々の政策について良し悪しを言っているのではない。「自分の正義」を実現するために、首相という座を掴んで離そうとしない姿勢が問題である。そこに政治の空白が生じ、震災の復興復旧が遅れているのだ。

かつて菅首相は国会答弁で「私は、ちょっと言葉が過ぎると気をつけなければいけませんが、議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだと思っております。」と述べている。政権与党は国民から付託を受けているから、政策をスピーディーに実行するためには、あるレベルの独裁が認められるという趣旨だろう。その後の菅首相の場当たり的とも形容される独断専行は、確信犯的な「独裁」ぶりである。

もちろん、首相に一定の裁量が与えられるのは当然である。しかし、首相の権限といっても「法の支配」のもとにあるべきなのは当然である。「法の支配」とは、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという法の基本的な原理である。「法」とは「普遍的な正義」であり、「法の支配」のもと国民の自由・権利は保障され、国民は「法」を遵守する義務を負う(注)。「法」が菅首相の思い込みによる「自分の正義」であってよいはずはない。

菅ロジックは用意周到に計算されている。不信任案採決直前の鳩菅「覚書」には、確かに菅首相が主張するように「退陣」の文言はない。国会会期延長における直前の3党合意案における「新しい総理」は総理の意向で「新しい体制」に書き換えられた。菅ロジックは形式的には合法である。しかし、国民が菅ロジックに違和感を感じるのは、常識外のロジックが仕組まれているからである。信義が損なわれているにもかかわらず、形式的なロジックの正当性を押し通すところに、「法」(普遍的な正義)が欠落している。そこに、権力者が政治を私物化する独裁の片鱗を感じるのだ。

(注)フランス語のドロワ(droit)は法と訳されるが正義あるいは権利という意味も持つ。

「権利」の意識

西欧言語では「権利」と「正義」は同一の語で表される。また、「法」と「権利」は同一の語で表される(注)。日本人には、これらの意味がどのように結びつくのか理解しがたいところである。西欧人にとって、「権利」とは「正義」であり「法」である。国民が共有する「正義」が「法」であり、国民が「法」に従うことによって国民の「権利」は保障される。

日本では、「法」は御上(国家)から与えられるものであり、下々の国民は「法」に従うというのが一般的な認識である。西欧における「法」とは、下々(国民)が「権利」を要求して闘争し、その中から「法」=「正義」を獲得する。国家は「法」をもって国民を治め、国民は「法」に従う義務を負う。

古来、日本は「和をもって尊しとなす」という国である。自己の権利を主張することは恥ずべきこととされ、法に訴える行為は回避された。遠山の金さん、あるいは大岡裁きの世界であり、喧嘩両成敗として訴える方も処罰の対象になった。身分を越えての直訴は、調和を乱すものとして死罪にさえなった。

日本人には「権利」という意識は希薄であり、もともと「権利」という言葉はなかった。オランダ語から「権利」という言葉に翻訳されたが、「正義」あるいは「法」という観念に結びつくものではなかった。伝統に深く根ざした意識は変わるものではなく、現在の日本人にとっても「権利」=「法」=「正義」という観念は理解しがたいところである。

最近緩和される傾向にあるとはいえ、長時間労働や違法なサービス残業は当たり前に行われている。日本国憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」としているが、労働者の「権利」は侵害されているといえる。朝7時に家を出て仕事に赴き、夜11時に帰宅するという生活が「健康で文化的な生活」であるとは思わない。

ILOから労働条件に関する勧告を受け、あるいは日米構造協議において労働条件の改善を迫られながら、形式的には時短促進法(1992年)を時限立法として成立させ、あるいは労基法を改正して体裁を整えつつも、労働条件の実態は改善されなかった。むしろ、サービス残業が増え、アルバイトを増やすことによって、統計上の年間労働時間を1800時間に抑え体裁を整えた。

「法」の「正義」が欠落している。問題の所存がどこにあるのか、以下筆者の私見である。

1.労働者の「権利」を侵害し、憲法の「正義」が無視されているという認識が共有されていない。政府のみならずマスコミや学識者の間でも、このような認識はほとんどない。日本人は「権利」の観念が希薄であり、労働組合や労働者も自分の「権利」が侵害されていると認識をしていない。

2.日本人は権利を主張して訴訟することを回避する。労働者が「権利」を主張することはあまりなく、労働者と経営者の間の調和が重んじられる。政府は、労働組合と経営団体との間の調停役であり、両者の調和が重んじられる。調停によって両者の対立が解決されたと考えるのは誤りであり、対立は覆い隠されたまま、内在し続ける。

3.欧州連合には、労働者の基本的権利を定めた社会憲章(European social charter)があり、各国の労働法は社会憲章に則って定められる。フランスの週35時間労働制は有名であるが、EU連合加盟のどの国でも、労働時間は短い。欧州では、「権利」=「法」は国民が獲得したものであり、そこに労働者および経営者が合意する素地がある。一方、日本では「権利」と「法」の結びつきは弱く、「法」は御上(国家)から与えられたものである。行政は労働者団体と経営者団体の調停者として機能する。

4.使用者と過半数代表の間で協定(36協定)し労働基準監督署に届ければ、労基法32条は適用除外とされる。労基法36条は、実質的に労働時間の制限を無くす法令であり、労働者に労働組合への加入を強要するユニオンショップ制を補強する法令である。労基法36条あるいはユニオンショップ制が存在することに強い違和感を覚える。少なくとも憲法の精神に反している。

5.日本の行政は「官僚主導」であり、法案も内閣(行政)によって提案される。また、政策的判断への司法の不介入や審判への行政の介入など、行政は司法に対しても優位にある。3権分立とは言いつつも、行政権優位にある。


(注)英語の”right”、仏語の”droit”、独語の”recht”は「正義」を意味し、「権利」という意味も持つ。ラテン語の”jus”は法を意味するが、英語の”justice”(正義)の語源である。

自生的秩序

ハイエクは、国家による設計主義的な統治に反対して、慣習法的あるいは自然法的な自生的秩序を主張した。また、政府による経済への積極的な介入を唱えるケインズに反対して、自由市場の競争原理による市場秩序を主張した。

ハイエクが自生的的秩序を優位とする根拠は、「人間は元来無知であり、すべてを推し量ることは不可能である」という洞察による。少数のエリートによる設計主義的な秩序より、自律的な個人による自生的秩序のほうが優位であるとした。

簡単な思考実験により、少数のエリートによる探索よりも全ての個人が参加する探索のほうが優れている事例を考える。

10万人の市民の中から、一番背の高い人を探索する問題を考える。

エリートと大衆がいて、大衆は隣の人のことしか見えないが、エリートは自分の周りの100人まで見ることができるとする。エリートが10人いるとすると、エリートによる判断を集めても、せいぜい1000人までしかカバーしない。

一方、すべての市民(大衆)が隣の人と背を比べるものとする。隣の人と背を比べて高い方にマージして集合をなすものとし、全ての人あるいは集合は隣と比べて集合をマージするという作業を繰り返す。最終的に集合は一つにマージされ、一番背の高い人を探索することができる。(集合の属性として、集合中の一番背の高い人と、その背の高さを記録する)

エリートによる判断では部分最適しか見つけれないのに対して、大衆の判断では全ての人が探索に加わわることにより、全体最適を見つけることができるという例である。

「国家は、法を作り、法をもって国民を治める」という意味で、法は「上からの法」である。「上からの法」はエリートが制定した法である。一方、「法は国民の正義を顕現するものである」という意味で、法は「下からの法」である。「下からの法」は必ずしも明文化されたものではないが、長い歴史の中で培われてきた国民の正義=権利としての法であり、ハイエクの唱える自生的秩序である。

自生的秩序あるいは自由市場の競争原理だけに頼って、社会の秩序や公正が実現されるとは思わないが、行政国家の日本では「上からの法」による統治の弊害を常に意識しておく必要がある。「上からの法」が「下からの法」と齟齬をきたすとき、法は形骸化する。

行政国家は一定の理念の実現を目指して国民の生活、経済活動の在り方に積極的に介入しようとする。今、福祉国家の在り方が問われているが、国民の自律と連帯に基づいた福祉国家でなければならない。

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